抜け出せない。
もう、
君しか見えない。



2.天秤



今、謙也は誰もいない部室で日誌を書いている。
今日はレギュラーがあまり来ていないため、謙也は個人練になり、光は2年生の練習に混じっている。
日誌は、個人練の休憩ついで、といったところだ。

「あれ、謙也一人かいな」

入ってきたのは白石だった。
ふと、光が言っていたことを思い出す。
まさか、と思い、謙也は白石と話をしだした。

「せや、日誌当番やでな」

「ふーん…」

「白石こそ、何しにきたん?」

「俺?」

白石はニヤリと笑って、謙也を、じっと見つめてきた。

「謙也に会いにきたんや」

「…………は…?」

謙也は目をぱちくりした。
それを見て、白石は軽く笑った。

「ほんまかわええな、謙也」

「なッ!」

白石が謙也の頬を撫でたのだ。
綺麗な白い手で、柔らかく、いやらしく。
途端に、心臓が大きく跳ねた。

「なんや、俺のこと意識したん?」

「あ、ほちゃう?んなわけあるかい…」

謙也は必死に光の顔を思い浮かべ振り払う。
意識なんてしていない。
光以外の人間を意識するなんて、どうかしている。
白石は、千歳と付き合っているのだ。
謙也は光と付き合っている。
もう昔の自分はいないのだから。

「ふーん…そーいや謙也、光とはどーなん?」

「は?どーなんって…付き合うとるけど…」

「ふーん…」

「白石こそ、千歳とどーなん」

「んー…別れるかもわからん」

「はぁあ!?」

白石は、千歳とうまくいっていない?
昔の謙也ならば、またとない絶好の機会だっただろう。
しかし、今となっては驚くだけで「なんで」としか思わなかった。

「俺、知っとんで。この間お前らが部室でイチャついとったん」

「いつの話や」

「一週間くらい前や」

「ああ、あの頃にはもう別れたいと思うてたよ」

「ほんまか…?」

一週間前、確かに白石と千歳が部室で愛し合っているのを目撃したのだ。
千歳のキスを受け入れる白石を。
ほんの少しだけ、胸が痛んだのを覚えている。
忘れたいのに、覚えている。

「ほんまや」

「…なんでや?」

「うっとおしいねん。束縛しよるし、ヤりたいばっかやし」

白石は、千歳としているのか。
ああ、胸が痛む。
苦しくて、泣きそうだ。
自分だって光としているのに、自己中だと思う。

「謙也は、光に不満とかないん?」

「ないで。強いて言うなら、光が完璧すぎて、釣り合わんとこやな」

光は二人きりのときは優しくて、綺麗で、格好良くて、謙也のような足が早いだけの凡人には出来すぎた彼氏だった。
白石も、その辺の女よりよっぽど綺麗で魅力的だから、結局変わらないのだが。

「即答かい」

「…おん」

白石は残念そうな顔をした。
けれど、すぐにいつもの余裕のある表情に戻った。

「一途やなぁ」

「……さっきから、何が言いたいねん」

恥ずかしい。
白石は、こんな話をしにわざわざ来たというのか。
白石は、また少し笑って、一呼吸置いた。

「…なあ謙也、頼みがあんねん」

「なんや?」

「俺と付き合わへん?」

謙也の、動きとか呼吸とか思考とか、すべてが止まった。

「は?今、なんつった?」

「せやから、俺と付き合わへんかて」

空耳ではなかったようだ。
この場合、「ちょっと買い物に付き合って」の「付き合って」ではないと思う。
「俺に付き合ってくれないか」とは言わなかった。
間違いなく、男女が「付き合う」という意味だろう。

「冗談やろ…?」

「冗談やない」

「………」

「謙也、好きや」

白石から初めて言われる「好き」。
どれほど聞きたかった一言だろうか。
しかし、今このタイミングでは、聞きたくない一言だった。
白石は、謙也と浮気しようとしている。
こんな形で結ばれるなんて間違っている。

「あかん。俺、光おるし」

「別れたらえーやろ」

「……ッ」

「俺、知っとんで?お前が俺のことずっと好きやったん」

「………」

「な、一緒に別れーへん?」

だめだ。
心が、光から離れて、白石に片寄っていくのがわかる。
謙也は、出会ってすぐに、白石を好きになった。
ずっと、ずっと好きだった。
白石がオサムちゃんと付き合い始めても、どうせすぐ別れると思っていたから、諦めずに好きでい続けた。
けれど、オサムちゃんと別れた白石が選んだのは、ずっと好きでいた謙也より、転入して間もない千歳だった。
すごくショックだった。
涙が渇れるまで泣いた。
どうして。
ずっと好きだったのに。
そんなことばかり考えていた。
それから、白石を諦めて落ち着いた頃、光と付き合い始めた。
光のことを本気で好きになって、白石を忘れようとした。
せっかく、ただの友達として見れるところまで来そうだったのに、戻された気分だ。
白石は、うつむいていた謙也の顎を持ち上げた。
目が合わせられない。

「逃げへんの?」

「………今頃言うたって遅いわ…」

「ん?」

「ずっと、好きやったんやで…」

「知っとるよ」

「どないせえ言うんや…」

自然と、涙が溢れそうになる。
ずっと好きだった白石の顔がこんなに近い。
吸い込まれそうな瞳に綺麗な肌。
ずっと待ち望んでいたものが、差し出す手をとるだけで手に入る。
白石が、手に入りそうで、けれど光も大切で。
決して、失恋した悲しみを癒してくれたからとか、そんな理由ではなくて。
純粋に、白石を好きになったのと同じように、ただ愛しいと思ったから付き合ったのだ。
だから、光を裏切ることができない。
謙也が年上でも関係ないと言って必死に繋ぎ止めようとしてくれている。
謙也のために、一生懸命な光を、裏切るわけにはいかない。

「…今、光のこと考えとったやろ」

「………う…」

「まあ、別に俺はかまへんけど?謙也が光に未練あんのもわかる気いするわ」

「……お前にわかるかい」

「わかるで?俺も千歳と付き合うとき、未練あったからなぁ」

「なんの未練やねん」

白石は、ふ、と笑って答えた。

「俺も、謙也のこと好きやったんやで」

きっと、白石と浮気する気にさせる嘘なのだ。
過去のことならなんとでも言える。
なのに。
なのに、どうしてこんなに嬉しく感じてしまうのだろう。

「い、いつから…?」

「いつって…お前、オサムちゃんと別れたとき気遣ってくれたやろ?」

「…ああ」

「あんときから気になってな」

白石が手に入ると思ってしたことだ。
失恋したところに漬け込む、最低な男。
そんなことで、好きになってくれていたのだ。
もっと早く気づきたかった。

「けど、謙也は財前と仲良かったやろ?」

「せ、せやったけど、俺は白石のこと…」

「俺は財前に気がいったんやと思てたから」

「やから、オサムちゃんと別れても俺んとこ来なかったん…?」

「せや」

「なんで、言うだけ言わんかったん…」

「俺、告白するキャラとちゃうやん」

「ほな、お互い待ちやったん…?」

「せやな」

「他に質問は?」と白石が尋ねる。
信じられない。
これが本当なら、あのとき、両思いだったことになる。
もう、鼓動で心臓が張り裂けそうだった。
涙が溢れた。
今頃両思いになったって遅すぎるのに。
ああ、完全に白石に心が傾いている。
このまま、唇を重ねたい。
白石のことが、好きだ。
好きだ。

「なぁ、キスしてえぇ?」

好きだ。

「……おん…」

一瞬、頭の中で光の顔が過りそうになったが、必死に押さえつけて考えないようにした。
白石と初めて重ねた唇は、震えていた。
しかし、これ以上ない位、白石のことが愛しいと思った。



――――――
浮気してしまいました。
こっからドロドロですよ!

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