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覡であるということは大変に名誉なことです。しかもそれが歴史ある遠江國御斯葉衆ともなればなおのこと、母親である私も鼻が高いというものです。そう、私の息子は遠江國の覡です。化身というしるしこそ無いものの、舞奏社の承認も受けた、正真正銘の本物なのでした。
「抜けてきた。もう舞奏自体辞めるつもり」
帰ってくるなり、息子は頭を下げました。
「今まで色々……迷惑かけてきて、急にごめん」
「えっ……何?」
私は慌てて、調理を放り出して水道で手を洗いました。春巻きの種が乾くのも放置して、エプロンの裾で手を拭きながら、息子にダイニングテーブルに着くよう促しました。
向かいに座った息子は、また「ごめん」と言うものの、私から目を逸らすこともなく、決意は固いようでした。
「辞めるのはいいけど……何があったの?」
「すごい人が入ってきて……俺たちじゃ、とても敵わない。並ぶことすら失礼だ」
「すごい人?」
息子はスマートフォンを見せてきました。何かのネット記事でしょうか、文章の間に挟まった写真です。私はそこに写った彼を見て、息を飲みます。
あらあらあらあら、まあまあまあまあ。
大層な美形でした。一瞬女の子かとも思うような上品な顔立ち、撮られ慣れた柔らかな微笑、艶々した黒髪。私でも知っています。九条鵺雲くん。舞奏の世界では、きっと今一番有名な人でしょう。
私は彼に見とれ、スマートフォンの画面をスクロールしました。写真を見たかったのです。文章の後、次に現れた写真では、彼は赤と白の和装に身を包んでいました。舞奏の装束を見て、恥ずかしながら私はやっと、話の続きのことを思い出しました。
「……この子が入ったから辞めるの?」
私の言葉は非難の色を帯びてしまいました。小さな子が癇癪を起こしているのを咎めるような、上から窘める響きがありました。
息子は気にする様子もなく、素直に頷きました。もうその点に関してはすっかり整理が付いているようでした。というより、悩みもしなかったのかもしれません。
私は写真を睨みました。綺麗な綺麗な人ですが、他國の装束を着たその人が我が子を追い出したと思うと、侵略を受けたようで心穏やかではいられません。
私の子は確かに化身はありません。それでも小学生の時から休まず稽古に励んできたのです。どんなに頑張ってきたか、私は知っています。由緒正しい家柄の出ではないこと、化身が無いことを謗られてもめげずに続けてきて、ついに舞奏競の舞台に立つことを認められたところでした。この間には採寸だって済ませて、仮の衣装を着せてもらった写真はプリントして玄関に貼ってあります。本番の日を楽しみにしていたのに。
「……それじゃ、この人とあとの二人で、舞奏競に出るのね」
私はため息を吐かないように気をつけて喋りました。息子が立つはずだった場所に、この人が収まる。なんだか理不尽です。
ところが、返ってきたのは予想を越える言葉でした。
「いや、三人で辞めたんだ。今は九条さん……この人だけ」
どういうこと? 話が変わってきて、私は慌てます。他の二人の親御さんと話をしなければ、と思います。今の動揺を分かち合いたかった。そんな大ごとになっているの?
「えっ、それって……先生には相談したの?」
初めて、息子の顔に「しまった」というような表情が浮かびました。
先生というのは、栄柴の御当主の御子息のことです。いや、代替わりなさったんだったか。私にとっては息子の先生という印象が強く、御家柄のことはあまり意識されませんでした。とにかく、先生には長いことお世話になっています。覡になれたのだって、先生の推薦があってこそと聞いています。それがひとつの相談もなく、三人でなんて。
「……巡さんには、今度話すよ」
息子は項垂れました。それ以上強くも言えず、私も背もたれにぐったりと背中を預けました。魂が抜けていきそうです。
舞奏競は、ここしばらく私たちの一番の楽しみでした。長年の努力がようやく報われるところだったのです。私にとっては、勝てなくても良かった。ただ息子がそこに立つところを見届けるだけでも、十分に意味がありました。
そんな覚悟だから、叶わなかったのでしょうか?
スマートフォンの画面に表示されたままの写真を遠く眺めました。赤と白の装束。彼があの、息子が着るはずだったあの黒い装束を着るのだと思うと、やはり憎らしい。
先生はどう思うのかしら。「きっと勝てますよ」と愛想よく微笑んでくれた彼は、息子たちが辞めたと知ったら怒るでしょうか。傷つくでしょうか。そういえばお月謝も馬鹿にならない額なのだけれど、今月分はどうなるのかしら……。
「巡さんは」
ちょうど、息子も同じ人のことを考えていたようです。
「巡さんが……舞奏競に出てくれたら、いいなと思う。俺の代わりになんて、おこがましいけど」
託せる夢は、果たして夢と呼べるのでしょうか?
十年以上、息子は、私たちは頑張ってきました。その誇りがあります。報われるべきだとまでは思わなくても、報われたっておかしくはないはずです。
それでも、不意に潰えてしまうから、夢なのかもしれません。
息子はスマートフォンの画面を消しました。お財布から、いつも大事に仕舞っていたカードを抜き出します。
舞奏社からいただいた、承認書でした。ついこの間発行されたばかりで、まだ真新しい。
「これも返さないとな」
息子が呟くのを聞いて、私は喉の奥が痛むのを必死で堪えました。
「……今夜は、お寿司でも取りましょうか」
私が言うと、息子は弱々しく笑いました。
「何のお祝いだよ」
「長い間、よく頑張りました」
俯いた息子の肩が震えるのを滲んだ目に捉えながら、玄関に飾ってある写真の、息子の恥ずかしそうな、誇らしげな笑顔を思い出していました。
20240506