不可視光
何もかもぎらぎらと眩しくて不愉快だった。
夜の街のネオンが競うように輝いている。異常に昂った神経にはそんなものも鋭く網膜に突き刺さるように感じられた。生理的な涙がぼろぼろ眦を伝い落ちるのも構わず、奇妙に笑いながら、由蛇はよたよたと彷徨っていた。
由蛇がたったひとつだけ守りたいと思っているもののためにはろくでもない連中と付き合うことも必要で、ろくでもないからこんなことになっている。火でも点けられたと錯覚するくらいに体が熱い。散々飲まされた酒だのそうでないものだののせいで完全におかしくなってしまった。熱くて苦しくて目が回って気持ち悪くてそれなのに愉快で仕方なく、いっそ大声で笑いたいくらいだった。もう脳味噌まで変な成分が回り切ってすっかりイカれてしまっている。
とにかくこんな眩しいところには居られなかった。光から逃げるように暗い方へ暗い方へ無理やり脚を引きずっていく。結構悪くないって自負している容姿だって、きっと今は酷い有り様なんだろう。すれ違う酔っぱらい共はみんな眉をひそめて由蛇を避けた。そんなものには構っていられず、喘ぎ笑いながらどこへともなく逃げていく。暗いところへ。由蛇が生きられる場所へ。
ようやく辿り着いた光の届かない路地裏で、由蛇は地面に転がる。もう指先ひとつ自由に動かせる気がしなかった。なんとか目だけ閉じると逃れたはずの光がぎらぎらと極彩色に瞼の裏側で暴れた。
こんなとこで死ぬのかな、と思って、働かない頭に浮かぶのはやはりたったひとりの姿ばかりだった。その人のことを考えた途端にただでさえ熱い体の温度がまた上がる。苦しい。他のことを考えなければと思うのに思うほど彼のことで頭の中が埋め尽くされていく。自分を細胞まで全部分解したって、最後のひと欠片まで彼の影響が染み渡っているに違いなかった。苦しい。体も他のところも苦しくて涙が出た。
「……由蛇?」
幻聴だと思った。幻聴であれと思った。薬でめちゃくちゃになった頭が最後に作り出した幻としてはなかなか上等な方だろう。最期まであの人ことばっかりだと自嘲する。
幻聴なんかじゃないと本当は知っている。重い瞼を無理やり引っ剥がすと、全ての光から覆い隠すように、影が伸びていた。大柄なその人が作り出す暗闇の中で、ようやく由蛇は安息を得ていた。
夜鷹は由蛇に何も訊かなかった。由蛇がろくに喋れもしないのを見て取ったのかもしれないし、何か知ることを恐れたのかもしれない。それでも夜鷹はこちらに手を伸ばした。
動かすよ、と聞こえた次の瞬間には、由蛇は彼に担ぎ上げられていた。淀みない見事なファイヤーマンズ・キャリー。これ自覚あんのかな、とぼんやり思う。バーテンダーの仕草じゃなさすぎでしょ。
脚の間に腕を通されたこんな体勢じゃ、間違いなく気付かれている。がちがちに固くなったそれが当たっていても夜鷹は黙っていてくれた。由蛇の方もなんかもう全てがどうでもよくなっていて、ただ彼に揺られるのを受け入れていた。
気が付いたら柔らかいところに下ろされていた。広いベッド。ここはどこだろう。夢十夜ならもっと酒の匂いでもしそうなものだが、それもない。今の自分にそれが分かるとも思えないが。
「私の家だよ」
遠くで声がする。間接照明の薄明かりの向こうで、手を拭う夜鷹の姿が映った。
「よぁ、あ、夜鷹、さん」
回らない舌で名前を呼ぶ。彼がベッドに膝を付くと僅かに軋んだ音がした。どうしたんだい、と訊いてくる彼の襟首に手を回した。
だって仕方ないんだ。強制的に興奮させられた神経にあんたが入り込んできたから。あんたの声がしてあんたの匂いがしてあんたの体温がしてあんたが欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて気が狂いそうなんだよ。ずっと。
濡れた目で由蛇が見上げると、夜鷹はじっとそれを見つめ返し、普段より幾分低く掠れた声で承諾した。
「ひぁ、っひ、ぅあ、あ、あ!」
情けない声がひっきりなしに喉から零れる。体に力が入らないから口は開きっぱなしで、それなのに腰は不随意にびくびくと跳ね続ける。夜鷹の大きな手に包まれた部分だけが感覚の全部を持っていったみたいだった。気持ちいいことしか分からなくなる。
「あっ、うぁあああ、……っああぁ!」
またイく。およそ人間の受け取っていい許容値を越えた快楽が絶え間なく送り込まれてくる。壊れる。壊れちゃう。恐怖も興奮にすり代わる。相変わらず涙が零れ続けているが、今は苦しみではなくて、快感によるものだった。気持ちよくて泣いてるなんて絶対に気付かれたくないけど。
「っく、んぅ、はあっ、あ……ッ!」
「……ふ、……」
口を開かなかった夜鷹が微かに息を吐いた。僅かに弛んだ手の動きにほんの少し余裕を取り戻して、由蛇は彼を窺う。いつも泰然としたその人の顔が薄く紅潮してどこか熱っぽくなっている。この人、オレがイくとこ見て興奮してんじゃん、と気付いた瞬間にまたイった。
ちかちかする快感の奔流に流されるまま、目の前の人を抱きしめる。ほとんどすがり付くみたいな弱々しい動きだったが、彼のがっしりした腕が力強く抱き返してくる。唇が触れ合う。しばらく夢中で彼の舌を追った。
「ね、もっと……」
具体的に何を考えていたわけでもなかったが、由蛇がねだると夜鷹は再び容易く承諾して、由蛇に覆い被さった。また唇が合わさって、厚い舌が由蛇の口内を丁寧に探っては弱いところを暴いていく。もうどこをどうされても恐ろしいくらいに気持ちいいっていうのに、更にひときわ感じるところを引きずり出される。意味分かんない。こんなん全身にされたらどうなっちゃうんだろ。想像してそれだけで腰がびくつく。
不意に性器に触れられて息が止まった。何かを察するよりも先に、それが狭くて熱いどこかに飲み込まれていく。入ってる、夜鷹さんに。もう出るものも無いのにまた達した。
夜鷹が動く度に酷い水音がして、限界まで興奮しきったと思った精神がまだ際限なく高められていく。こんなんどこで覚えてきたんだよと思う気持ちも快楽に押し流されて消える。気持ちよくて気持ちよくて気持ちよくて、それが全てだった。
「ひぇん、ぱ、い」
思考なんてできなくて、閉じられない口から全部零れる。秘密にしていることだって洗いざらいぶちまけてしまいそうだった。口が回らないのは、だから幸運だったのかもしれない。
先輩。由蛇が本当に大事にしたいものの全て。我ながら恥ずかしくなるくらい甘ったるい声がそれを呼ぶ。多分何を言ってるか分かんないだろうってくらい言葉がどろどろにとろけているのをいいことに、随分と久し振りに、ずっとそう呼びたかったように何度も呼んだ。
「へん、ふぁ、いぃ……」
夜鷹は返事をしてくれない。そんなの当たり前だ。だから視界が歪むのは薬とか性感のせいであって、他に理由はない。
滲んだ目に柔らかい間接照明の明かりが乱反射していやに眩しい。夜鷹の胸に顔を押し付けて、その暗さに安堵する。いったい自分はいつから暗闇でしか生きられなくなった? 確かに二人は胸を張って日の下を歩いていたはずだった。それが今では夜に隠れ住んでいる。苦しいのに、それでもやはり後悔はなかった。
いっそう強く彼に額を押し付ける。真っ暗だった。光なんて無くたって構わない。夜鷹しか見えない。
20240802/0816