刻まれた傷痕


 外でしつこいほどに降り頻る雨音を耳にしながら、ノーチェは白い食器をスプーンで軽く鳴らしてしまう。カチン、と静まり返った部屋の中ではその小さな音でさえも大きく聞こえてしまって、反射的に彼は肩を震わせた。既に出来上がっていて温めただけの食事が緩く湯気を立ち上らせている。
 ノーチェは何気なく恐る恐る目の前のそれを見やった。
 夜を溶かしたように黒に染まる髪。こちらを見ている様子はないが、どこか遠いものを見ているかのような赤と金の瞳の色。そして俯きがちの顔――いつになく不安そうに見える表情を、彼は食事の合間に見ていた。

 ――というのも食事をする手が一向に進まないからだ。

 元から食事などする気持ちにもなれなかったノーチェではあるが、どうにも無意識に動く筈の手がこれっぽっちも動いてはくれない。普段であれば頭の片隅で「もう食べたくない」などと思っていても、手が止まることを知らないのだが――今回ばかりはそうならないのだ。
 理由は明白だ。――ノーチェは手元の出来合いの料理を見て、唇を一文字に結んだまま金のスプーンを握る手に力を込める。今まで終焉の非の打ち所がない手料理を口にしていた所為だろう――何の特徴もない質素な味に彼はスプーンを手放した。
 美味くない、ただそれだけの理由だ。奴隷がまともな食事を口にできることだけでも贅沢だと思える筈なのに、その考えをなくしてしまうような変化に体がついていかなかった。
 終焉の手料理は完璧を再現していながらも時折――ごく稀に――何かの味が特筆することがある。その中に隠し味があるのかを疑いたくなるほど、深い味わいが舌の上を転がるのだが――出来合いとなるとそうはならないのが普通であるのだろう。
 特筆すべき味も、癖になりそうな深さも特に見当たらない。そう彼が軽くスプーンを手放してしまうと、僅かな音でさえも聞いたのか――終焉が「美味くないだろう」と不意に呟く。思考を読まれたのかと思いノーチェは小さく肩を竦めると、終焉が小さく顔を上げて「……私もあまり好きではない」と言った。

「残してもいいぞ。無理をしてもらっても困るからな」

 終焉はノーチェに微かに笑って言ったが、目元が不安の色に塗れているのを見れば無理をしているのは男の方だろう。ノーチェがじっと男の瞳を見つめていると、終焉はバツが悪そうに静かに目を逸らした。
 雷が怖いのだと知った彼は、挙動不審の終焉を放置しておくのは駄目だと思い、傍に居ることを選んだ。――とは言えやることなど与えられてもいなければ、普段と変わらない生活を送っているだけなのだが――、多少の気休めにはなっているのだろう。
 屋根の上の空から唸るような雷が鳴る度に終焉が眉を顰めるのを見逃しはしないのだが――気休め程度にはなれている筈だ、と彼は思いたかった。

 終焉の言葉に甘えるようにノーチェは金のスプーンをゆっくりと置いた。今度こそ音が鳴らないように細心の注意を払って、だ。「……確かにアンタが作るもんの方が美味い……」何気なくそう呟けば、視界の端で終焉の瞳が揺らぎ、「そうか……?」と問う。
 何を理由に終焉が料理に自信がないのか知らないが、ノーチェは一度だけ頷いてみれば、男は嬉しそうに「そうか」と言った。先程とは明らかに声色が異なっていた気がするのは、気のせいではないだろう。

 一見質素に見える料理でさえ、一口含めば凝縮された味わいが口いっぱいに広がってくる。野菜や肉の旨味の他に、だしや調味料が仄かに香るのが特徴的だ。一口で留める筈が気が付けば二口も、その次も食べてしまうのだから、無意識とは恐ろしいものだ。恐らくそれが「やみつき」というものなのだろう。
 その手料理を存分に味わってしまっているノーチェにとって、出来合いの料理は酷く淡白で、味の変化も訪れないと思えるほど単調だ。舌触りもどこか物足りないと思ってしまうのは、終焉の手料理に慣れてしまっているからだろう。
 ――奴隷のくせに贅沢で、奴隷のくせに良い暮らしを送ってしまっている。
 この事実がノーチェ自身に何かの変化をもたらしてくれるのか、彼には断言できないが、舌が肥えてしまっていることは十分に理解できた。

 万が一、奴隷から解放されたとき、本当に美味いと思えるものにまた会えるんだろうか。

 ――なんて思いながら視線を料理に落としながら、ノーチェは「……ご馳走さま」と呟く。好みではないとはいえ目の前に出された料理は、元々は命がある生き物だ。一口だけでも命を頂いたということに感謝をしなければ、人間としての何かを忘れる気がしてならなかった。
 ノーチェのそれに終焉は「お粗末様」と呟くと、一度目を逸らし、開こうか迷っているような唇を開き「……その」と言葉を洩らす。

「いいんだ……無理なら…………その……」

 珍しく歯切れの悪い終焉にノーチェは首を傾げ、僅かに眉を顰める。言い出しにくいような様子に代わり、これから何があるのかと思考を巡らせてみれば――思い当たる節がひとつあった。
 どう考えても男はこの後に待ち構えている風呂のことを懸念しているのだ。何せ彼らは成人を越えている男同士で、身長は高い方だ。それがひとつの浴槽に身を寄せるとなれば、狭い思いは間違いなくするだろう。
 ――加えて終焉はノーチェを「愛している」のだ。男に限って何かの間違いが起こるとは思えないが――そういった懸念点も間違いなくある。男がノーチェのどこまでを知っているのかは分からないが、彼もまたそれを避けたいとは思っている。
 避けたいとは思っているが――普段の様子とは全く異なった動きを見せる男を、たった一人で音が反響する場所に投げ入れる気はないのだ。
 だからこそ彼は終焉の言葉に「……別にいいんだぞ」と小さく呟く。アンタが音の響く浴室に行った途端に雷が鳴ってもいいならいいんだぞ、と。あくまで嫌味たらしく、多少からかうような気持ちを込めて。
 すると、ノーチェの言葉を聞いた終焉はぐっと唇を噛み締めるように結んだ後、戸惑うように目を泳がせる。そんなことを言われるとは思わなかった――そう言いたげに、どこか怯えるような表情でちらと視線を投げ掛けられるものだから、ノーチェはサッと顔を逸らした。
 当たり前のことを言っただけ。――なんて言ってはいないが、行動が語っている。

「………………いや……無理でも…………無理矢理……」

 「無理矢理は駄目か……」や「でも、」――という言葉が彼の耳に届く。一人は嫌ではあるけれど、かと言ってノーチェに無理を強いるのは嫌だと言いたげな声色だ。思い切りもなく歯切れも悪い。そんな終焉が一体どんな言葉を吐き出すのか、彼は気になってただ何も言わずにそれを待った。
 一緒に入ってくれと言われた手前、ノーチェはそれを聞かなかったことにはできない。その上終焉は雷が嫌いなのだとつい先程知ってしまったばかりなのだ。暴力を振るわれない以上、彼は終焉に対して悪意を持つことはなかった。

「………………勘弁してくれ……」

 ――やがて折れたように終焉は頭を抱えてしまって、ノーチェは人知れず「勝った」と思うに至ったのだった。

◇◆◇

 ――勝ち誇った思いもすぐに水へと流されてしまった。
 ノーチェは終焉が用意した湯船に体を浸けながら「自分は一体何をしてるんだろう」だなんて思い返す。成り行きとはいえ、成人男性がひとつの浴槽に身を寄せ合うなどという状況に出会してしまって、徐々に芽生える混乱が隠せなくなる。
 一足先に入ってくれと言われたノーチェは頷きをひとつ。身支度をして早々に浴室に入り、頭や体を洗って湯船に浸かる。相変わらず入浴剤を欠かさないようで、乳白色に彩られた湯船からは甘い香りが漂った。入浴剤のお陰だろうか――肌に宿る滑らかさは、女に匹敵するのではないかと思うほどにまでなった。
 ノーチェは自分の肌を撫でて見る。濡れていてはっきりとは分からないが、屋敷に来た当初よりも肌の質が変わったように思える。肌だけではなく髪までも随分と柔らかくなってしまって、体つきさえ戻れば元の生活に戻れるのではないか、と思えるほどだ。
 相変わらず首にあるものは何をしても取れることはないが、そのままでも十分普通の人間としての暮らしはできているように思えてしまう。だからこそ本当にこのままでいいのかと、彼はほんの少し眉を顰めた。

 奴隷の分際でこんな目にあっていていいのかと――。

 ガラリ、――不意にノーチェの耳に扉が開く音が届く。彼は腕を撫でていた手を止めると、やって来たであろうそれに目を向ける。揺蕩う長い黒髪が酷く特徴的で、腰までしっかり伸びているのだとはっきり気付かされてしまった。そんな長いものをよく背負っていられるなと感心してしまうほどだ。
 湯気に囲まれて普段よりも白っぽく見えるのが新しいと思いつつ、ノーチェはゆるゆるとその顔を見上げた。酷く澄ましたような顔に、澄んでいながらも暗い瞳がノーチェを見下ろしているのだ。しっかりと気を遣ってか、タオルを腰に巻いてもいいとノーチェに告げた終焉も、腰にタオルを巻いていた。
 しかし、そんなものよりも目を惹くのはもっと大きなもの――終焉の体にノーチェは目を奪われた。

「…………」

 見上げたノーチェは人知れず「これだ」という確信を得た。そこにあるのは終焉から見て左肩から右脇腹にかけて付いた大きな傷痕。確実に心臓を狙ったかのような、生々しく残る傷痕が先日終焉が言っていた「『終焉』に成る前に受けた傷」なのだろう。
 鋭利な刃物で大きく切りつけられたような傷痕に、ところどころ小さなものが点々としている。酷い傷痕の数々に彼は終焉がまともに避けていなかったのかを問いたくなったが――一際古いような傷痕にふと目が引き寄せられる。
 それは傷痕というよりはあまりにも古く、まるで火傷痕のように残ったものだった。鳩尾から腰辺りにまで大きく刻まれた、白い肌に映える多少くすんだ肌色がじっとそこに佇んでいる。火傷痕にしてはあまりにも綺麗すぎて、傷痕にしては生々しさも欠片もないものだ。
 他の痕とは毛色の違うそれに彼は首を傾げると――す、と終焉の体が動いた。行く先は勿論取り付けられたシャワーだ。
 長い黒髪が揺れて終焉の背について回る。あの長い黒髪をどう手入れするのか、彼は確かに気になってその姿をじっと見やった。
 それは何ら変わりのない、普通の手入れそのものだった。十分に髪を濡らした後、シャンプーやコンディショナーなどのありきたりなものを使っているだけなのだ。泡立たせるのに苦労しそうだの、手入れが面倒くさそうだの思ったものの、終焉の慣れた手付きは苦労を知らなさそうで。ノーチェは思わずその様子を凝視してしまう。
 髪の毛一本一本――毛先に至るまでゆっくりと、馴染ませるような手入れだった。同じ洗髪剤を使っているにしてもここまで仕上がりが違うのは、終焉とノーチェの手入れの仕方が全く違うからだろう。洗髪剤を洗い流した男の髪は濡れたてで、艶がよく目立った。

 ――これ以上は見る必要もないか。

 終焉が手を伸ばした先にボディタオルがあることに気が付いた彼は、ゆっくりと視線を逸らして肩まで湯船に浸かり込む。長い髪が床タイルに着いていたのが勿体ないなどと思いながら、ほう、と浴室の天井を仰ぎ見た。――終焉が視線に気が付いていて、ぐっと唇を噤んでいたことには気が付かないまま。
 シャワーの音が鮮明に響く中、時折ゴロゴロと雷が唸りを上げる。その度に終焉が肩を震わせているのかと思い、ちらと横目でその姿を確認すれば、動きが止まっているのを視認する。そんなに怖いものではないだろうに――なんて思いながら、再び視線を逸らすと、懸命に洗い流す音が聞こえた。
 きゅ、と蛇口を閉める音。シャワーを立て掛ける音。風呂椅子から立ち上がり、ぺたりと床タイルを踏み締める素足の音――ふ、と彼が視線を寄越せば、腰に巻いたタオルを直しながら終焉がぼんやりとその姿を眺めている。
 さて、どうしようか。そう言いたげな様子に彼は「ああ……」と口を溢すと、「どうやって入る……?」と呟きながら浴槽に寄り掛かっていた体を起こした。
 幸いこの屋敷の風呂は人一人が入っていても多少広く思えるほどの大きさだ。黒の浴槽を見て思ってはいたことだが、どこまでも金持ちを彷彿とさせてくる。――そんな浴槽を一瞥した後、ノーチェは未だ行動に出ない終焉を見続けた。もう一度雷が鳴る前にさっさと入って、このふざけた事象を終わらせたかったのだ。

「そう……だな……。顔を見たくはないので、私に背を向けてもらっても……?」

 顔を見たくはないって何だ。
 ――そう思いながらも彼は「分かった」と言い、自分が寄り掛かっていた場所を終焉に譲る。男は長い髪を丁寧にまとめ上げた後、ノーチェが譲った場所にゆっくりと足を入れる。体に伝わるのは自分とは全く違う熱量。そう言えばこの人の体はやけに冷たかったな、と微かに歪む終焉の表情を見て、ノーチェは思っていた。
 恐る恐る――体を熱に馴染ませるようにゆっくりと湯船に浸けた終焉は、はあ、と大きく息を吐きながら深呼吸を繰り返す。男が足を伸ばしても多少曲げる程度の膝を見て、改めて浴槽の大きさを知ってしまった。ノーチェは気を抜き始める終焉を横目にしながらそろそろと背を向けた。――自分は膝を抱えるように縮こまって、だ。
 そんな彼の様子を見かねた終焉は、一度考えるような素振りを見せた後、「ノーチェ」と言葉を紡ぐ。

「別に私に寄り掛かってもいいんだぞ」

 ――なんて言いながら、ぺしん、と浴槽を一度だけ叩き鳴らした。
 この人は何を言っているのだろう――そんな疑問がノーチェの頭をよぎる。顔を見たくないと言うのなら無駄な接触は避けるべきではないだろうか。彼にとって素肌の密着はいいものではない。体に刻まれた生々しい傷痕が疼くようで、どうにも近寄る気にはならなかった。

「――っ」
「…………あ」

 ドォン、と酷い音が外から浴室まで大きく響く。雷が随分と近くに落ちてしまったようで、その後に鳴る雨音がいやに大きく聞こえた。それに肩を竦めた終焉は微かに身を縮めているようにも見えて、雷が怖いんだった、と彼はふと思い出してしまう。
 ――仕方がない、仕方がないことなのだ。提案をしたのは他でもないノーチェ自身だ。
 ――ゆっくりとノーチェは終焉へと近付いた後、無防備な背を向けて体を預けている。普段冷たい肌が湯船によって温まり、人並みの体温を持っていることが酷く珍しく思えた。「この人も人間だ」――そう思わせるほどの、確かな温もりだった。
 終焉はノーチェが大人しく体を預けてきたことに多少の驚きを覚えた後、深く、深く溜め息を吐く。「はあ」と安堵の陰に隠れているのは、雷に対する嫌悪感だろうか――あまりの深い溜め息に「そんなに怖いの」と小さく呟けば、「ああ」と返事が返ってくる。

「光が……光が酷く、眩しくて……よく似ている」
「……似てる……?」

 何が。そう問い掛けようと思ったのだが、ぽつりぽつりと語る口調に彼は、その話題が触れられたくないものなのだと、ふと気が付いた。ふぅん、と生返事をしてぼうっと水面を眺める。透明ではない乳白色の湯船には微かに自分の顔が映り込んでいる。表情こそ判断できないものの、薄暗い影の形に変化はない。
 首元のそれに触れるとひやりと冷たい感覚が指先に伝った。やはり風呂のときはやけに邪魔くさく、鬱陶しいとばかり思ってしまうほど。嫌だと思うものの、対処のしようがないことに小さく失望の念を抱いた。

「……傷痕の具合はどうだ」

 ぽつり、終焉が雨音に交えて小さく言葉を吐く。相も変わらず男は彼の頭を撫でるのが好きなようで、ぱしゃんと水音が鳴った後、彼の頭に小さな重みがのし掛かった。撫でられているのだと気が付くのに時間はかからず、彼は撫でられたまま何気なく自分の体を眺め――「まあまあ、」と呟く。
 良くもないが悪くもない――そう言いたげな声色に、終焉は「そうか」と言った。

「……悪化していないなら十分だな」
「……そうだな……」

 水に濡れた髪がくしゃりと音を立てて軽く乱される。今日は随分と口数が多いな、なんて思いながらそうである理由に薄々気が付いていて、ノーチェは載せられた頭を軽く叩いてやる。
 いくら終焉がノーチェが嫌がることをしないとはいえ、将来的な話は確約できないものだ。密着している状態で触れられるのはあまり心地がいいわけではないのだろう。――叩かれた終焉は「すまない」とだけ呟きながら、湯船に腕を戻した。
 傷痕と言えば先程の終焉の体がふと頭をよぎる。綺麗だと言われるような肌には沢山の傷痕が刻まれていた。どれもこれも新しく見えるほど、生々しく残っているのだ。その点を言うのなら、ノーチェよりも終焉の方が気がかりなところがあるのだが――開くようなものではないのだろう。
 あの傷痕は痛そうだった。――そう思い浮かべるのはやはり肩から腹まで切りつけるような大きな傷痕で――

「――……?」

 ――不意に頬に伝う違和感にノーチェは瞬きをした。
 雨が五月蝿く、熱気のこもった風呂の中に居るからだと思いたかった。――しかし、それが理由ではないことは明白だ。意識しなければ気が付かないものだが、彼の頬に伝ったのは理由も分からない涙だった。
 変なこともあるもんだな――そう心中で口を洩らしながら不透明なお湯を手で掬い、ばしゃばしゃと音を立てながら顔を濡らす。雷が落ちて以来雨音だけが響いていた所為か、それとも単純に雷鳴と間違えたのか――「うわ、」と声を上げて体を震わせたのは終焉だった。
 そんなに驚くものだろうか。
 顔を濡らしたノーチェは背中で小さく震えた終焉に「……ごめん」とだけ呟いた。何気なく取った行動が男を驚かせてしまった自覚はあり、なけなしの謝罪を述べたのだ。すると、終焉は朧気に「……ああ……」と小さく言うものだから、ノーチェは気になってしまって徐に振り返った。

「ちょっと……驚いただけ……」

 そう呟くのは先程の低い声色など垣間見せることもなく、気の抜けた声を上げる一人の男だ。ぼんやりとノーチェではないどこかを眺めるように視線は緩く、無表情で固まった顔は多少緩んでいる。
 つい先日見たその顔に、「この人は風呂で気を抜く人なのか」と彼は思う。こくりこくりと多少船を漕ぐ様は見ていて不安になるほどだ。このまま眠りに落ちて湯船に顔を浸けてしまうのではないか――、そんな考えが頭をよぎる。いくら死んでも死なないとはいえ、自分の目の前で死ぬようなことなど、目覚めが悪いにも程があるのだ。

「……眠い……?」

 何気なくそう問えば、終焉は一度閉じようとする瞼を抉じ開け

「……ちょっとだけ……」

 と緩く答えた。
 ここまで気が抜けている終焉を見るのはひと月を越えて今日が初めてで、ノーチェは眉を顰めながら「じゃあ出よう」と終焉の手を引く。ノーチェは終焉を待つ間に随分と長い時間浸かっていて、正直頭がぼんやりとしていて、喉が渇いて仕方がない。
 力なく項垂れているであろう腕を湯船の中でぐいぐいと引っ張っていると、男が酷く気怠そうに「うぅん」と唸ってから「あと一時間」と渋る。

「あと一時間だけ……」
「一時間は『だけ』で済まねぇよ……」

 早く出よう。そう言ってノーチェは絶えず終焉の手を引いて、男の意識を揺さぶった。相変わらず終焉は駄々をこねる子供のように小さく唸っていて、動くような様子も見受けられない。本当は置いていくことも考えたのだが――雷嫌いの男を放置して置くのはどうなのかと、無意識が囁くのだ。
 「俺、喉渇いた……何か頂戴」堪らずノーチェが呟けば、終焉は閉じかけていた目をゆっくりと覚まして「そうか」と洩らす。

「……そうか……」

 そう言って徐にノーチェの頬へと手を伸ばし、じぃっとその顔を見つめた。三日月が浮かぶ反転した目が酷く不服そうに終焉を見つめている。――反対に彼を見つめる瞳は赤と金色に彩られていて、どこか暗く冷えているような気がした。
 何か意図があるのかと、ノーチェは負けじと見つめ返していると――「羨ましい」と低い声が言葉を紡いだ。

「羨ましい――愛されたかった」

 それは、すっかり諦めたような、物悲しげな声色だった。
 愛されたかった。その言葉にノーチェの胸の奥がざわつくような感覚に陥る。ただ、愛されたかったという言葉が何度も何度も脳裏で反芻するのだ。羨ましい、愛されたかった――何に向けた言葉なのかは分からないが、それが自分に向けられているような気がして、あの、と言葉を紡ぐ。
 あの――そう呟いた途端、終焉が「出ていいぞ」と小さく口を洩らした。

「私もすぐ出る……」

 そう言って、ノーチェに伸ばしていた手を離したのだった。

◇◆◇

 どんな反応を返せば良かったんだろうか。――そう考え込むノーチェの目の前に広がるのは、大きな窓と暗闇に包まれた広い庭だった。生憎の天気で煌めくほど輝かしい景色は見られたものではないが、雷だけは多少収まったような気がする。時折唸るような、地鳴りのようなものが耳に届くが、落ちてくるような気配はしなかった。

「愛されたかった、なんて……何で俺に言うんだよ……」

 意味分かんねぇ。ぽつりと呟いた言葉は雨音に掻き消され、終焉には届くことはなかった。
 ――そもそもの話、届くことなどまずないのだ。

 ノーチェは風呂から出た後、身なりを整えると浴室へ至る扉をそっと閉めた。その後に確かに風呂場から出てくるような音が聞こえるものだから、男は嘘を吐くなんてことはしなかったのだろう。
 そろ、とその場を離れて何気なく赤いソファーへと座り込む。何度座っても飽きないその座り心地に、人間として何かを駄目にさせられそうな感覚さえも覚えた。材質があんまりにもいいものだから、ここで眠っていても問題ないのではないかと思ってしまうほど。彼は何気なく体を伸ばすと、くぁ、と欠伸を溢した。
 すると、廊下から終焉が「何でもいいのか」と小さく問い掛ける。一度彼は悩む素振りを見せたが、男の問いがノーチェの喉が渇いたという発言に対するものだと気が付いて、「何でもいい」と言った。アンタが作んのは多分何でも美味い――そう呟きかけて、静かに口を噤んだ。

 ――何を言おうとしてんだか。

 ノーチェは軽く首を横に振ると、終焉がゆっくりとキッチンへ歩くような足音が時々聞こえる。普段の軽やかな足取りではなく、ふらふらと覚束ないような足取りだ。その調子のまま向こうへと行けるということは、雷の心配をもうしていないのだろう。
 そんな終焉にノーチェの呟きなど届く筈もないのだ。

 ざあざあとやみそうもない雨にぼんやりと視界を寄越しながら、ほう、と吐息を吐く。反芻する言葉、雨の音、向こうからノーチェの名前を呼ぶ声――。

「……今行く……」

 ――今日もまた胸の内に違和感を抱えながら、彼は終焉が居るキッチンの方へと歩きだした。


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