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職員室から出てきた斎宮は普段と一切変わりがなかった。二人分の休学届けを出してきたばかりにはとても見えなかった。せっかく登校したというのに教室には目もくれずただ目的だけ果たして去る後ろ姿を影片は追いかけた。上履きが床を叩いてぱたぱたとのんきな音を鳴らした。
休学するんだって? 辿り着いた昇降口で天使は言った。天使のように美しい人だった。ついさっき、数分にも満たないような過去に出したばかりの書類の内容を彼はどうしてか知っていて、こうして先回りすらしていた。
斎宮は彼を無視した。だから影片もそれに倣って黙って一年生の下駄箱に向かった。二人に無言で目の前を通り過ぎられてもその人は動じなかった。澄んだ色の瞳を縁取る睫毛の一本さえ震わせることはなく、完璧な微笑を唇の端に浮かべたままだった。
誰の子なの。背中に投げられた問いは短かった。影片は斎宮の横顔を窺った。彼は普段通りに少しだけ顎を上げて、真っ直ぐ前を向いていた。
「影片」
彼の言葉が返答なのか、ただ自分を呼んだだけなのか、影片には分からなかった。
生まれてくる子供のために洋服が必要だった。斎宮はほとんど一日中部屋に籠って針を動かした。仕立てられる洋服は多岐に渡った。幼児用のワンピースに成人サイズのシャツ、手のひらほどのオーバーオールもあれば熊でも余るような大きなスーツもあった。存在しない型紙は斎宮が作った。採寸もしないのに手つきだけはいつも通りに正確だった。
生み出され続ける洋服たちのために影片は組み立て式のクローゼットを買った。大きいものから順にハンガーにかけ、小さすぎるものは下に置いた籠に畳んで入れた。多種多様な服たちはそうして並べられると奇妙に調和して、出番を待って静かに吊られていた。
影片も休学していたが、ずっと斎宮に付き添っている訳にはいかなかった。日払いのバイトを探しては帰りに生地を買ってくるのが日課になった。部屋の隅に置いておいた色とりどりの生地が、帰ってくると外套やスモックや靴下やよだれ掛けになっているのを見るのが影片の楽しみだった。何を作っても彼の作品は完璧だった。ほんの少しの歪みも弛みも存在せず、相応しい力で縫い込まれた糸があるべき場所に収まっていた。
つわりの一種なのか、彼はほとんど何も口にしないようになっていた。元々偏食で少食気味だったのが輪をかけて酷くなり、顔の輪郭は削げて尖り針を持つ指先はかさついていた。少しでも食べられるものはないかと影片はあらゆる食べ物を買ってきた。そうして並べられた食料を、斎宮は食べたくないと拒否したが、聞き入れることは出来なかった。影片に懇願され渋々選び出したものを斎宮は水で無理やり流し込んだ。食事は苦行の色を強めていた。腹は不健康にへこんだまま一向に膨らむ様子を見せなかった。
ある日、影片が帰ってくると斎宮は机に伏していた。指先には刺繍針を摘まんだまま、針山に辿り着く前に力尽きてしまったらしかった。彼は眠っていた。
眠気が酷いようだった。針を握っていようがミシンかけの途中だろうがお構いなくそれは襲ってきて、抗う術はなかった。眠りづわりというものがあるのだと影片は初めて知った。危険だからと独断で裁縫道具を隠したが、斎宮は不満を述べることもなく眠って過ごすようになった。影片はバイトをやめた。
眠る斎宮の腹に耳を当てる。平らで静かなそこで他の命が密やかに育っているとは到底信じられない。それに心当たりもなかった。唯一疑われるのはあの日、音響事故の日、世界が壊れた日の夜に、涙の跡の残る頬に口づけたことだけだが、あの時彼は今のように眠っていたはずだ。
「おれの子ども……」
崩壊した世界の代わりなのだとしたら、斎宮の腹の中に収まっているのは正しいように思えた。
ガリガリとものが削れる音がした。目を開けると部屋はまだ薄暗く、カーテンの向こうがうっすらと白んでいた。 起き上がって音の元を探す。暗い部屋に跪いて、斎宮が何かを噛んでいた。影片が気付いたことに気付いて彼は体を硬直させたが、顎だけは動き続けた。ガリガリと止められない音が続いた。彼は飴玉を食べていた。
拒食から一転して食欲が抑えられなくなったようだった。買い込んだまま放置されていた食料を探しに影片の部屋に侵入したらしい。目を疑うほど彼は何でも食べた。グロテスクな造形の果物だろうが焼いただけの肉だろうが生の魚だろうがお構いなかった。しかし食欲とは別に生来の食への嫌悪感は消えてはいなかった。顔を歪めながら次々口に押し込むようにして食べていく。食事はもはや拷問のようになっていた。それでもまだ腹は目立たなかった。
拒食の反動のような食欲が出るのと同時に眠ることは少なくなった。時間を取り戻すように机に向かい続ける後ろ姿を見守りながら影片は掃除と食事作りに励んだ。彼にしてやれることはそのくらいしかなかった。買い溜めた食料が次々に消費されていくのと入れ替わりに、産み出され続ける作品はクローゼットからはみ出して床を埋め尽くした。幸福な巣のようだった。
食料と布が尽きるのを待っていたかのように、全ては元通りになった。斎宮は偏食になり作品は二人のためのサイズになり床に溢れていたものは残らずクローゼットに押し込められた。彼が大切にしている名無しの人形が喋るようになった。新しい世界がきちんと構築されたことに、影片は安堵した。
20200313