おいてかれたの
夜鷹と主任(性別設定なし)が結婚している
「主任。調子はいかがかな」
愛おしい声に、枕から頭を上げようとする。そんな些細な動きすら、老いて衰えた体では叶わず、しわがれた声で歓迎の意を伝えることしかできなかった。
配偶者である夜鷹は、ベッドのそばまでやってくる。今となっては需要ばかり膨らむ老人用の施設で、個室を使わせてもらっているのは幼馴染みで雇用主だった可不可の計らいだと聞いている。もうとっくの昔に定年退職したっていうのに、彼は律儀だ。
退職しても夜鷹を含めた何人かは主任と呼び続けていた。最終的にはもうちょっと出世したんだけど。だが出会ったときの印象というのは大きいものだ。旅だって、一番最初に訪れたときの感動を越えることは結構難しい。
出会ったときと言えば、と夜鷹を見上げる。彼は身を屈めて優しく顔を近づけて、こちらの言葉を聞き取ろうと待っている。出会った頃と変わらないのは仕草だけではなかった。艶々した髪も、皺のない肌も、しゃんと伸びた背も、とても歳上とは思えない。というか、変わっていない。まるで時間が止まっているみたいに、彼は出会った頃のままだった。
芸能人の練牙や夕班、タレントに転向した雪風なんかはさすがずっと綺麗だったし、今も精力的に活動していると聞く可不可だって年齢を感じさせない若々しさだ。子タろは何故か不定期に別人と思うくらい容姿が変わるが、飽きたと聞くとなんとなく納得できた。そして、アンドロイドの幾成は今も容姿が変わらない。だが夜鷹はそういうわけじゃない。彼は異様だった。
夜鷹は時の中に取り残されているように見えた。
眠っている分の時間は歳を取らないのかもしれない、とあり得ないと知っていて仮説を立ててみる。彼の居眠り癖はいつまで経っても治らなかった。起きて、同じものを見ましょうって、何度頼んでも何度約束してもだめだった。病気は仕方のないことで、一番苦しんでいるのは当人に違いないのに、もどかしい苛立ちがあった。
夜鷹さん、と呼びかける。老いた体は口が渇いて発声もままならない。彼はじっと言葉を待ってくれる。変わらない優しさは、だがそこに含まれる感情が違ってきていることに、自分はもう気付いてしまっている。
今の自分たちを見て、婚姻関係にあるなんて思う人がいるわけがなかった。老いさらばえた自分と、若いままの彼。孫にでも見えたらまだ良い方だろう。そして夜鷹の方だって、もう自分を恋人のようには見ていない。優しいのはもはや老人への親切でしかなかった。同じだけの時間を生きてきたはずなのに、少しずつずれ続け、今や断絶は手の施しようがないほど広がっていた。
また呼びかけようと口を開く。
「夜鷹さ〜〜〜ん!!」
自分の声をかき消すように、不意に騒々しく軽やかな声が飛び込んできた。個室の入り口から、若い男が顔を覗かせている。
「ここにいたんすね〜! も〜、あんまり長居しちゃダメッスよ〜」
「ああ……由蛇」
青年はにこにこと人当たりのいい笑顔を浮かべて、部屋に入ってくる。夜鷹は安心したような表情で、ベッドサイドにかがみ込んでいた背を伸ばした。背が高いから急激に彼との距離が開いたように感じる。
「面会時間、ちゃんと計ってます? そろそろ出ましょっか」
「いつも面倒をかけるね」
「今さらッスね〜」
青年に促され、夜鷹は立ったまま暇乞いをする。そのまま先導されて夜鷹がこちらに背を向ける。二人が去っていく。その人を連れていかないで! 悲鳴を上げそうになるのにやはり声は出なかった。同じ未来を生きようって約束したじゃないですか。
部屋を出る直前、青年が一瞬視線を寄越す。扉が閉まり、後には自分だけが残されていた。彼に何もしてやれなかったのだということだけが確かだった。
20240824