雷鳴、轟き


 ぼたぼたぼたと屋根の方から音を立てている雨は次第に大粒になっていて、昼だというのに外は酷く薄暗くなっていた。雷雲でも押し寄せているのだろうか――、そう思えるほど空は暗く屋敷内は夜のように暗かった。
 ノーチェは窓からぼんやりと空を眺め、強さを増していく雨音に耳を澄ませる。雨の音は降り始めた頃より遥かに大きくなっていた。窓は先程よりもすっかりずぶ濡れで、朝方見ていた庭の景色など酷く歪んで見えた。
 ――本当に酷くなった。屋敷よりも森に住んでいるというリーリエは無事なのだろうか。
 ――そう思いたかったが、ノーチェはリーリエよりも遥かに気になる存在が居るのだ。それが何故か自室ではなく、客間で本をじっくりと読んでいる終焉だ。伏せがちの目は睫毛が長く、流れる髪から覗く肌の色は辺りが暗い所為か普段よりも白く見える。
 そんな終焉は普段自室で過ごすくせに、今日という今日は何故か部屋に戻ることはないのだ。
 大粒の雨の音が鳴り響く中で、本のページを捲る音だけが部屋の中で鳴る。ノーチェは何気なく終焉へと目を向けて、理由もなく凝視してみる。何かをする様子もなければ、何かを頼む素振りも見せない男はただ没頭しているかのように本の文字を追って、ページを捲った。
 「今日は何もしないの」ぽつりと問うが、終焉の耳には届いていないと言うようにじぃっと本を見つめている。静かな互い違いの瞳が文字を追って下へ下へと降りていき、瞬きをした後再び元の位置へと戻っては降りていく。その繰り返しをノーチェは眺めながら、返事が返ってくるのかどうかを試す。

「……なあ」

 終焉に呼び掛けるが、その声は雨に掻き消されたかのように男は反応を見せることがない。

「…………なあ」

 ――と、再び同じように呟くが、返ってくるのは本のページを捲る音だけだった。
 本当に没頭しているのだと思ったノーチェはふう、と吐息を洩らし、背中を丸めながらぼんやりと終焉を眺める。終焉は本を読んで暇を潰しているが、対する彼は何もやることがないままソファーに座るだけだ。
 流石のノーチェも雨音を聞きながら暇を潰すための用事を見付けられる筈もなく、気紛れにぷぅ、と頬を僅かに膨らませる。何かをさせてほしいと言った手前、何もしないのが酷く気に食わなかったのだ。どうせなら終焉に本でも借りるべきだろう、と彼はゆっくりと席を立つ。
 ざあざあと音を立てて降り続ける雨に足音も、床が僅かに軋む音も掻き消され、終焉はただ本を読み進めるだけ。ノーチェが歩み寄っていても意識は手元にあるようで、まるで見向きもしなかった。退屈しのぎに一度だけ本を取り上げてみようかと思ったが――、流石にやっていいことと悪いことの区別がつくノーチェは終焉の背に回る。
 前から声を掛けても良かった。――しかし、窓から届く僅かな光を遮ってまで読書の邪魔をする気は毛頭ない。
 ノーチェは本を読み続ける終焉の耳元へと顔を寄せる。男が読む本の内容が視界に入るが、見慣れない言語――ドイツ語だろうか――で綴られていて内容を把握することはできなかった。
 折角なら言語を教え合うのも退屈しのぎにも、終焉の役にも立つのにもうってつけなのかもしれない――。そう思いながらノーチェは極力邪魔にならないよう、ゆっくりと小さく息を吸った。

「あの」
「――……っ!?」

 ばさりと音を立てて落ちた手のひらよりも二回りほど大きな本。その音に驚きながらノーチェは終焉を見つめる。本を落とすと同時に男は足を引き寄せながら両手で耳を覆い隠す。まるで何かを耐えるように体を丸めて、強く目を閉じている。
 髪や腕の合間から見えた終焉の顔は――目を疑いたくなるほどに赤く染まっていた。
 初めて目にする顔にノーチェは瞬きさえも忘れていると、徐に終焉が席を立ち、ふらつく足取りで客間を出ていってしまう。ノーチェに合わせるための素足が絨毯を踏んで壁の向こうへと消えてしまうと――間髪入れず人一人が倒れるような物音が屋敷内に響いた。
 くぐもるようなその音はノーチェが屋敷では初めて聞くもので、何かあったのかと、よくないことをしてしまったのかと思ってしまう。――そのくせ、何かに怯えるように怯んでしまう足に彼は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていると、数分の間を置いて出入り口に白い指が掛けられた。
 黒い爪が一際目立つ白い指にぐっと力が込められ、出入り口の向こうからゆっくりと顔を覗かせた終焉は表情を無表情で飾ったまま客間に足を踏み入れる。先程の変化は幻覚だったのではないかと思わされるほどの感情の無さに茫然としていると、終焉はノーチェに近付いて白い手を彼の頭へと置く。
 指に絡む白い毛髪を堪能するようにゆっくりと撫でると、普段通りの――先程の赤面など初めからなかったと言わんばかりの表情で――「どうした」とノーチェに問う。
 何かあったのか、なんて訊かれて――何かあるのはそっちだと言いかけたノーチェはぐっと口を噤んで、「いや……」と呟く。

「……暇、だから…………」

 僅かに動揺を含んだ声でそう呟けば、終焉は「む、」と小さく唇を尖らせて「どうしたものか」と言う。外に出ようにも予想以上の雨に見舞われ、屋敷の中に居ても殆どの作業は既に男が済ませてしまっている。終焉は色違いの瞳を微かに細めながら彼に何か欲しいものがあるかどうかを問い掛ける。
 やりたいことなどある筈もないノーチェは頭に置かれた手を気にしながら目線を足元に落とし、唇を閉ざしてただ黙る。仄暗い部屋でやれることなど、何があるのだろうか――。

「…………特にないんだろう?」
「う……」

 心を見透かされるように放たれた終焉の言葉に彼は思わず唸るような声を上げる。ちらりと上目で男の顔を見れば、終焉は子供を見るような目付きでノーチェを見つめているが、――その表情にはどこか疲れが見え隠れしている気がした。
 ――何かあったのだろうか。
 先程の物音が原因であることは明白で、問うことも視野に入れていたのだが――飽きもせず撫で続ける終焉の手が気になっては照れ臭いような、妙な感情が胸に募る。撫でる手は相変わらず氷のように冷たく人間とは思えなかったが、嫌いではないと思えた。
 するりと滑る白い手が頬を撫でて、徐に顔を上げれば終焉と目が合う。珍しく威圧感を覚えさせない視線に、ほんの少し気持ちが解れたようで、思わず「アンタは殺したことあんの」と呟く。

「……人…………」

 ――そこまで呟いて、自分が何を訊いているのかを意識してしまい、彼は口を閉じる。本来ならば訊くことがまずない内容に終焉が僅かに目を細めたのが分かったからだ。人を殺すことは罪に問われると知りながらそう訊いてしまうのは、あくまで彼がそういう家柄であったということと、奴隷であることが関係しているのだろう。
 「人を、か」――ぽつりと呟かれた終焉の言葉に後戻りはできないとノーチェは首を縦に振る。先日遭遇した商人≠ノ対するものが、終焉自身の明確な殺意だとすると、男は確実に一人以上は手にかけているだろう。
 不意に終焉が「そんなものを訊いてどうするんだ」と彼に問い掛ける。ノーチェは口ごもりながら頭の中でひたすらに答えを探すものの――、一向に現れない答えに根負けして、「どうしようもしない」とだけ言う。
 ――意味はないのだ。仮に終焉が人を殺めていようが何だろうが、今奴隷であるノーチェには全く関係がない。答えられたところで彼の、終焉に対する態度は変わる筈もなく――相も変わらず奴隷を養うだけの物好きだと思うだけなのだ。
 ただ、強いていうならば――自分にできないことをやってのける存在なのだと、思わざるを得ないだけだった。

「……殺していたら軽蔑するのか?」

 ノーチェの頬に添えられた手のひらが一際冷えたような気がした。

「……? 別に……アンタが殺そうが、俺には関係ないし…………」

 どこか不安げな色を湛える終焉の手を取り、ノーチェは言葉を続ける。「アンタが俺の面倒を見てる間は、アンタのやりたいことを否定はしない」なんて。氷のように冷たい手が気になって温めることを試みるも、ただ体温が奪われるだけでノーチェはどこか不満そうに眉を顰める。こんなにも温まらないものなのかと酷く不満に思えたのだ。
 終焉の表情は相変わらずどこか不安そうではあったが、やはりノーチェを中心に生きているようで、彼の言葉で口の端が僅かに上がる。明確な答えを出したわけではないのだが、変わらないノーチェの感情に救われたと言わんばかりに手を引き戻す。
 「温まることは殆どないぞ」なんて言って彼の手から離れ、苦笑を洩らして落ちた本を拾いに向かう。落とした衝撃でページの端が折れてしまって、ほんの少し目を細めたが――仕方がないと言って本を閉じる。パタン、と鳴った筈の音は雨音に掻き消され、部屋に響くこともなかった。

「…………?」

 不思議な違和感を覚えてノーチェは終焉の背を見つめる。黒く長い髪はいつ見ても鬱陶しそうに思え、髪を切ればいいのにと思いながら茫然と男を眺めていた。
 ――手が震えていたのだ。

◇◆◇

 天気が酷くなる――リーリエの言った通り空の様子は夜と見紛うほどに暗く、窓から見つめる外は向こうすら白んで見えなくなるほど。バケツをひっくり返した、滝のような雨とはこのことを言うのだろうか。窓越しでは外の地面の様子などはっきりとは視認できないが、恐らく酷い水溜まりでもできているだろう。
 屋根を叩き付ける雨の音が大きく図太くなってしまった。最早騒音にも似た音に彼は「こんなのが夜も続くのか」と溜め息をひとつ。終焉は相変わらず意識を逸らすように黙々と本を読み進め、ノーチェの行動には目もくれない。普段何をしていても把握しているような男が徹底して意識を逸らすものだから、彼はそれなりの違和感を抱くようになった。
 マカロンも程々に、昼の代わりの御茶会を済ませた二人は各々自由な時間を過ごしていた。――と言えどもノーチェには相変わらずやることはなく、終焉は本に没頭しているまま。気が付けば傍らにある本の山が高くなっている程度で、後は何も変わりがない。
 明らかに様子が可笑しい終焉にノーチェは何かをすることはないが、ただ黙って違和感に苛まれるのも不思議と納得がいかない。退屈だという気持ちを胸に彼は窓から離れると、山になっている本へと向かって歩く。
 手に取ったものは随分と古い本のようだった。ところどころ破けていてやけに読み込まれたような跡すら残っている。自分にも読めるだろうかと思い、何気なく手に取って見れば、七つの大罪をモチーフにした不思議な物語だった。
 ――腹を空かせた暴食の化身が、世界そのものを喰らい尽くすという内容だったのだ。
 ピタリと止まる動きに数回繰り返す瞬き。「世界を喰らう」などという表現を使ったのは他でもない終焉そのもの。彼は思わず終焉の顔を見上げたが――男は本を読んだままチラリとも彼を見ることがない。まるで「話し掛けるな」とさえ言われているようだった。
 確証もない不思議話。こんなものを信用するわけではないが、永遠の命≠宿している終焉が居るほどだ。暴食の化身が何を指すのかは未だはっきりとはしていないが、この話が事実であるならば、世界は何かに喰われてしまうのだろう。
 必然的に訪れてしまうかもしれない命を落としてしまう事実に彼は僅かに喜びを露わにした。何せ恋い焦がれるように待ち侘びていた「死」が分け隔てなく、ノーチェにも訪れるからだ。喰らわれるとなれば痛みなど一瞬で、意識はすぐに消えてしまうだろう。
 あまりにも待ち遠しい話に、ノーチェは思わずそれに釘付けになっていた。

「――……っ」
「……!?」

 ――一瞬、音もなく光が走るように辺りが明るくなる。
 突然の出来事にノーチェは肩を震わせ、思わず窓の方へと視線を投げた。そこにはただ雨に濡れた窓があるだけで、空の向こうは灰に埋もれているだけだ。ノーチェはそれをただ凝視していると、雲の隙間から一際目映い光が灯る。それを雷だと理解するのに時間は要さなかった。
 ――酷い天気になるというのはこのことだろうか。
 一度だけ部屋が光る現象が何なのかを理解したときノーチェは不意に終焉へと目を向ける。普段から無表情を飾る終焉のことだ、雷にはどんな反応を示すのだろうかと気になってしまったのだろう。恐らく男は酷く澄ました顔で「酷い天気だな」なんて言うと思っていて――

「…………あれ……」

 ――先程まで椅子に座っていた終焉が居ないことに、ノーチェにはただ疑問が残った。
 先程まで読んでいたと思われる本は山の上へ。雨音しか聞こえない屋敷内でぼんやりと耳を澄ますと、遠くから水の音が聞こえてくるのが分かる。シャワーだと気が付くとノーチェは出入り口を見つめて「いつの間に出ていったんだろう」なんて呟いて、重い腰を持ち上げる。
 些細な手伝いなら自分がやると言い出した手前、終焉に手を出されるのは納得がいかなかった。
 壁に手をつきながら絨毯の上を歩き、半開きになっている扉の向こうへと足を運ぶ。ひたりひたりと歩いて覗いた扉の先――、終焉が忙しなく浴槽の掃除をしているのだ。

「……俺、やるけど」

 ――そもそも風呂を用意するにはまだ早すぎる上に、掃除など必要がないほど浴槽は綺麗なままだ。
 せっせとタイルを磨く終焉の背にノーチェはぽつりと呟くと、男は背中を向けながら「気にしなくても構わない」とだけ言う。長い髪が顔の横を掠めて、絹糸のように滑らかに落ちた。ところどころ赤が目立つ黒髪を眺めながら困る、だなんて思っていると、終焉の金の瞳がちらとノーチェを見上げる。
 何かと思いながら透き通るその瞳を見つめていると――「先に入ってもいいだろうか」と終焉が静かに問い掛けた。

 終焉は風呂が好きだ。恐らく甘いものの次にくるほどに男は入浴を楽しんでいる。風呂に行ってから出てくるまでの時間は平均して二時間以降。意識していなければ平気で三時間はゆうに越えることもある。

 それを周知しているノーチェは、終焉が自分より先に風呂に入りたいと申し出たことに僅かながらも驚きを覚える。
 終焉はノーチェに生活習慣を正すよう、基本的なことは強制してでも行わせる節がある。もし仮に彼より先に終焉が風呂に入るというのなら、楽しむ時間を大幅に削ってでも出てこないとノーチェは入れずに終わる。睡眠時間を削ってもいいというなら彼は容赦なくそうしただろう。
 ――しかしそれすらも許さないのが終焉という人物だ。男は確実にノーチェの為に手早く入浴を終わらせるのだろう。

「…………いいけど……アンタがいいの……?」

 形のいい唇を開いて呟くように問えば、終焉は一度瞬きをすると「仕方がない」と言う。まるで言いたいことが全て分かると言わんばかりの言葉に顔色が読めない男だな、と思えば、どこか残念そうな顔付きの終焉が目に映る。
 さあさあと流れ続けるシャワーの音が雨音に負けじと浴室に響いていた。終焉が本当に風呂が好きなのだと、思わざるを得ない表情に、微かに頬を掻く。正直身の回りのことなど気にしたこともないノーチェにとって、生活習慣など大したこともないこと。終焉が優先するようなことなど一切ない筈なのだが――「愛している」というだけで、ここまで気にするものなのかを考えさせられる。
 そこまでして何かを避けているような行動を取り続ける理由が、彼にはまだ分からなかった。――だからそっと唇を開く。

「アンタ、風呂好きだろ…………一緒に入る?」

 そうすれば長く入れるだろ――なんて多少の冗談を交えて。
 あくまで「何となく」の話ではあるが、ノーチェは薄々終焉が何かから逃げるような気がしてならない。男の目を見る度に緊張のようなものが伝わって、汗が滲むような思いを先程からしているのだ。不快というわけではないが、理由もなく不安に駆られてしまうのだ。
 ここまで露骨な冗談を告げられれば嫌でも終焉は風呂に入らざるを得ないだろう。我ながらいい冗談を呟いたものだと、ノーチェは無表情で、胸を張る気持ちでいるが――対する終焉はただ茫然として、ノーチェを見上げたままだ。
 さあさあと流れる水の音、止まり続ける終焉の動き。――あれ、と首を傾げるような面持ちでいれば、終焉がハッとしながら首を横に振り始める。

「い、いや、そんなわけには――」

 そう呟いた瞬間、一際目映い閃光が屋敷内の――浴室の――小さな窓から見えた。パチリと光るようなものではない。迸る稲妻が見えても不思議ではないほどの眩しい光だった。その後に鳴り響く地鳴りのように唸る音に、雷が鳴ったのだと気が付いてしまった。
 言葉を紡いでいた筈の終焉は表情を固めていると、「そ、うだな」と手のひらを返すように発言を変える。

「……入ってくれるか?」

 顔色を窺うような終焉の言葉に、彼は思わず「え」と呟きを洩らす。断る筈だった言葉を撤回するほどの事情が男にはあるとしても、成人男性がひとつの浴槽を使うなどという見苦しい光景に直面したくはなかった。
 ――しかし、その誘いを突き出したのは他でもないノーチェ自身だ。終焉は断ってもいいと言うように彼の顔色を窺っているが――、普段とは異なった様子を見れば断るのも鬼だろう。

「…………大、丈夫……なら…………」

 裸の付き合いにいい思い出はない。それでも彼は、終焉の期待に首を縦に振った。


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