久しぶりに戻った実家の久しぶりに入った六畳間は、床のフローリングが少し日にやけたこと以外、出て行ったときとほとんど変わっていなかった。部屋の中央に立つと、西向きの大きな窓から差し込んだ夕陽のオレンジが目に入って、ちかちかと痛む。
 シーツが剥がされてマットレスのむき出しになったベッドに、うつぶせで寝転がる。昔に使っていた枕へ顔を埋めて大きく息を吸い込むと、すっかり染み付いた幼いころの私の匂いが肺の奥に広がって、妙に落ち着いた気分になった。
 階下の台所からは、リズミカルな包丁の音と調子外れの鼻歌が聞こえる。ひとり暮らしを始めてからいままであまり寄りつかなかったせいか、急な帰省だというのに母は上機嫌だ。
 枕にうずめていた頭を上げて収まりのいい場所を探すと、ふいに足元の床がきらりと光った。
 光のもとは、古びた銀色の、おもちゃの指輪だった。イミテーションのダイヤが埋め込まれた、ちいさな指輪だ。ちくり、胸の奥に刺されたような痛みが広がる。忘れるつもりだったすべてに、私の心はいまだに縛られている。


「国光くんは、いつも私を置いて行っちゃうんだね」
 幼かった、まだランドセルを背負う子どもだった私は、国光くんにそう言った。国光くんは私より三つ年上の、まるで兄弟のように育った幼なじみで、そのときたしか中学三年生、だったとおもう。
 私の言葉に国光くんは眉間にしわを寄せて、困ったような顔をした。差し込む西日のオレンジ色が、癖のある彼の髪にきらきらと反射する。スポーツをする男の子には珍しく、国光くんの髪の毛はとても綺麗だった。
「ドイツに、行っちゃうんでしょ?」
 私がそう続けると、国光くんは黙って頷いた。沈黙が重い。
「わたし、国光くんが好きだよ」
 胸の中を、絞り出すような告白だった。国光くんを真っ直ぐに見上げると、彼は驚いたように目を見開いて、それからふいに真剣な顔になった。
「名前」
 レンズの奥にある瞳に捕らえられて、視線が外せなくなる。国光くんはゆっくりと息を吸い込んで、口をひらいた。
「……十年、待っていてくれるか」
 私が頷くと、彼はかすかに微笑んだ。
「これを」
 国光くんは机の隅に置いてある、小さなケースを手に取った。彼の長い指がケースのふたをゆっくりと開く。中から銀色の指輪を取り出すと、私の左手の薬指へ嵌めた。
「これを持っていてくれ。……必ず迎えにいく」


 この指輪が薬指に入らなくなって、ずいぶん長い時間が経ってしまった。十年待っても、国光くんは迎えに来なかった。彼の活躍をニュースで耳にすることは増えたけれど。彼を思い出にする事を決めて、就職を機に全てを置いて家を出てからもうすぐ三年になる。
 指輪を眺めながらぼんやりと思い出に耽っていると、いつのまにか日が暮れていた。少しだけ開いた窓から入り込む風が、すこし冷たい。
 母に呼ばれて階下へ行くと、夕食が出来上がっていた。ポケットに忍ばせた指輪をなんとなく気にしながら、食べ物を口に運ぶ。両親の会話やテレビから流れてくるニュースを聞くともなしに聞いていると、懐かしい声がふいに耳へ飛び込んできた。
「……そうですね、日本へ帰ったのは十三年ぶりです」
 顔を上げて、テレビの画面を見つめる。そこに映ったその人を見て、私は思わず箸を取り落としそうになった。手が震えるのを必死で抑えながら、画面を食い入るように見つめる。
 大勢の記者たちにマイクを向けられながら、国光くんは淡々と質問に答えている。もともと大人びた顔立ちだったせいか、あの頃とほとんど変わっていない。
 ああ、やっぱり私は、この人のことが。
 液晶画面の中にいる国光くんの姿に、胸の奥が痛んだ。やはり私は彼のことを、思い出にはできない。


いつか思い出の片隅で


「……日本に、待たせている女性がいます。俺がドイツへ渡る前に、待っていると言ってくれた幼なじみです。彼女は忘れてしまっているかもしれませんが、俺は彼女を迎えに行きたい」



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