なんてこった
「あきくん、あきくん。草履の鼻緒が切れてしまったの。これでは家まで帰れないわ。」
わざとらしい誘い文句。誘いに乗らぬは野暮だと大八さんにはよく言われる。
あの演劇のようなしゃべり方はなんなのだと聞いたその晩、大笑いされたものだ。江戸の女子のその特徴ある話し方はこちらを誘っているらしかった。
紫色のあやめが散る美しい着物。俺の店の常連さんの彼女は大層お金持ちの商家の御嬢さんらしい。お金があるだけじゃない。頭もいいし、器量も良かった。
「あー、代わりの草履あったかなぁ。だいはっさん。女将さんの一足借りていいかい。」
「あぁ、いいさ。」
笑いをこらえた様子の大八さんから草履を受け取る。彼女の高そうな草履よりは幾分安っぽいが彼女は文句ありげな顔でそれを吐いた。そして高そうな漆塗りの彼女の物を俺に差し出す。
「じゃあ、これ持っていてくださる。次来た時に頂戴しますわ。」
「……はい、はい。じゃ、お気をつけて。」
悪戯っぽい笑みを浮かべて彼女はからんころんと草履を鳴らし店を出て行った。
「いい加減、誘いに乗ってやれよ。あの子、狙ってる奴なんて山ほどいるんだぞ。」
煙管をふかしながら五十もすぎたろう大八さんがまだ若い笑みを浮かべた。女将さんが後ろで呆れたような顔をして大根を切っている。
「用心棒で雇ったんだが、客寄せになったなぁ。」
「そりゃ結構。俺はあの子の誘いには乗れないよ。」
「はいはい、心に決めたのがいるんだろ?」
適当に頷いて大八さんが店じまいだ、という。
店の外に出て暖簾に手を駆ければ店の前にたまっていたのか女の子がわらわらと声を上げながら去っていった。
店に入ってものの一つでも買ってくれればいいのに。
ため息をつくと大八さんの早くしろと叱咤の声が響いた。