襲撃と怒り


「……ここが……」

 ざ、と複数の音を鳴らしながら正面を見上げる男達。白いローブに金の装飾が施された教会≠フ服は、太陽に照らされて煌々と輝くように光を反射する。僅かに寒さをもたらす木枯らしに対してその服は暖かかった。
 詰めた襟元にそっと口許を隠し、ほう、と息を吐く。

 噂によると、街外れの屋敷には終焉の者≠ェ身を寄せている。奴は大事な商品である奴隷を強奪した酷い生き物だ。素性が知れないからね。是が非でもそちらへ向かい、奴隷を奪還してきてほしい。無論、奴の生死は問わないよ。

 ――そう教会%熏垂ーられたのだ。人差し指を立てられ、自分だけにこっそりと打ち明けたような様子に、彼は興奮を隠せずに二つ返事で了承する。モーゼが頼っているのはヴェルダリアなんて存在ではなく、あくまで自分なのだと、優越感が体を突き動かした。
 複数の仲間は皆同じようにヴェルダリアを許さない正義に溢れた人材だ。誰よりもモーゼに忠誠を誓い、モーゼよりも偉そうにふんぞり返るヴェルダリアを嫌っている。教会%烽ナは基本暴力行為が認められないことから、彼らが衝突し合うのは口先だけだが――、本当ならば追い出したいほど嫌なのだ。
 そんな男よりも自分達が頼られた、という事実は彼らに希望を抱かせる。自分達が思う「正義」は何よりも正しく、モーゼに寄り添えるものであると再認識できた。

 終焉の者≠フ生死は問わない――ヴェルダリアが殺せているかも分からない存在を、自分達が殺せたらどれほど称賛されるだろうか。もしかすると、本当にヴェルダリアを追い出せるかも知れない。

 ――そんな感情が、彼らの足を突き動かしていた。

◇◆◇

「……あの……俺……」
「ああ、目が覚めたのか」

 ふ、と目を覚ましたノーチェの視界には、黒い髪が映り込んでいる。他には天井と、綺麗な顔立ちと、壁のようにすらりと伸びた終焉の体がある。ほんのり血生臭さが鼻を擽るような気がして、堪らず眉間にシワを寄せてしまった。――それでも男は嫌な顔ひとつせず、「気分はどうだ」と問い掛ける。

「疲れていたんだろう。話の途中で意識を失ってしまっていたよ」

 頭の下に妙な感触――柔らかいような、硬いような、上手くは言い表せない――があることに気が付き、そろ、と彼は手を当てる。ざらりとした綿混在の生地の手触り。幾重にも編まれた生地が、ノーチェの手のひらを伝う。
 そこで彼は、自分が終焉の膝で眠っていたのだと気付かされた。

「あ、あの、これは……」

 咄嗟に起き上がろうとしたのだか、終焉の手のひらが優しくノーチェの頭を撫でる。そのお陰で彼は起き上がるという行動を制限され、やむなく男の膝の上で寝転がったまま、ちらりと終焉を見た。
 終焉はやたらと優しげな表情のままゆっくりと彼の頭を撫で、やがて唇を開く。「持ち運ぶのを怠けただけのことだ」――そう言って、ノーチェを見下ろした。特別意図のない、平然とした態度である。
 終焉が言った言葉に彼は納得がいかず、眉根を顰める。

 確か終焉が死んでしまったところまでは覚えていて、何か話をしていたような気がするのだ。大切で、大事な話だった。そこまでは覚えているのに――肝心の会話の内容が少しも思い出せないのだ。
 まるで記憶を一部抜き取られたような奇妙な感覚だ。懸命に記憶の糸を辿ろうにも、辿った先にある筈のものが姿を現さない。胸にぽっかりと穴が空いたような、とはよく言ったものだ。不思議なことに記憶の喪失は、何かを失ったときと同じように、酷く気分の悪いものだった。
 疲れていた試しはない。昨夜も平然と、秋に入ってから少しずつ涼しくなっていく気温から逃れながら、相変わらず深い眠りに就いた筈だ。今朝から少しの眠気も感じられないほどの快眠だったのだが――、思うほど上手く眠れなかったのだろうか。

 ――ああ、変な気分だ。

 上手く頭が働かない、とはこのことを指すのだろう。何度も同じようなことを繰り返し考えていたが、結局は「何も思い出せない」の結論に至ってしまう。次第に何をどう考えていたのかも思い出せなくなって、頭が殴られるように痛んだ。
 考えるのをやめた方がいいのかもしれない、とノーチェは首を横に振りかける。――しかし、終焉の膝元にいたのだと思い出すや否や、彼は徐に体を起こした。
 男の制止を振り切って元の姿勢へ戻ると、漸く一息吐けるような安心感が胸に募る。考えるのをやめた頭は痛みも消えている。暫く小難しいことは考えない方がいいのだろう、とノーチェは軽く肩を落とした。
 存外残念に思う気持ちが沸々と沸き上がる。理由はやはり分からないが、何かを忘れているのは確かなのだろう。いつの日か思い出せたらいいなと思う反面、何も知らない方がいいのではないかと思う気持ちが顔を覗かせる。
 落ち着いている筈なのに、胸の奥がざわつくような不快感は彼を不安にさせるには十分すぎた。思わず首を横に振り、忘れることだけを専念した。三度頭が痛くなったと知られれば、次こそは終焉に寝かし付けられるに違いない。そうなれば体の自由など利かないに等しいのだ。
 堪らずちらりと終焉の顔を見やるが、ノーチェの考えとは裏腹に男は彼に対してろくに顔を向けなかった。微かに膝元を眺めていて、「残念だな」なんて呟いているが、あまり残念そうには見えない。ゆっくりと足を撫で、ほう、と息を吐く様は安心からではない。――疲労だ。

「……あの……」

 ノーチェは足元をじっと見つめる終焉に対してそっと声を掛ける。――だが、対する終焉はノーチェの呼び掛けに応えることもなく、ぼんやりと足元を見つめているだけだ。
 よく見れば男の目元が酷く疲れているように見えて、不思議に思いながら彼は服をつねる。くっ、と引っ張ってみて、漸く終焉はノーチェの顔を見た。

「……何だ?」

 冬の夜のように静かに、柔らかく微笑んだ終焉は小さく彼に問い掛ける。服なんて引っ張ってどうしたのかと。そのあと流れるように彼の頭に手を置いて、丸みを帯びた頭をゆっくりと撫でる。白く癖のある髪が終焉の指の隙間から小さく跳ねた。
 特に用があるわけでもない彼は、再び顔を横に振って「何でもない」と呟く。
 しかし、男の目元を見れば見るほどどこか眠そうに思えて、「何か、疲れてる……?」と問い掛ければ、終焉が納得したように一度目を閉じる。

「……疲れているよ。蘇生は、体力を奪うからな……」

 嘘偽りのない言葉なのだと、彼は本能的に感じ取った。そう思わずとも、終焉の目元や反応を見れば十分に分かる。男に言わせれば、蘇生は日常の中で最も疲労感を得るものだという。
 眠りが深ければ深いほど、傷が深いほどその分の蘇生と治癒には体力と共に魔力なんてものを消費する。傷が浅ければ浅いほど、蘇生と治癒に費やす体力と魔力は少なくて済むのだ。
 先程費やした体力はノーチェが目にしている終焉を見る限り、相当酷いものだったのだろう。終焉にとっての「幸せ」が、まるで本人を苦しめる罰かのように猛威を揮うのだから、彼は再び罪悪感を覚える。
 自分がいなければこの人はこんな目に遭わなかったんだ。――そう思わざるを得ない状況に、彼の中の死にたがりが息を吹き返したような気がした。
 今まで不思議と死にたいと思わなかったのが可笑しかったのだ。やはり自分はどうしようもない人間なのだと、ノーチェは小さく俯く。赤いソファーには影が小さく映り込んでいる。日は未だ高く昇り、静かな夜が来るにはまだ時間が足りなかった。

 唇を閉ざして黙る時間が刻一刻と募る。昼間だというのにまとわりつく空気がやけに重く、今すぐにでもその場から逃げ出したい衝動に駆られるほど。どちらが悪いというわけでも、終焉が悪いというわけでもないが、ノーチェはこの空気が嫌だった。
 男は相変わらずノーチェを見つめているが、どこか別の場所を見つめているような気がしてならない。彼の頭を撫でていた手は次第に疎かになり、――やがて眠るように動きが止まった。何気なく終焉の顔を見つめ返せば、僅かに落ちかける瞼に抗う様子が見られる。
 ノーチェを責めるわけでもなく、眠るか眠らないかの瀬戸際にいる終焉に、彼は考えることをやめるしかなかった。
 寝かしつけるべきか、放っておくべきかの選択肢がノーチェの前に現れる。死にたい云々の考えなど、また一人のときに繰り返せばいいだけのこと。今の彼にできるのは、今から終焉を休ませて夕方には声を掛けるか、夜まで耐えてもらうかの二択なのだ。

「……眠そう」

 ――そう試しに呟けば、終焉は投げ出しかけていた意識を拾い上げるかのように目を開く。咄嗟に首を横に振って、眠くない、なんて男は言う。普段よりも眉間にシワを寄せてはノーチェを見下ろすのだが、その目には強い疲労が見え隠れしているのだ。
 眠いなら寝ればいいのに。
 ――そんな気持ちを口に出しながら、ノーチェは赤いソファーから絨毯へ足を着ける。相変わらずの触り心地のいい生地が素足へ伝わるが、意識する間もなく彼は終焉の手を取った。
 どうも一度死んだあとは規制がいくらか弱まるようで、眠くないと駄々を捏ねる終焉の表情は不服そのものだ。
 だが、終焉が疲労感に苛まれているのはあくまでノーチェの所為なのだ。自分に責任があると自負している彼は半ば無理矢理終焉をソファーの上に横にする。寝具代わりにするには些か柔らか過ぎるような気がするのだが、男は大人しく自室へは向かってくれないであろうことを考慮してでの行動だ。
 その行為に自分のことを知られているような感覚に陥る終焉は、小さく頬を膨らませる。そうしたあと「むぅ」とお得意の唸り声を上げて、不満げな態度を取るものだから、彼は人差し指で終焉の頬をつついた。

「……アンタ、眠いと少し子供っぽくなるのな」
「そうか……?」

 存外男の頬は柔らかかった。
 言葉を交えたあとに彼は数回、終焉の頬に指を滑らせる。指先でも分かる肌の滑らかさはまさに女のそれだとも言っても過言ではないだろう。つぅ、と輪郭をなぞってから、ノーチェは「女みたい」とつい口を滑らせてしまった。

「…………女じゃない」

 数秒の間を置いてから、終焉がふて腐れたように彼の言葉へと反論を示す。不満げな表情がより一層不服に満ちたような色へ移ろう。小綺麗な睫毛の下から僅かに見上げるように瞳が彼の顔を捉え、獣の鋭さを置き去りに、人間のようにじと目を向けてきた。
 女だと言われることは苦手なのだろうか――。ノーチェは首を微かに傾げて不思議そうに瞬きをした。確かに女でもない、完璧のような男なのに、女と揶揄されるのは嫌なのだろう。かくいうノーチェでさえ、――生まれてこの方女だと例えられたことは全くないが――そういった扱いを受けるのは嫌だと思えた。
 「ごめん」そう小さく呟いて、彼は男の頭を軽く撫でてやる。さっきの仕返しと言えば、終焉は小さく笑って、「随分と可愛らしい仕返しだな」なんて言った。悪態のつもりなのか、ただの感想なのかはノーチェには判断がつかない。

「取りあえず何か掛けるもん、持ってくる。アンタは大人しくしてて」

 抵抗をする様子は少しも見せてはいないが、念のためノーチェは終焉に言い聞かせるように口を開いた。意外にも男は素直に頷いて、静かに立ち上がる彼の姿を目で追う。抵抗を見せないのは、あくまでノーチェに物理では押し負ける可能性があるからだろうか――。
 何にせよ、ノーチェ一人ではろくな家事もできやしない。少々時間が前後してしまう可能性があるが、終焉には少しでも仮眠を取ってもらうのが得策だろう。そのためには少しでも体を温め、且つ日の光を遮るものが必要だった。
 布団――毛布ではまだ暑すぎるだろうか。タオルケットでも十分だろうか。
 終焉が大人しく目を閉じて、ほう、と息を吐くのを見届けたノーチェは客間を後にする。柱に手をつきながら迷い、廊下の絨毯を素足で踏み締めた直後にふと違和感を覚えた。
 何気なく視線を投げた先にあるのは、赤茶色とも見える暗い色の扉だ。外と室内を隔てて、且つ何の気なしに自由に出入りができる唯一の扉。エントランスの床は大理石か何かを使っていて、夏場でもやけに冷たかった。靴はたったの二足しか並んでいないが、二人生きるのにそれ以上は必要がない。
 なんの変哲もない扉だ。時折来客が伺ってくるが、そのどれもが既に見知った顔――と言うよりは、一人くらいしか頻繁にやってこない。特徴的な足音は高く、よく歩けるな、などと何度も関心を抱くほどヒールの高いものだった。
 
 だからこそ彼はほんの少し、違和感を抱いていた。――扉の向こうからは、複数の足音が聞こえたのだ。
 
 気のせいであることを願いたい。何せ、彼は終焉の口から来客があるなどと聞いてはいないからだ。魔女リーリエが来ると分かれば、知らせがなくとも足音だけでも判断がつく。加えて妙に酒の香りが空気を漂って来るものだから尚更だ。
 警戒をするべきか、彼は頭を悩ませる。万が一、商人≠ェ相手であれば、彼にどうにかできる兆しはない。
 しかし――、疲れ切っている終焉を叩き起こすのも、ノーチェの中にある良心が痛みを訴えてくるのだ。

 ――万が一、あの人がまた殺されてしまったら。

 ――なんて考えている間に、大人しいノック音が二回、打ち鳴らされた。
 迷う時間はもうない。律儀にノックをしてくる人間なら少しは話ができるだろう。
 彼は重くなった足を引きずって、冷たいエントランスへと足を下ろす。鍵を掛けることはできるが、チェーンを掛けることはできない扉に微かに不満を抱きながら取っ手に手を伸ばす。もしも可能ならば、現家主である終焉に相談して頑丈にするのも悪くはないだろう。
 話をして、帰ってもらって、起こして相談。
 そう結論づけながら扉を押し開ける。――と同時に遠くから終焉が紡いだ「誰だ」という言葉を、ノーチェは聞き逃してしまった。

「……奴隷……?」
「――!」

 ノーチェの視界に映るのは仄かに白い雲が量を増した青い空と、白くなびく、眩しいほどの服。胸元にあるのは煌びやかに輝く金の十字架。若い青年――ノーチェと同年代ほどの男が数人、不思議そうな目をして彼を見た。
 奴隷の言葉にノーチェは驚いて目を見開く。向こうはノーチェの存在を知っているわけではないが、奴隷の存在は知っているようだ。彼らの目線にあるのは彼の顔ではない、首輪だ。
 ――対するノーチェも、彼らの存在を知っているわけではなかった。真夏の日差しのように眩しい白い服も。ここへ辿り着いた理由も。
 一体何を目的に屋敷へ来たのかも、知らなかったのだ。

「……あの」

 誰だか知らないけど帰ってほしい。
 ――そう言いかけて開いた唇は、目の前にいるある青年の表情を見て言葉を紡げなくなった。
 驚きと戸惑いを指し示すような強張った顔。緊張が混じるように彼らの顔に汗が一筋伝う。何か恐ろしいものでも見てしまったかのような目付きは、ただただノーチェを見つめていた。先頭にいる男の他に数人が徐に口許を手で覆い隠したのを見て、彼は漸く気が付いた。
 つい先程まで屋敷の中にいたノーチェは反応が遅れてしまう。数分前に彼は目の前で大量の出血を見たのだ。その頃に比べれば、屋敷内に漂う錆びた鉄の香りなど、気にも留められない程度だったのだが、彼らは全く違う。
 彼らは新鮮溢れる空気を吸って、今しがた外からやってきたのだ。今この場にいる誰よりも香りの変化には敏感だった。
 どうしよう――。どう説明するべきだろう。
 少し前まで人が死ぬ姿を見送りました、なんて口に出せる筈もなく、彼は黙って男達の顔を微かに見上げていた。疲労した家主がいる以上、余計な問題は増やしたくなかったのだ。
 すると――

「何だこの匂いは……きみ、どこか怪我でも負わされたのか!?」
「……は……?」

 ――目の前に立ち塞がる男が、ノーチェの両肩に手を置いて心配そうな顔で声を張り上げた。
 突然の声量と、間違った解釈に彼は呆気に取られてしまう。控えめに開けていただけの扉は気が付けばこじ開けられていて、取ってはノーチェの手からは離れている。追い返す間もなく男は「もう大丈夫だぞ!」と言って、ノーチェの手を強く握り締めた。
 
 言いたいことは多々ある。まずノーチェは怪我など一切負っていないということだ。この街に来てから殴られることはあったものの、屋敷内で暴力を受けたことなど全くない。寧ろ手当をされる一方で、死ぬような傷など負わされたことなどないのだ。
 次に何故やたらと接触してくるのかということ。ノーチェ自身、終焉に触れられることを許していても、全く面識のない男達に触れられるなど、許した覚えがない。薄気味悪いと思いながら咄嗟に手を払うが、めげずに手を握るそれに嫌悪感を抱いた。
 
 そうして、男達が勝手に話を進めている姿を見て、まともな話し合いなどできる気がしなかった。

「何、離して……」
「遠慮なんてしなくてもいい! こんな所に閉じ込められてさぞ辛かったろう」

 行動が駄目なら言葉だけでも。そう思って堪らず抵抗を示したが、彼らは聞く耳を持たなかった。単なる人間相手に力を振るえるほどの気持ちはない彼は、ずるずると引き摺られるがままに外へと出てしまう。冷たい床から石造りの階段へ。
 白い素足に小さな小石が刺さったようで、僅かに痛みを覚えたノーチェは顔を顰めた。

「恐らく彼が話にあった奴隷だろう」
「強奪されて何をされていたんだか知らないが、これでもう危険はないからな」

 口々にノーチェの身を案じる言葉が投げ掛けるが、誰一人としてノーチェの言葉を拾い上げる人間はいなかった。一方的な善意の塊のような言葉は、彼の胸に強い不快感を募らせる。
 一言で表すなら正義の塊のようだ。自分の考えは尤もであり、他の人間の言葉など自分の中の正義に一致しなければただの「勘違い」で収められそうな、「正義」の塊。酷く不愉快で、人の話など少しも耳に入れない人種だ。
 試しにノーチェが「怪我もないし何もない」と言えば、男達はこぞって「そんな強がりはやめなさい」と言い始める。
 四人――いや、五人の白い服の男達はこの屋敷に誰がいるのかを知っているような口振りで、ただ「無事でよかった」と何度も彼に言った。
 無事とは何のことだろうか。
 抵抗も虚しく、彼は黙って彼らの話に耳を傾けた。傾けて、沸々と湧き上がる妙な感情が胸の奥から顔を覗かせていることに気が付いた。
 何せノーチェをそっちのけて展開されている会話は全て、終焉の者≠ノ対する悪意なのだと分かったからだ。
 太陽が差し込む光の下に引き摺られながら、嫌な言葉を淡々と聞き入れてしまう。
 
 ――この屋敷の主人は悪逆非道だ。「噂」にある通り、沢山の不幸を招き入れた呪われた生き物だ。どうせ街に離れているこの屋敷に人でも攫って、痛めつけているに違いない。奴隷を攫ったのはきっと身元がはっきりとしていないから、好きなだけ好きなように甚振るのにうってつけだと思ったのだろう。
 現にほら、沢山の血の匂いと奴隷が出てきたじゃないか。早々に始末するべきだ。あんな化け物は――。

 確証はない。ノーチェに終焉との面識はない。――しかし、ここにいる誰よりも終焉については知っているつもりだ。
 だからこそ彼は不快感を胸に、勢いよく捕まれていた手を振り払った。先程よりも明確な抵抗を示して、驚いて振り返った男の胸ぐらに掴み掛かる。耳元ではないどこかで囁く「こいつらを許すな」という言葉に従って、奴隷になって初めて明確な敵意を露わにした。

「アンタ達にあの人の何が分かるんだよ……」

 どうして行動に表せたのか彼には分からない。ただ胸に募る不快感が、怒りだと分かった途端に衝動的に体が突き動かされたのだ。
 奴隷になって、遣いとして生まれたことを後悔していたが、今となっては感謝しきれない。人一人を持ち上げられる程度の力が少しずつ男の足を地面から離して、宙に浮かせるには十分だ。
 初めは呆気に取られていた他の仲間達は、捕まれている男が一度呻き声を上げると、咄嗟に「何をするんだ!」と声を張り上げる。――酷く耳障りな、怒声によく似ていた。

「俺は怪我もしてないし、甚振られた覚えもない。話を聞かないアンタ達が俺を何度『奴隷』と言っても文句ないけど、あの人を『化け物』って例えるのは可笑しいだろ」

 少なくとも俺は、あの人に奴隷だって言われたことはない。
 ――そこまで言って、ノーチェは胸ぐらを掴んでいた手を離す。久し振りに力を振り絞った所為か、首輪の下が焼けるような痛みを訴えて仕方がないのだ。恐らくこれは、少しでも抵抗しようとしたときに罰を与えるための効果だろう。手を離して男を解放した途端、首元の痛みがなくなったような気がして、彼は額に滲んだ汗を拭った。
 数回の咳き込みのあと、地面に尻を着いていた男は「それは悪かった」と小さく口を溢す。ゆっくりと立ち上がり、土で汚れた服を払い、漸く顔を上げる頃にはノーチェを可哀想なものを見る目で見ていた。

「可哀想に」

 たった一言紡がれた言葉に、周りの人間達が小さく頷く。男の言葉と、それに対する同調が、ノーチェの首に施された首輪に向けられたものではないことは、彼でも分かった。

「化け物と一緒にいた所為で洗脳されてしまったんだな」

 化け物と例えるな、と暗に示したつもりだが、伝わらなかっただろうか。
 相変わらず自分の正義に酔い痴れる男は、彼が終焉の者に意識を洗脳されてしまったのだと片付けるに至った。先程から抵抗の意を示すのも、終焉を庇うのも、全ては洗脳によるものだと。甚振られてはいないが、どこかで頭を支配されてしまったのだと。
 ――それに彼は訂正を入れることはなかったが、口を開くこともなかった。妙な風が頬を撫でて、男達の周りを吹き荒れているからだ。
 あれもきっと、魔法の類いなのだろう。
 ノーチェは唇を噤んだまま、対立するように彼らへと向き合う。先程の善意が一変した。彼が終焉を庇っていると知るや否や、男達の目は敵意に満ち溢れるものになっていたからだ。まるで「自分が正しいと思っていることが否定されたこと」に怒り狂っているように見えて、言葉も通じないと悟ったからだ。
 首輪がある以上、ノーチェに彼らをどうこうする術はない。しかし、終焉が休んでいる屋敷からは多少距離を置くことができた。これならば相手が怒りに身を任せたままノーチェを殺したとしても、その異変に気が付くことができるだろう。

 ――案外ここでの暮らしは悪くなかったな。

 風が舞い落ちた木の葉を鋭利な刃物で切ったように、真っ二つにしたのをノーチェは見逃さなかった。

「仕方ない。モーゼ様には悪いが、奴隷は殺されてしまったことにしてしまおう」

 そう言って男がノーチェに指を差したとき、頬に鋭い痛みが走った。
 ――と、同時に、後ろから引き寄せられるような感覚に襲われて、彼は目を見開いた。
 ノーチェだけではない。――突然やってきた男達も同様に驚いたような表情をしていた。まるで、そこにいる筈のなかったものが目の前に現れたときのような反応だ。
 それにノーチェは、手が震えた。

「――全く。面倒事を起こしてくれるな」

 ――その言葉を最後に、ノーチェは二度目の出血を見てしまったのだった。


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