「幸せ」の代償に


 打ち明けたことは一度もないが、夢をよく見るようになった。特に切っ掛けはないとは思うのだが、強いて言えば、梅雨の出来事が引き金になっただろう。

 以前は何となく、「楽しい」と思うような夢を見ていたような気がする。
 気がする――というのは、目が覚めれば決まって殆どのものを忘れてしまっているからだ。
 本来夢とは基本的に覚えていられるようなものではないと思う。かくいう彼も、覚えていないのだから、その程度のことなのだろう、とすっかり諦めていたものだ。布団を剥ぎ、起き上がって背伸びをする頃には、彼の頭に夢の出来事などまるで存在していなかった。
 楽しい夢ほど記憶に残らないのは酷く残念に思う。
 彼は決まってどんな夢を見たのかを思い出そうとするが、やはり内容まで思い出すことはできなかった。
 夢に出てくる登場人物は決まって二人であることが多い。一人は紛れもない自分。もう一人は顔は見られないものの――上司のような立場の人間だ。
 可笑しなもので、彼の見る夢は基本的に一人称視点――つまり自分の視点から見るもの。それ故に登場人物は自分を含め、もう一人の誰かがいる。基本的には小さな御茶会を開いていたり、他愛ない話をしていたりするのが殆どだ。時折見知らぬ部屋に招かれたと思えば、何か、大切な話をしていたような気がする。
 それすらも思い出せないのだから、夢というものはやはり不思議なものだ。
 彼が思い出せるものは基本的に背筋が凍るほどの、信じられない光景ばかりだった。そのときばかりは誰も、誰も目の前には立っていないのだ。

 ――いや、正確には対面していたのだ。それを裏付ける状況を、彼は断片的に思い出すことができる。

 黒い――黒い液体がまるで血液のように溢れていた。若草が生い茂っていた中で人工的に敷かれたテラコッタタイルの地面が、その黒い液体にじわじわと侵食されていくのが分かる。彼は徐に手のひらを見つめて、ところどころシミのように残る黒い液体を、恐ろしいものを見るような目で見つめていた。
 そのあと覚束無い視線がゆっくりと何かを辿る。ふらふらとよろめくような視線に、半ば嫌気が差していると、黒い衣服が視界の端に映るのだ。
 その全貌を視界に入れたとき、確かに息が止まった。呼吸をすることも忘れて驚きに呑まれたからだ。肩は優に超えているだろう伸びた黒い髪。女のように白い肌。傷だらけの体に、肩から腹まで大きく刻まれた生々しい傷痕――一切の血の気のない顔に、涙が一筋、溢れたような気がした。

 俺はこの人を知っている。

 ――夢だというのにも拘わらず、彼は確かにそう思った。思った筈なのだが、どうにも夢ではそれが何なのかがはっきりと思い出せない。喉元に何かが突っ掛かって胸元に不快感が残るのと同じように、頭の中で小さな糸の絡まりがほどけず、くしゃりと顔を歪める。
 ――すると、唐突に目が覚めるのだ。
 一気に現実へと引き戻された頭はまともに働かず、目覚めて視界に映る天井をただひたすらに見つめる。不意に頬に何かが伝ったと思えば、何故だか涙が溢れ落ちる。奴隷になって、この屋敷に来てやたらと泣く機会が増えたなどと思い拭うのだが――、肝心の夢の全貌が次第に思い出せなくなっていくのだ。
 思い出せるのは断片的な、決まって黒い液体が広がっている光景だ。血の気のない人形のような頬が見えるか見えないか。その程度の光景を思い出しては時間が経つにつれて、ゆっくりと忘れていく。

 ――そんな出来事が数日繰り返されていた。悪夢として区分しても可笑しくないであろう夢に、彼は終焉に相談しようかと何度も思った。
 しかし、忘れていく夢を何とか思い出そうにも、説明ができないほどにまでぼやけていってしまうのだ。しまいには何に悩んでいたのかも忘れて、今日もまた、終焉の手作りの料理を口に運ぶ。
 そんな毎日の繰り返しは特別苦ではなかった。可笑しな夢を見る自覚はあったが、人体に影響はない。せいぜい理由も分からないまま涙をする程度で、体に痛みなどないのだ。

 ――それでもまた夢を見た。今日も鮮明な夢を見た。黒い液体が水溜まりのように広がっている。加えて雨がぽつぽつと手のひらに落ちてきて、黒い地面が水に溶け出していた。

 普段から雨が降っていたか、彼にはもう分からない。――忘れていた筈の夢を思い出してしまったのは、黒い血液が、溢れたからだ。

「……ぐ……ぁ……ッ」

 低い呻き声が喉の奥から絞り出される。綺麗な笑顔から一変、終焉は酷く苦しそうに顔を歪めた。口からは男特有の黒い血液が溢れ、体には一目で分かるほどの奇妙な黒いシミが急速に広がっていく。どっと押し寄せる鉄の香りは血液そのもので、ノーチェは思わず口許に手を当ててしまった。
 幸せだと口を溢した筈の終焉が、強く目を見開く。今までに見たこともない険しい顔だ。汗が頬に伝うだけではなく、涙までもが伝っていく。瞳孔が開いていくようにも見えて、ただ事ではないのは確かだと認識した。
 
 たった一言。たった一度。幸せだと思っただけでこんな仕打ちを受けてしまうものなのか。
 
 彼は微動だにせず終焉の行く末を眺めていた。恐怖や驚きにより身動きが取れなくなっていた、と言っても間違いはない。だが、知りたいと思ったのは彼自身で、万が一それを目撃してしまった場合の自分の可笑しさを、自覚しておきたかったのだ。
 足はすくみ、息は止まる。手が震えて思考がままならなくなる。胸の奥からは煩いほど心臓が鳴り響いていて、血の気が引いていくのが分かった。

 ――間違いはない。ノーチェは、終焉が死に至るのを酷く恐れている。
 他人の死にも特に恐れを抱かなかった筈なのに、どうにも男だけはそうはならなかった。

 終焉のシャツはみるみるうちにどす黒い色へと移り変わる。胸元から広がっていくのを見れば、傷があるのは胸元からだということが明白だ。終焉は震える手で胸元の服を握り締め、小さく言葉を洩らす。まさか、ここまで、と。
 まるで予想もしていなかったような言葉を、ノーチェは聞き逃しはしなかった。胸元の傷は新しく刺された形跡もない。恐らく古い傷が勝手に開きでもしたのだろう。例えばあの、胸元から腹にかけての傷が開けば、異常な出血をする筈だ。仮にそれが開いたとすれば――男はもうすぐ、命を落とすだろう。

「――ぁ……ッ!?」
「っ!」

 ――不意に終焉が驚くように声を上げたと思えば、鈍い音を立てて床へと倒れる。
 突然の出来事に彼は咄嗟に男の傍へと駆け寄ると、奇妙なものを目にした。
 終焉は傷だけではなく何かに対して酷く苦しそうに呻いている。息をすることも叶わず、胸元に当てていた手を首元に添えて、掻きむしるような素振りを見せる――。
 ――と思えば抵抗も無意味だというように、喉に添えた手を床に置いた。ぎり、と赤黒い絨毯を強く握り締める。絶え間なく溢れる血液の香りに、彼は少しずつ気分を害されていって、堪らず「どうしよう」と呟いてしまう。

 どうしよう、こうなってしまっているのは明らかに自分が原因だ。

 それでもノーチェに何かができる筈もなく、男が苦しんでいるのを見つめることしかできなかった。

 ――やがて、抵抗が落ち着いてくると、終焉の赤い瞳がどこかを見つめながら光を失った。
 ほんのり涙が浮かんでいるが、もう話すことはない。試しに顔に手を添えてみたが、少しの呼気も返ってこない。血の気は失せたまま、次第に服を越えて絨毯までもを黒く染め上げていく。何気なく「なあ」と声を掛けてみても、勿論何も返ってこなかった。
 終焉がやたらと気にしていた首元には、妙な痣が強く刻まれていた。まるで誰かに首を絞められていたような、赤い手形だ。的確に息の根を止めようとする何かが、二重にも男を苦しめていたとでもいうのだろうか。
 一分、また一分と時間が過ぎていく。茫然と立ち尽くしたままの彼は終焉だったものを見つめたまま、成す術もなく時間が来るのを待つだけだ。
 曰く、男は永遠の命≠体に宿している。一体どの程度の時間が経過すれば息を吹き返すのかは分からないが、死んだままではないだろう。今まで同じように死んでいたのだとすれば、終焉は一呼吸置いてから姿を現している。その間の時間は十分にも満たないほどだ。
 この仮説が本当に通用するのなら、あと数分で終焉は起き上がる筈――

「……………………」

 ――しかし、五分が経っても男は一向に起きる兆しはなかった。

「…………なあ」

 堪えきれず、ノーチェは再び終焉に声を掛ける。その場に屈み込み、一度迷いながらも動かない体に手を置いた。返事がいつやって来るかも分からずにもう一度、なあ、と言う。
 名前でも呼べればすぐにでも戻ってこられたのだろうか。不思議なことに、未だに終焉≠名前として認めたくないノーチェは、ただ呼び掛けるだけの行為を繰り返す。熱もない冷めきった体を小さく揺さぶって、「まだ起きないの」と語り掛ける。
 そうでもしないと罪悪感に体を押し潰されそうだった。言い表しようのない不安が次々と体を蝕んでいくのだ。
 倒れて息のない終焉の顔を見つめていると、嫌な夢ばかりを思い出してしまうのだ。
 生気のない人形のような顔に、つぅ、と涙が溢れたような気がして、ノーチェの息が止まる。
 ――あまりにも似ているのだ。夢で見る命を落とした人間に。朧気だった夢の景色も不思議と甦ってきて、鉄の香りが鮮明に思い出させる。頭が働かないまま徐に手のひらを見つめれば――ある筈のない色が点々と手のひらについているような気がした。

 ――夢の中で死ぬのはこの人だったんだろうか。

 目の前の視界が微かに歪む。忘れていた呼吸を取り戻すが、浅い呼吸の繰り返しで、脳にまで酸素が回らない。死んだままだったのか、どうなったのか、続きを見ることのないノーチェには分からない。
 その所為か――万が一終焉がこのまま起き上がらなかったら、という思考が脳裏をよぎった。
 窓の向こうの空は憎たらしいほどに晴れ晴れとしている。まるで男の死を喜ぶかのような晴れ具合に、彼は俯いて唇を開く。

「……アンタが死んだら…………」

 ――……嫌だな。
 そう無意識のうちに呟くと同時――、小さな音を聞いた。

 それは、胸元に耳を押し当てたときに聞ける小さな鼓動だ。どくん、と脈を打って一定のリズムを奏でる。心臓が動く音がこんなにも鮮明に聞こえるものなのか、と何気なく思っていると、男の手指がぴくりと動いた。

「……!」

 心臓が鼓動を繰り返す度、少しずつ男の体が動いてくる。初めは指先。次に腕。ずるずると胴体の方へと四肢を寄せて、体を起こそうとするのが見て取れる。特別咳をすることもなければ、痛がる様子も見せない。
 男が長い黒髪を垂らしたままゆっくりと体を起こすと――、脈を打つ音が途切れた。

「――はあ……」

 大きな溜め息と共に終焉が髪を払う。その顔は鬱陶しそうな、それでい蒼白い顔をした、心底嫌そうな顔付きだ。眉間にシワを寄せていて、すぐにでも悪態を吐きそうな様子に、ノーチェは茫然とする。
 あまりの飄々とした態度に、ゆっくりと息を吹き返した終焉に、どう反応するべきかが分からなかったのだ。
 永遠の命≠間近で見た彼は、ぽかんと唇を開いたまま男を見つめる。一際苦しみを与えられていた筈の終焉が、――表情こそは曇っているが――確かに息を吹き返したのだ。死んだ魚と同じように暗かった瞳は凛として、人形のような顔には人間と同じ感情が宿る。
 止まっていた呼吸を数回繰り返し、ほう、と息を吐いたところで、男はノーチェを見やった。

「知りたいことは知れたか?」
「…………」

 何の意図を込めてか、男はノーチェに向かって柔く微笑む。その節々には酷く疲れきったような色が滲み出ていて、彼は漸く開いていた唇を閉ざした。
 手を伸ばしてほんの少し離れてしまった終焉の服をぐっと握り締める。終焉が「汚れてしまうよ」とノーチェの身を案じたが、彼はその言葉を聞き入れようとはしなかった。
 ――こんなことになるなら知らなきゃよかった。
 終焉の服を掴んだまま俯くノーチェの頭を、男は酷く優しく撫でていた。

◇◆◇

 後に平常心を取り戻したノーチェは、手品にも似た終焉の行動をじっと眺めていた。
 男は長い自分のコートを絨毯の汚れにかぶせると、数秒待つ。その後に勢いよく剥がすと、赤黒い渋の上に広がっていた黒いシミが、あっという間に消えてなくなった。
 普段行うとは思えない終焉の行動に、何気なく拍手を鳴らす。すると、終焉はソファーに座るノーチェを見るや否や微かに微笑んで、コートをくるくると丸めた。手品のようなあの行動があくまでノーチェを元気付けるためだけに行われたということを、終焉が洗濯機を回しに行くときに彼は気が付いた。
 いつ何が起こってもいいようにスペアをどこにでも置いているのか。脱衣所にある洗濯機を回して帰ってきた男の服装は、普段と変わらない汚れのないシャツとベストだった。
 「落ち着いたようでよかった」終焉は言葉を紡ぎながら、珍しくノーチェの隣へと腰を下ろす。柔らかな素材をふんだんに使ったソファーが深く沈んだ。椅子もいいがこちらも悪くない、なんて比べるような感想に、ノーチェはほっと胸を撫で下ろす。
 見たところ終焉には傷のひとつも見当たらない。刻まれていた首元の赤い痣も、今では綺麗さっぱりなくなっている。
 あの事に触れてもいいのか。彼が迷っていると、意を察したように終焉がぽつりと呟いた。

「今日は激しい方だった。この古傷が開くとは思わなかったよ」

 淡々としている言葉の端に、妙な感情が含まれているような声色。終焉はどこか愛しげに胸元に手を当てて、服の上から傷をなぞる。その口振りからして、普段は苦しくもなく、傷が開くこともなかったのだと予想ができた。
 激化してしまったのはノーチェが切っ掛けとでも言いたいのだろうか――。

「…………ごめんなさい」

 あまりの罪悪感からか、彼は小さく謝罪の言葉を口にした。
 隣に座る終焉は横目でノーチェの顔を見る。その表情は悲しそうな、寂しそうな――初めて出会った頃のような無表情さがそこにはあった。ぼんやりとしてどこを見つめているのかも分からない。何かを考えているようで、何も考えていないような、はっきりとしない表情だ。
 その表情が嫌で、男は「気にしないでくれ」と言葉を紡ぐ。あくまでこれは自分が招いた結果だと言って、ノーチェの顔にそっと両手で包んだ。
 冷たい、氷のような手のひらが、彼の頬の熱を奪う。

「……もうどこも痛くないの……?」

 試しに問い掛ければ、終焉がまっすぐノーチェを見ながら当たり前だと言った。

「私は断ろうと思えば断れたんだ。わざわざ目の前で死んだのは単なるエゴに過ぎないよ」

 だから気にしないでくれ。そう言うと終焉はノーチェの頬をいじる。捏ねるように、肌触りが良くなった頬を揉んで、僅かに寂しそうに微笑んだ。
 ノーチェが頼み込まなければ死ぬ筈がなかったのに、死んだのはあくまで自分の所為だと男は言う。痛みの激しさも、死ぬまでの苦しみも、全ては自分がそれほどまでに幸せだと思ったからだ、と。
 何故終焉が幸せだと思うことによって死んでしまうのか。彼にはもう聞く勇気もなかった。
 終焉がノーチェの頬をこねて、摘まんでを繰り返すうちに、ノーチェの中で緊張の糸が解れていくのが分かる。温かな手のひら――ではないが、無表情ながらも必死にノーチェの気持ちを解してやろう、という気遣いが伝わるのだ。
 その終焉に応えてか――彼の表情が微かに和らぐ。もう大丈夫だと言いたげにちらりと終焉を見上げれば、意を察したように男は彼の頭を撫で回した後、手を離した。
 頬を撫で回されたお陰だろう。血の巡りが良くなったように頬が暖まる。ほくほくと。何気なく手のひらを添えてみれば熱を感じた。
 終焉は特別死ぬことに関して何も思っていないようだ。他人に打ち明けたのはこれが初めてだな、と言っていたが、その顔に戸惑いの色はない。相も変わらず無表情でありながらも、仄かに優しさを兼ね備えている妙な顔だ。その顔で胸元に手を添えるのだから、酷く気にかけてしまう。

 その傷とノーチェには何かしらの関係があるのではないだろうか――。

「……なあ」
「ん?」

 ほんの少し、小さく言葉を紡いだつもりだが、終焉の耳には届いてしまったようだ。彼がぽつりと言葉を溢した後、終焉がノーチェの顔を覗き見る。先程彼が取り乱したお陰だろうか――普段よりも遥かに優しい顔付きで、「どうした」と終焉は言った。

「アンタは俺のこと、どこまで知ってんの……?」

 屋敷に初めて来た日。終焉はノーチェのことを知っていると言ったのだ。好き嫌いも、一族のことも、二種類の人間がいることも。
 初めこそは気持ち悪いと口走ったが、その情報を可笑しなことに使うわけでなければ、言及するようなこともない。料理を振る舞うことに好みを把握したり、力仕事を任せないようにすることを意図的に避けさせたりする程度のものだ。
 先日見せてしまった失態も、男は何も言うことはない。寧ろ気が利かなくてすまない、とさえ言ってくるのだ。
 そんな終焉に対して、ノーチェは男のことを何ひとつ知らなかった。
 ――当然だろう、初めて会った人間でしかないのだから。
 だからだろうか。少しずつ絆されていく気持ちが、身の内を明かそうとする意思を突き動かすのだ。

「……そうだな……貴方が奴隷になってしまったこと以外は全て把握している」

 言葉を探したのだろう。一息置いた後に呟かれた言葉に、ノーチェは胸の奥が騒ぐようなむず痒さを覚える。無意識に「ああ、まただ」と思うものの、その原因はまるで分からない。
 リーリエやヴェルダリアのときもそうだ。こちらは知らないのに、向こうはこちらを知っているような口振りが、ノーチェの何かを刺激し続けるのだ。
 ――不意にそれをどうにかして、聞き出したい衝動に駆られた。

「……俺……俺、さ……小さい頃は殺せたんだ、色んなもの……」

 意を決して呟いた言葉はあまりにも小さく、ノーチェはゆっくりと俯いてしまう。自分のことを話すのは酷く苦手で、喉の奥でつっかえるような違和感が彼の意思を蝕んだ。
 奴隷になる前の出来事を思い出すのは彼にとって良いものか、悪いのもなのかは分からない。
 それでも話そうと思い至ったのは、代わりに終焉から話を聞き出そうという思いによるものだろう。
 男は「無理なんてしなくてもいいよ」と柔らかく彼に問い掛けたが、制止を振り切ってノーチェは話を続けた。

 殺せて当然の環境下にいた。父も母も、生粋の殺人鬼だったからだ。ニュクスの遣い≠フ中で父は物理に特化していて、母は魔法に特化している。その両親から産まれたノーチェは、父と同じように物理に特化していた。
 だからといって魔法が扱えないわけではないし、物理にものを言わせるわけでもない。短刀や刃のついたものなら何だって扱えるようにした。父が持ち合わせていた武器を、彼が継ぐことになっていたからだ。
 小さな頃から扱いに長けていたこともあり、彼はすぐに人間を殺めることができた。
 狙うべき相手は基本的に奴隷商人――ルフランでは一口で商人≠ニ括られている人間達だ。
 ニュクスの遣い≠フ一族は、持ち合わせている力が使いようによっては悪用できるからこそ、奴隷一族として一部の人間に知られている。物理に特化していれば体に見合わない重労働を。魔法に特化していれば魔力の貯蓄へ回されるのだ。
 その事実を知っているのが主に奴隷商人達であって、同じ轍を踏まないよう、事情を知る人間達を皆殺しにするのが彼の目的だった。
 それがノーチェの使命だから、――ヴランシュ家の使命だから。
 人間を殺めることに罪悪感は不思議となかった。相手が憎むべき人種だからか、殺人鬼の間に産まれたからなのかは分からない。――だが、難なく殺せてしまったという事実は、ノーチェの中に傲りを生んだ。
 呆気ない最期だった。生きているだけあって、傷をつければすぐにでも息絶えてしまう。奴隷商人達が持つ不思議な首輪にさえ気を付けていればなんてことはない。このままいけば捕まることもなく、親の跡も十分に継げるだろう。
 ――何より、戦うことはとても楽しかった。
 だからこそノーチェは刃を持つことを選んだ。奴隷商人を殺す間に自分より強い者に会えれば、無理にでも手合わせをしてもらうつもりだった。母の遊び癖が彼にも受け継がれたように、思春期の頃から女で欲を発散させながら、その日を待つつもりだった。
 そんな日常が、ある日音を立てて崩れていったのだ。

「殺せなく、なったんだ……急に。刃物を持って、対峙したときだった……」

 あのときの感覚を、ノーチェはいつまでも忘れることはなかった。
 言葉を切って終焉の動向を探ったが、男は彼に催促することもない。ただ黙ってノーチェの話に耳を立て、彼を見つめている。
 言及はしない。催促もない。話を聞いているかもどうか分からないほどの無表情なのだが、今日の彼にとってそれは不思議と心地が良かった。何があってもこの人は自分を受け止めるだろうな、という感覚が、胸に募る。
 直後の感覚を彼は思い出したくもなかったが、記憶の海から網を引くように、引きずり出す。

「――三年前、いつものように奴隷商人と対峙した……そのとき、急に見慣れない景色が映り込むようになった」
「景色?」

 ひとつひとつ丁寧に、捕まる直前の出来事を語る。すると、唐突に終焉が不思議そうな声色でノーチェに訊ねてきた。彼はそれを景色として言うべきか、それとも後に見る夢として話すべきか迷う。
 ――しかし、どちらも同じことだと思って、男の問いに答えてやった。

「死んでるんだ、人が。それだけなら俺だってこうなってないんだけど……その光景を見たとき、初めて足が竦んだ……怖かったんだ」

 時々それを夢にも見る。
 ゆっくり、思い出を語る口調で呟くが、胸の奥でざわめく感覚が時間を追う毎に量を増していくのが分かる。
 足が竦み武器を手放した彼は、気が付けば奴隷商人が保有する特殊な魔法が施された首輪をつけられてしまった。その首輪は遣いの意欲を奪うようなもので、抵抗しようにもそんな気持ちが芽生えなくなってくるのだ。
 それでも恐ろしく思えていたのは、一時的に見えてしまった見慣れない景色の方だった。
 タイルの上に転がる黒い姿。雨に晒されて広がる黒い血溜まりのような液体。自分の記憶にはない筈なのに、まるで体が「憶えている」と言わんばかりに動くことを拒んでしまう。
 それを自分が殺してしまったのだ、と思うことこそが――何よりも恐ろしかった。

 終焉はそれを僅かに訝しげな様子で聞いていた。ちらと目配せをするノーチェの瞳は、その小さな変化を逃さない。ぴくりと眉が動き、ほんの少し視線がノーチェの顔から足元へと落ちる。確証的なものであるとは思えないが、彼は終焉が何かを知っているのだと思えた。
 男は何かを知っている。彼の知らない何かを。それを知ることができれば、奇妙な違和感を拭えるような気がして、ノーチェは終焉の服に手を伸ばした。

「何……」

 驚いたように男が声を洩らす。しかし、彼はそれを振り切って言葉を紡いだ。

「アンタが死んだのを見たときに、忘れてたその夢を思い出したんだ。黒い血も、黒い髪も……それを見たときの怖さも全部、同じだ」

 なあ、アンタ。俺と前会ったことあるのか。
 ――そう言葉を紡いだとき、ノーチェの頭が強く痛み始めた。こめかみから来るような、偏頭痛にも似た嫌な痛みだ。目元まで痛んだような気がして、堪らず彼は目を伏せる。彼の異変に気が付いた終焉は「どうした」と手を伸ばしたが、その手を掴み、ノーチェは再び男を見た。
 驚くように見開いた目の奥に、戸惑うような色が見え隠れしている。普段からノーチェが抵抗もしない大人しい人間だからだろうか。ぐっと様子を窺うような瞳に、終焉が僅かに引いた。

「アンタ、俺の好み知ってんだろ……」

 迫るノーチェに対し、終焉が少しずつ慌てるような顔色を見せる。
 彼の好みは彼の友人か家族くらいしか認識がない。それなのに会うのが初めてだった終焉が、熟知しているのは可笑しな話だ。

「特定の人間しか知らない、一族のことだってそうだ……」
「ノーチェ」

 一族のことを知っているのは同族と、基本的に奴隷商人――彼が打ち明けても平気だと思った人間のみだ。それに対し、終焉は「ノーチェが奴隷に至るようになったこと以外は知っている」と告げている。
 つまり目の前の男は何らかの理由により、ニュクスの遣い≠ェ奴隷一族であるということを知っているのだ。
 一族間で自分とは異なった真逆の色である黒い髪の持ち主について、特別これといった話は聞いたことがない。恐らく男は「一族の誰か」と面識があるのではなく、ノーチェ本人のことだけを十分に知っているのだろう。
 裏付ける要因はないが、もしかすると本当にノーチェと終焉は、どこかで会ったのかもしれない――。

 そんな思いからノーチェは迫る言葉を一層強くした。答えてくれ、と迫る度に少しずつ、少しずつ頭の痛みが増していく。初めは針を刺すようなものが一変して、頭を殴られているような痛みに変貌した。思わず表情が曇ってしまうのを、終焉は酷く心配しているのだろう。
 それでも彼は終焉に迫るのを止められなかった。知りたいという好奇心と、胸の突っ掛かりをどうにかしたかったのだ。

「ノーチェ、落ち着いてくれ」

 なんて宥めようとする終焉の言葉にも耳を貸さず、ノーチェは「俺とアンタは何か関係あったのか」と問う。

「一族の奴は、基本的に、信頼する奴以外には言わない筈だ。それなのに、アンタがうちの事を知ってんのは、何か、何かある筈で」
「……頼むから落ち着いてくれ……」

 言葉を紡げば紡ぐほど、酷い頭痛が彼を蝕む。徐々に吐き気を催してきて、頭が割れてしまうのではないかという錯覚にすら陥る。頭が痛い、割れそうだ――なんて言葉を飲み下し、彼は痛みによって潤み始めた視界で終焉をひたすら見上げた。
 困ったような、悲しそうな。心配そうな――色々な色が潤む視界に映り込む。そんな表情をする理由もきっとこの違和感に関係しているのだろう、と思って彼は頭の中で鐘でも打ち鳴らされているような頭痛を抑え込む。
 寝込みたくなる衝動を抑え込み、ノーチェはもう一度終焉に言った。何らかの関係があったのじゃないかと。

「たとえば、例えば、俺とアンタは、何か……何か、親密な関係で――」
「――煩い黙れ!」

 ――そう言葉を紡いだ瞬間、ノーチェの視界が塞がれた。
 終焉の手のひらが目元を覆い隠すように当てられたのだと気が付くと同時、あれほど痛みを訴えていた筈の頭が鎮まる。目の奥の痛みも、喉元に来る吐き気も、波が引くように無くなったのだ。
 冷たい手のひらに鷲掴まれるような感覚。開いた指先から見える終焉の金の瞳が、強く見開かれる。怒りを灯したように見える輝きに、彼の背筋に悪寒が走る。

「そんなもの、忘れてしまえ……!」

 獣が大きく口を開き、驚くノーチェの頭を一口で食らったような錯覚が、彼の意識を奪い去った。


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