水面にまほろば | ナノ

水面にまほろば

※不快な表現に注意

 だってそのとき彼はまるで化け物みたいだったのだ。表情が抜け落ちた能面みたいな顔をして、それなのに目だけ異常なほどぎらついていた。その様子は頭蓋骨を連想させ、漫画や何かに出てくる呪いの髑髏のようだと、桜庭はらしくもなく幼稚なことを思った。髑髏がそのままふらふらこっちににじり寄ってくるものだから桜庭は思わず後ずさった。感じたのは純粋に恐怖でしかなかった。見てはいけないものを見てしまった気がした。実際にはそれは彼らのプロデューサーだったのだけど、そのときは確かに異形のものに近しい存在であると錯覚させた。
 「薫」と化け物、もといプロデューサーは発した。ぞわりと背中に悪寒が走った。悲鳴すらあげそうだった。
 プロデューサーが何を言ったのかよく覚えていない。覚えているのはただ頷いて、分かった、と答えたことだけだ。だってそのときの彼は化け物じみていて、なんでもいいから早く逃げ出したかったのだ。
 そして後悔した。どうやら自分たちが恋人同士になってしまったようなので。
 翌日また顔を合わせたプロデューサーはすっかり普段通りだった。明るく少し間が抜けている。安心していたら彼はこっそり桜庭に囁いた。──帰り、家に寄ってよ。
 プロデューサーの家で夕飯を振る舞われ、酒の入った彼は上機嫌でべらべら喋った。お前と付き合えるなんてな、と笑い、軽薄な愛の言葉を吐いた。そういうことになったのか、と桜庭は冷静にひとつひとつ確かめていった。なるほど、では明日振ろう。酒に酔った君に酷いことをされたと。どうせ覚えていまい。
 ところがそうはいかなかった。桜庭が別れてくれと言いかけた途端、また化け物が現れたので。どうしたってこの化け物からは逃げられない。取って喰われるかと思った。
 だから桜庭は今でも仕方なしに彼と交際している。もちろん周りには秘密だ。意外にも彼は目立ったことは特にしたがらず、たまに夕飯に招かれる程度だ。今どき高校生の方がよほど進んでいるのではないか。プロデューサーに恋愛感情を抱いていない桜庭にとっては好都合であったが。
「薫、ワインは平気か?」
「ああ」
「一本開けよう」
 ワイングラスを何度も空にした。それほどきつくない酒だ。二人で一本飲み切って、プロデューサーはグラスを洗いに立ち上がった。
 帰ってきた彼の手にはワイングラスがある。その中で体長三センチほどの金魚が窮屈そうにひれを動かしていた。
 飲んで、と彼は言った。桜庭は黙ってグラスを受け取った。飲む気などなかった。ただなんとなく高く掲げて見ると水面が鏡のように反射してくっきりと金魚を映した。水面の鏡がきらきらするのをしばし眺めて、それから桜庭は透明な水ごと金魚を飲み込んだ。プロデューサーは何も言わなかった。

 それからも桜庭は時々プロデューサーの家に行き、そして稀に金魚を出された。狭いグラスの中に小さな魚が何匹も泳いでいるときもあれば、大きな魚を指で摘まんで飲み込まされるときもあった。気持ちが悪い。衛生面に問題がある。言いたいことは山ほどあるのに桜庭は何度もそれを飲み込んだ。鏡は相変わらず水面で光っている。水中しか映し出さない小さな鏡。

 プロデューサーが捕まったと事務所で聞いた。飲み屋で暴れたらしい。気が触れたみたいだったってさ、とユニットのリーダーは言った。俺たちこれからどうなるんだろうな。
「そういえば、プロデューサー……あの人、桜庭と付き合ってる、とか言ってるらしいぜ」
「有り得ない」
 吐き捨ててやった。そうだよなあ、と天道は疑いもしない。同情する表情さえ浮かべた。おかしくなったのなら好都合だ。僕はあんな奴と付き合ってなんかいなかった。そもそも彼と触れ合ったことすらほとんどない。あれは一体なんだったのだろう。全部気のせいだったんだろうか。一人分広くなった事務所を眺めて、桜庭は久しく感じていなかった開放感を覚える。

 ネットで熱帯魚の餌として金魚は売られていた。案外低価格だ。届いたそれらをボウルにぶち込んで、狭苦しく泳ぐ姿を見ている。鱗がうねってボウルの壁に反射して不規則に赤く照らす。一匹摘み上げて、ワイングラスはなかったので透明なコップに落とした。掲げると水面は鏡になって金魚を映す。ここにもちゃんとあるんだな。桜庭は顔を反らして一気に飲み込んだ。
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -