【献品用】ローズ座とアントニー

少しの間世話になった演劇艇を後にした青年は、ヴェローナで繰り広げられていた戦争が終わり、劇場までもが設立されるまでに復興を遂げたことを己の目で確かめるために何年ぶりかしれない祖国の地へ降り立ち。
激しい動きを取っても決して揺らがない板の上に立てるのは久しぶり、と浮足立ちときめく心を自覚しつつも、出奔の折に捨てたはずの家という過去のにおいをどうしても感じ取ってしまい頭を何度か振った。
同じ名の人間などいくらでもいるのだし、とうの昔に連絡の途絶えた放蕩息子に会いたがる家族もいるかどうか、そもそもまだ存命なのかすら確認する気も失せている。
青年の特技の一つでもある、一度でも見た顔を決して忘れないという能力の言うところによれば、一度分かたれた祖国と隣国が再びひとつに戻ったことで滞っていた人の流れが活発になっていることを差し引いても、青年の過去を知る可能性のある人物は往来には一人もいない。区画整備が進むにつれて小路のきな臭さも失せていくだろうし、そうなれば評判を聞きつけて移住してくる人間もじきに増え、青年の存在は街に溶け込み受け入れられ過去と決別した違う自分として生きていける、そんな予感さえあった。

演劇を愛し、演劇に愛された彼は、アントニーと呼ばれている。
舞台の板の上でヒトを演じ、役を演じ、自分の人生さえ演じる役のひとつなのかと憶測が飛び交ったこともある彼は、塗料のにおいの抜けきらぬ真新しい劇場の前に立った時。
静かに自分の人生の第二の幕に手をかけたのだが、そうと気づくまでには少々の時間を要した。

板の上に立つために必要なものから順次買い揃え、ローズ座という名のついた新設の劇場で演劇を演じるために自分に必要な情報を集め、アントニーは日々を忙しく過ごすことが多くなっていたが、それらに費やされ消耗した体力による疲れなど感じているほど暇ではなかった。
戯曲家サオウから提供される数々の戯曲に役者として全力で立ち向かっていると、ひとりの私人として割かざるを得ない些末事への体力の消費など忘れてしまうのだ。窓辺の机に突っ伏して眠るアントニーの睫毛が月明りに照らされ顔に影を落としても、翌日に疲れを残すような迂闊を彼はしない。
疲れを隠しきれていない顔で舞台に立つようでは半人前以下で、自己管理がおぼつかないようでは板の上で役に呑まれ自分自身をいずれ見失うと断じられ、大切な役を任されない事態にもつながっていく。
自己を律することはすなわち、役を役の枠組みから逸脱せぬよう律しながらのびやかに表現することにもなると、師事した先達から教わってもいる。
板の上での経験年数を考えると、アントニーももうそろそろ誰かの道標となる選択肢が生まれていてもおかしくはない。
だが彼は演劇を愛すると同時に、演劇に愛された自身の能力を自覚してもいた。また、板から降りて誰かを導くよりも、同じ板の上に立った上で、板との向き合い方を同じ場に立つものとして伝える方が性に合っているようにも思っていた。
板の上に立たない自分の姿を想像できなかったとも言うし、現役を退くなど彼の年齢からは考えられなかったとも言える。
そんなアントニーが、自分の人生の二幕目の佳境に立っていると気づいたのは。
国王の守護精霊が摩耗した機構により誤って顕現してしまい、その折の衝撃で吹き飛ばされ頭を打ち気を失いかけた時だった。

求められる自身の像を演じていたのはいつからだったのか。
それはいつの間にか自身にとっての呪縛になっていたのか、それとも無意識に自分はこうありたいと思い描いた像をなぞったものなのか、答えは出るかどうかすら不確かで。
何らかの求めに応じて顕現した国王の守護精霊の機構よりも複雑な、板の上での自分と板を降りている時の自分との照らし合わせは、役者であれば誰しも一度は思い悩む命題であるとは知識として知っている。
無垢の面影がまだ残っているローズ座は、時に幼ささえ求められる役を身にまとう時もしっくりと馴染み、外道を貫き通す折には冷ややかな世界の視線を突き刺してもくる、とても相性のよい場として愛着も湧いて久しい。
公演を重ね感じる手ごたえと同等かそれ以上に評判が街を駆け巡り、独り歩きしていく人気に見合う自分であれるように研鑽を重ねているが、収容人数の決して少なくないローズ座のチケット争奪戦が激化するにつれ演者の技量は高まる人気と寄せられる期待に見合うだけのものなのか、自身に問いかけを投げかけ続ける責務くらいは負いたいものだと思ってはいるのだが。
自分自身としての像と、演じる役柄の像は対比があって初めて成立するということであれば、アントニーという個は個でありながらも別の個としての数々の役を全うするだけに相応しい役の核や背骨となる情報を会得している異質な存在へとなってようやく、目指した自分自身の像に近づくのかとも思う時がある。
小難しい話が好きなわけではないが、『そういう技術』があってこそ演じきれる役の話を自分の都合で蹴るつもりのないアントニーは、舞台の上の芝居と割り切りきれないリアリティーを追求し一切の妥協を差し挟むつもりがないのだ。
芝居のもととなるサオウの戯曲の魅力を損なわず、自分が演じることで加わる個としての味わいを添えて、芝居は日々上演される。
ひとときの夢幻がヴェローナの民衆を奮い立たせ、一筋縄ではいかない現実へと立ち向かう原動力となるかどうかは舞台上の役者次第だ、と語れば言い過ぎと嘲笑されるかもしれない。
それでもアントニーは、舞台の上だからこそ安心して見ていられる悲しみや怒りを、ヴェローナ国民自身に降りかかるものであるかもしれないとの警鐘を鳴らす程度にとどめ置き。
板の上とつながっている現実にまで下りて行けばよいのは、喜びや幸せであってほしいと願うばかりで。
すべての物語には幸せな結末があればよいと願ってしまうのは、ただの自己満足であり傲慢極まりないことなのかもしれないが。
アントニーの願望は叶うのだ。
目指し進み続ける歩みさえ止めなければ。

国王の守護精霊をなんとか鎮めたのち。
ごく一部の者に限ってだがヴェローナに戻ってから秘匿していた自身の過去を打ち明けてからは、個人としてのアントニーの深みも追及できるようになってきたように感じる機会も増えた。
季節がいくつか過ぎ、王制から共和制への移行を進めつつあるヴェローナは多様な文化の華が咲き誇り、芝居の人気も隆盛の極まりがどこなのかすら知れぬほど高まっていた。
新たなメンバーを迎えての公演もローズ座の名に相応しい成功を収め、観衆の心を掴み離さぬ数々の芝居はヴェローナに住まう民の心の一部であると形容しても遜色ないほどに、身近になっていった。

サオウの戯曲とアントニーの芝居、ヴェローナに立ち寄ったなら一度は見ておく価値のあるものとして最初に挙げられるようにもなっているのだが。
当のサオウは謎に包まれている上に、アントニーに至っては通り名が実名なのかどうかもわかっていないのだから、事実とされる情報は意外と少ない。
それでも確かなことはある。
演者としての才能に愛され演劇を愛する『アントニー』という青年は、ローズ座に限らずヴェローナの看板役者になる日も近いと囁かれていることだ。



[ 12/14 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -