消えないものをひとつだけ | ナノ

消えないものをひとつだけ


あんまり幸せじゃない

 その人は正しかった。その人は美しかった。比鷺の兄は、そういう客観的事実だけを残して世界から消えた。

 何が起こったのか比鷺には分からない。舞奏競を当たり前に勝ち進んでいった兄率いる三人は、やがて至高の舞台へ至り、恐らくは何かを勝ち取ってそうして消えた。何故か関係ないはずのもう一人まで居なくなったので、兄も幼馴染も全員失って比鷺は一夜にしてひとりぼっちになってしまった。
 悲しむことさえ出来なかった。大切なはずの幼馴染たちの記憶は端から曖昧に滲んでいってしまったので。よく寝ていたような気もするし甘いものが好きだったような気もするしスポーツ万能だったような気もする。寝ながらサーフィンしつつアイスを囓っていたような気すらする。いくらなんでもそんな化け物であったはずがないのでどこかを混同している。
 そして親友たちと同じく比鷺の大半を占めていた鵺雲のこともまた、思い出せなくなっていた。それは比鷺だけではなく、世界中の記憶から。
 九条鵺雲はもはや一種の偶像的な扱いをされていたので、彼の失踪と消失は人々に強い動揺を与えた。誰もが惜しみ嘆いた。彼はきっとあの場所に辿り着きその才を求められたのだと、慰めのような噂がほとんど事実として囁かれた。それでも諦められない彼らは弟にその影を求めた。
 九条比鷺は九条鵺雲の生き写しだったはずだ。残された細い手がかりに縋って彼らは比鷺を仰いだ。写真と見比べてはまるで鵺雲がまだ居るみたいに安堵の息を吐いた。比鷺は賢いので、自分の役割を正しく理解した。九条比鷺は、九条鵺雲に成らなくてはいけない。
 その人は正しかった。その人は美しかった。その人は眩しかった。圧倒的だった。天才だった。完全だった。並べたてられた客観的事実によってその人は完璧な存在になっていく。無理だと思った。欲されているのは代替品でも模造品でもないそのものだ。そんなものになんて成れるはずがない。
 それでも逃げ場なんて無かった。比鷺のままで居てもいいと言ってくれるかもしれなかった親友たちはもういない。比鷺だけを置いて行ってしまった。九条比鷺は誰にも望まれていない。鵺雲を投影する鏡としての役目だけがある。
 兄のことを思い出そうとする。自分はこの男を嫌っていたはずだと写真を睨み付けてみても新鮮な感情は何ひとつ湧いてこない。完璧だった兄をどうして疎んでいたのか、比鷺はもう思い出せない。嫉妬、劣等感、あるいは照れ隠し? 天上の存在に好かれたなら喜んで当然じゃないのか?
 その人は、比鷺のことを愛していると言った。
 覚えている。それだけは。どんな表情だったか声だったか朧気になっても、事実だけは心にある。完璧なあの人は、比鷺のことを愛している。
 何度もその言葉を繰り返し再生する。何かの証明のように。二度と会えないその人からの祝福だったと信じている。
 その言葉を告げられた時、自分が何を感じたのか、比鷺はもう思い出せない。
20221024


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