終焉を風呂に見送ってから数十分。痺れを切らしたリーリエに頬の手当てをされたノーチェは、貼られたガーゼを気にするように指でそれを掻く。「こら、いじらないの」なんて母親のように叱られて、渋々やめてから一時間。秒針の進む音が響かない時計を見上げて、彼はほう、と息を吐く。
終焉の風呂は長い。最低でも一時間は掛かる。その間にノーチェやリーリエにやることなど残されている筈もなく、ただぼんやりと天井を眺めるだけの時間がある。
終焉の入浴が終わった後、ある程度の話をしようと思っているのだが――何を話せばいいのか、彼には考えも浮かばなかった。
「ほっぺの傷は痛むかしらん」
リーリエが揶揄うように虚空へ言葉を置く。じりじりと時を進める秒針に釘付けになりながらも、ノーチェは「別に」と素っ気なく返しては、執拗に廊下の方へと視線を配らせる。
痛くないわけではないが、特別唸るようなものではない。適切な処置が施された今、ノーチェに気になるような点があるとすれば、終焉のことだけだろう。すっかり意気消沈してしまった男の顔を脳裏に浮かべては、胸の奥が騒ぐような気持ちに苛まれてしまう。疲れ切った顔に表情はもちろん、酷く重たげな足取りに何らかの異常事態を懸念してしまう。
例えば風呂場で意識を失ってしまって、湯船に頭を浸けてしまえば息ができなくなってしまって、取り返しのつかないことになりかねない。終焉ならば命を吹き返すことができるだろうが、疲労した体では本当に蘇生が可能なのか、どうしても気になってしまうのだ。
そんなノーチェの気を逸らすように、リーリエは頭を捻り、ぽつりぽつりと彼に話しかける。何気なく屋敷に寄ってみれば殺伐とした雰囲気と、荒れた現状にそれとなく戸惑っただの、自分の作る料理が美味しくなくて困っているだの、そんな他愛ないものだ。
その話にノーチェは小さく首を縦に振った。確かに女の作る料理は味がこの世のものとは思えないもの。噛めば噛むほど砂を口にしているような――いや、グミのような食感だっただろうか――それすらも曖昧になるほど、不気味なものだった。あんな料理を普段から口にしているのかと訊けば、リーリエは「そんなわけないじゃない」と彼の顔を見て言った。珍しく笑みも何もないただの真顔に、彼が小さく尻込みをしたのを、リーリエは知らない。
普段の生活で口にするのはそこら辺に生えている野草。そして稀に赴く街で商品や占いで金の代わりに、食べ物を恵んでもらう生活を送っているようだ。
無論、終焉がいる屋敷に赴いて料理をねだるのもそのためが主で、ノーチェとの会話は半分ついでのようなものだという。
「……じゃあ今日も集りに来たんだ?」
試しにリーリエに問い掛ければ、女は軽くウインクをして「あわよくばってね!」とノーチェに告げる。
今日ばかりは何だか胸騒ぎがした、なんて言って女は頬に手を突き、ふう、と溜め息を吐く。その原因が何なのかを探すために外へと赴けば、屋敷から酷い鉄の香りがしたというのだ。
昼からそんなものを嗅ぐ気力なんてなかったのに。――そう独り言のように呟いて、女は眉を顰め小さく唸る。靴を脱いだ足を前後にゆらゆらと揺らして、ふて腐れたような表情のまま天井を見上げた。
今日はあまり調子が良くなさそうね、と呟く女を横目にノーチェは胸の奥の蟠りにそうっと手をつける。
女の言う「調子が良くない」というのは恐らく、終焉のことを指し示しているのだろう。何をどう見ればその判断ができるのかは彼には分からないが、その原因が自分にあると思って、小さく項垂れる。
随分と柔らかくなった毛髪が視界の端に映る。「幸せ」だと思えば、まるで罰を与えられたかのように死んでしまった男を、もう一度死に追いやったのは紛れもなく自分自身なのだ。
大人しく引き下がっていればこんな目には遭わなかったのかもしれない。教会≠ニ判断した時点で終焉に相談していれば、状況が少しでも変わったのかもしれない。
――そんな考えばかりが何度も脳裏をよぎって、ノーチェの胸の奥に蟠りとして積み重なる。時間が巻き戻せない限り何の意味もないと思いながら、彼も頭を抱えた。
あまりにも空気が重く、全く聞こえてこない筈の時計の音が聞こえてくるような気さえもする夕暮れ時。西日がほんのりと屋敷の中を照らしていて、燃えているようにすら見える。
その中で重い空気を破ったのは、天井を眺めていたリーリエだった。
「……少年は、料理できる?」
ほんの何気ない一言。そのあとに軽く聞こえてくる腹の虫。神妙な面持ちでノーチェを見つめるリーリエの瞳は、まるで決意を胸にしたかのような目付きだった。
自分の考え事が馬鹿らしく思えるほど可笑しな質問に、彼は訝しげな顔を向ける。
――しかし、リーリエが冗談を言っていないのは確かなことで、ノーチェは思わず口を閉ざして首を横に振った。
今まで奴隷だった分、作れるわけないだろ。
――そんな気持ちを込めた行動に、女はがっくりと肩を落とす。あからさまな失望と、伝わってくる「残念だ」という気持ち。もしかしたら自分の方が悪いのかもしれない、なんて思わせてくる女の行動に、ノーチェは頭を悩ませる。
この空気を壊したい半分、本気半分といったところだろうか。責め立てるような気持ちが窺えない分、いくらか気は楽だが、あからさまな落胆がノーチェの胸をつつく。
何せ手料理を振る舞ってくれる筈の終焉が、まともな状態でいられないからだ
こうなってしまっているのはやはり自分の責任なのだろう。リーリエが肩を落としたのと同じように、ノーチェもまた落胆を示しかけたが、その資格はないのだと思って首を横に振る。
彼に料理はできない。その事実は紛れもない真実だが、多少の真似事ならできるかもしれない。終焉の隣でその手際を見てきた分、流れは何となくでも分かるような気がした。
――気がしただけで、できる筈もないのだが。
それでも終焉のことだ。冷蔵庫に洋菓子のひとつやふたつ、入っていても可笑しくないと言うことを提示すれば、女は目を輝かせる。「そうだった、あいつは甘いものが大好きなんだった!」そう言って席を立ち上がった。
すらりと伸びた背筋。靡く金の髪。太陽に当たれば黄金色にでも輝くであろうそれを見て、彼は綺麗だと思う。
終焉のように漆黒に塗れた黒く艶やかな髪も良いものだが、リーリエのような金色に輝く髪も悪くはない。白髪だけを見慣れ続けてきた瞳には、彼らのような髪色を持つ人間はいつまでも新鮮だった。
――けれど、何だろうか。胸の奥を騒がせるこの違和感は。
彼は人知れず胸元で拳を握り、リーリエの背中を眺める。
リーリエの背中に何かがついているわけではない。しかし、何かが胸につっかえるような気分になって、彼はその背中から目を離せずにいる。
――何だろう。何か、もっと小さな背中を見ていたような――。
――そこまで考えて、リーリエの小さな呟きにノーチェは意識を取り戻す。
「変ね〜。もう二時間めよ。エンディアったらまだ出てこないの?」
ぽつり。まるで独り言のように呟かれた言葉。唇から溢れ落ちた疑問に彼は反応して、時計を見上げる。
以前終焉が手直ししていた秒針の音が気にならない時計は、じりじりと針を進めて、終焉が風呂に入ってから二時間が経過していた。もうそんな時間が経ったのかと一瞬不思議にも思えたが、リーリエが気にしている点はあくまでそこではないのだ。
一時間は悠々と風呂場で過ごす終焉。ただし、人がいる場合は時間を気にしてわざわざ息つく時間を削ってまで、常識の範囲に収まろうとする意志が見られる。
特にノーチェが屋敷に来てからは、彼自身もその様子を見たことがあるものだから、ゆっくりと首を傾げた。
あの人、まだ出てこないんだな――と暢気に思うこと数秒。リーリエがへら、と口角を上げて
「もしかして寝てるのかもね〜」
――と呟いた。
女の言葉のあとに沈黙が訪れる。それこそ窓の向こうの、風が吹く音すらも聞こえてくるほどの沈黙だ。さわさわと庭の垣根と花達を揺らして、木の葉が舞い上がる。
秋に近付いていく気候に、ああ、寒くなるんだな――なんて思う間もなく、ノーチェはソファーから立ち上がる。
「あら、ちょっと」
仮に終焉が何度死んでも生き返るのだとしても、常識的に考えて、そのまま放置して見殺しにするなど有り得ない。
リーリエの言葉に咄嗟に動き出したノーチェは、女を置き去りに廊下へと出る。赤黒い絨毯、部屋へと至る扉。風呂上がりになれば自然と漂ってくる筈の桃の甘い香りが、少しも感じられないことが彼の足を速めた。
死ぬことに対する恐怖はない。しかし、死なれることへの恐怖はいつまでも拭えることはなかった。
脱衣室への扉を開けて、姿を確認できないことに彼の行動に拍車が掛かる。勢いのまま浴室への扉を押し開けて、湯気の中に沈んでいる浴槽を見れば、浴槽に項垂れる形の終焉を見付けてしまった。
「ちょっ……と、おい、アンタ……!」
咄嗟に終焉へと近付いて、頬に手を添える。珍しく温かい頬に、赤らんだ色がよく目立つ。
――なんて、思う場合ではないのは明白だった。
息はしている。だが、その呼吸が非常に浅いのは肩で息をしているのを見れば分かるもの。
ノーチェは自分の体が濡れるのも厭わず、終焉の体に手を伸ばす。やはり物理的な力に特化していて良かった、と思う。
軽々と湯槽から引き上げられた終焉を抱えて、彼は湯気まみれの浴室から出る。そのタイミングで丁度リーリエが脱衣室へと辿り着いていたが、黙って目元を手で覆い隠していた。
「丁度良かった。タオル取ってほしい」
「やーちょっと……流石に裸を見るのはエンディアに申し訳な……」
「タオル取るくらいできんだろ……」
一般的な良識は得ているリーリエは、ノーチェの一言に小さく返事をしてからそろ、と軽く手を下ろす。収納棚に丁寧に並べられたタオルを無造作に取る頃、ノーチェは終焉をゆっくりとその場に寝かせて、手のひらを頬に当てる。
「……こういうのって……膝枕とかすんの?」
「それは少年の好きにしたらいいと思うわ」
リーリエからタオルを受け取ったノーチェは、終焉の下半身に掛けてやってから、軽く頬を叩く。ぺちぺちと小さな音が数回。叩かれた拍子に沈んでいた意識が浮上してきたのか、終焉が僅かに表情を歪める。
小さな呻き声。気が付けば、どこにあったかも分からない適当な雑誌を携えたリーリエが「これで扇いでやって」とノーチェに手渡す。それを受け取ったノーチェは、床に頭を下ろすことを避けて、終焉の頭を自分の膝に載せて風を扇いだ。
「きっと眠くなっちゃったのね」
そう呟くリーリエに彼はぐっと唇を噛み締めて、小さく頷く。きっと、俺の所為。たったその一言だけを紡ぐこともできず、彼は紙の束で風を送る。
そんなノーチェに追求することもなく、リーリエは何か飲めるものを持ってくると言って脱衣室を出た。
のぼせているであろう終焉に今必要なのは、水分と、体を冷やすもの。キッチンに向かえば冷やすものも飲めるものも揃っているのだから、恐らく女はしっかりとした道具を揃えてくるに違いない。
ぱたぱたと音を立てながら風を送り続ける彼は、やたらと火照る終焉の頬に再度手を添える。
心のどこかで男が命を落としてしまうのではないか、と恐れている所為か、自身の指先は酷く冷たかった。その分終焉の頬が随分と温かく感じられて、体の冷たさが根こそぎ取られるような感覚に陥る。
この冷たさで少しでも起きてくれるといいけど。
――なんて思うまま、ゆっくり、ゆっくりと終焉の体へと視線を向けた。
仰向けに寝かせている終焉の上半身には、相変わらずいくつもの傷跡が刻まれている。大きいものから小さなものまで。新しく見えるものから、最も古く火傷のように残っているものまで。
それらを横目にしながら、リーリエが戻ってくるまで、手元に残るタオルで濡れた体を拭う。万が一風邪でも引かれてしまったら元も子もない。
懸命に体を拭いて、その最中にでも意識が戻ってくれたら嬉しいことこの上ない――のだが、終焉はなかなか目を覚まさなかった。
「起きねぇの……」
軽くとはいえ体に触れていた筈なのに、終焉は眉間にシワを寄せているだけ。呼吸は少しずつ安定してきたが、未だ男は苦しそうに見える。
このときの対処法を彼は知らず、ただ不安げに終焉を見つめながら雑誌を扇ぐだけだった。
呼吸ができているのだから死んでいるとは思えない。それでも彼の指先は、何気なく終焉の首元へと伸びる。
僅かに震えている指を押し当てて、落ち着きのない動悸を確かめようと思っての行動だった。
「――……?」
静寂のような静けさ。火照る首元に当てた指先に、ノーチェは確かな違和感を覚える。落ち着き、なんてものではない。しん、と静まり返っている現状を信じることができず、彼は咄嗟に手のひらを終焉の胸元へ押し当てる。
手のひらを伝う筈の鼓動がまるで聞こえない。小さく奥底で鳴り響いている、なんてものでもない。一言で表せば、止まっているのだ。心臓が。
「え、なん、何で――」
身体中から血の気が引く感覚が宿る。
ノーチェは驚いた拍子に雑誌を落とし、終焉の胸元に添えていた手に力を込める。重心が傾き、終焉の傷跡へノーチェの力が加わる――。
――ドクン
――と、確かに彼の手のひらに鼓動が伝わった。
瞬間、ノーチェの腕を白い手が力強く握り締める。それに彼は驚いて視線を手へと向けると、黒い爪が際立つ手が、ゆっくりとノーチェの手を体から引き剥がす。
まるで秘密を暴かれたくないかのようにゆっくりと。
同時に起き上がる男の体に、ノーチェは疑問を確かに抱いたが、安心感すらも覚えてしまった。
「あの、アンタ、俺、その」
――けれど、何を話すべきなのかは整理がつかない。
手を捕まれたまま彼は懸命に言葉を紡いでいたが、肝心の終焉にはひとつも聞き入れてもらえていない。アンタの意識がないから慌てて風呂から出した、と言ったところで今の男には届かないのだろう。
徐に体を起こした終焉の手からノーチェの手が離される。そっと離れた手が、胸元の方へと引き寄せられていくのが見えた。起き上がった終焉の背は長い黒髪に覆い隠されていて、何をしているのかなんて判断がつかない。
ただ何となく、落ち着きのある雰囲気をまとっているのは確かだった。
「……えと、平気……?」
ほう、と息を吐いてからノーチェは小さく終焉へと問い掛ける。すると、男は軽くノーチェへと目線を配らせ、小さくとも頷いてみせた。
寝ていたのか。そう呟く終焉の顔色には未だに赤みが残っているが、後遺症などの症状は見当たらない。ただ本当に眠っていたのだと、ノーチェは痛感してしまった。
「お水持ってきたわよ〜ん! あとついでにアイス!」
扉が開かれる音と共に脱衣室へ入ってきたリーリエは、氷が入った水入りのコップをカランと鳴らすと、終焉へと手渡す。
体を冷やせるものに何故アイスなんてものを選んだのかは分からない。「それは可笑しいだろ」とノーチェが訝しげに呟くと、リーリエは「あらそう。じゃあ私が食べちゃうわよ」なんて言って、氷菓子をひょいと口へ運んだ。
ひんやりとした氷菓子がリーリエの口の中に広がる頃、ノーチェは終焉の様子を窺う。
終焉は氷が入った水をひと思いにぐっと飲み干すと、ほう、と息を吐いて、コップを持った手を徐に差し出してくる。それを反射的に受け取ると、「ああ、有り難う」と終焉は呟いた。
呟いて、改めてノーチェを赤黒い瞳で見つめるのだ。
「…………?」
見れば見るほど男の瞳は暗く、それでいて透き通るような印象を受ける。何かを訴えるようなどこか寂しげな瞳。獣のような瞳孔が細められていて、常人との違いをまざまざと見せ付けられているようにも思える。
それが、彼はどうしようもなく悔しく思えた。
――そんな感情を置き去りに、何気なく見つめてくる終焉に対して彼は首を傾げる。どうしてそんなに見つめてくるのだろう、なんて思ってしまって、手元のコップが氷を鳴らすのに気が付かなかった。
「どうしたの」――そう問い掛けてみれば、終焉はしゃんと伸びていた背を軽く丸めると、どこか恥ずかしそうに目線を逸らす。何かを言おうとして唇を開き、何も言えずに閉ざしてしまう。
そんな行動を数回繰り返したあと、リーリエが察したようにノーチェを呼んだ。
「しょーねん。出るわよ」
ちょいちょいと手招いてリーリエはノーチェを呼ぶ。
しかし、彼はそれに納得がいかなくて、「何で」と口を洩らした。
万が一また倒れてもしたら大変だと思うのだ。そのときに傍に居られれば助けにもなれる上、着替えのひとつくらいは手伝える筈。女ではないノーチェにはそれが可能で、リーリエには難しいこと。
それを懸念するノーチェに、リーリエは痺れを切らしたように「やめてあげなさいよ」と言う。
「あんたね、好きな人に失態なんて見られたくないし、意図しないときに裸なんて見られたくないものよ」
少しは分かってあげなさいよ。
苦笑を洩らして扉の向こうへ消えていく女。視界の端に入り込む終焉の困ったような素振り。長い髪によって上手く隠されているが、髪の向こうには服も着ていない素肌があるだけ。
隠し続ける理由に傷跡のこともあれば、リーリエの言うとおりの理由があるのかもしれない。
女の言葉に茫然としていたノーチェは、ぼんやりとしたまま立ち上がり、コップを持ったまま歩き出す。部屋を出る前にタオルをひとつ手に取って、「お邪魔しました」なんて呟いて、廊下へと出た。
生憎ノーチェに終焉のような気持ちは理解できない。「好き」の定義が、男の言うものと女の言うものとは異なっている気がしているのは確かだった。
「……よくわかんねぇな」
小さく呟いて、ノーチェは濡れた服を軽くタオルを当てて水気を取り除いた。
「好きな人、ではなく愛しているのだ。訂正しろ」
「第一声で言うことかしら?」
脱衣室から出て客間へ戻り、ノーチェは服を着替えに、リーリエはソファーに座ること早数分。着替えたノーチェのあとに客間へとやって来た終焉は、相変わらずシャツに黒地のベストを着こなしていた。
タオルを頭に当てて未だに水気を拭き取っている様子は、普段と何ら変わらないよく見慣れた行動。顔付きも特別悪そうには思えないが、ほんの少し、疲労が見え隠れしている程度。睡眠を挟んだお陰か、小さく欠伸をしているものの、数時間前の眠たげな様子は見られなかった。
頭を拭く度に漂う甘い香り。何の変哲もない日常の一部に、ああ、いつものあの人だ、とノーチェはほっと一息。長い黒髪がゆらゆらと揺れている。
終焉の言葉にリーリエが「どっちも同じでしょう」と言う頃に、ノーチェは女の隣へと座った。ぽすん、と小さな音を立てて沈む体に、何度目かの楽しさを覚える。やはり質のいいものは何度体感しても、新鮮な気持ちを呼び起こしてくれるのだ。
「同じではない。特に私は」
そう呟きながら何故かノーチェの隣に腰を下ろす終焉に、彼は瞬きをひとつ。普段なら向かいの椅子に座る筈なのに、今日に限ってはノーチェの隣に座るものだから、ノーチェは困惑の色を隠せなくなる。
三人がけのソファーにノーチェを挟む形で座る二人は、何やら他愛ない雑談を話し始めた。
今日はやたら天気がいいとか、洗濯日和だとか。夕食は作れるのか否か。風呂で眠りこけていた割には見た目がいいだとか――そんな意味のないこと。
俺を挟まずに話せばいいのに、なんて思う彼は、会話に参加することもなくただ黙って話を聞くだけだった。
「――教会≠ノ居場所が突き止められてしまっている」
――不意に呟かれた一言に、ノーチェは手指をぴくりと動かす。
教会≠ヘ終焉と仲が悪く、殺し合いに発展するほど。数時間前にその現場を目撃していたノーチェには、男の呟かれた一言が妙に重く感じられて、思わず手を握り締める。
反面、リーリエはさも興味なさげに「あらそう」と言って、どう対処するのよ、と終焉に対して問い掛ける。
何てことのない質問だ。終焉はやたらと真っ直ぐな瞳で前を見据えながら、ノーチェの頭に手を置く。
「何てことはない。向こうが手を出すなら、こちらも手を出すだけだ」
ノーチェに手を出されたら容赦はしないがな。
そう言って彼の頭を軽く撫でる終焉は、微かに笑うような言葉を紡いでいた。
まるで冗談のように溢れ落ちた言葉に、彼は僅かに体を逸らすと、ノーチェの頭から終焉の手が離れる。撫でるくらいなら構わないんだけど――なんて思う彼に対し、リーリエは「それでこそあんたね」と大きく笑うのだ。
「それで今日、お夕飯お世話になってもいいかしら〜!」
女の呟いた一言に、終焉が僅かに嫌そうな顔をしていたのを、ノーチェは見逃さなかった。