初めての言動


「そうそう。切るように混ぜて」
「ん」

 ずしりと重みのある生地を、ゴムベラが切るように差し込まれる。そのまま下から持ち上げて、上に掻き回す動作を、ノーチェは数回繰り返していた。終焉の適切な指導の下、怪我をすることもなく彼が手掛ける生地は仄甘い香りを漂わせている。

 特別な理由を持ち合わせているわけではないが、ノーチェは終焉の菓子作りを手伝うことにした。試しに一緒にやりたい、と言えば、終焉は驚いたように――とはいえ、些細な変化ではあるが――瞬きを数回繰り返す。その後にどこか嬉しそうな声色で、「一緒にやるか?」と問われるものだから、ノーチェは小さく頷いた。
 ノーチェが手掛けるなら、という理由で今日のおやつは簡単なものを作るという。無塩バターと卵、市販で売っているものを混ぜ合わせて、生地を練り上げるのだ。重みがあるが、粘り気があるわけではない。
 さっくりと混ぜ合わせたそれを、数十分から小一時間寝かせるまでに至った。彼は終焉に何を作るのかと問い掛ければ、純粋にドーナツが食べたくなった、と男は言う。楕円形の、中心に円のある揚げた菓子パンのようなものを、終焉は懐かしむように思い返していた。
 チョコレートをかけようか。それとも粉砂糖いっぱい振り掛けて食べようか。
 テーブルに肘を突いて子供のように胸を躍らせる男に、彼はどこか罪悪感を抱いてしまう。何せ今日作っているのは手慣れた終焉ではなく、殆ど料理をすることのないノーチェが手掛けるのだ。至らない点は勿論のこと、出来上がるものは終焉と比べたら天と地ほどの差があるだろう。
 甘いものが好きな終焉には悪いが、ノーチェは終焉が満足できるようなものを作れる気がしなかった。
 寝かせていたそれを綿棒で平たく伸ばし、楕円の型を取ってから中心にも円を空ける。それを数個作り、余った生地は一口サイズに丸める。基となる生地はこれで完成だと言いながら、男は油が入った深い鍋を温めていた。
 パチパチと音を立て、油が芳ばしい香りを漂わせながら熱せられる。その光景を彼はぼんやりと眺めていて、泡が増えてきたところで何気なく菜箸を入れてみれば、箸の回りに泡が沸く。
 「入れていいよ」と終焉は言った。彼は小さく頷いて、形を崩さないように整えた生地を滑らせるように油の中へと投入する。生地はじゅわじゅわと音を立てて泡へと呑まれた。
 普段見掛けない光景に、ノーチェは驚いて目を丸くしていると、終焉に声を掛けられる。それにハッとして次々に入れていけば、音の大きさが数を増した。
 当たり前の光景であるが、普段から料理など慣れていないノーチェにとっては新鮮そのもの。驚いて再び目を丸くして、動きを止めていると、男が見本を見せるように菜箸を手に取る。楕円の生地に作った中心の円に箸を入れてくるくると回す様は、随分と手慣れている。
 ああ、この人は本当に凄いのだ、と慣れていない彼はぼんやりと思った。

「やってごらん」

 結構面白いよ。
 そう言って男はノーチェに菜箸を手渡す。受け取った彼は先程終焉がやっていたことを見よう見まねで再現した。
 特別難しいものではない。油が跳ねる中で形を崩さないようくるくると回すのは。時折手に跳ねる油に驚きさえするものの、一時的な熱さが手に伝うだけで、酷い火傷には至らなかった。
 難しいことではない――のだが、何故だか妙に型崩れしていく様は、面白おかしく思えた。

「……何で?」
「そういうものだ」

 カラリときつね色に揚がったそれは、生地というよりは既にドーナツと言っても過言ではない。芳ばしく、そして仄かに甘さのある香りにノーチェはつい生唾を飲み込むと、そのまま終焉が用意したトレーへと移す。キッチンペーパーが余分な油を吸い取ってじわりじわりと色を変えた。
 次々と揚がっていくドーナツを横目に、ノーチェはちらりと終焉を見やる。終焉は仄かに口許で弧を描きながら出来上がるそれを、待ちわびた子供のように見つめていた。「悪くない」と言って、じっと見つめるものだから、妙な気恥ずかしさすらも覚えてしまう。
 外は天気も良く、緑から黄色へ移り変わってきた木の葉が風に吹かれ、儚げに散っていた。外で過ごすことも視野に入れたが、こうして終焉とキッチンに立っているのも悪くない、と彼は何気なく思う。

「小さいのも揚げてしまおうか」
「ん」

 終焉の言葉に軽い二回目の生返事をして、ただ丸めただけの生地も油の中へと滑り込ませた。
 その間に終焉はノーチェが出した菓子作りの残骸を丁寧に片していく。「……後でやるのに」なんて唇を尖らせながら呟くと、終焉は「気にしなくていいよ」と言ってスポンジを泡立てた。
 曰く、楽しみすぎて何かをしていないとそわそわしてしまうのだという。

 普段作る側の終焉からすれば、今日のノーチェの行動は男にとっての褒美だ。与えている終焉が今度は与えられる側に立っているのだから、新鮮そのもので、楽しみでしかない。片付けを進める手も気が付けば躍るように軽やかで、華やかな気持ちは甘いものを口にしているときのようだった。

 今日はいい日だな――と、男は殆ど無表情のまま小さく口を溢した。
 ノーチェはそれを横目に、菜箸で余り物の生地をくるくると回す。ほんのり黄色を帯びていた生地はどんどんきつね色に仕上がり、軽く続けば硬い感覚が箸から伝わる。
 この程度で今日の気分が変わるのか、とノーチェは何気なく思った。――同時にどの程度の感情の起伏なら死んでしまうのだろう、とも興味を持った。
 カラリと揚がった丸いドーナツを菜箸で摘まみ上げ、トレーへと移す。火を止めて、熱くなった鍋はそのままでいいと言った終焉の言うことを聞いた。仕上げには男が用意した粉砂糖を満遍なく、気が済むまでふるいに掛ければ――、やたらと美味しそうに思える菓子が仕上がった。
 案外やればできるんだな、と彼は自分の手のひらを見つめる。何もできない自分だと思っていたが、教われれば人並みのことは十分にできるようだ。

「さ、向こうに持っていこう。今日はアッサムにしようか」

 あまり違いは分からないんだがな、なんて言って終焉は手際よく飲み物の用意を始めた。湯を沸かしながら二人分の茶葉を、分量も量らずに手元の重さだけで判断している。沸騰したお湯も分量も完璧な茶葉も、色味を保ったままポットに移されて、円上のトレーへと載せられた。
 慣れているだけでここまで手際のよさが違うのかと、彼は痛感させられる。出来上がったドーナツを皿に盛り付けて、男からその皿を受け取ると、自分はまだまだ何もできないのだと気付かされるようだった。
 だが――

「ノーチェ、ほら」
「…………」
「早く食べよう」

 ――やたら上機嫌な終焉を見ると、咎めるような気持ちにはならないのだ。

「何か……子供みたいだな……」

 小さく、誰にも聞かれないように呟いた筈の言葉を、終焉は「仕方ない」と返す。扉を開けて、リビングを後にして客間に辿り着けば、煌々と輝く庭が視界に映る。粉砂糖を使っている分、外に出られないことを終焉は気にしているが、ノーチェにとってはどちらでもよかった。
 二人は相変わらず指定されたようにいつもの席へと腰を下ろす。終焉は椅子へ、ノーチェはソファーへ寄り掛かり、ふぅ、と息を吐いた。
 かじった程度ではあるが、料理をするのはこんなにも疲れるのかと、脱力したような覚えはある。――だが、視界の端に映った終焉の行動と、「頂きます」の言葉に、疲労感も忘れて彼は体を起こした。

 男が始めに手を付けたのは、丸い小さなドーナツだった。白く長い指が小柄なそれを摘まんで、軽く開かれた唇にゆっくりと運ばれる。出来立てのドーナツはほんのりと甘く、サクサクとした軽い食感が、終焉の口の中に広がった。
 男の求める甘さはそこにはないが、ほんのり香る芳ばしい香りと、仄かな甘さに舌鼓を打つ。中も上手く仕上がっていて、柔らかな食感が後から来た。
 生地が生地だからか、口の中の水分は随分と持っていかれるが、男はよく噛んだ上で喉の奥へと流し込む。
 その様子を、ノーチェはただ黙って見つめていた。

「――うん、美味い」

 ぽとり。――そんな擬音が似合うほど、彼の瞳には咲き誇る花が終焉から溢れているように見えた。
 男は上機嫌になると表情に出さない代わりに、雰囲気には十分過ぎるほど露わにすることがある。肌に感じるその柔らかさは、まるで春に包まれているような気持ちにもなるものだから、彼はそれを花と例えることにした。
 そんな空気が終焉から溢れるのを見て、ノーチェはほっと一息吐く。自分が手掛けたものだからだろうか。妙な緊張感を抱いていた体は、漸く緊張から解き放たれたように脱力した。

 ――これが、この人がやたら訊いてくる理由か。

 彼は自分の身を以て終焉の言動を漸く理解する。
 美味いと言われたノーチェは、胸の奥深くが温かくなるような感覚に陥った。穏やかで、心地好く、胸が躍るという表現が似合いそうなほど。恐らく終焉は、ノーチェに「美味い」と言われる度に同じような感覚を味わい続けてきたのだろう。
 美味いと言われて胸の奥がむず痒くなるような気恥ずかしさを覚え、誤魔化すようにノーチェは咄嗟にドーナツにかじりついた。外はクッキーのようにさっくりと、中はケーキのようにしっとりとしている。初めてにしては上出来のように思えて純粋に味わっていたが、どうにも先程の言葉が脳内を支配しては気持ちが浮わついてしまう。
 嬉しくない、わけではない。ただ褒められることに慣れていないのか、そわそわとひとつの場所に留まれない気持ちが、何度も歩き回っているようだった。

 どうしようもないほど対処法が思い付かず、彼はつい噎せてしまう。粉砂糖が気管に入ったのか、小さく咳き込んでは懸命に止めようとして失敗する。
 そんな様子を見かねた終焉は、紅茶を入れてティーカップを彼に差し出した。何の味付けも施していないストレートティーを、彼は咄嗟に飲み下して、息を大きく吸った。

「何か変なことでもあったか?」
「…………別に」

 微かにノーチェを揶揄うように、終焉は軽く口許だけで笑う。その合間にも男はドーナツを食べ進めていて、満足げに笑みを溢す。終焉が作ったものほどの美味さはないような気がするが、男は終始嬉しそうに食べているのだから、不思議でならない。
 終焉にとってノーチェから与えられるものは全て嬉しいものであることを、彼は知らずにその光景を眺め続ける。
 もう一度――もう一度だけあの言葉を聞きたくて、彼は「美味い?」と小さく問い掛けた。

「美味い」

 間髪入れずに答える終焉に、ノーチェは胸を撫で下ろし、紅茶のおかわりをねだった。

◇◆◇

 ――少しずつではあるが、興味が湧いているのは確かだ。ノーチェが何気なく終焉の行動を真似たのは、相手を知ろうという意識が働いているからである。自分にとってあの人は無害――と断言するわけではないが、下手に傷付けてくるような行動は取らないという、自信はあった。
 だからこそ彼は知るべきなのだ。男の「死」を。ひとつの家に暮らしている以上、どういった条件で、どの程度のことで死んでしまうのか――知っておかなければならない気がした。

「……死ぬところが見たいと?」

 終焉が意外そうに呟いたあと、多少の語弊があることに彼は気が付く。

 ドーナツを平らげたあと、一息吐いた頃にノーチェは男へ呟いた。「アンタのことがもう少し知りたいんだけど、」と。それに終焉は瞬きをして、ほんの少しだけ照れ臭そうに視線を逸らす。知りたいこと、とそれとなく言葉を繰り返し、ノーチェの反応を窺った。
 彼にとって終焉は他とは全く毛色の違う可笑しな人間だ。奴隷である自分の世話を焼いて、周りの手からは奪われないように身を挺して守る。
 自分のどこにそんな価値があるのかは、彼自身は理解していないのだが、いくつかの月を跨いできたのだ。そろそろ少しくらい踏み込んで、信用するくらいはしても問題はないだろう。
 そういった思考から、彼は手始めに終焉が自ら呈示した「死ぬ条件」について踏み込むことにした。
 一体どの程度の感情で、どのような方法で死に至るのか。それを知っていれば不意に起こる事態にも、距離感もそれなりの対応ができるだろう。
 だからこそノーチェは、「アンタは、どんなときに、どう死ぬの」と訊いた。例えば嬉しいときなのか、悲しいときなのか。怒り――は違うだろうが、どのような感情が働いたときに、男は一度、命を落としてしまうのかが気になった。
 そのためにはまず、それを目撃しなければならない。
 「どういうことになるのか、見せてほしい……」そう呟いて、終焉から紡がれた言葉にノーチェは頬を掻いた。

「死ぬところが見たいって言うか……その……」

 見たくはないけれど、知っておきたい。
 そんな単純な言葉が喉の奥から出てこなくて、彼は開きかけていた唇をぐっと噛み締めた。

 時刻は昼をとうに過ぎている。日は高く昇り、風は庭の垣根を撫で続けている。時折風に舞う木の葉が地面へ落ちていくのを見て、秋を感じざるを得ない光景を見かけた。
 一年も気が付けばあっという間に終わるのだろう。春から秋までの時間の流れが今までよりも早く感じられた。焦燥感を煽られたわけではないが、ここまで世話を焼かれておいて恩返しのひとつもしないなんて、彼の中の「大人」が礼儀を振りかざして怒るのだ。
 贈り物をしようにも、万が一男が死んでしまえばノーチェ自身は罪悪感に駆られるだろう。たとえ生き返るなんてことがあっても、目の前でそれを見れば記憶の奥深くに刻まれるに違いないのだ。

 ――だからと言って、目の前の男相手に死んでくれと言うのは違うだろう。

 どうすればいいのか。素直に知りたいと言えば、終焉は応えてくれるだろうが、彼は男に死んでほしいわけではないのだ。
 裾を握り締め、ノーチェはソファーに座ったままじっと終焉の足元を見つめる。本人は無意識だろうが、僅かに眉間にシワが寄った表情は確かに奴隷ではなく、たった一人の人間の表情で。漸く可愛げのある顔が十分に見られるようになった、などと男は考える。
 愛しい存在の頼みを、終焉が無下にすることなど有り得ないのだ。

「――いいよ」
「……!」

 ふ、と呟かれた言葉にノーチェは勢いよく顔を上げる。顔を上げて見上げた先にあるのは、男とは思えないほど綺麗に整った顔。相変わらずの小綺麗さに、生まれてくる性別を疑いたくもなるが、恐ろしいほどに似合う風貌に、彼は言葉を失う。
 耳を疑いたくなるのも無理はない。彼は暗に終焉に死ねと言っているのだ。今まで世話を焼いてきた相手に対して言う言葉としては不適切で、且つ失礼にあたるもの。それを了承するなど気が知れない。
 ノーチェは咄嗟に「でも、」と言葉を洩らす。自分で知りたいと思ったものの、死んでほしくはないという気持ちは確かにあるのだ。
 どういった経緯で死んでしまうのかは定かではないが、苦しくも、痛くもない筈がない。少なくともノーチェが知る「死」とは、その経緯を挟んでのものだ。ひと思いに楽に死ねるなど、そう簡単な話ではない筈だ。
 それを了承すると言うことは、楽に死ぬ方法なのか――それともまた別のものなのだろうか。

「死ぬところが見たい、ということは……自害する方じゃないのか……」
「じ、がい……」

 自分で死ぬことも躊躇わないのか。
 うぅん、と小さく唸る終焉に対し、ノーチェは遂に訝しげな表情を浮かべる。
 悩む素振りを取る辺り、恐らく終焉は幾つかの死ぬパターンを持っているのだろう。実際にこの目で見たわけではないが、ノーチェ以外に殺されることと、感情の起伏によって死んでしまうこと。その他に自らの手で命を絶つことが代表的な方法がある。

 男の口振りでは他者に殺されることと、自らの手で死ぬことの方が楽だという。理由は至って単純――致命傷を与えてくれるから、である。

 外部の人間は無駄に手を煩わせないよう、頭や胸を中心に。自分で命を絶つときは首元の動脈を包丁で切ることが最もだ、と言った。
 その分の出血は多く、後片付けに手間が掛かると言うのだが、すぐに意識を手放せるから無駄な思考に時間は取られないのだ。目の前が暗くなる感覚も、血の気が引いていく寒さも、すぐに気にならなくなるという。
 ――そこまで聞いて、彼は終焉の思考を疑った。
 男は特別嬉しそうに語っているわけではないが、口許が妙に軽やかな印象が窺える。酷く饒舌で、死へ至るまでの感覚など詳細に語ってこようとするのだ。一体どの程度の時間が経てば綺麗さっぱり意識が飛んでしまうのか、後片付けにどの程度の手間が掛かるのか、ノーチェが知りたいとは思わない情報ばかりだ。
 使っている包丁はキッチンにあるものだが、料理には使用していないから安心してくれ、などどう反応を返せば分からずにいる。小さく、小さく頷いて「そう……」とだけ呟くと、男はふ、と小さく微笑んだ。

「どうせ知りたいのはまた別の方なんだろう?」

 顔を蒼くしたノーチェに終焉は見透かしたように目を細める。外部からの刺激ではなく、自分の感情によって死ぬことが、彼の一番の知りたいことだ。それを知りながら語った終焉は、「少しからかっただけだ」とだけ呟いて、ゆっくりと席を立つ。
 黒く長い髪を靡かせながら、障害物のない場所へと男は躍り出た。汚れても後で綺麗にすればいいか、と呟く様子からして、血を出すことは前提のよう。絨毯のある部屋からろくに移動しないのは、今すぐにでもノーチェに応える為だろう。
 終焉が立ち上がったのに倣い、ノーチェも徐に席を立った。折角自分の要望を聞いてくれるのだ。座り続けるのも悪いと思ったのだろう。
 とはいえ、暗に死んでくれと言っていること自体が良いとは思っていないのだが――。

 ――終焉は冷静さが窺えるほど静かな無表情を湛えていて、大事にはならないように思えてしまった。

「……感情への反応は基本的に決まっていてな。哀しみや怒りにはあまり反応しないんだ」

 ぽつりぽつりと話し始める男の横顔が、ほんの少し不機嫌そうに見えたのは気のせいだろうか。
 終焉曰く死ぬ為の条件である感情は、基本的には負の意味合いを持つものには大して反応を示さないという。どれだけ哀しみを背負おうが、怒りを胸の内に溜め込もうが、死ぬには値しない感情だそうだ。
 反面、喜びや楽しさなど、前向きなものに最も大きな反応を示すのだと男は言う。正の感情を持つことを許さないと言うように、少しでもそれを覗かせてしまえば、罰が下されるのだと。
 それはまるで――。

「……アンタ、楽しく生きんの、禁止でもされてんの?」

 ふと口を突いて出た言葉に、終焉は答えることはなかった。代わりに僅かに寂しそうに微笑んで、「これでも何度も死んでいるんだよ」と身の内を明かす。
 初めは真夜中。あのときはつい花瓶を割ってしまったな。――そう懐かしむように呟いた。そのあとも不定期に死を体感しては、何度も素知らぬ顔をしてノーチェの前に現れているのだと。
 告げられる言葉の中に、彼は記憶にあるものを思い出しては胸元に手を当てる。割れた花瓶の残骸は、終焉が死んだ後の形跡なのだと思えば、疑問ばかりが頭をぐるぐると巡った。
 ノーチェの存在が死に至る引き金にでもなっていると言われているような気がして、胸の奥に蟠りが募る。苦く、苦しく、重い鉛のようなものが。胃へ、肺へ、足へまとわりついているようで、酷く不快だった。

 もし。もしも自分がその引き金だとするのならば、男にとってノーチェは、疫病神そのものではないだろうか。

 ――吐き気にも似た不快感を吐き出したくなったが、彼はそれをぐっと呑み込んで終焉に目を合わせた。
 知りたいと言っているのは他でもない自分自身だ。もしも原因が自分にあるとするのなら、後で精一杯の謝罪を見せればいい。出ていけと言うのなら、大人しくこの屋敷から去れば終焉も満足するだろう。
 ――最も、追い出されるわけがないと、過ごした時間の中で彼は結論を見出だしている。ならば、迷惑を掛けないように精一杯努めるだけだ。

 そう、不安になりながらも真っ直ぐな目を向ける彼に対して、終焉は初めて大きく感情を見せた。

 綺麗な顔だった。無表情で飾られた端整な顔が、初めて大きく綻んだ。口許が弧を描き、目元は嬉しそうに細められている。顔に赤みでもあれば少女のような可愛らしさと、子供のようなあどけなさが際立つのではないかと思うほどだ。
 黒い髪が一層終焉の顔を引き立てていて、一瞬でも清楚な女に錯覚してしまう。咄嗟に瞬きをして目を擦るノーチェは、胸元に添えた手を強く握っていた。
 初めて見るといっても過言ではないほどの表情に、彼は強い鼓動を感じる。心臓が大きく脈を打って、微かに汗が滲んでいるのが分かった。本を読んでいるときに見かけた恋愛感情への比喩が随分と酷似しているような気がして、その一文を不意に思い出す――。

 どきりと心臓が跳ねた。相手を見る視界がキラキラと輝いて、相手を見る目が確かに変わったような気がする。髪の毛や睫毛のひとつひとつも、顔や唇の形も、恐ろしく綺麗に思えた。目元の視線などが自分を鼓舞する要因のひとつとなって、堪らず胸元で手を握り締めてしまう。
 みっともない――そんな感情を置き去りにして、汗が滲んだ手のひらをひた隠すように服すらも強く握り締めていた。
 感動にも似ているこの状況を、どう認識するべきだったのだろうか。目の前がチカチカと瞬いているような気がしている。そのことに気が付いたとき、漸く呼吸を忘れていることに気が付いた。
 それでも息を吸うことはなかった。興奮の中に紛れる期待に、釘付けになる視線に、頭が働かなかったのだ。

 ――そんな状況に最も似ていると自覚しているのに、彼の胸に沸々と沸き上がるのは、強い不安だった。

 女のように綺麗な笑みを浮かべたまま、終焉はそうっと唇を開く。

「私が死ぬ原因となる最もな感情は『幸せだ』と認識したとき。ノーチェ、私は今――」

 ――とても、幸せだ。

 そう紡がれた矢先、錆びた鉄の香りが部屋一杯に広がった。


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