静寂の嘆き

屋敷全体が暗闇に包まれた真夜中3時ごろ。
早寝早起きを心掛けているスクアーロやルッスーリアを筆頭に、遅寝派のベルたちまでもが眠りについたその時刻。
一人の人影が、音もなく部屋の中から飛び出した。

3階にも関わらず綺麗な身のこなしで地面に着くなり、その人影はまたもや音も立てず走り出した。まるで、その場から逃げようとしているかのように。


「ッ、はぁ、」


息も荒く走る彼女の姿はとても痛々しく、どこか物悲しげでもあった。
幸い真夜中3時ともなると人影もなく、いつもは活気あふれた街だというのに静寂に包まれて何も聞こえない。
そんな街を、ユキは足跡騒がしく駆け抜ける。まるで、何かを振り切ろうとしているかのように。

やがて彼女の足が止まったのは、路地裏の真ん中。
両膝に手を置き息を整えるユキの瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
それが息切れによるものなのか、別の理由からなのか知るものは誰もいない。


「……これで、満足でしょ……」


掠れた彼女の声。
何かを抑え込んでいるような、そんな苦しそうな声が路地裏に響き渡る。
遠くでカン、とまるで缶のようなものが床にぶつかる音がした。

真夜中3時、人影もない静寂の中。
音もなく、黒服の男が現れた。

その男に驚くこともなく、ユキは息の荒いまま顔をあげてその男を見据える。
シルクハットを目深にかぶり、その男の表情は此方からは伺えない。
だがユキにはそのシルクハットが透けて見えるかのように、ただじっとその男の目があるべき場所を睨みつけていた。

暫くのにらみ合いが続く。
どちらも、まるで目を離したすきに首を狩られるかのように、視線を離すことはない。
だが先に行動に出たのは、やはり黒服の男だった。


「これが、貴方が日本に行くにあたって必要なものの一切です。これの報酬は此方の銀行にて振り払われます。良かったですね、一生遊んで暮らせる金額ですよ」
「……要らない」


ぽつりと零された言葉。
黒服の男の手がぴくりと震えて、動きが止まる。


「……と、言いますと?」


まるで嘲笑っているような声音に、ユキは眉根を寄せた。
このようにあからさまに馬鹿にされては、気分が悪くなるのも当然だろう。
そうでなくとも、すでにユキは窮地に立たされ心身共にボロボロの状態なのだ。


「そんな金、要らない。まるで私が金欲しさにファミリーを裏切ったみたいじゃん」
「……あぁ、まだそんなことを気にしていらっしゃったのですね」
「……まだって何? ……まだって。家族から引き離されて、『はいそうですね』ってついていく方がおかしいとは思わないの?」
「家族! ……ハッ、家族ですか。それは面白い」


その言葉に、ユキは歯を食いしばる。
何が面白いというのだろうか。こちらは真面目に話しているというのに。
何が面白いというのだろうか。こちらはこんなにも苦しんでいるというのに。
何が面白いというのだろうか。この元凶はすべて、彼らにあるというのに。


「……私、アンタみたいな人大嫌い」
「あぁ、それは嬉しいですね。私もあなたのような甘ったれたクソガキは嫌いです」
「アンタに私の何が分かるって言うの……?」
「貴女こそ、この世のすべてを知っているような口ぶりはやめたほうがいい」


まるで水掛け論だ。
あぁいえばこういい、こういえばあぁいわれる。
終わりの見えない口論に、だけどユキはだんだん嫌気がさしてきた。


(何もかも捨てて、逃げてしまいたい)


そう思ったことは、一度だけではなくて。
揺れる視界の中、ただユキは最後まで視線をあの男から外すことはなかった。


「……私も暇じゃないんです。早く受け取って、日本へでもどこへなりでも行ってください」
「……アンタの触れたものなんて触りたくない。置くものさっさと置いて消えて。二度と私の前に現れないで」
「……あぁ、そちらのほうが好都合です」


心底見下したような瞳で見下ろされる。
ユキの幼い体はそんな冷たい視線に耐えられるはずがなかった。
それでも踏ん張り、歯を食いしばり、拳を握りしめるユキ。
そんな彼女を一瞥しただけで、男は興味を失くしたように視線を外す。

ドサリと音がして、鞄が床に落とされる。
瞬間に砂埃が舞い、それがユキの視線を一瞬だけ逸らした。
その刹那、


「Arrivederci」


まるで風のように、男は消えていなくなっていた。

Arrivederci……意味は、「さようなら」ではなくて「また会いましょう」。
ただそれだけのことなのに、まるで死刑宣告でもされたかのようにユキの体は地面に崩れ落ちた。
床に両手を着き、ただ地面を見つめる。
やがて彼女の頬から零れ落ちた涙が地面を黒く濡らし、色を変えていく。


「――……なんで……」


ただ、平穏な暮らしがしたかっただけなのに。
マフィアなんて知らない。立場なんていらない。
ただ私は、私を受け入れてくれたファミリーと、みんなと、共に過ごしたかっただけ。


「――――……なんでッ……」


それが罪深いことなのだろうか?
許されてはいけないことなのだろうか?
ただ大事な人とともに時を過ごしたいと願うことが、いけないことなのだろうか?


「……どうしてよぉっ…………!」


神様。
もしもいるのなら、私はこの先ずっとあなたを崇拝することはないだろう。
この日この場所で零した涙は覚悟の涙。
地獄を味わった私はきっと、この日から少しずつ壊れ始めていった。

回り始めた歯車は止まることを知らない。
噛み合わせがずれたことに気付いてももう遅い。
ずれ始めた歯車はやがて、そのずれを少しずつ、少しずつ、広げながら回り続ける。



最後に残るのは、いったい何?

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