時が止まる世界に二人


 雨音が木々を打ち付けては屋根の上に落下する。ぼたぼたと木造の家に強く落ちてくるものだから、一瞬でも壊れるのではないかと思うほど。雨漏りなど起こってしまえばその場から腐り始めてしまう。細心の注意を払うべきだと、女はゆっくりと天井を眺める。
 金の髪、赤い瞳。キラリと光る菱形の虹彩がただ揺らめくリーリエの目が、天井を見つめている。天井には寂しげに灯る明かりと、規則正しく並んだ木目がよく目立った。仄かに黒く染まる外に対して明かりの存在は、最早偉大だとも言えるだろう。

「参ったわねぇ」

 ぽつり、小さく言葉を洩らしてみるが、それに答えるものは何もない。リーリエは家の中にある椅子に腰掛けながらテーブルに肘を突いて、天井から外へと目線を動かす。扉の向こう――窓から見える外――の景色は雨でろくに窺えるものではないが、彼の屋敷とはまた違った景色を湛えている。
 鬱蒼と生い茂る暗緑の木々。人工的な明かりなど外に灯っている筈もなく、強い雨音だけがひたすらに耳を劈く――辺り一面は森だった。

 リーリエの住み処は森の中にある。ルフランから離れるように聳え立つ屋敷から、森へ足を進めること約数十分。人の手も加えられていない森の奥深くに彼女が身を寄せる小さな小屋(いえ)がある。独りで住むには上々ではあるが、電気が通らない森の中では魔力を駆使するしかない。
 ――それでも自分にはうってつけだと思うしか他なかった。
 家の中は思ったよりもいやに小綺麗で、誰かが手入れしたのかと思えるほど。質素な造りを誤魔化すかのように置かれた観葉植物は生き生きとしていて、今にも動き出しそうな雰囲気を醸し出している。家が配置されている森が聖域≠ニ呼ばれる所為だろうか――現実離れしたような空間に、リーリエはほう、と息を洩らした記憶さえある。
 水は近くの川から汲んで、家電製品や火の類いは魔法で補うのが常だ。幸いにも幼い頃から魔力というものに恵まれていたリーリエは、今では魔女とさえ呼ばれるほどにまで成長している。生活する程度ならば体に支障は出ないだろう。
 致命的な面をいえばただ料理が下手だということだけで、何かしらの恐れるものがない彼女にとって一人暮らしというものは特別苦ではなかった。

 そんなリーリエも梅雨に訪れる雷雨には困り果てているようだった。
 唸るように雲間から音を掻き鳴らす雷に加え、大粒の雨が空から降り注いでいる。一言を洩らそうにも雨音で全てが掻き消されてしまうのではないか、と思うほどの豪雨だ。流石聖域≠ニいったところか――川の氾濫の事例はなく、大して心配はしていないのだが――いかんせん、不安になるものはある。
 強風が吹いていないことがまだ救いだっただろうか。リーリエはぼんやりと外を見つめながら「大丈夫かしらねぇ……」と一人ごちる。彼女が懸念すべき点はあくまで自分のことではなく、人間離れした終焉のことだった。
 ガタガタと窓を打ち付ける雨を見つめ、はあ、とリーリエは溜め息を吐く。晴れている間に屋敷を訪れたものの、終焉が不在であったということは予め決められた事柄だったのだろう。代わりに出てきた白い毛髪にリーリエは僅かに落胆さえも覚えた。
 終焉は見計らったかのようにさっさと街の方へと出ていったというのだ。男が常軌を逸脱している存在であることをリーリエは知っていて、助言など必要なかったのだと気付かされる。屋敷の中で一人で留守番をしていたであろう彼に言葉を残し、雨が降る前に家へと戻ったのだが――やはり心配なものは心配なのだ。

 ふう、と小さく溜め息を吐いてリーリエは懐から煙草を取り出す。箱から一本取り出して、唇で軽く挟み、先端に火を点けてやる。白い煙がもうもうと沸き立って身体中が満ち足りたような感覚に陥ると、彼女はふぅ、と煙を吐き出した。
 ゆらゆらと揺れる白煙は一度家の中を浮遊したかと思えば、くるりと円を描いて即座に消える。煙草の匂いは酷く独特で、苦手だという人間のためにリーリエは小さく風を巻き起こすのだ。
 ――とはいえ、誰かが訪ねてくるわけでもないのだが――。

「――……あら」

 不意に降り頻っていた雨の音がやんだ。気のせいではなく、明らかにやんだのだ。それはまるで時間そのものを切り取ってしまったかのように静まり返っていて――呼吸のひとつでさえもいやに響くような時間だった。
 耳を劈くほどの雨が降り頻って雷さえもなっていたのだ。それが唐突にやむなど、有り得ない話だ。――それこそ耳が聞こえるという事実が無くならない限り。
 点けて間もない煙草を手で握り潰しながらリーリエは小さく微笑む。母のように慈愛に満ちた赤い瞳が軽く弧を描き、「珍しいこともあるものね」と人知れず呟きを洩らす。止まってしまった雨が一体どのような形であるのかを頭の片隅に追いやりながらぼんやりと扉を眺めていると、コンコン、と控えめなノック音が鳴る。彼女はそれに「どうぞ」と答えてやると――、扉がきぃ、と音を立てて開かれた。

「いらっしゃ〜い」

 煙草を握り締めていた手を開き、まっさらな手を軽く振ってリーリエはそれを迎える。開いた扉の隙間から見えたのは宙に留まった粒状の雫ばかりで、空の暗さに溺れる森が酷く不気味に思えた。
 そうして次に見えたのは――真昼の空のように澄んだ水色のドレスだった。

「――ご機嫌よう」

 リン、と鈴の音が鳴るような軽やかな声が小さく言葉を紡ぐ。緩く伸びた長い裾の隙間から覗く白い足が家の中へと入る。そこに滴る水の姿はなく、まるで時が止まったかのような空間がただ広がっているだけだ。扉を押し退けて入ってきたそれは、あまりにも人間離れしているような、美麗な顔をしていた。
 リーリエとは違った薄金の癖のある髪が三つ編みに束ねられる。前髪からちらりと覗く躑躅色の瞳は暗く、どこか淀んでいながらも、形のいい唇から紡がれる声は姿に見合った美しい声色だった。
 雨には濡れていない。――しかし、外は雷が唸るほどの雨が降り頻っていたのだ。黒いドレスに身を包むリーリエでさえもそれの姿が妙に肌寒く思えて、「タオルはいる?」なんて分かりきったことを訊いた。

「結構だわ。見て分かると思うの」
「見て分かるけど、それでも気にするもんよ人間は」

 パタン、と閉じた扉を背に歩みを進める女はリーリエの目の前へと辿り着く。「汚いけれど良ければ」そう言って彼女はつい、と目の前の椅子を指し示すと、それは軽く首を縦に振って椅子を引いた。背筋を伸ばし、姿勢良く座る様は見ていて心地がいいほどだ。
 見目は完全にどこかの金持ちのお嬢様、といったところだろうか。睫毛に至るまで薄金に染まった毛髪は美しく、日の光を浴びれば煌々と煌めくものが見られたのだろう。
 ――生憎の天気でほんのり落胆を胸にしながら、「じゃあ温かい飲み物でもどう?」とリーリエは問い掛ける。それは一度首を横に振ろうとしたものの、一度瞬きをして「仕方ないからもらってあげるのだわ」と口を開いた。

「とびきり甘いココアを頂戴」
「あらあら、いくら見た目が大人でも中身はお子ちゃまなのね。女王様≠ヘ」

 ふ、とリーリエは口角を上げながら立ち上がると、女王と呼ばれた女が躑躅色の瞳を瞬かせる。そうね、お子ちゃまなのだわ――そう言って素知らぬ顔をして、キッチンへと向かう彼女の背を眺めた。カランカランと食器が鳴る音、しゅんしゅんと湯を沸かす音。その中に混ざって軽い鼻歌なんてものが聞こえるのだから、ふう、と女王は息を吐く。
 窓の外は未だに雨粒が宙に浮かんでいる。まさに「時を止めた」という字面が似合うほど、音もなければ風もない空虚な世界が広がっていた。その中に佇む小屋をぼんやりと見渡して「しっかりと約束は守っているのね」なんて女王は呟く――。

「それがあんたとの約束だもの」

 何気ない一言を聞き入れたようで、マグカップをテーブルに起きながらリーリエは笑みを溢した。ほうほうと沸き立つ湯気に甘い香りが漂って女王が瞬きをひとつ。「有り難う」そう言えばリーリエは少年のような顔付きで「いーえ!」と更に笑うのだ。
 温かなココアの入ったマグカップを両手で包み、女王はそれにふう、と息を吹き掛ける。出来立てのそれは温かいを通り越して酷く熱く、火傷すらしてしまうのではないか、と思ってしまうほど。それでも堪らず口を付ければ――驚いた猫のように肩を震わせ、女王はマグカップをテーブルに置き直す。それに気が付いたリーリエは肩でくつくつと笑うと、「失礼なのだわ」と女王が言った。

「ごめんなさいねぇ! 久し振りに会ったもんだからちょっと浮かれてんのよ」

 自身に用意した苦味のあるコーヒーを一口。苦味と仄かな甘味が舌の上を転がって、舌鼓を打つような心持ちでいると、ふぅん、と女王が興味なさげに口を溢す。相も変わらず雨の音は鳴り始めることもなければ、雷が雲の向こうで唸りを上げる兆しも見えない。
 それらが一体何を意味するのか彼女は知っているようで――笑みを消したかと思えば、至極真面目な顔で「それで、どうしたの」と問い掛ける。「わざわざここに来るなんて何かあったの」なんて言って、女王の言葉を待った。
 女王は視線を落としながらぼんやりとテーブルを見つめていたと思えば、ゆっくりと瞬きを落として「まだ終わらないのね」なんて呟く。

「酷い話だわ。こんなにもぐるぐる、ぐるぐると同じ時を繰り返しているなんて。あれは一体どんな気持ちでいるのかしら」

 何かの現状を指し示すように女王は人差し指を立てると、宙でくるくると円を描き始める。ふて腐れるように唇を軽く尖らせて、小さく眉を顰める。女王がむぅ、とどこかで耳にするような唸り声を上げた後、彼女の言う「あれ」を脳裏に浮かべたリーリエが「仕方ないでしょ」と答える。
 そう仕向けたのは他でもないあんたでしょ。
 核心を突くようにぽつりと呟かれた言葉に女王が僅かに唇を動かしたような気がした。女王は思わず、といった様子で睨むような気持ちをリーリエへ向けてみると、女はからからと陽気に笑って「正解でしょ」と言う。その顔や言葉に女王を咎めるような意思は含まれておらず、彼女はどこか安心したようにほう、と息を洩らす。
 これでも悩んだ方なのよ、と女王が呟いた。透き通る鈴の音のような声色は、時が止まったような世界ではよく響いて堪らず眠気が誘われてしまう。彼女の目は一片の光も届かない深い闇を見ているかのように暗く、黒く、失くした何かを探すように遠い目をしている。
 陶器のように白い肌に生える薄桃の唇はぽつりぽつりと言葉を紡いで――、やがて一区切りつくと置き去りにされていたマグカップの縁を出迎える。漸く飲める温度にまで下がってくれたのだろう――「美味しい」と呟く彼女の顔色は、先程よりもどこか明るく、幼さが窺えるようだった。
 「それはよかった」リーリエは女王の言葉を素直に受け止めて嬉しそうに声の調子を上げる。粉末から作ったものだけれど、と後を付け足せば、貴女の料理は美味しくないもの、と毒を含んだ言葉が返ってきた。

「そう、そうなのよ……料理だけは…………」

 どうにも美味しく仕上がらない。――項垂れるようにテーブルに頭を突っ伏して唸れば、「その点あの子は上出来なのだわ」と女王が誇らしげに胸を張る。その顔にはどこかで見たような静かな無表情が広がっているだけで――小さくでしか感情を表に出さない人形のような顔を、リーリエは確かに勿体ないと思っていた。
 目尻に涙を浮かべながら顔を上げると、リーリエはゆっくりと頬杖を突く。女王はちびちびとココアを口にしていて、まるで素知らぬ顔をしているが、何かしらの用件があって来たのだと踏んでいる。会話の引き金になりそうな言葉を隅から隅まで探って――漸く出てきたそれに食らい付くようにリーリエは紅を引いた唇を開く。

「……で、何をしに来たの? 今日は酷い天気になるから不安になった?」

 澄ましたような、挑発をするような顔付きで問い掛ければ、女王はマグカップに口をつけたままちらりとリーリエを覗き見る。無言の時間が数秒続いた後、強ち間違いではないと言いたげに目線を逸らし、マグカップを下ろす。「それもあるけれど」そう言って目を閉じて、「どうなの」と問う。

「あの子は大丈夫かしら。私は直接介入できないから……気になって」

 肩を寄せてそう言葉を紡いだ女王の様子は、母親のそれだった。

「単刀直入に言えば、正直もう厳しいわよ」
「…………」
「でも耐えてるようね。凄いのねぇ、愛の力っていうものは」

 ふふん、と自慢げに呟いて、リーリエは女王の反応を窺った。西洋人形のような整った顔が僅かに不機嫌そうに歪められている。納得がいかない、私は許さない――なんて言いたげな顔付きをしていて、堪らずリーリエは吹き出してしまう。
 「あんたもう厳しいわよって言ったのよ」肩を震わせながらリーリエは言葉を続ける。

 彼はもう厳しい。一度終わらせるべきだと彼女は告げたのだ。茶菓子が来るのを待っている間に視えた情景を伝えて、今回もまた叶いそうにない、という可能性を彼に告げたのだ。黒く靡く艶やかな髪が風に煽られて、弧を描く口許に残るのは赤く、黒く錆びた色。血の色に染まる瞳は知らず知らずの間に真昼の空の色に染まっていて、理性という理性は取り残されていない。
 ――そんな光景があるのだとリーリエは告げた。
 ――しかし、彼の言葉は初めから決められていたことのようにすんなりと閉じていた唇を抉じ開け、リーリエへと放たれる。

「何をしても、今期に縋るって言って聞きやしないわ」

 告げられた言葉をそのまま女王へと伝えれば、彼女はよりいっそう不機嫌そうに眉を顰め「そう」と言った。「本当に愛してしまっているのね」なんてどこか悲しげに呟いて、テーブルに手を突いてゆっくりと席を立つ。どこかで目にしたことのある白魚のような指先が僅かに力んだ。
 「もう帰るの?」そう問い掛ければ、女王は頷くことはしなかったが、瞬きをして答える。私も忙しいの――そう言いたげな様子に堪らず肩を竦めて「休憩も大事よ」なんてリーリエが呟くものの、女王は首を横に振るうだけだった。
 何かを抱えているのは確かな筈で、しかし何も明かさない女王にリーリエは母親のような目を向けることしかできずにいる。それが彼女の中の何かを刺激したのか、女王は薄桃色の愛らしい唇を開くと、溜め息を吐くように言葉を紡ぐ。

「――原罪の魔女=A貴女……娘に会いたいと思う?」

 ――唐突に、冷静に。リーリエにとって音もない世界での女王の言葉は、バケツを引っくり返したような雨にも等しい衝撃だった。思わず目を見開いたまま彼女は制止して、女王から紡がれた言葉を頭の中で反芻する。

 原罪の魔女<梶[リエは娘を殺した。雪が降り、大地が一面白に染められた白銀の世界で、素手で雪を掻き分け、亡骸を埋めてしまった。当の本人にはその記憶があるものの、夢か現だかの区別は一切ついていないのが事実だ。
 頬を伝う涙の温かさも、手を刺すような雪の冷たさも彼女の記憶にこびりついているのだが、肝心の『何』を埋めたのかがすっぽりと抜け落ちてしまっているのだ。リーリエには娘が居て、傍らに置いていたそれが見当たらないのを察するに「埋めたのは娘である」という認識をしていたのだが――女王の口振りはまるで違うと言いたげだ。

 どこかで生きているのだろうか、幸せに暮らせているのだろうか。母親は変わらず居ないのだろうか。歳は、外見は、どこに――何故、私の記憶は霧がかかったように朧なのか。
 ――ガタンッ
 けたたましい音を立てながら倒してしまった椅子を他所に、リーリエは信じがたいといったような――しかし仄かに嬉しそうな笑みを浮かべて――「生きているのね?」と言う。

「私の、可愛い娘は生きているのね?」

 そう問い掛けたが、女王はそれ以上の口を開くことはなく、ただ瞼を閉じる。躑躅色の透き通る赤が瞼の裏へと隠れてしまって、言及はできないのだと悟るものの、リーリエは「それだけが分かれば十分よ」と冷静を取り戻すように呟く。
 女王も彼女の心情を十分に理解しているのだろう。会いたくても会えない、触れたくても触れられない――そんな存在が確かにいるのだ。彼女らの想いは本物で、「いたずらが過ぎるかしら」なんて女王が呟くとリーリエは首を横に振る。
 「あんたも同じでしょう」リーリエが、そう呟けば、西洋人形のように整った顔が僅かに歪んだような気がした。苦虫を噛み潰したような、悲しみを奥歯で噛み締めるような苦い顔をしていて、やはり同類なのだと思わざるを得なかった。
 ――しかし、女王は会おうと思えば会える筈なのだ。それをしないのは、自分との約束を守るためだろうか――。

「――……長居しすぎたのだわ。帰る」

 ほう、と小さく息を洩らしながら女王は椅子を引いて席を離れる。先程の表情などまるで見る影もなく、あるのは相変わらず着飾ったような無表情の仮面だけだ。背を向けて三つ編みとドレスの裾を揺らす姿は「女王」の異名よりも「乙女」に最も近く――堪らずリーリエはその後ろ姿に声をかける。

「ねえ、あんた……やっぱり笑った方が可愛いわよ?」

 ぽつり、呟いた声は静かすぎる家の中に響き渡って、女王の足を止める。ドアノブを引いて外へと赴こうとする姿は、家出をする直前の娘のようだった。彼女は徐にリーリエへと振り返ると、躑躅色の瞳に母のように微笑む女を映す。
 そして、小さく「ごめんなさい」と言うのだ。

「ごめんなさい、私――あの人以外に笑いかける方法を知らないの」

 寂しくもなく、悔しくもなく、ただ淡々と。素っ気ない言葉を吐いた女王は惜し気もなく扉を閉めて、時が止まった世界の向こうへと消えてしまう。
 「大変ねえ、時忘れの女王様は」――そうリーリエが口を洩らした途端、耳を劈くほどの雨音が辺り一面に響き渡った。


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