道は続く | ナノ

道は続く

「窓側座ってもいい?」
 思い切って話しかけると、私の荷物を荷物置きに上げてくれていた秘上くんは「どうぞ」と順番を譲ってくれた。私が奥に座ると彼も続く。二人並んでバスの座席に収まる。秘上くんは背が高くてがっしりしているけど、過剰な圧迫感はない。
 みんなが続々と乗ってきて、車内は次第にざわついてくる。クラスメイトたちの乗車を待つ間、秘上くんはしばらくバスの中をきょろきょろ見渡していた。いつも泰然としているイメージがあるから、ちょっと珍しい感じがする。どうしたのか訊くと、「非常口を」と答えが返ってきた。
 非常口? 言われて見てみると確かにバスの後方、私たちの少し後ろに緑のマークが付いている部分があった。すごいね、そういうのちゃんと気にする人、初めて見た。
「職業病かもしれないな」
 彼は真面目な顔で言った。職業だなんて、学生なのに。私は曖昧な愛想笑いをしたけれど、彼はもう視線を前に向けていた。名簿順に並んだ座席の前方、名前の早い子たちの辺りは既に盛り上がっている気配があった。
 バスが動き出す。私は酔わないように窓の外に目をやって、それから、そっと隣を見た。彼は背筋を伸ばして真剣に前の方を見ていた。
 楽しみだね、芸術鑑賞会。話しかけると、秘上くんは一瞬驚いて、「ああ」と頷いた。口をつぐんでこっちをじっと見る。
「車酔いをする方なのか」
 うんと答えると、彼は頭上の荷物置きを軽く示した。
「冷たい水や梅干しなどの用意がある。必要なら言うといい」
 酔い止めは飲んできているので、窓側を譲ってもらったのも保険みたいなものだった。その上さらに何かしてもらうなんて申し訳ない。そういうことを考えて断って、だけどお喋りをして気を紛らわせたかったから話を繋いだ。用意がいいんだね、秘上くんも酔うの? そう尋ねると「いや、俺は鍛えているから」とまた真面目な顔でよく分からない冗談を言う。反応に困る。
「使わないならそれが一番いい」
 独り言を言った秘上くんは真っ直ぐに座り直して前に目を向けた。その姿はなにか重大な任務に努めているかのようにも見えた。職業病、と彼が呟いた言葉を思い出した。
 秘上くんは同級生なのに大人みたいだ。変に重々しい喋り方をするし、いつも落ち着き払っている。笑っているところを見ない。他の男子みたいに掃除をサボったり下品なことを言ったり先生を馬鹿にしたりしない。そういうところはとても好ましいはずなのに、どこか恐ろしいような気もする。
「秘上くんは、ミュージカル観に行ったことあるの?」
 向かっている先で観賞するステージについて話しかける。「ない」と小さく首を振った彼は、礼儀正しく私にも訊き返してくれる。私もないと同じ返答をする。そういう文化的なこととは縁遠い人生を送ってきた。芸術って難しそうで分かんないよね、と一般論のつもりで言った。賛同が返ってくるものと思っていた。
 少しの沈黙。
「確かに、俺は情緒に欠ける男だが」
 唐突に彼は話し出した。普段と同じ、重々しく丁寧な話し方で。
「それでも、美しいと思ったことはある。……今も思っている」
 言いながら、彼は無意識のようにまた前方に目を向けた。その時やっと、その視線が少し斜めを向いていることに気付く。彼はただ進む先を見ているんじゃなかった。バスの中だ。前の方に座っている誰かを見ている。

 芸術の分からない私にとっても、そのミュージカルは素晴らしいものだった。王子様が醜い怪物に変えられる童話を元にしたストーリーは馴染み深く、それでいて子供向け過ぎもしないよう構成されていた。出演者たちの演技や演出も良かったと素人ながらに思った。
 多分感動してハイになっていたんだろう。帰りのバス、また窓側を譲ってもらった私は、今日初めて話した仲の秘上くんに興奮気味に話しかけた。行きの車内でそういう芸術が好きそうなことを言っていたから、てっきり私と同じように感動しているものと思ったけれど、彼はむしろ私のテンションに戸惑うように言葉を詰まらせた。
「……そうだな。……ああいう表現技法も……俺の知っているものとは違うが……ひとつの……」
 私のためにどうにか感想を絞り出しているが、あの舞台に一定以上の思い入れがないのは明らかだった。感性は人それぞれだけど、でも興奮を分かち合えないのは残念だった。
 彼の言葉はすぐに減速し、行き詰まった。黙り込んで目を伏せた彼は前方に目をやる。さっきまでのように堂々としていない、ご機嫌を窺う子供みたいに俯いて視線だけ投げかける。私はその先を確認する。
 文字通りそれは確認だった。彼が誰を見ているのか予想は付いていた。少し腰を浮かせて覗いた先には、思った通り目立つピンクの頭が見えていた。
 秘上くんと巡くんは、互いにほとんど唯一の友人のように見える。入学初日から既に出来上がった関係だったから気にしたことがなかったが、改めて見ると不思議なくらいちぐはぐな組み合わせだ。
 仲いいよね、と呟くと、何の目的語もないその言葉を彼は正しく汲み取って「家が近所だ」と短く答えた。何十回と繰り返しているみたいに慣れた答えだった。あるいはそう答えると決めているみたいに。彼は彼らの不思議な縁について、ずっと考え続けてきたのかもしれない。
 職業病。なんとなくまた、その言葉を思い出す。
 二人の仲はちょっと奇妙に思えるほど深い。全く関わりのなかった私でさえそれを認識しているほどに。それゆえに彼らが陰でどう言われているか私は知っている。
 その全ては業務だったんだろうか。私の車酔いを気遣ってくれたのと同じように、機械的に手を伸ばしているだけなの?
 巡くんを見つめ続ける横顔を盗み見る。小さなピアスが西陽を受けて光った。
「……あ」
 小さな声が漏れて、秘上くんがこちらを向く。
 私が思わず耳を触ったのを見て、つられて彼も自分の耳に手をやった。それって、と私の要領を得ない言葉に一瞬だけ瞳を揺らし、すぐにまた何の感情も見えなくなる。
「…………いや」
 私が座っている側の耳に触れて彼は独り言を言った。
「こちらは俺が自分で開けた」
 そうなんだ、と私が言ったのは多分聞こえていなかっただろう。そうなんだ。他の誰にも触れさせまいと、自分でそれを選んだんだね。それじゃあ、お幸せに。
20230917


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