五章

 平和な日常は、何よりも愛しいものだった。俺の場合、いつ奪われても文句の言えない立場だけど、それでも愛でずにはいられない。三年の先輩が卒業して、無事に進級して、後輩が出来て。だからどうした、って言われかねないようなありふれた変化を、俺は謳歌している。
 瞬く間に四月が過ぎ、五月も半ばに差し掛かって、部内の面々も定着したかな、って頃。
「おい」
 部室で着替えている最中に、岩ちゃんが声をかけた。何だろう。
「熱あんじゃねえか」
 顔赤いぞ。
 そう言った岩ちゃんは、俺の額に掌を当てる。続いて頬っぺたにも。日にはあまり焼けていないから血色がすぐ顔色に出ると言えば出るけど、言われるほどに赤いんだろうか。
「鏡見ろ」
 心配性だなあ、岩ちゃんったら。
 鞄の中を漁って鏡を探し出す。鏡の中には確かに、頬を紅潮させた自分がいた。
「あれ?」
 岩ちゃんの杞憂じゃないっぽい。体調は特に悪くないのになあ。
「岩ちゃんにも、そう見えてる? 確かにちょっとだけふらついたりはしたけど、このところ一日に何回か同じような事になってるし、すぐ収まるよ」
 だから放っておいても害はないし、何より俺は部活に出たいんだ。
「ダメだ」
 緩めたばかりのネクタイを勝手にもう一度締め直しながら、俺のこれからの予定を岩ちゃんは勝手に決める。
「病院で診てもらう必要がある熱なのかどうかも、俺たちには判断できねえんだ。部活に出たいってんなら、先に病院行って、問題ないってお墨付きもらってきてからだ」
 岩ちゃんのけち。今日は顔に出てたかもしれないってだけで、多少の熱があったってあからさまに体調悪かったりなんてしないのに。
 言い出したらなかなか自分の意見を曲げない頑固者の岩ちゃんは、こうなったら梃子でも動かない。大人しく言うことを聞いて、診断書でも見せない限りは部活に出させてもらえないだろう。
 仕方なく、もう一度制服のジャケットに袖を通す。けど、ただでは引き下がりたくないって思っちゃうのが、幼馴染ってやつなのかな……。
「──最近特に、岩ちゃんったら過保護だよね」
 後輩の面倒は見るけど世話を焼いたりはしない岩ちゃんの中での、唯一と言えるかもしれない例外が、俺。
「お母ちゃんでも俺のこと、こんなに心配してないよ」
 朝は普通に起きられるし、朝ごはんもおいしく食べてる。家での朝の俺はこれといった問題は抱えていないはずだ。朝練に出かけてから夜に帰ってくるまでに、気分が悪くなったりもしていない。夜は、まあ、その……聞かれたくないあれやそれが繰り広げられているだけで、ね。
 目に見える形で接する態度を変えているのは、お母ちゃんよりも多分岩ちゃんだと思う。柄にもなく俺を迎えに来てみたり、早起きが得意じゃない俺が欠伸しながら歩いてるのを苦笑交じりで見ていたりしていて。そんな岩ちゃんがちょっぴり格好良く見える以外は、俺の側には変化もないし、体調面での違和感も大きくはないんだけどなあ。
「顔つき合わせてる時間の違いじゃねえの。お前俺と一日の中でどんだけ一緒にいるのかわかってんのか?」
 呆れたように岩ちゃんが言う。
「えっと……起きてから寝るまで、ずっと?」
 だよね。だろうねえ。朝、布団の中から出る前、今日も元気だよ、無事だよって意味で、岩ちゃんにおはようを伝えないと俺の一日は始まらない。朝は俺から連絡する分、夜は岩ちゃんからもう寝ろ、って一言が送られてくる。寝坊したりするとついうっかり連絡し忘れて、後でゲンコツが一発飛んでくる。俺にとっての日課であると同時に、岩ちゃんを安心させるための責務にも等しかった。
「わかってんならいい」
 きつかった岩ちゃんの目つきが緩む。
「そんだけお前と顔突き合わせてんだ、様子おかしいのも見りゃわかっし、いきなり倒れられると調子狂うんだよ」
 だからとっとと診てもらってこい。待っててやるから。
 頭をがしがしと掻きながら、照れ気味に岩ちゃんは俺に告げた。
 こう言われてしまえば、通院しない限り絶対に部活に出られない。その位の根回しは、岩ちゃんならしれっとやってのける。俺がお墨付きを貰ってくるか、岩ちゃんが折れてくれるような正論を吐けない限りは、事態は進展しないだろう。
 素直に俺は引き下がることにした。
「その代わり」
 引き下がるけど、食い下がりもするよ。諦めの悪い性分だから。
「何ともなかったら、戻った後に自主練付き合ってね」
 通院でロスする時間の分だけでもいい。何ともなかった時に誰もいなかったら、出来る練習の幅はぐっと狭くなってしまうから。
「おう」
 先行って待ってっからな、って。着替えた岩ちゃんは、片手を上げて部室から出ていく。階段を下りていく足音も遠ざかり、部室には俺一人が残される。
 見送る余韻に浸ってる場合じゃない。熱が続くとろくなことがないのは経験則で判ってる。鞄の中からかかりつけ医院の診察券を探しても、ちっとも時間稼ぎにならなかった。
 絶対何か言われるし、場合によってはまた検査になるだろうから、薬がなくなるまでは行きたくなかったけど。
 遅いか早いかの違いでしかないと自分に言い聞かせて、全く気乗りしないまま目的地を目指した。



 校門を出てから徒歩五分圏内に、俺のかかりつけの医院がある。規模としては小さく、医院というか診療所に近いけれど、腕と見立ては確かなんだ。患者が自覚していない症状についても適切に対応するし、嘘の申告をしても即座に見破る。だから今回ばかりは通院を先延ばしにしていた。
 そのツケが回って来たらしい。俺の顔色を見るなり、先生は採血を始めるよう看護師さんに指示を出した。左腕に細い針を刺し、合計三本の検体を取って、看護師さんの勧めのまま待合室に戻って。
 柔らかな三人掛けのソファーの端に腰を下ろして一息つくと、一瞬視界が暗転する。いつものことだ。いつも、病院の待合室で具合が悪くなる。目が回ったり、体が怠くなったり、微熱の域を出る発熱があったり。目眩はすぐに過ぎ去り、今回残ったのは熱とそれによる怠さだ。風邪を引いた時の症状とよく似ている。けれど、風邪ではないような気がしてならない。
 病院以外では気を張っているから症状が軽く済んでいるだけで、本当は病院に来る前から同じ状態になるはずだ、ってかかりつけの先生はいつも言う。そんなに頻繁に熱出していられるほど、俺は自分のバレーに満足していないし余裕も感じていない。それなのに先生は、度々の発熱は成長に伴うものだからといって取り合わないし、根本的には治らないし今の医学じゃ治せない、って俺に諦めるよう諭してくるんだ。
 先生が医師として伝えなければならない、言い分みたいなものがあるって事はわからないでもない。
けれど、俺にだって自分の生活があり、生きたい人生がある。求めるものだって、見つけてしまった後なんだ。易々と諦められるような代物じゃない。それでも俺の体は、そんな未来を否定するかのような成長を続けている。そろそろ番を作らないと、発情期に間に合わないかもしれない。けど、そんな事に貴重な時間を費やしたくはない。どうしてバレーに夢中なままでいさせてくれないんだ。不自由の代わりに大きな目こぼしがあるんだろうけど、俺はそんなの欲しくない。義務の裏側にある、権利が欲しい。誰に咎められるでもなくバレーを続けていられる、権利が。
 したい事。できる事。すべき事。色々あって、ありすぎて、頭の中がぐちゃぐちゃになる。ぐちゃぐちゃになって、余計に熱が上がりそうだ。
 ふらりと体が傾いで、ソファーに上体が落ちる。浅く沈み、包み込むように体重を受け止める座面の感触が心地よい。壁にある掛け時計がちょうど見えた。
今頃はとっくに俺以外の全員が揃って、練習漬けになってるんだろうな……岩ちゃんも含めて、皆熱心だから。俺がこうして、時計の秒針をぼんやりと眺めている間にも、差が生まれているのかもしれない。でも体がついてこない。もどかしさでどうにかなってしまいそうだった。
 たったの十周で、秒針の周回を数えるのにも飽きた俺は、いつの間にか目を閉じていた。そして、寝入りばなを起こされた。
 最初は間違いじゃないかって思ったんだ。いつもなら、検査結果が出るまで──それが簡易検査であっても──軽く一時間は要していたから。
 だから確認してみたんだ。もう結果が出たんですか、って。
 間違いじゃなかった。今まで陰性しか出なかった一次検査で陽性反応が出たから、こんなに早くに呼ばれ、起こされたんだ。
 一次検査で陽性って、平たく言うとどんな結果なんだろうか。ここまでの経過とはかけ離れた、決定的な違いがとうとう生じたんだろうけど、その中身は何なのか。まだ心の準備が出来てない。もっと時間がかかると思ってたから、変に速くなった脈が治まらない。
 ゆっくりと時間をかけて起き上がる。体勢を変えた時の嫌な目眩は起きていない。大丈夫、動く分には問題なさそうだ。
 何度か瞬きをし、目に残った眠気を飛ばせば、向き合うべき事態と相対する瞬間が近づいてくる。待合室には、浮遊感を伴う独特の緊張を分かち合える可能性のある存在どころか、患者の一人もいなかった。その中から出ていく怖さは、経験しないと恐らく解り得ないだろう。



 診察室に入るなり、検査データを手にした先生と目が合った。
 椅子に掛けるよう促され、言われるままに腰を下ろす。何を宣告されるんだろう。ろくなことがないのは予想できる。この類の緊張感を覚える時はいつもそうだから。
 沈黙が重い、なんて感じるくらいに時間が経つより先に、先生は大きさの違う二種類の薬袋をそれぞれ手に持ち俺に突き出してきた。
 まだ会話らしい会話は一言も交わしていない。片方の薬袋には、見覚えがあった。
 どちらかを選ぶ時期に差し掛かった、とだけ先生は俺に告げる。
片方に持っている袋は、いつも俺がお世話になっている抑制剤の袋だ。ただしその袋は、処方期間は普段と同じはずなのに、今までの何倍もの薬を内包して膨れ上がっている。
 もう片方は、抑制剤の袋とは対照的に、薄っぺらで頼りない簡素な紙製の封筒。俺はまだその袋を目にしたことはない。同じように中には錠剤が入っているのか、束ねられたシートの形を浮かび上がらせている。
 その封筒の隅には、小さな文字が書かれていて。目を凝らして読み取って、愕然とした。紛れもない薬袋で、内包しているのは、俺が目を背け続けていた現実そのものと言える薬だったから。
 小さな袋の片隅には、避妊薬とだけ、書かれていたんだ。



 診察を終えて得た結論。
 部活には出ていい。即時の対処は、まだ体には必要がなかったから。けど俺は部活に出ようなんて気を毛頭なくしていた。気持ちを整理するので手一杯で、部活に打ち込んで頭を真っ白に、なんて出来っこなかったから。
 帰宅しながら俺は、先生の話を思い返していた。今までに聞いていた話と合わせれば、ああ、そういうことだったのかと合点のいく部分もあった。
 続いていた発熱はオメガの成長における生理現象で、大人になり終える前には必ず熱が出る時期があるんだそうだ。調子が良くなったらそのうち最初の発情期がやって来て、オメガとしての成熟は完了するって話だった。
 男女差による成長を二次性徴と呼ぶように、三つの性による更なる段階への分化が起こる十代の後半を、三次性徴と呼ぶこともある。早ければ二次性徴と並行し、遅ければ高校在学中に、二次と三次が絡み合い六つの性の組み合わせが構成されていく。俺の場合は身長の伸びを中心とした身体的な発育が先行していた分、体内の機能はゆっくりとしか成熟せずにいた。抑制剤を多用して遅らせていた側面も勿論ある。
 けれど、それももう限界。オメガへの分化のタイミング自体を、抑制剤を使って後ろへとずれ込ませた反動のようなものが、今になって一気に出ているらしいから。もういつ訪れてもおかしくない最初の発情期に、性成熟を間に合わせるための時間的な限界を迎えたから、発熱を伴う急速な変化が止まらない、って事のようだった。
 最近まではどうにかバレー最優先で生活を回せていただけに、落差は大きい。生活における諸々の比率を根本から見直さなければ、バレーに集中するどころか社会生活が危うくなるまでに、オメガの性が今後は猛威を振るい始める。発熱はいわば、順調な成長の証でもあったけれど……どうにかしたいのなら、方法は限られている。性欲が満たされていないと、アルファを求めて熱が出る。だから……すぐにでも、番を作って何とかしてもらえばいいんだそうだ。性欲のはけ口さえ用意してやれば、熱も下がるし体もずっと楽になる、って。
 脅すわけでも責めるわけでもないけれど、その年齢でまだ番がいないのは、体に結構な悪影響を及ぼすから急げるなら急いだ方がいいとまで言われている。精神的なことは度外視しての発言だとは思う。けど、現実は、あまりに冷酷で。あの場では何も言えないまま、俺はこうして帰路についている。
 ……つがい、ね。
 いずれ、だよ?
 作らなきゃいけないし、誰のためにもならないってこと位わかってる。発情を止めてもらえずに野放しにされるのが、一番体への負荷が高いって知ってもいるけど。
 アルファ相手に、発情期以外でも俺はきちんと欲情できるのかどうかが、そもそも怪しい。それに、好きでも何でもない、ひょっとすると顔だって見たことないような相手を、一生の伴侶にしなきゃならなくなるかもしれないんだ。そんな人に足を開いて、色々な事をしたりされたりするなんて、見当さえつかないよ。嫌悪感を持たずにいられるのか、さえわからない。
 番になったら、一緒にいる時間も必然的に一気に増える。発情期以外でも、体がその人を欲しがったら俺は頼るしかないのに、俺の都合で振り回すその人を心から好きになれなかったら。何が、起きる?
 発情期は専用の受入施設もあるし、それ以外の時も専門の医院ですぐに診療を受ける体制は整っているとしても。症状を落ち着かせる助けにはなっても、落ち着かせるためにはどうしてもアルファが必要で、行きつく先は結局変わらない。苦しい思いをするのは俺だから、誰かが代われるものでもないし、もっと周囲を頼って生きていいのに、って言われても……やっぱり、抵抗感があるんだよ。
 まだ逆接は続く。仮に、最初の発情期を無理矢理耐えたとして。そのままでは二度目の発情期で体を壊すから、無茶はよして番の公募制度でも何でも使えって。一度目の発情期程度じゃアルファを引き寄せるには強度が不十分だと曲解した体が、二度目からは自分の消耗も無視した強さで発情期を引き起こすから、って。発情期が来るより先に番を作って、一緒に過ごしてもらうのが一番なんだそうだ。生活に直結する段階までもう来ているから、急げと釘まで刺されている。
 自嘲するしかないじゃないか。こんな事を、一体誰に打ち明けられる?
 いつ発情期を迎えてもいいように、適当に相手見繕えって、いくら体がうるさくっても即物的な欲求に流されるのは嫌だ。
 何もしたくないわけ、ないのに。本当は、油断したらすぐに、岩ちゃんにねだりそうなほど、切羽詰まってきている。安静にしていても呼吸が浅く速くなって、頭がぼんやりする。抱かれること以外考えられなくなる時間が、少しずつだけど生まれてきている。
 去年受け取って、躊躇いながら使っていたアレも、寝る前に使うのが日課になって。いくら疲れていても一度すっきりさせないと眠れなくなった。今でこれだけ振り回されているのに、本当に発情期が来たらどうなるのか、考えたくなかった。
 避妊薬を出されるのは、大人の証。誰かに体を明け渡す前提での投薬。ぐらぐら揺れる視界は、熱のせいだけじゃない。
 現実を受け入れたくない。オメガとして大人になるってことは、岩ちゃんとのお別れをしなきゃならないってことだから。岩ちゃんの隣にいても、体が大人になったら、今までの比にならない位迷惑をかける。繰り返される度に厄介になってく発情が、岩ちゃんをおかしくするのも時間の問題だ。
 だから、面倒見てくれるアルファのところで一緒に暮らして、定期的な発情を全部止めてもらう必要がある。その過程で、新しい命を授かって、育てていくって可能性もあるけど。今までに数えきれないオメガが辿った道を、俺だけ耐えられないわけない。
 それに、俺のわがままで、岩ちゃんを不幸せにしたくない。岩ちゃんには岩ちゃんの幸せがあるし、俺のせいでそれが損なわれてはいけないんだ。
 予期せずに、岩ちゃんとはお別れをしなきゃいけなくなったら、俺は岩ちゃんにとっての何になるんだろう。思い出になれるのか、汚点になってしまうのか。結論が出る場には、おそらく俺は立ち会えない。
 だから、言いたかったことは全部、書き残しておこう。
 この先間違いなく訪れる、さよならのために。



 明るい間に家に帰ってみると、部屋の机の上に紙切れが置かれてあった。出張と町内会の懇親会とで、明後日まで家には誰もいないから、戸締まり確認してカレー温めて食べてねって。そういえば、朝に家出る間際に、何か言ってた気がしてきた。
 薬袋を持って台所へ行ってみれば確かに、大鍋が仕掛けてあるのが見えた。おそらく中身はカレーだろう。近くにはラップで包まれたご飯もある。それを横目に、食器棚からマグカップを取り出した。
 帰り次第すぐに飲むよう厳命された避妊薬は、一日一回好きなタイミングで飲めばいいって話の、うっかり者にも優しい親切設計だった。この位でないと、生活が不規則になりがちなオメガに適した薬としての、認可が下りないのかな。
 すぐ飲めなんて、まるで明日にでも発情期が来るみたいな言いぐさだ。わざわざ口頭できつく言い含めなくてもいいのに、先生は何を考えてるんだろう。そんなに早く、俺は大人になりたくないのに。大人と同じ体つきになったって、岩ちゃんと一緒にいられる、中身は子どもの体のままがいいのに。
 日に日に自分の体が変わってく恐怖を、誰と分かち合えばいい?
 嫌でもアルファを必要としていく体になっていくのを、指くわえて見てる以外何もできないなら、アルファがオメガを支えてくれるなんて嘘だ。
 水を注いで手元に置き、薬のシートからカプセルをひとつ取り出す。桜色をした、見た目は華やかなのに、効果がえげつない。特定の条件を満たさない限り、アルファ相手でも避妊効果が得られるって代物なんだから。
 けれど、そんなのを処方された身の心境は慮られたりしなかった。医者という仕事は、時に冷徹な決断を下さなくては患者を救えないんだろうけど、今の俺を精神的に救ってくれるのは誰なのかって話になればどうなのか。
 飲みたくもない避妊薬を口にする。そうしろと命じられた手が、勝手に動いた。それでも、まだ悪あがきをしたがる気持ちを、一体誰が共有してくれる?
 俺の番になるべき相手が誰なのかもわからないくせに、勝手な都合を押し付けてほしくなかった。
 俺自身が自覚していなかった番の重要性を不十分にしか説かなかったんじゃないのか。
 いずれこうなるって知っていたのに。
 結局は、俺が本当はどうしたいのかをわかってくれなかったのに。
 薬を飲み込んだ瞬間から、今まで積み上げた何もかもを諦めて、唯々諾々とアルファのための生殖に回れって?
 バレーも岩ちゃんも取り上げて、代わりに何をくれるっていうの。俺の拠り所を、今までの及川徹を、一切を壊して何を創ろうとしているの。
 カプセルが溶けて、吐き気を催すほど甘い中身が口のなかに拡がる。
 飲みたくない。
 飲まなきゃいけない。
 飲まずに生きていきたい。
 けど、飲まないと――自力では育てきれない、新たな命を一つ抱え込む。
 俺の、わがままのせいで。
 喉がひとりでに動いた。口の中に残る甘さを、水を足して何回も飲み込んだ。コップが空になってもまた注いで、名残が完全に消えるまで、水を口にした。
 産み育むための体は、無邪気にアルファを呼ぼうとして、また熱を高めていく。起き上がっているのもつらいから、部屋に戻ってもう寝ようと思ったら、布団を朝片付けるのを忘れていたせいで敷きっぱなしだった。制服を脱ぎ捨てて部屋の隅に投げ出したら、部屋着に着替える気力もなくなって、下着姿のまま横になって壁を眺めていると。
 いつの間にか涙が溢れてきていた。止まらずに、目元を何度も拭った。慰めてくれる人は誰もいなかった。



 熱冷ましを手に入れられなかった体にとっての、一番の特効薬は睡眠だったらしい。俺は知らない間に眠っていた。目を覚ましてみると、熱が呼び込んだ怠さも頭の中の靄もかなり取れている。いつもと同じ睡眠時間じゃ、足りなかったようだった。
 ゆっくり目を開くと、大して物のない部屋の窓から、すっかり暗くなった外が見えた。いつの間にそんなに時間が過ぎてたんだろう。真っ暗な室内でとりあえず起き上がろうとしたら、掛けた覚えのない掛け布団が肩からずれた。
 暗がりの中、よくよく目を凝らしても、散乱していたはずの制服が辺りには見当たらない。
 どうなってるんだろう。今日は誰も帰ってこないはずなのに。寝てるだけじゃ何も判らないから、ゆっくり起き上がると、部屋の照明が勝手に灯された。
「寝てろ、及川」
 岩ちゃんの声だ。水差し片手に、部屋に入ってくる。
 ……あれ、家の鍵、かけたかどうか思い出せない。
「戻って来ねえからやっぱ医者になんか言われたんだろうなと思ってよ、様子見に早めに抜けてくれば……鍵かかってねえし服脱ぎっぱなしで寝てるし、余計な手間かけさせんな」
 うわ、やっぱり鍵かけてなかったんだ。
 よくよく見てみると、放り出した制服はちゃんとハンガーにかかってるし、洗濯物もどこかに片づけられている。部屋着まで着せてもらってるし。俺の家の勝手を知っている岩ちゃんにしかできない芸当だった。
 自分の面倒をちっとも看ていない俺自身に対してため息をついてはいるけど、岩ちゃんの声色は、頭にきてる風じゃない。知らない間に全身浸かって気づけない、料理の下味や隠し味の砂糖の甘さに近い、ほっとする優しさがあった。
「何言われたのか、言ってみろ。話ならいくらでも聞いてやる」
 涙の痕でも見つけたのかな。岩ちゃんの声のトーンがいつになく穏やかだ。
 生まれたのはほんの一月しか違わないのに、岩ちゃんは時々何歳も年が上に離れた人みたいに俺を甘やかす。
 安心して甘えていられる、贅沢は時に残酷だ。弟扱いされるのはもう慣れたけど、そういう意味で岩ちゃんに甘やかしてほしいわけじゃない。俺の好きと同じ意味と理由で、甘やかしてくれているなら良かったのに。
「……抑制剤ね、もう飲んでもほとんど意味がないんだって。だから、違う薬を、今日初めて出されたんだ。どんな薬なのかは見た方が早いから、袋になんて書いてあるのか、読んでいいよ」
 どうしても言えなかった、薬の正体。でも、伝えなきゃ、俺はもっと岩ちゃんを困らせる。
 お別れの準備のひとつ。岩ちゃんと同じようには生きられないから、今どんなことになってるのか、これからどうなるのか、全部伝えてしまおう。
「とうとう、岩ちゃんと全然違う体になったんだって。オメガの生殖機能もすぐに大人と同じになるから、それ飲んで適当な相手見繕って抱いてもらいなさいって。それが体のためだからって。何で今の今まで清らかな体だったのか、知ってるのに平然とそんなこと言うんだよ。お医者さんも、酷なこと言うと思わない?」
 この期に及んで、少しくらい話を盛っても構わないだろうか。本当は、お医者さんには好きな人がいるってことを話してない。アルファだったら単純に、恋仲になれるよう支援されるだけで済むけれど……何せ相手はベータだ。オメガの俺が好いても、実りのない恋にしかならない。恋愛の対象にするには適さないから、諦めるように事あるごとに諭されるに違いないから、話さずにいた。話せるわけがなかった。
 医師の勧めのままに適当なアルファを探して、当面の相手をしてもらうしか、本当に選択肢は残されていないんだろうか。気が進まなかったし、簡単に割り切れるものでもなかった。オメガとして生きてきてずっと圧し殺していた性欲を、発散させる手段を手に入れたら、楽になりたい一心で行為に溺れずにいられるのか、不安だった。今まで誰とも、同意があってもなくても、そんなことしてないんだから。
 バレー三昧の生活でも、オフの日なんかに出かければ、アルファとオメガの二人連れを見かけたりする。ちゃんとした番を作ったら、どんなに穏やかに暮らせるか、全く知らないわけでもない。ただ、そうなる前に、合うかどうかもわからない相手に、発情中の無防備極まりない姿を晒す神経が理解できなかった。
「……そういうことしてほしい相手なんて、一人しかいないのに」
 嫌なことを考えると、寝て回復させたばかりの体力が湯水同然に浪費されていく。意地張って起きてたら、岩ちゃんが肩を押して。ふらついた体は呆気なく布団に背中をくっつけた。
「起き上がんな、しばらく寝てろ」
 岩ちゃんが馬乗りになってくる。俺が何を期待してるのかも、期待せずにはいられない理由も、知らない岩ちゃんが一番残酷なのかもね。
 腕を伸ばして首筋にかけて、抱き寄せてもいいならとっくにそうしてる。けどそんなことしたら岩ちゃんを困らせるから、ちょっと過干渉な幼馴染みでごまかせる距離で頑張ってた。
 どうせ叶わない初恋なら、綺麗な思い出のまま、懐かしむ過去になればいい。岩ちゃんが自分の意思で離れていく結末なんか、俺は欲しくない。
 身動ぎしたら、濡れた感触が伝って、布地に染み込んだような気がする。ぬるぬるしてるし、いつもより分泌液が多めなのかな。下着まで濡らさないように当て物もしてたのに、おかしいな。
 嫌な予感が外れるよう、祈りながら手を伸ばしたら、事実は予測の斜め上をいった。
 洗うしかない位に、とろとろのぬめりが下着に染み込んで、吸いきれなかった分が腿の内側にまで広がってる。こんなこと、今まで一回もなかったのに。これでもかって程べたついてて、さっさと脱いで着替えないと、下着の意味が全然ない。
「……岩ちゃん、そこ、どいて」
 布団まで濡らしたら大変だ。色々岩ちゃんに見られるとしても、贅沢は言っていられない。洗い物がシーツ一枚か布団一組になるかの違いは、寝る場所のあるなしに直結する大問題だった。
「着替えるから。こんな格好、いつまでもしてらんない」
「ダメだ」
 なんでダメなの、着替えなきゃまずいってわかんないかな、鈍いんだから。
 パンツの中がどうなってるのか、当然岩ちゃんは知らない。準備万端整えた時以上に現在形ですごいことになってるんだから、何かの間違いで岩ちゃんと今からソンナコトできるなら、絶対気持ちいいんだろうなあ。
「下着まで、今ぐっちゃぐちゃなの。着替えないと布団だめになるし、寝るとこなくなったら、俺どこで寝ればいいの?」
 全部岩ちゃんのせいにして、岩ちゃんの家にお泊まりさせてもらったとして。夜の日課なしなら、やっぱり安眠なんかできっこない。寝込み襲って岩ちゃんの童貞貰っちゃう自信しかない。同じ部屋で一晩二人きりで過ごして、何も起きないわけないんだよ、大人とほとんど同じ体になっちゃったんだから。
「岩ちゃんがだめって言っても、脱ぐからね? あっちに着替え入ってるから、適当に一枚持ってきて」
 指した方向にある衣装ケースには、パンツしか入ってないけど嘘は言ってない。待ったなしで取り替えるべきはパンツで、シャツは着ても着なくても布団への被害に影響しないから。
 今度こそ岩ちゃんは退けてくれたから、そのまま布団を捲って脇に寄せて、腰を浮かせて一気に膝まで脱いだ。直接空気に触れて不快な感触はなくなったけど、早く拭いて着替えて休みたい。
 足首から抜いて適当に丸めて放り出し、垂れてこないように膝立ちになって探し物をした。
 この分だと、念のためタオルも敷いて寝た方が安心かなあ……。お母ちゃんは何も言わないけど、その分視線が生温かくなるのがいつまでも慣れない。
 いつもなら、枕の近くにウェットティッシュの容器を置いてあるはず……あれ?
 ない。買い置きの詰め替えまで、使いきってた?
 なくなったらすぐに入れ替えてるのに。
「岩ちゃん、ついでにティッシュも箱ごと持ってきて――」
 振り返らないままでお願いをしたら。
 パンツのお使いしてたはずの岩ちゃんの手が、背後から腰に触れてきた。
「い、岩ちゃん? 俺、頼み事してたよね? も一個、追加で……どしたの?」
 なんかヘンだ。知ってる限り、岩ちゃんは用もないのにこんな風に触ってこない。どつくか叩くかのどっちかで、勘違いされそうな──下心ありげな触り方、絶対しない。
「今更だが、俺も黙ってたことがひとつある」
 なんだろ。悪いことじゃなかったらいいな。これ以上、岩ちゃんと離れるのが前倒しになってほしくないから。
「どんなこと? 岩ちゃんにもヒミツなんてあるんだ――」
 振り返らされて一旦明るくなった視界が、薄暗くなる。至近距離には、岩ちゃんの閉じられた目。息づかいがあたってくすぐったい。口の中に温かいものが入ってきて、舌の裏にいたずらしてくる。寝起きで乾き気味だった唇に、唾液をまぶして吸い上げてくる。
 何が起きてるのか、聞こうとした岩ちゃんが、どうしてこんなことしてるの?
 岩ちゃんの気が済むまで、舌が絡み合ってた。その間思うように息が出来なくて、口が離れた時には呼吸があがってて、舌の上にも裏にも岩ちゃんの気配がそのまま残ってた。
 期待七割に、不安三割。岩ちゃんはどんなつもりで、俺に『何か』したんだろう。逆光で細かい表情が読めないから、直接聞かないとわからなかった。
「……なんで? 岩ちゃんは、俺にこんなことしなくていいんだよ? 俺はちゃんと自分で番探すし、いざって時は、」
「俺はベータだ」
 絞り出すような、つらそうな声。胸が痛んだ。岩ちゃんも俺と同じくらいに、三つの違いを事ある毎に思い知らされていたから。
 だから、俺は──俺たちは、道を踏み外してしまった。
「ベータは、お前の特別にはなれない。俺がどんなに悔しい思いでいたのか、気づかれたくなくて黙ってたけどよ。こればっかりは、やっぱ無理だ」
 ほんの少し緑色を帯びた目が、まっすぐ俺の姿だけを映し出してる。岩ちゃんの瞳の中の俺は、豆鉄砲食らった鳩もどきの、状況が飲み込めてない顔だった。
「腐れ縁拗らせて今までずっと一緒にいて、その間お前がどんな思いをしてたのか、俺以上に誰が知ってるってんだ。アルファとしか番になれねえとしても、ウシワカにも北一にいた影山にも、渡してたまるか。あいつらは、及川のことを知ろうとしてたか? 自分の都合押し付けるけどよ、及川がどうしたいのか聞く耳持ってたのか? 何考えて近寄ってんのか、次があったら絶対聞いとけ、どうでもいい理由だったら顔面サーブ打ち込んでやる」
 い、いつになく岩ちゃんが攻撃的だ。
 ……って、あれ?
 岩ちゃん、聞き流しちゃいけないこと、言ってなかった?
「い、岩ちゃん、ちょっと待って待って」
 慌てて向き直る。岩ちゃんはさておき、俺の方は色々丸見えになっててまるで締まらないけど、それどころじゃない。
 勘違いじゃなかったら、俺、岩ちゃんに、告白……された?
「盛り上がってるとこ、恐れ入りますが……岩ちゃんは、俺のこと、友達じゃない方の意味で、好きなの?」
 だとしたらどうしよう。俺と同じ意味の好きだったら。終わりが来るって判ってても、岩ちゃんの気持ちに応えずにはいられない。
 今までごまかしてた、大好きの意味を、嘘で固めなくていいのかな。ずっと一緒にいようって約束を、まだ守っていられるのかな。
「今更何言ってんだ。俺はとっくに、及川のことそういう目で見てんだよ。ったく、全っ然気付いてねえとか、だからいつまでもクソだのボケだのグズだの言われんだよ、肝心なことも忘れてっし」
 ……告白されてるのか、文句言われてるのか、よくわかんなくなってきた。岩ちゃんの物言いは辛めだけど、しんみりもさせてくれないまでのは久しぶりだった。
「い、岩ちゃん、ちょっといいですか」
「どうでもいいことなら殴るぞ」
「殴らないで! ……岩ちゃん一世一代の告白タイム、相手は目の前にいる俺だからって、あまりに散々な言われっぷりで反応に困ります!」
 そもそも俺パンツ穿いてないし。ムードも何もないのが岩ちゃんらしいにしても、片想いの相手からの告白を、こんな格好で受けることになるなんて、予想もしてなかったよ。
「話は最後まで聞け、まだ続きがあんだよ。今日から出されたって避妊の薬な、アルファが釣られてきた時のためって思ってんなら、とんだ見当違いで大間違いだからな」
 あれ、岩ちゃんが、俺の知らないこと知ってる?
 ぼんやりして聞き逃した話があったのかな。
「……違うの?」
「大違いだ、ボケっとしてっから年に何度もない保健体育の授業の中身、丸ごと忘れてんだろうが」
 ……そんな授業、いつやってたのかなあ。何回か保健室で寝てたことがあったから、その時だったのかな。保健室行ったって岩ちゃんには黙ってたけど、そんな大事な話するんだったら教室で寝てたのにな。
「爪の先くらいしか頭数いない上に、誰でもすぐに区別できるアルファなら、近寄られる前に対策打てるだろ、ある程度。そうはいかない、男のベータ対策が、最大の理由だ」
 また岩ちゃんが布団の上に俺を転がす。
「圧倒的な人数の上に、オメガを孕ませる可能性はアルファに何ら遜色ない」
 体重かけないように、横に手をついてる岩ちゃんが、いつもよりもずっと温かく感じる。
「アルファと同じように、オメガの発情にひっかかる」
 いつの間にかジャージの前を開けている岩ちゃんから、服の柔軟剤の匂いに混じって、練習の後のニオイがした。
「理性が完全には飛ばない分、アルファよりも相手をするのが面倒で厄介だ」
 外のニオイもする。どこにも寄らずに、家に帰るよりも先に、来てくれてたんだ。いちいち愛が細かいし言わないからわかりにくいけど、そんな岩ちゃんの優しい距離が押し付けがましくなくて、癒されてく。
「……また違うこと考えてんな」
 違うこと考えさせる位に近い岩ちゃんのせいなのに。このままでいたいから、黙っとこう。
「ち、ちょっとね。それと、抑制剤飲んでても、やっぱり近寄ってくる?」
 寄ってきたのが岩ちゃんだけならまだしも、他の余計なオマケまでついてくるなら、厄介この上ないよね。
「もうお前薬効いてねえじゃねえか。誰も彼も堪えてんだよ、近づいて目回した奴いなかったか?」
「えっ、そんなに?」
 全然気づかなかった。いっつも岩ちゃんのとこに遊びに行って、始業一分前に戻って、その間何があったかまでは全部は覚えてないもの。
「そんなにだ。俺だって正直、いつも傍にいてすっかり慣れたと思ってたんだが」
 岩ちゃんが腕の力を少し抜いた。体の上に体重がかかるけど、それ自体は俺と同じか少しだけ軽いか、その位。吐息が首筋にあたって温かい。
「こんだけ近くで嗅がされっと、我慢すんのが馬鹿らしくなんだよ。後でどう思われんのか全部かなぐり捨てて、お前が今どう思ってるのかも無視して、中突っ込んでやったらどんな顔すんだろなって」
 口から息を吸い込んでも感じられるほどに、岩ちゃんの気配と匂いが濃くなる。どんな顔して、今まで俺に気づかせなかった色々なこと、話してくれてるの?
 絡み合った指から、攻撃的な体温がじわじわと伝わってくる。俺の熱は下がってないのに、岩ちゃんの方が高いなんてこと、あるんだ。
「痛くないなら、ちゃんと気持ちよくなれるよ」
 オメガの体って、そう出来てるって話だったから。他の能力で敵わない分、抱かれるための下準備が常に整ってて、余程ひどくされないと痛い思いはしないって。
「この何年かで、体の中が変わったから。岩ちゃんの背が一気に伸びた時期があったみたいに」
「嫌味かそれ」
「ちがうよ」
 ふてくされる岩ちゃんは、昔のままのガキ大将っぽい可愛げがあった。
 まだ絡めたままの、あまり手入れされてない指先と、ところどころ皮の厚くなった手のひら。俺には手荒れを気にさせたりハンドクリーム常備させたり、口うるさいのに。塗ってもらってる時、岩ちゃんの手もその時だけはしっとり柔らかくなるから、そのためにスクリューボトルで買ってるのに気づいてなかったし。
 おかしくて笑ってたら、肩に噛みつかれた。
「あと、無理やりでも、岩ちゃんなら嫌じゃないよ」
 ひとしきり笑ってから、少しでも落ち着こうとして、大きく息を吸い込む。
 そもそも無理やりになんかなりっこない。こっちはとっくに同意する気でいたんだもの。
「は?」
 事情がさっぱりわかってない顔で、岩ちゃんが見下ろしてくる。噛まれてた肩には、歯形が残ってるかもしれないな。
「岩ちゃん、ほんとに鈍いんだから。俺が一番気づいてほしかったこと、何だと思ってたのさ」
 俺の体のことはすぐ気づくのに、肝心な俺の気持ちがてんで見えてないんだから。シャツの裾を捲って、ジャージの腰ゴムに指引っ掛けて脱いだその奥を、触りたがる『幼馴染み』なんていないよ?
「まだ気づいてないし。でもいっか、岩ちゃんだし。あいこにしてあげる」
 夢みたいだった。
 今まで見たどんな夢よりも幸せな時間が流れてて、今日見聞きした出来事は全部、俺にばかり都合のいい空想じゃないかって思った。
 俺が岩ちゃんをずっと見てたように、岩ちゃんも俺のことを見てたなんて。
 俺が岩ちゃんを見る目と同じ目で、見ててくれてたってすぐに信じられなくても、これから流れてく時間が言葉を事実に変えるから。
 あんなに悩んでたのは徒労に終わってくれた。最初から、必要なかったんだ。
「最初は岩ちゃんがいいなって、俺が思ってたこと知らないでしょ」
 短くない一生、墓場まで持っていこうとしていた秘密は、幾重にも重ねられた枷から解き放たれ外を目指す。
 番に生まれた存在が迎えに来るまでの、ひとときの幻でも構わない。
 焦がれるべきではないひとを恋い慕った罪が赦され、叶うはずないと何度も諦めようとした願いが叶えられてく、そんな瞬間が訪れたんだから、この体に生まれてきた意味はちゃんとあった。
「一番好きな人は、ちっちゃい頃から今までずっと、岩ちゃん一人だけなんだよ」
 今日のことは、一生の宝物になる。
 岩ちゃんが今まで一度も見たことないような顔で笑って、俺の名前を呼んで。すうっと不思議に体が楽になって、岩ちゃんの背筋つついてのんびりしてたら、頭の下にあった枕引っこ抜かれたりして。
 言うだけ野暮なほどに熱く硬くなってた岩ちゃんのアレを、どうしたいのかは知れたこと。
 拭く必要のなくなったあの部分に、岩ちゃんの節の太い指が入ってきて、一度抜いてからねっとり絡んだ蜜を見せつけられてから。
 本数の増えた指が、自分じゃ滅多に触れないところを引っかいて、もとからなかった遠慮が全部消えた。
 その後何をされたのか思い出にしようとしてたのに、ほとんど覚えてられないくらいに、岩ちゃんは俺のこと弄り倒してきた。


 及川があれこれと悩む必要など、最初からなかった。岩泉もまた、同じ悩みを抱えて、開けたい一歩分の距離を詰められずにいたからだ。それでも及川は、最初に体に覚え込ませる人物は岩泉以外には考えられない自分の思考を、岩泉は知る由もないと思い込んでいた。バレーを始める前から、それこそまだ岩泉がバレー以外の関心事に気を取られていたような時期から、岩泉を一番好いていた。
 岩泉とずっと一緒にいたい。出来ることなら恋仲になって、かけがえのないひとときを過ごしたい。オメガに生まれてしまった以上はもう叶わないのだと、十二歳の時に全て諦めてしまった夢の数々のうちのひとつが、今叶いかけている。
 二人の間に逡巡はなかった。粘液を溢れさせている及川のそこを拭く必要はもうなくなった。節の太い岩泉の指が、及川の腹の中へと慎重に埋められていく。及川自身、自分の指ではそう触れない箇所を引っかかれてからの記憶は曖昧だった。
 全部の出来事を覚えていられないくらいに及川には余裕がなく、それだけ岩泉は及川への募らせた想いを発散させていたためだった。



 日頃バレーで鍛えられているはずの幼馴染の体は、それでも柔らかな抱き心地だった。シャツを脱いだ及川は正真正銘の全裸だ。その及川を、未だ着衣を寛げていない岩泉が静かに、布団の上へと押し倒す。異様に速まった脈と、狭まった被写界深度。互いの姿以外がぼやけ、周囲は光に満ちている。
 どちらからともなく重ねた唇の隙間から、不器用そうな呼吸を繰り返す音が漏れる。次第に深まっていく口づけに先に音を上げたのは及川の方で、顔を横に背けて深呼吸を繰り返した。
「いわちゃん、ペース速いよぉ」
「今までの分取り返してんだ、少し我慢してろ」
 及川の頭の下にあった枕を引き抜き、その上には丸めた布団を重ねて及川の腰の下に引き込む。それでも高さは岩泉が想像したよりも出ず、心中で密かに岩泉は舌打ちした。
「……結構、やりづれえな」
 尻と腰の位置は確かに高くなった。だが向きがよろしくない。思ったように、角度が上向きにならないのだ。諦めた岩泉はそのままの角度で、中指と薬指をまとめて及川の中に捩じ込んだ。その位の刺激には及川も慣れているのか、ぴくん、と体を震わせただけで大人しいものだった。
「いわちゃん、もうちょっと荒っぽくても、俺大丈夫だよ」
 及川の体は岩泉の知らぬところで淫具によって拓かれ、少々の荒事では痛みさえ快楽にすり替える術を会得している。気づかなかった岩泉は、出来る限り慎重に痛い思いをさせぬよう最大限及川に気を遣っていた。
「……本っ当に、平気なのか、お前」
「うん」
 及川の目は快楽で蕩けたままだ。痛覚などまるで持たない都合のよい抱き人形の如く、ふんわりと岩泉に向けて微笑んでいる。
「いわちゃんだったら、絶対痛いことしないって信じられるもの」
 それに、と及川は続ける。
「ちょっと痛いくらいに、その……激しくしてくれても、いいし……」
 でもいじめないで、と目は訴えていた。及川のその眼差しは、岩泉の嗜虐心を大いに刺激した。指を二本とも引き抜き、溢れ出た蜜を他の指にもまぶす。そしてどろどろになった四本の指で及川の竿を撫でながら、親指で鈴口を擦る。堪らなくなった及川が上目遣いに岩泉を見上げれば、物欲しそうな視線と上気した頬が岩泉の理性にひびを入れた。
「テメェ、いつの間にこんなエロくなってたんだ」
 及川は、この先岩泉が何をするつもりなのかは当然把握していた。だからこそ、未だに岩泉が着衣を乱していない点が気になっていた。
「ねぇ、いわちゃん……脱いで、いいんだよ?」
 どうして脱がないの?
 まだファスナーを開けただけの岩泉の着衣に、及川が手をかける。
「だってよ」
 その手を制止し、岩泉が答える。
「いつ帰って来るか、わかんねえだろ」
 俺まで裸だったら言い逃れ出来ねえだろ馬鹿かお前、と言いたげな目線を岩泉が向ける。そこで及川は、あ、そうか、と伝えていない事実を思い出した。
「あのね、いわちゃん……明後日まで、俺一人なの」
 泊りで出かけると朝に両親から聞いていたこと。及川の分の食事として、大量のカレーの作り置きが鍋に入っていたこと。二つを説明する間に、何だそんなことかよ、と岩泉はため息をついた。
「……それ、もっと早く言えよな」
 言うなり岩泉はジャージの上下を下着ごと脱ぎ捨て、部屋の隅目がけて放り投げた。既に昂っている岩泉自身が視界に飛び込んできて、及川は咄嗟に目を逸らす。それでも、嫌が応にも目に入る。結果、視覚情報は及川の残り少ない自制を取り払い、手を伸ばさせるに至った。
 及川の反応に気を良くした岩泉は、及川のたどたどしい手つきに自尊心を満たした。いざ握ったもののどう扱っていいのかが、わからなかった。岩泉の本物の性器と、そう思い込んで使っていた疑似性器とでは天と地ほどの違いがある。比べ物にならない熱。質感。迫力。すべてに及川は圧倒されていた。
 しかし及川の内心を岩泉は知らない。妄想の中で何十回と繰り返した動きを辿っていく。舌先で乳首を転がし、唾液を絡めて甘く歯を立てる。軽く舐めただけで体を戦慄かせた及川は、それきり手を動かさない。動かせない、と言った方が近かったかもしれない。意味をなさない単語をいくつか口にしたきり、鼻にかかった甘ったるい息が及川の口から吐かれるばかりで。
 ぷっくりと膨らんで健気に震える二つの咲かない蕾は、及川の窮状そのものだったのかもしれない。
「い、いわちゃ、ん……たおる、たおるとってぇ」
 切羽詰まった声だった。
「タオル?」
「したに、しくの」
「下に? 何枚くらいだ」
「えっとね……おっきめの、さんまい」
 及川の目は潤んでいた。あっちにあるから、念のため何枚か余計に持ってきて、と岩泉に指図もしていた。
 取ってこさせたものは、及川が自ら開いた足の間に三枚とも重ねて敷いている。ただの薄いタオルではない。一体三枚もどう使うのか見当もつかない、バスタオルが三枚だ。
「なぁ、バスタオル三枚って、大袈裟すぎねえか」
 岩泉は、そこまで周到な用意をする及川が腑に落ちなかった。
「…………だって……」
 俄かに赤らんだ顔を背け、及川はぽつりと零す。
「だってね……自分で、するときも……よく二枚目も、濡らしちゃうんだもん」
 岩ちゃん相手でしょ? 俺、どうなっちゃうのか、全然わかんないもの、と。腰を上げて、その下にもタオルを敷いていく。そんな所作を取っただけで、内側からとろりと蜜が溢れ出てくる。甘い、甘い、匂いを伴って。
「なあ、及川……オメガって、どんな体してんだ」
 やらしいにも限度ってもんがあるぞ、と岩泉は目を血走らせる。ささやかな開閉を繰り返し誘う徒花をほぐすために指で周囲を刺激したところ、触れる度に及川はあえかな息を吐くばかりで。
「ねえ、いわちゃん……ならさなくていいから、はやくきてよぉ」
 及川は自分から膝裏を抱え、薄紅色の内襞を見え隠れさせ岩泉を煽る。夢では何度世話になったかわからないが、実物を目にするのは岩泉も当然初めてである。まだ何もしていないのにとろりと粘液を垂らしたまま、呼吸に合わせて収縮する絶景に、思わずくらりと目眩を覚えるようで。引き寄せられて逸物をあてがえば、開きかけた蕾が今か今かと咲く瞬間を待ちわびていて。
 思い切って体重をかければ、幾許かの抵抗ののち、カリが狭い胎内を押し広げた。二人の体の境目が失われた瞬間だった。そして、純潔を互いへと捧げた瞬間でもあった。
「んん、おっきぃ、だめぇ」
 やわらかな響きを持つ歌声のような及川の高めの声が止まらない。喘ぐ声は大袈裟なようであったが、何せ及川も『本物』相手は初めての経験で、まるで勝手が掴めない。じっとしていても、時間をかけて膨張していくやら脈を打つやら、静的な刺激は一向に止んでくれないのだ。
「やだっ、でる、うごいちゃやだぁ」
 及川の体の動きは完全に止まり、つま先まで丸めて力を込めている。
 しかし、及川が生まれて初めての経験を今積んでいるように、岩泉もまた初めての経験を積んでいる最中だった。温かくやわらかく、陰茎の先端だけを包み込んでいる粘膜。そんな場所に性器を一部しか埋め込まないままで動くなという方が酷だった。
広がったかと思えば窄まり、窄まったかと思えばまた広がる。もっと奥深くまで挿入して体温を分かち合いたい。自然な願いだった。及川の言う通りに出来るはずもなく、揺すりながら無意識に奥の方へと腰を押し進めていった。
 あまりの快さに岩泉が胴震いをすると、それが丁度及川の好いところを掠めでもしたのか、及川の奥からとぷりと体液が出て来た。熱い迸りとでも言えるだろうか。岩泉のものを濡らすどころか、溢れ出た愛液は及川の体外へと溢れ出てタオルを濡らした。
「でちゃうって……いったのにぃ……」
 めそめそ泣き始めた何かと忙しない及川を尻目に、岩泉は焦っていた。出るってそっちかよ、と。童貞を喪失したばかりの身にそこまでの想像力を求められても、正直なところ無理があった。だが及川は、岩泉の無理を汲めるほどの余裕はない。
 他人の体の味を知った身の制御はなかなかに難しく、奥まで埋め込まれている岩泉の生の肉塊を絞るように締め付けては解放し、また締め付けての繰り返しで。くちゅっ、くちゅっ、と身動ぎの度に聞こえてくる淫猥な水音は、及川にとっては耳慣れた音だが岩泉には慣れない音だった。
「あ、はぁ……いわちゃん……いわちゃぁん……」
 興奮の収まらない及川はいつものように腰を浮かせて、一人で快楽を貪っている。そこに岩泉がいることは意識の埒外で、生身の相手に意思があることさえ失念していた。岩泉の肉体を使っただけの、自慰だった。
 そんなものを目の前で展開されては、いくら何でも刺激が強すぎる。腰を揺らして、ぴくぴくと全身を反応させつつも、まだ決定的な快楽までは得ようとはしていない体。繰り返し、繰り返し岩泉を呼び、背すじを震わせて肉欲に耽る及川。
 あ、あ、あ、と断続的に反芻しながら、浅い呼吸で息継ぎをして。またしても及川の先端からは精は吐かれず、内側からとろみのある液が溢れてくる。そんな光景を二度目にして、岩泉はやっと合点がいった。ああ、このためのタオル三枚か、と腑に落ちた。
 自身も達しそうになったのを寸でのところで堪えた岩泉は、快楽の高潮にさらわれた及川が自意識を取り戻すのを待った。
 二回達してようやく落ち着いてきたのか、及川はやっと幾許かの理性を感じられる声音で、岩泉を呼んだ。
「ごめんね、岩ちゃん……俺ばっかり、二回も」
 及川は素直に、自身のはしたない振舞いについて謝った。謝る必要は特になかったのではないかと岩泉は一瞬思いもしたが、彼自身にも耐えていられる限界があった。
「謝るのは俺の方だ、及川」
 我慢してられねえ。
 想像だにしなかった幼馴染の思わぬ一面に面食らったのは一瞬で、以降は目の前の光景に引き込まれていた岩泉であったが。その魅力に興奮しきっていて、性的欲求を抑えきれるほど彼はまだ練れていなかった。
 及川の了承を得る間もなく岩泉が奥を抉る。得も言われぬ快感で瞼の裏に星が舞い、流れてはまた次の星がきらりと光る。その繰り返しに岩泉が没頭しかけた途端、及川の情けない声が鼓膜を揺らした。
「あっ、やだっ、いわちゃ……」
 奥を突き始めたのとほぼ同時に、及川の先端から溜まりに溜まっていた精が飛び出していた。突くのを止めれば吐精も止まり、再開すればまた精が飛散する。
「い、いつもはこんなに早くないもん、全部岩ちゃんのせいだしっ」
 そういうもの、だろうか。及川の、あるのかないのかさえ不確かな男の沽券に関わりそうな予感がしたため、岩泉は深い追及をやめた。その代わりに、論より証拠とばかりに、繰り返し奥を突いた。予想通り、突くタイミングと、吐精のタイミングは完全に一致していた。
 とろり、とろりと溢れてくる白い液は止まらずに、及川は混乱していたのだが。やがて、慌て始めた。
「ね、ねえ岩ちゃん、予備のタオル、近くにない? あったら頂戴」
 違うの出そう、と前を抑えながら膝をすり合わせる及川。手近なところに積んであった分厚い一枚を手渡すと、及川は大急ぎでそれを股間にあてがい。
 んんっ、と一瞬体が硬直し、その直後に弛緩して……タオルが、透明な液で濡れ始めた。しょわしょわと、何かが放たれる音もする。及川は、粗相をしていたのだった。粗方出し終えた及川の頬は紅潮していて、間に合ったことに安堵してわずかな微笑みも浮かべていた。
 そんな、日頃目にすることのない粗相の一部始終を岩泉は見ていた。恋人の淫靡な姿を立て続けに目にしてしまい、頭の中での処理が追い付かなくなっている。ただ、事を分析できなくとも、自分が興奮している点だけは体で理解できていた。あまりに淫猥な光景に、誰が生唾を飲まずにいられようか。岩泉の喉が鳴り、我に返った及川がまた赤面する。
「い、い、いつもは、こんなことになんかならないんだからね!」
 全部全部、岩ちゃんのせいなんだからっ。
 大して力の入っていない手で、岩泉をぽかぽかと叩く及川。腹の上にも、腰の下にも、ぐしょぐしょになっているタオルが体にへばりついたままだ。腹の上のものをはがせば、岩泉が今まで嗅いだことのない、不思議な匂いがした。
「か、かがないでよ、そんなの!」
「んなこと言うなって、不可抗力だろ、お前は興味ねえのか?」
 ほれ、と及川の鼻先に件のタオルをぶら下げる岩泉。あからさまに及川は嫌な顔をしてみせている。自分の出してしまったものに興味関心を抱くのも変な性癖だと思っている様子だった。
「ない、ないったら、まったくもう……早く片付けよ、このぐちゃぐちゃの上で続きなんかしたくないよ俺」
「確かに、そうだな」
 一度引き抜いてみれば、及川の秘所は確かにどろどろになっていて、捲ってみたタオルも三枚目さえ案の定湿っていた。それらを尻の下から引き抜いた及川は、まだ乾いている部分で濡れている箇所を拭きつつ、もうやだぁ、と半泣きになっている。
 及川が大方拭き終えたタオルは岩泉の手に渡され、洗濯機の中へと放り込むために何枚も積み上げ重ねられている。体を拭いている間も及川の秘所からは、こぷりと新たな蜜が溢れてきていた。
 難儀な体との付き合いは、短いようでいて長い。諦め割り切っている及川は、岩泉が洗濯機のある水回りへと向かっている最中に、追加のタオルを衣装ケースから引っ張り出すことにした。
 岩泉が戻って来たのは、そんなタイミングだった。目にしたものは、何枚ものタオルを左右に積み上げ、中央には剥き出しの及川の尻。経緯を知っていたから違和感は抱かなかったが、知らない者が見ればまず間違いなく混乱するであろう光景だった。
「……お前、いくら何でもその恰好はよぉ……」
 せめて一枚腰に巻いていれば、印象も違っただろうに。
 だがタオルの一枚やそこらで、今更自分たちの関係は変わらない。変わるはずもない。半ば呆れつつも岩泉は、元あったように三枚重ねたバスタオルを布団の上に敷き、及川をその上に寝かせた。
「……なんかさ」
「何だ?」
「岩ちゃんに間抜けなところばっかり見られてるしもう全然恰好つかないし、明日からどんな顔して会えばいいのかわかんないよ、もう」
 ぷい、と顔を背けて実に子供っぽいことを言い出す及川。やっていることは子供なら絶対にしないことなんだけどなあ、と岩泉は胸中で独りぼやいた。
 だが及川のぼやきも負けてはいない。
「もういわちゃんは、格好いいの禁止。俺の身がもたないもの」
 実に頓珍漢なことを言い出した。
 しかし。その頓珍漢についていき、かつ好返球が可能である男こそが、岩泉であった。
「じゃあ格好つけなくていいのか」
 そう口にした岩泉の目の色は変わっていた。雄の表情を丸出しにして、ある種の逆鱗に触れたことにまだ気づかない及川に食らいつく。
 え、え、と混乱している隙に唇を奪い、上唇を甘噛みして舌なめずりしている男は、本当に幼馴染の岩泉なのだろうか。及川は混乱すると同時に動揺していた。姿かたちは間違いなく岩泉なのに、自分の知らない面を露わにしは捕食者ではないか、これでは。
 先程の不完全燃焼が初めてだったとは思えない手際の良さで及川の足を抱え直して、今度は遠慮なしにずっぷりと正常位で挑みかかった岩泉。
「あ、やんっ!」
 気を抜いていた及川じゃ声を殺す間もなく快楽の証を溢れさせる。前からも後ろからも溢れ出てくる体液にも慣れつつある岩泉は、それを指で掬って舐めているではないか。
「甘ぇな意外と」
 そう言いつつも、腰の動きは止めない岩泉。ずちゅ、ぐちゃっ、と生々しい音ばかりが広がる部屋の中、別の音を立てようと及川は必死だった。
「ずるいっ、いまの、ずるいよぉ」
 はっきりとした目的を持ち本格的に腰を振り始めた岩泉に、及川はどうにか抗議したのだが聞く耳は持たれずに。あえなく快楽の虜となり、時折深く深く中を抉る動きに合わせて、及川の体内も収縮するようになった。その収縮に合わせて精が散っているのだから、岩泉は五感すべてで及川を堪能していたと言えた。
「やべ、たまんねぇな」
 二人分の荒く激しい息遣いと、とても余人には聞かせられない粘着音。岩泉の先端からもカウパーが溢れ、限界が近いことを物語る。及川の腹の上など白濁液でひどいことになっていて、拭いてどうにかなる埒外だった。
「やっ、やぁん、いわちゃんっ……なか、なかにっ……だしてぇっ」
 はしたない願い事だった。避妊薬の事があったとしても、婚約者でもない男にそんなことをねだるなど、聞くものが聞けば説教間違いなしの振舞いだった。それでも、その時の及川は真剣だった。
「おくに……おもいっきり、かけてぇ」
 岩泉の本能的な欲求と、及川の願いは合致していた。及川にねだられるままに、最奥目がけて突き上げ、岩泉は精液を噴出させた。溜まりに溜まった欲は留まるところを知らず、及川の体液と混じり合いひとつになって、とろん、と漏れ出てきている。
 発情期でも何でもない時期の及川。アルファ相手の性交ではなかった証拠というわけでもないが、岩泉の性器の根元はやはり膨らまなかった。
 それでも、及川はオメガの幸せの何たるかを、かけらではあったが掴んでいた。好いた相手と一線を越えられた事実だけで、十分に幸せだと感じていた。
 荒い息を整えつつ、へにゃり、と及川が笑む。
「はじめてのひとが、いわちゃんで、よかった」
 この先及川は、岩泉ではない誰かと番になり、岩泉とは離れて生きていくことになる。本人の意思も、希望も、お構いなしに。そんな言外の意味を何となく察した岩泉は、ただ及川を抱きしめていた。
 終末へのカウントダウンは、着々と進んでいた。


[ 5/89 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -