あなたが望むなら
電動の車椅子は最新のものらしい。家から当然のように与えられたそれがせめてもの情けなのかそれとも見栄なのか、巡には判別が付かない。どちらでも構わない。与えられることそれ自体が見切りを付けられた宣告だということは理解していた。
巡の父親は巡とよく似ているから、巡がどんな状態なのかよく分かっているのかもしれない。彼が二度と立ち上がれないことを察している。恵み施し差し出し続けた巡にはもう、再び脚を動かすだけの激情はほんの一欠片だって残ってはいなかった。
空っぽだった。
指先を少し動かすだけで勝手に進んでくれる車椅子は都合が良かった。もはや朝起き上がるのは意地ですらない。習慣かあるいは未練か自傷か自己憐憫だ。だからそれ以上の気力はない。
けれど指先だけで過ごせるような家の造りではなかったから、結局誰かの手が必要だった。大抵の場合それは佐久夜だった。
巡がなげやりに一日をやり過ごすのを、佐久夜は静かに見守っていた。黒い瞳は酷い苦痛に耐えるような気配を孕んでいつつ、なおも切実に求める色があった。十年の間に顔立ちは随分と謹厳になったけれど、瞳は少しも変わっていない。暗く深く、いつだって喰らい尽くさんとこちらを窺っている。この目に引き摺られてここまで来たのだ。行き着いた先がこの結末だと思うと哀れにもなるけれど。
その日、佐久夜が持ってきたのは松葉杖だった。暗い巡の部屋の中で、その鈍い銀色だけが調和を拒まれて浮いていた。
「……それは」
呟くように問いかけると、佐久夜は視線を上げた。
「リハビリにと、医者が──」
「お前、何を言ってる」
遮った言葉は想定よりもずっと鋭く響いた。燃えている、と思った。何かが巡を燃やしている。その烈しさに懐かしさすら覚えた。巡はこれを知っている。失くした何かを取り戻しているような気がしている。
「今更俺を立たせて何になる? 俺が立てたら次は歩かせようとするだろう。歩けたら舞わせようとするだろう。今度こそ役目を全うしろと」
嘲笑ってやろうとするのに表情を作り慣れない顔は上手く動かない。ぎこちなく歪めた顔つきはひょっとしたら泣いているようにも見えたかもしれない。それでも断罪の言葉だけは震えもせずに部屋を満たした。
「お前は俺が舞台の上で死ななかったことが不満なんだ」
佐久夜が息を飲み、巡はどうしてか昔のことを思い出していた。彼が自分に背を向けた日のことを。そうしてあの日と同じ痛みが胸を刺していることに気がつく。懐かしい怒りと痛みは、確かに巡を突き動かしていた激情そのものだった。
「……俺がこうなった時点で、お前はその目を潰すべきだった」
呟く。乾かない傷痕に爪を立てるような気持ちだった。
衝動に焼かれたところで壊れた脚は二度とまともに動くことはない。死に損なって残された不具の身体は無価値を通り越して有害だった。
本当は、舞台の上で燃え尽きて死にたかったのは巡の方だ。
握り締めた掌を爪が刺した。それに目を留めた佐久夜はその手をそっと開かせる。三日月型の痕を指の腹で撫でながら彼は懺悔めいた切実さで言った。
「それでも私は……貴方に生きていてほしい」
ほんの少しだけ泣きたいような気持ちになった。生きていかなければならないのだった。望まれてしまったから。今までがそうだったように、この先も、巡は佐久夜のためにある。
20220831