【牛及】記憶喪失ネタ

及川徹は、その日、人生二度目の産声を上げた。
実に悲壮な叫び声であったが、すべて愛ゆえのものだった。
たった一人の存在を求めて。

運が悪かったとしか言いようがない。
そんな出来事が発端だった。
不審者に関しての情報も流されていなければ、刑務所に服役中の囚人が脱走したとしても相当な距離があるから被害が出るとは考えにくい、そんな平和であるはずの街に──通り魔が現れ、多数の死傷者が出てしまった。
現場となったショッピングモールは騒然とし、けたたましいサイレンの鳴り響く異様な雰囲気に包まれた一帯は封鎖され、入れ代わり立ち代わり救急車が近隣の総合病院へと負傷者を送り届ける風景を……途中まで、岩泉は見ていた。
途中からは、救急車の中から……希薄な現実感しか伴わずに、記憶の限りの情報を救急隊員に伝え、受け答えをしつつだった。
搬送先の病院で、息を引き取る人を何人も目にした。
ただの高校生としては、刺激が過ぎる経験かもしれない。
それに──岩泉が救急車に乗る破目になった理由の人物は、人工呼吸器をつけられて混濁した意識のまま、ICUに入れられている。
容体は芳しくない。
心臓の拍動を示す機器が、規則的な波を描いていることだけが、ガラス張りの部屋の外で及川の家族の到着を待たされている岩泉にとっての唯一の現実だった。
小一時間ほどして及川の家族が訪れても、状況は好転しなかった。
どうしてこんなことに、と泣き崩れる及川の家族を目の当たりにして、かける言葉も見つからずに。
血まみれで倒れている幼馴染を目にした時、失う覚悟をさっさと固めてしまったせいだろうか。
それとも、自分の人生の中で彼の存在はここで途切れるのだと認めてしまったからだろうか。
そのどちらも大して意味が変わらないことさえ気づかないまま、岩泉は病院から出た。
隣にいた幼馴染とは違い、岩泉は何の怪我もしていなかったから。
だから彼は、幸せだったのだろう。
及川が自分の人生のほとんど全てを失った事実を、知らずに生きていけるのだから。
病院から出てくる時は元気な顔を見せてくれるに違いないと、無邪気に信じ込んでいられたのだから。
どれだけ死に近づいてもきっと戻ってくると信じ疑わなかった岩泉がいたからか、及川は──一命をとりとめ、多数の犠牲者を出した事件の貴重な生き残りとして新聞にも小さな記事が出た。
しかし、代償は大きかった。
一週間ほどして、及川は目を覚ました。
岩泉の耳に情報は入らない。退院したら向こうから勝手に近づいてくると思っていたから、外部メディアの類は敢えて情報源にしなかったためだ。
目は、覚ましたのだが……しばらくの間、及川は声が出せなかった。
心因性のものかもしれない、と体の容体が落ち着き次第個室に移され、母親が毎日見舞いに通ってもいたのだが……日曜日、部の練習後の時間を利用し、及川の好物も買い求めて見舞いに行くことになった。岩泉が席を外している間に話はまとまっており、当然行くよなと誘われもしたが岩泉は断った。
元気な姿しか見られなくないかもしれないという、あるかどうかも知れない及川の小さなプライドを守りたかっただけなのか。
それとも……。
『そう』なることを、知っていたからだろうか。
日曜日の夕方、面会時間ぎりぎりに顔を見に行った時。
及川の母親は既に帰宅した後で、部屋には及川ひとりがおり、窓の外を眺めているように周囲からは見えた。
部屋に誰かが入って来たことに気付いて振り向いた顔は、少しばかりやつれていて体力の消耗を窺わせた。
当然軽口が聞けるとばかり思っていた部の面々は、何も話そうとしない及川の異様さには気付いたのだが。
もう、何もかもが遅かった。
静寂を破ったのは、ようやく及川の喉から発せられた、耳をつんざくような声。
別離を告げる、一瞬にして場を絶望の淵へと追い込む一言。
「…………みんな、だれ!?」
及川は、その場にいた誰の事も覚えていなかった。

及川の記憶に残っていたのは、刺され倒れ伏す時の衝撃と熱。
そして──たった一人の人物の名前だけ。
言語に関しての情報が失われずに済んだだけでも良かった、とは岩泉は思えない。
あれだけ夢中だったバレーのことさえも、事件は丸ごと及川から奪っていったのだから。
そして。
自分との、幼馴染として過ごした全てさえも。
及川の中からは、欠落していた。

本当にもうどうにもならないのだろうか、と及川に忘れ去られた面々が願いを託しカウンセリングを依頼した。
忘れ去られてしまった人数の中には及川の家族も含まれている。
そのカウンセリングの折に引き出せたのが、まだ会いに来てくれない恋人に会いたい、と零した愚痴で。
相手がいたのか、と結果を聞かされた面々は思わずどよめいた。
しかし、名を明かされた瞬間──よりにもよって、と天を仰ぐ思いだった。
相手は同性。それも、公然と敵視し嫌い抜いていたはずの人物の名。
恋仲であったのかどうか。真偽のほどは当人たちしか知らないが、確かに牛島は、及川には一度も面会していなかった。

勿論、牛島は一度拒否した。自分たちはそんな仲ではなかったし、及川には嫌われているという自覚もあったからだ。
だが……記憶をほとんど失って、事あるごとに会いたい、会いに来てほしい、と当人が口にしているし、よく知らない人間が近づくのを好く思っていないようだ、とまで言われてしまえば。
牛島もひとりの人間だ。そこまで言われて、面会に行かずにいては、人の道に反すると思い──面会を決意した。

その日牛島は部活を休み、及川の入院している個室を訪れることにした。
大怪我をしていても入院患者でも、及川は及川のままだろうと……事態をそう重くは考えずに、部屋の引き戸を開けた。
扉を開けた先では、確かに及川徹その人が、興味なさそうに文庫本のページをぱらぱらと捲っている。
体が一回り小さくなったような印象を抱きながら、牛島は及川に近づいていく。
足音でようやく、未だ病室を訪れたことのない拍子の人物だと知れたのか、及川の視線が牛島へと向けられた。
瞬間。
及川の目が見る間に潤み、目尻からは雫が次々と伝い落ちていく。
「やっと……やっと来てくれた……」
牛島の予想外の反応を見せながら。
及川は、静かに涙をこぼした。
これには牛島も動揺した。
気丈な及川が涙をこぼす理由がわからず、何故泣く、泣くな、と持っていたハンカチで目元をそっと拭ってやった。
「……だって」
体の上の布団を口元まで引き上げて、及川は二の句を継ぐのをためらっているように、牛島には見えた。
「だって、が何だ。どうしたんだ、及川」
状況が呑み込めない牛島も、自然と及川に成り行きを尋ねる口調になっていく。
「だって、さ……真っ先に来てくれると思ってたら、全然来てくれないんだもん……寂しかったんだよ?」
さすがの牛島も、くらり、と目眩がした。
一体自分は及川にとってどんな存在になっているというのか。恋仲だと思い込んでいるようだと聞かされてはいたが、話を合わせてやった方が及川のためになるのかどうかがわからない。
本当は恋仲でも何でもなく、互いに打ち込む競技上の好敵手であるだけなのだが、何の因果で恋仲だと思い込むに至ったのだろうか。
だがその過程を今ここで考えても意味のないことだった。
及川の記憶がどうにかならない限り、話は平行線を辿る。
……なら少なくともこの場では、及川に話を合わせてやった方が良いのだろうか。
そんな当座の結論に至った牛島は、この部屋の中にいる限りは、及川の恋人として振舞う決意を固めた。
「……そうか。済まなかった。どうしたらお前は、俺を許してくれるのか?」
及川の髪を撫でてやると、洗って数時間も経過していないのか、僅かに湿り気の残る癖毛が指先をくすぐる。
「やだ……いつもみたいに、徹って呼んで」
唇を尖らせて甘えてくるのか、この『恋人』としての及川は。
ひとつひとつの動向を記憶しながら、牛島は手探りで及川の『記憶』通りの自分を想像し、演じ始める。
「そうだったな、俺も気が動転していたようだ……徹、俺とどんなことがしたいか?」
こういう時は、相手のしたいことを聞いてその通りにするのが無難かと思った。
だが。
「あのね、ほんとは久しぶりに……えっち、したいけど……お医者さんがまだしちゃだめって言ってるの」
何という事を言い出すのか、及川は。というよりも、及川の意識の中では、自分たちはそういう関係にとっくに落ち着いているというのか。しかもそれを医者に相談までしたというのか。
これは先が思いやられる。またしても目眩に襲われた牛島は何とか平常心を保ちつつ、及川に代替案を出させることに尽力した。
「それは、俺としても反対だな……傷に差し障るだろうし、医師も反対しているなら尚の事だ」
「やっぱり、だめ……?」
「ああ」
及川の表情が暗くなる。ここでもし諾と答えていたならどうなっていたのか。冷や汗が牛島の背すじを流れた。
「じゃあ、キスして」
それならいいよね?
及川の目が、きらきらと期待に満ちた光を宿して、牛島を捉えている。勿論牛島には異性同性関わらず口を吸った経験などない。それを、当然のように要求してくる及川ときたら何なのか。怪我人だ。
これは刺された傷よりも記憶混濁の方が数十倍厄介なのではないかと、牛島が目を泳がせていると。
「……キスも、だめなの?」
牛島が目にしたこともないような、実に愛らしいおねだりだった。
拗ねが半分、期待が半分、そこに加えられているのは確信のスパイス。
牛島も腹をくくった。
初めての口づけが男相手だからといって、今後の人生を狂わされるわけでもあるまいに。
単純に考え、及川の横たわるベッドに両手をついた。
これはただの通過儀礼だ。儀式だ。間違っても情など入らないし入りようもない。
そう思っているのに、胸は高鳴り、体は自然と及川に吸い寄せられていく。
至近距離、及川の長い睫毛に見入っている間もそう長くはなく、唇は重ねられて。
しっとりとしていて柔らかい、自分とは違う体温。
うっすらと開いた皓歯の隙間から及川の舌が現れ、牛島も律儀にそれに自身の舌を絡めてやれば、必然的に唾液が混じり合い興奮もしてくる。
互いの唾液を飲み合っていれば、触れる鼻息で興奮の度合いも知れるというもの。ふと思い至った牛島が及川の病衣の股座に手を当ててやれば、そこは確かに反応していた。
下着の中に指を忍ばせ輪を作りゆるく扱いてやれば、先端から滴をこぼしてそこは喜ぶ。
もごもごと及川は何か言いたげだったが、下着ごと病衣をずらして陰茎を露出させ、三枚重ねたティッシュを先端に被せてさらに責め立ててやれば、実にあっけなく精が吐き出されティッシュが湿っていく。
震える陰茎をゆっくりと根元から扱き、僅かに散ってしまった精液も新しいティッシュで丹念に拭きとってやれば、満足げな息が及川の鼻から漏れ出る。
そこでようやく口を離せば、ふるり、と及川の体が震える。
「ね、若利……そこの尿瓶、取って……出ちゃう」
そういう意味だったのか、と悟った牛島が大急ぎで股間にあててやるや否や、牛島の目の前だというのに及川は放尿を始めて。
「ま、間に合ったぁ……」
及川の口からその日最後に聞けたのは、安堵の溜息だった。

それだけでも相当に濃い一日だったのだが、牛島に安息の日など訪れなかった。
週に一度は必ず及川に呼び出され、口吸いに始まってセックスまがいの行為までさせられて。
誰に頼んで持ってこさせたのか、指用のコンドームまで用意してあった時には本気で倒れたくなった。
及川の体も不慣れなはずなのだが、そちらの才能には恵まれていたのか始めから気持ちよさそうで、すぐに孔もほぐれてあられもない声をあげ看護師がすっ飛んできたほどで。
勿論すぐに看護師は立ち去ったのだが、及川が満足した頃合を見計らっていたのか牛島と二人で医師に叱られて……牛島も及川に情が移ったのか、制服の前を張り詰めさせてもいた。
尤も、気持ちよさそうにあえぐ及川の姿を目にして興奮している段階で、牛島も薄々自覚していたのだが。

紆余曲折を経て及川が退院する日が、とうとうやって来た。
及川の実家には帰らない。及川が懐いているのは牛島一人だけで、他のところへは帰りたがらなかったから。
夕刻、牛島の本宅へと到着した及川は、長期の休みにのみ使われるという牛島の私室に通され、枕を共にすることになった。
痛々しい縫合痕も未だはっきりしている及川の身を案じ、いつでも呼んでくださいねとは言われているが。
ここは離れ。二人が睦み合うにはもってこいの場所。
寝間着を着せてもらった及川が、先に部屋で待つと言っていた牛島のもとへと歩いていく。
着なれない格好に、見慣れないはずのお屋敷。それでも及川は自分が落ち着いている自覚を持っていた。
やっと、好きな人と久しぶりに肌をあわせられる。何物にも勝る愛情が、及川を奮い立たせていた。
部屋の襖を開けると、大きな敷布団のすぐ隣に正座している牛島と目が合った。
牛島は何も言わない。ただ大きく両手を広げ、おいで、と及川を腕の中へと誘った。
そこにおそるおそる体を預ける及川。
「ねぇ、若利」
「どうしたんだ徹、藪から棒に」
「き、今日は……その……」
「お前が嫌なら、やめておくが?」
ぶんぶんと首を横に振る及川。
「す、する! ……久しぶりでちょっと怖いけど、ずっとしたくて今日まで我慢してたんだから!」
「そうか。じゃあ……極力、優しくする」
牛島もすっかり口から出まかせが板についていた。
及川の体内を味わったことなどないというのに、待ちわびた風を装っての発言。
無論、牛島の逸物は未使用だ。自慰さえ思い出した時にしかしない程度の、どちらかといえば希薄な性欲の持ち主で、及川との一件がなければ夢精しない程度にしか弄らなかった。
それが、及川と性的な意味でも関わりを持つようになってからというもの、今までの反動が来たかのように、及川の肌が……体が、欲しくてたまらなくなっていた。
あの甘い匂いのする肌の隅々までを支配し、体の奥深くを穿ち男のしるしを注ぎ込みたいとさえ、日夜考えてしまうほどに。
夢中に、なっていた。

体内の洗浄も済ませてある及川の中に、いざ直接入り込もうとしたとき。
後背位の体勢を取っている及川が、こんなことを口走った。
「ね、若利……愛してるって言いながら、入れて」
腕と膝で体を支えている及川は、挿入を今か今かと待ちわびている。
柔らかく解れているそこは、亀頭を押し当てると吸い付いてきて、さぞかし体内も快いものだろうと予測がついた。
それに……牛島の気持ちとしても、元々憎からず思っていた相手から僥倖にも好かれ、体を許されるまでに至っているのだから……愛情を抱いていないわけなどなかった。
「分かった……愛している、徹」
「ん……あっ、やんっ!」
じゅぷっ、と体内から溢れてくるローション。
コリコリとしたところを抉りさらに奥へ、奥へと進んでいけば、もはや意味をなさない言葉しか及川の喉からは出てこない。
及川の前を弄ってやればそこはとっくに精で濡れていて、入れた衝撃で達してしまったのだと牛島は察した。
「徹……気持ち、いいか?」
「うん……うん……っ!」
あまり性器を弄って漏らされても困るからと、及川の腰を掴み直して突いていけば、奥の窄まりにも届いて。
じっくりと責めてやればそこも花開き、一段と狭い場所へと亀頭が埋まっていく。
身震いする及川。
及川はもう離れの意味をなさないほどの声を先ほどから上げ続けていて、いかに激しい快楽を得ているのかが窺い知れた。
「で、ちゃう! でちゃ、う……あっ……あーっ……」
二度目の精をシーツに飛ばし、強烈に後孔を締め付ける及川。
後ろでも達したのかひくつく締めつけはしばらく止まらず、それを堪能しながら牛島もまた及川の中にしるしを放った。
「徹、徹……愛している、できることなら、俺の子を産んでほしい」
不可能だと知りながらも、そう言いたくなるほどに。
牛島はいつしか、及川に執着し、溢れんばかりの愛情を注いでいた。
刹那。
耳まで赤くした及川が。
「……いいよ」
ウシワカちゃんの子だったら、俺、産んであげられると思う。
振り向いた及川の顔は、牛島の良く知る……好敵手であった時の頃のものと、同じだった。


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