ひとつでいいから | ナノ

ひとつでいいから

「懐かしーね、これ」
 そういう風に巡が言ってくるのは珍しいことではなかった。なにせ産まれてからずっと一緒にいるので、共有する思い出の量も並大抵ではない。壁の傷、道路に走ったひび割れ、毎年咲く花、そういったひとつひとつについて二人は大抵同じことを連想した。
 佐久夜だって物覚えの悪い方ではないし、こと巡に関わる事象ならなおさら覚えていたいと思って、そうしようと努めている。それでも当たり前に限界はあって、日々の何気ない会話なんかはその瞬間から失われていく。
 ねえ、覚えてる? 巡はわざわざそんな風に訊かない。あんなことがあったよね、あのときお前──唐突に始まる思い出話に、いつも試されているような気持ちになる。適切に応えられると巡は心底嬉しそうにして、佐久夜は内心で息を吐く。
 だが、この日は符丁が通じなかった。巡が指す記憶を、佐久夜はどうしても思い出せない。巡の期待に応えられなかったことが恐ろしくて、「覚えていない」と返事は殊更ぶっきらぼうになった。
 巡は、「そう」とだけ呟いた。
「別にいいけど。佐久ちゃん変なこと言うなって覚えてただけ」
「……よく覚えているな」
「偶然偶然」
 巡はへらへら笑った。
「あの後俺たち二人で石蹴りながら帰ったんだよ。二十回ちょっとでお前が側溝に落とした。俺の家でちょうど頂き物の西瓜があるって言われて、二人で制服のまま玄関で食べたよね」
「……それは覚えている。お前は外で食べると種を飛ばしたがるから」
「教えてくれたの佐久ちゃんじゃん」
 笑う彼に呆れて適当に返事をしながら、まだ恐ろしさに付きまとわれている。巡を失望させた恐怖から徐々にすり替わって、別のものへの恐れが肥大していく。
「まだ明日の数学やってないやって言ったら二題しかないから早くやれって言われた。佐久ちゃんって課題出たらすぐやっちゃうのすごいよね。それでその日の数学の話になって」
 彼は淡々と会話の詳細を並べ立てた。なんでもない日の些細な出来事など覚えておけるはずがないのに。佐久夜が言葉を失って、逃げ出したい気持ちを抑えているのを真っ直ぐに見つめて、巡は寂しげだった。
「覚えてるよ、俺は」
 寄り添ってやれなかった彼にかけるべき言葉が、佐久夜にはまだ分からない。
20231007


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