互い違い | ナノ

互い違い

 社の中に、社人の控え室として使っているスペースがある。ごく狭く、机と腰掛けと食器棚でほぼ埋まっており、残りは箱に入った書類だの、しばらく使わない季節ものだので溢れかえっている。この散らかりようはいつか整理しなければいけないと思いながら、私は未だにそれに手を付けられずにいる。
 怠惰の象徴のような場所に、栄柴の人間が立ち入ってくるのは、正直に言って歓迎できない。止めてほしい。だがもちろんそれを伝えることはできない。
 巡様は、入り口にかけられたホワイトボードをじっと見ていた。我々の週間予定が書き込まれている。恐らく彼が確認しに来たのであろう佐久夜の欄は、しばらく空白のままだ。通常のお勤めということになる。
「……何か飲まれますか」
 彼が立ち尽くしているのを見ていられずに、声をかけた。巡様は思いの外あっさりと勤務表から視線を外し、「うん」と素直に頷いた。そのまま机の丸椅子に腰掛ける。その椅子は歪んでいてがたつくのだと止め損ねた。
 お湯を沸かしてこようとするのは断られて、我々の使っている保温ポットから直接お茶を注ぐ。もう夜遅いからぬるくなってしまっている。巡様はそれを一息に飲み干して、爪で机を掻いた。貴い化身の出ている手で。
 瞬間的に、激しい感情に捕らわれそうになる。衝動性はうちの家系の恥ずべき性質だ。化身を蔑ろにすることも、私の内にある衝動も、全て同じ一点に行き着く。
 あの方はもう舞えないのに。
 だが、それはもう終わったお話なのだ。あの方に化身があろうが、私がどんなに焦がれようが、何の意味もない。
「佐久夜が」
 巡様は片手で頬杖をついて、低い位置から私を見上げた。
「仕事があるとは思ってなかったけどさ」
 私は白いままのホワイトボードに視線を向ける。社は確かに一般的な企業とは異なるが、とはいえなんでもない今日のような日にこんな時間まで奉仕させることはない。……滅多に。
「……あれが、今どこに居るか、というお話でしたら……」
「訊いてない。あんたよりは俺の方が知ってる」
 冷たく遮られて、私は口を噤む。
 かつかつと、爪がいっそう激しく打ち付けられる。掌は下を向いている。
 彼がまだ幼い頃、いつからか掌を握って隠すようになったのには気付いていた。化身のことは、私に口出しのできることではないから何も言わなかった。佐久夜が彼のことで心を痛めているのにも気付いていたが、何も言わなかった。
 そうして彼らは友人関係を続けてしまった。
「和津見さん、ちょっと立って後ろ向いてみて」
 はい、と立ち上がり、彼に背を向けた。しばらくの沈黙の後、突然後頭部に手が触れた。
「髪……」
「髪、ですか」
「伸ばしてよ。全然似てない」
 佐久夜の髪が伸び始めた頃、だらしないと叱ったことがある。早く切りに行きなさいと言うと、彼は真っ直ぐに私を見上げた。
『巡様に、言いつけられております』
 髪を伸ばせと? はい。ならばそうしなさい。はい。
 あの時の佐久夜の目が。巡様の言いつけなのだと私に告げるその口調が。恐らくは、私によく似ていた。
 巡様は佐久夜に言いつける。ちょっとそこで待ってて。お腹いっぱいだから食べて。地図見て案内して。一緒にピアス開けて。
 そうやって少しずつ、命令に従うことを、従うことの喜びを教え込んだ。友人であることを望みながら、従属をも強いた。友人関係と言うには歪であるように思える。しかし、巡様がそれを望むのならば、彼らは友人なのだ。
 後頭部から手が離れる。巡様は元の丸椅子に戻った。座った瞬間に傾いて音が鳴る。少し迷った後、もういいだろうと判断して私も彼の向かいに戻った。こちらの椅子は鳴らない。
 歪だが、それゆえに強固であったものが、バランスを欠いて傾き始めている。私も何かすべきだったのだろうか。ずっと昔のあの時に、佐久夜を叱りつけて、巡などと呼ばせなければ良かったのか。
 なぜ止めなかった。なぜ説得しない。巡様が稽古を休んだ日、佐久夜を問い詰めても、彼は答えなかった。彼自身にも分からなかったのかもしれないし、あるいは、私に言っても仕方ないと思ったのかもしれない。循様との友情を諦めた私では。
「和津ちゃん」
「……、私、ですか」
 突然のことに目を瞬くと、巡様は力なく笑った。
「似てると思ってたけど、全然似てないかも」
「そう……でしょうか」
 循様は私をあだ名で呼ぶことなどない。かつてもなかった。……今、彼が私をなんと呼ぶのか、私は思い出せない。私たちは正しく主従で、彼の前で私に自己は必要ない。
 私たちは、私たちが継いできた通りに正しく在った、はずだ。
 では、彼らは誤っているのか。そうは思いたくなかった。私たちの継いできたその先である彼らが行き着く場所が、正しくはなくともせめて明るくあるようにと願ってしまう。私たちは人の親でもあるのだ。
「あのさ、やっぱり髪、伸ばさなくていいからね」
 巡様は口調を緩めた。はい。貴方の命令を聞く、特別な一席を、私は侵さない。私の主人は貴方ではない。貴方の友人は私ではない。
20240421


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