novel48 | ナノ

「蒸発って言うんですよ」
「何が?」
「いなくなること」
「ん? 蒸発ってあれだろ? 茹でる時のやつ」
「……それは蒸気とか、湯気とか、もしや沸騰のことですかね?」
「あれ違った?」
「高校から……いえ中学からやり直してはいかがですか」
「遠慮しとく。家出と何が違うんだ?」
「家出は学生がすることです。僕らはもう違う」
「なんで蒸発って言うんだろ」
「試してみます?」
「え?」
「蒸発」
 そうして二人は失踪した。

□ □ □

「なんかちょっと、テンション上がるよな。誰もいないし。この世にはオレたちしかいないみたいで」
「はいはい、そうですね」
 まだ暗い道を、駅に向かって二人歩いている。大通りを避けているせいで余計に暗いのかもしれない。思いつきのようにして飛び出してきたおかげで二人はほとんど何も持っておらず、ただコートのポケットに突っ込んだそれぞれの財布だけが荷物と言っていい。春名と旬が表向きのルームシェア、実質の同棲を始めたのは卒業と同時だったからもう一年近く前のことになるが、未だに財布を一緒にするべきか決めかねている。同じユニットゆえに収入格差はないが、金銭感覚は合わない。
 駅前まで来るとさすがに人が増える。早朝だというのに。仕事柄二人の生活リズムも規則正しいとは言い難いから、同情を覚える。
 券売機に一万円札を突っ込む。ICカードを使わない移動は久しぶりだ。そのまま迷いなく大人二枚と適当な行き先ボタンを押す。「なくさないように」と釘を刺して、切符を渡す。何か大切な物でも受け取ったかのように、春名は嬉しそうに笑った。
 郊外行きの電車に乗り込む。二人並んで座って外の景色が流れていくのを見ている。失踪、あるいは蒸発をしているというのに呑気な旅だな、と旬は考える。ほとんど手ぶらだし、そういえば携帯電話も置いてきてしまった。今はまだ誰も気付いていないだろうけど、気付いたらみんなはどんな反応をするんだろう。
 どことなく都会から外れてきた車窓を眺めながらぼんやりしていたら、春名に手を握られた。見上げると彼は少し笑った。
「どこまででもいいよ」春名は言った。「ジュンが言うなら。ここで降りてもいいし、切符買い足してもいいし」
 そういえば彼を連れ出したのは僕だった、と旬は思い出す。
「ドーナツショップがなくてもですか」
「んんー?」
 意地悪く言うと、春名は困ったように笑う。旬が否定してほしがっているのを知っていて、それでも否定したくはないから。春名が困っているのを旬も感じとって、二人は黙り込む。
「まあドーナツなら揚げて作れるし?」
 結局春名はそう言って、旬が思わず吹き出すと春名も笑った。
 切符が示す駅に着いた頃には空も明るくなっていた。変装用に帽子と伊達眼鏡を身につける。
 旬はすたすた歩き出す。まるで道でも決まっているみたいに。春名はその後ろをのんびり着いていく。きっと道なら旬が知っているから。
 地面が砂っぽくなってきて、空気に潮の匂いが混ざり始めて、ようやく旬は春名を振り返った。春名は片手を上げて応えて、それから二人並ぶ。歩き続ければすぐだった。
「……蒸発です」
 広がる海を眺めながら、旬は呟く。蒸発ですか、と春名が繰り返すと旬は頷く。
「海の水が蒸発して、雲になるんですよ」
「え、嘘?」
「嘘じゃありません。まあ、川とか湖の水なんかも含みますが」
「……海が煮えるってこと?」
「だからそれ違いますって」
「オレらが蒸発したらどうなんの」
「騒ぎになるでしょうね」
「ジュンも冗談言うようになったんだなー」
 しみじみと春名が言うので脇腹を肘で小突いてやった。きゃっきゃと春名ははしゃいだ声を上げる。
「蒸発したら来世ってこと? またドーナツになるのもいいよな」
「またってなんですか」
「オレ前世ドーナツだったから。ドーナツと結婚してたし」
「そんな見てきたように……」
「つーか腹減ってきた! ドーナツ屋探そうぜ」
「はい、コンビニと喫茶店は見かけましたね」
 旬はあっさり海に背を向ける。朝日できらきらする海を、春名は最後に一瞬振り返って、それからはただ先導する小さな後ろ姿だけを追った。
 コンビニで朝食を買い込む。弁当にパンにドーナツ。居住区域から少し離れているとはいえ商品のラインナップに大きな違いがあるはずもなく、なんとなく失望する。
「お金足りた?」
「大丈夫です」
「そう。どこで食う? 弁当冷めちゃうな」
「駅前に戻りますか」
「いいぜ」
 駅前に戻ったはいいが人が多くとても落ち着ける環境ではなかった。変装も心もとない。仕方なくさらに辺りうろつく羽目になるが、なんとかひと気のない公園を見つけ出す。ベンチに腰掛け朝食を広げる。
「いただきますっ」
「いただきます。春名さんは甘いパンばかりですね」
「たまにはいいだろ」
「まあ、たまには。これからは、……」
「気ぃ付けるって。ほら、弁当冷めるぞ」
 無言でそれぞれの食事を済ませた。春名はドーナツを二つに分けて、片方を旬に手渡す。
「……ドーナツというのは、みんな結婚しているものなんでしょうか」
「んー? どうだろ。そこは人間と同じかな」
「僕が来世ドーナツになったとして、春名さんは僕を選びますか?」
「もう今選んでるからな」
「……そうですか」
「ジュンはオレを選んでくれる?」
「まあ、それは、春名さんと同じですよ」
「へへ」
 春名は半分に分けたドーナツを食べ始める。
「この後どうする?」
 春名は最後の一口を食べ終え、まだかじっている旬を待っている。
「ゲームセンターでも行きますか?」
「お、意外。いいぜ、どこにあるか分かる?」
「知りませんけど、携帯で……あ」
「持ってきてねえの? オレ調べよっか」
 春名がスマートフォンを操作している間に、旬もドーナツを食べ終える。立ち上がって歩き出す。今度は春名が先だ。
 開店してからさほど時間の経っていないゲームセンターは空いていた。機械だけがうるさいくらいに鳴っている。
「とりあえずどれかやる?」
「あまりこういうのよく分からなくて」
「いいって。対戦よりクレーンがいいかな」
 春名は財布を取り出して、少し考えてから百円を機械に投入する。アームは一度ぬいぐるみを持ち上げるが、すぐに取り落としてしまう。百円じゃやっぱ無理かー、と春名は気にしない。
「カッコ悪いとこ見せたな」
「いえ、別に」
 旬は一瞬財布に手をやりかけたが思い直す。持ち帰るの大変ですよね、と言おうとしてやめる。代わりに対戦ゲームの方へ足を向ける。
「音ゲーならジュン向いてるかもな」
「なんですそれ」
「リズムゲームみたいなやつだよ」
 その後もしばらくゲームセンターの中をうろつくも、ろくにゲームはせずに結局そのまま出ることになる。
「春名さん、楽しいですか?」
「結構。なんか予定ある?」
「ありません。どうしますか」
「付き合うよ」
「……帰りますか」
「帰る家があるっていいよな」
 春名は笑った。そうして二人は駅へと戻る。蒸発した海がやがて雨になって地へ戻るようにして。

□ □ □

「ハルナっちたち旅行行ってたんすよね? お土産は?」
「ありませんよ。旅行と言ってもすぐそこです」
「えー! そんな酷いっすよお! わざわざ旅行行くって言ってったじゃないすか」
「それはただの報告です」
 旬は肩をすくめ、春名は四季にドーナツを渡す。四季は頬を膨らませたままそれを受け取る。
 気分だけの失踪ごっこは午前中だけで終わり、午後はひたすら二人の家を掃除していた。消え去るには勇気も金も足りず責任だけはあったので。それでも束の間の自由が欲しくなる時はある。
 また蒸発するのも悪くないかもしれませんね、と旬が言うと「それ茹でる時のやつ?」と四季は首を傾げた。
20180502
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