傷口を含む
ぱちん。
音と共に何かが視界の端をすっ飛んでいって、佐久夜は顔を上げて巡に咎める視線を向ける。ベッドに座って爪を切っていた彼は悪びれもせず「そっち行った?」とこちらを見もしない。
「あったら拾っといて」
「飛ばすな」
「わざとじゃないし」
ため息をついて絨毯の上を手で探る。巡の部屋なのだから放っておいてもいいが、巡の居る部屋が汚れているのは耐えられない。探りついでにゴミも拾って巡の側にあるゴミ箱に落とした。それから、巡の手から爪切りを取り上げる。
「俺がやる」
「えー、後でちゃんと掃除するつもりだったよ」
「それをするのも俺だろ」
「自分でやるって……」
床に座り込み、有無を言わさず手を押さえる。爪の先を指でなぞり、刃を当てた。巡が注文を付けてくるのに注意を払いながら、少しずつ切り落としていく。畏れ多いような感覚もありつつ、奇妙に高揚もしていた。
十指分を切り揃えた。丸く整った爪先を撫でながら、何をするでもなく巡の手を握っている。舞台に復帰して長いからか、皮膚が硬くなっているところもあるし指先は僅かに荒れている。それがとても貴いものに思えて、手を離し難い。巡は何も言わずにじっと手を預けている。
乾いた爪の根本に小さなささくれを見つける。思わず視線を取られていると、同じところを見ていたらしい巡が「いいよ」と告げる。
「それも切っていいよ」
それっきり巡はまた口を閉じてしまう。どうやって切るのが正しいのか、形だけ思考を回す。本当は考える必要なんかない。いいよと言われている。許されている。だから。
佐久夜は巡の手を持ち上げた。唇を押し当てて、慎重に歯を立てる。細い皮膚の先を噛み切った。
皮膚片を飲み込んだ佐久夜を巡は呆れたように眺めて、自らの指先を検めた。
「ねえ」
指が目の前に突き出される。傷とも呼べないような薄い筋だけが残っている。
「ちょっとやりすぎかも。痛い気がする」
「ああ」と、ため息とも返事ともつかない声を返す。傷ならば治療をしなければいけない。それを期待されている。
またその手を取って、口元を寄せた。指先に舌を伸ばす。血の味なんかは少しもしなかった。ざらついた皮膚の感触が舌を痺れさせる。
「……まだ痛むか」
「どうだろ」
巡は手を引っ込めて、首を傾げる。
「最近唇も荒れてる気がするんだよね」
巡の顔を見上げた。唇の様子は見た目には分からない。巡の目が真っ直ぐにこちらを見ている。
「……口の中は大丈夫なのか?」
「確かめてみる?」
口の端を吊り上げる巡に引き寄せられるように、彼から目を離せないまま隣に座り直す。ベッドが僅かに軋んだが、もう音なんて聞こえなかった。
20240327