薫はぴば | ナノ

※全体的にやや性格悪いかも

 薫は歌が上手ね、そう言って笑った姉の顔を、僕はもうはっきりとは思い出せない。


 夢を見て目が覚めた。姉の夢だったと思うが、よく覚えていない。ただ、激しい焦りだけが胸に残った。忘れてしまう、このままでは。彼女の優しい声、似ていると言われた顔、笑い方、白い手、うっすらした記憶がどんどんこぼれ落ちていくようで耳をふさいだ。
 このままではだめだ、もっと、もっと、そんな考えが頭に浮かぶ。焦燥感は勢いを増して、ただただもっともっととそればかり繰り返す。だがその先は出てこない。もっと、何だ?
 じっとしていられなくなってベッドから降りた。枕元のデジタル時計は朝四時を表示している。こんな時間では事務所も開いていまい、カラオケにでも行って練習しようか。
 一日のスケジュールを確認するために手帳を開いて気付いた。九月二十三日、明日は僕の誕生日だ。


「おはようございます。輝さん、薫さん。遅くなって、すみません」
 事務所の扉が開き、柏木が入って来た。今日の午前は街で営業、着替えて出るにはギリギリの時間だ。早朝の焦燥感はまだ胸の奥にくすぶっていて、柏木の遅刻はめったにないだけに余計苛立った。
「翼、おっせえぞ。俺も桜庭も準備万端だからな。早く着替えて来いよ」
「はあい。ごめんなさい〜」
 それだけなら、ただの平和な日常だったのに。
「まったく。人を待たせておいて随分のんびりしてるんだな」
 滑り落ちた言葉は僕の予想よりもずっと冷たく響いた。
 柏木がびくりと体を震わせる。引きつった顔で振り返り、「ごめんなさい……」と小さくつぶやいた。
「桜庭! そんな言い方しなくてもいいだろ!」
 柏木の様子を見て、我に返った天道が僕に迫った。謝ろうと思った、けれど。
「遅れたのは柏木の責任だろう。そんな態度はプロとして失格だ」
「てめえ……!」
 天道が僕の襟首に手を伸ばす。その隙間に柏木が割り込んだ。
「やめてください! ……ごめんなさい、薫さん。オレのせいです。輝さん、薫さんを責めないでください」
「翼……」
 柏木は大きな体を縮こまらせて、彼にしては随分急いで衣装室の方へ駆けていった。
 どかりと天道がソファーに座り込んだ。いつも浮かべている陽気な笑みはなく、ぎゅっと眉間にしわを寄せている。まるで出会った頃のようだ。怒っている、とても。僕のせいだ。
 ふと思った。僕はきっと、今年の誕生日を祝ってもらえないだろう。


 誕生日というものを特別視しているわけではない。所詮はただの平日で、いつも通りの一日が続くだけだ。
 ただ──スケジュール帳の、七時から不自然に空いた時間に、思わず期待してしまうのは仕方ないんじゃないか?
 思わず浮かびかけた笑みはしかし、一瞬で引っ込んだ。
 そうだ、その期待を、僕はこの手で壊したんだ。


 謝らなければ。営業中ずっと考えていた。仕事に集中出来ていないのは不本意だし、プロとして失格だなどと言えた口ではない。ただ、いつの間にかこんなにも大きくなっていた存在を、この仲間達を失うことが怖かった。大切なものが増えるのは恐ろしいことだ。
 今のうちに謝らなければ。午後からはダンスと歌のレッスンで、仲違いしたままでは上手くいかないことは明らかだった。
「柏木。天道」
 仕事を終え、営業車に乗り込む二人に声をかけた。振り返る二人に頭を下げた。
「朝はすまなかった……僕が、悪かった。許してくれないか」
 顔をあげると二人は随分驚いた顔をしていた。
「そんな……遅れたオレが悪いんです」
「いや、俺もついかっとなって……俺の方こそ、悪かった」
「いえやっぱりオレが」
「違う。僕が悪い」
「いや俺だって」
「オレですって」
「僕だと言っているだろう」
「いや俺が突っかかったから……」
 狭い車中は三人が謝りあう声でふいに賑やかになった。誰ともなしに笑い出し、声を揃えて笑った。三人分なら、嫌な騒音ではなかった。
 笑いながら、天道が言う。
「いやー、桜庭怒らせちまったと思って、内心ひやひやしてたんだ。意外だったな。お前から謝ってくるなんて」
「オレもです。オレのせいで薫さんを怒らせちゃって……。でも、良かったです。これで明日のぱー……」
「うわー翼! ぱー、ぱ、ぱー……パーセント! 明日の降水確率は何パーセントだろうなー!」
「ああっすみません! えっと西の空は快晴、きっと晴れます!」
 窓から首を出した柏木が窮屈そうに頭を引っ込め、天道が息を吐き、僕もため息をついた。まったく、なんて騒がしく馬鹿な奴らだ。だが。
「そうか。なら明日の仕事にも影響ないな」
 それに乗る僕だって、いいかげん馬鹿なのだ。

「……でも。雨でも晴れでも、明日はきっと、最高の一日になりますよ」
 ふいに柏木が微笑んだ。
「ああ、そうだな!」
 天道が晴れやかに笑った。
「……だといいが」
 僕は上手く笑えただろうか。

 いつの間にか、胸の奥にあった焦燥感は消えていた。


 九月二十六日。僕の誕生日。午後七時。事務所の入り口前。
 ドア一枚隔てた向こう側で、ぱんと大きな音が鳴った。
「うわっ翼、まだだぞ!」
「すいません! これ簡単に抜けちゃって……代わりは……」
 代わりを探すプロデューサーの声。
 ため息をついて扉を開けた。
 天道の手元でパーティークラッカーが派手に鳴った。一拍遅れて、振り返ったプロデューサーの手元でも。その横には、世にも情けない表情で空っぽのクラッカーを降る柏木がいた。
「お誕生日おめでとう!」
 三人の声が揃った。予想していたとはいえ、実際に見ると思いの他嬉しく、頬が緩むのが分かった。
 あっ薫さん笑いました、柏木がはしゃぐ。
 へへ、良かったぜ! 天道が、僕よりよほど嬉しそうに笑う。
 二人とプロデューサーがテーブルに案内してくれる。所狭しと料理が並べられ、中央にはケーキ。期待する目線に急かされ、口を開いた。
「……ありがとう」
 たった一言だけが転がり出て、後には続かない。けれどそれで三人は分かってくれた。わあっと盛り上がる。
「さあ食おうぜ! 結構頑張ったんだ」
「わあやっと食べられる〜」
「主役より食い過ぎるなよ?」
「分かってます! 薫さん、とりあえずこの位食べてください」
「……そうだな、うん、翼は好きなように食べていいよ。食べきらない程度に」
「やったー!」
 暖かい空気に、ほんの少し、目の前が潤んだ気がしたが、気のせいだろう。


 宴会は夜更けまで続き、日付が変わる前にと一人帰された。秋の夜風は冷たかったが、体は暖かな名残が残って不快ではなかった。賑やかな中から一人放り出されたけれど心はきちんと温もったままだった。
 その晩、夢を見た。姉の夢だ。思い出せなかった彼女の顔も、声も、はっきりと見えた。
「姉さん」
 発した声はあの時よりずっと低かった。いつの間にか追い越してしまった姉を見下ろす。彼女はすっと手を挙げて、僕の横を指差した。振り返ると天道と柏木がいた。
 僕は姉さんに笑いかけた。それから二人にも。
 大切なものが増えるのは、悪いことばかりではない。
「姉さん、紹介するよ。僕の……大事な、仲間だ」
20150924

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