その3

「……落ち着いたか」
泣きじゃくっていた及川のせいで、服をべとべとのぐしゃぐしゃにされた牛島。だが彼は及川に対しては度量が広かった。
むき出しの背中や肩が冷えないようにとブランケットを羽織らせ、柔らかく抱擁し背中を撫でること、四半時……ようやく及川が泣き止んだ。
「……納得も理解も、してたつもりなんだけど……いざ、目の前で『そう』なるのって……想像以上につらかった」
牛島の声色も、穏やかで温かい。
「慣れないうちは、皆そうだ。心がまだ、常に生きているからな」
「……牛島は、仕事は仕事として割り切れるから、今の仕事を?」
涙声から抜け出しつつある及川の声は、決して明るいものではない。それでも、自分の置かれた境遇や新しい仕事に適応しようとする心の働きは牛島にも見て取れた。
「俺は単にアカデミー首席特典の一環でこちら側へ振られただけに過ぎない。駆け出しの頃は、下手をするとお前よりひどかったかもしれない」
微塵も過去を匂わせない及川の同期・牛島は、いくつかある魔界のアカデミー時代は及川と甲乙つけがたい好成績を収めていたのだが、僅差で牛島に劣る場面の方が多い及川は過度のコンプレックスを牛島に対して抱いていた。
「へ、へぇ……そんなに、なんだ……」
だが今回ばかりは牛島の発言も及川の優越感を刺激しなかった。自分はいつ、『顔色ひとつ変えず』『一家まとめて』『周囲に被害を及ぼさず』『無心で』職務を遂行出来るようになるだろうか。魔界に送られてきた魂たちの後始末を繰り返す日々は単調で、魂の一つ一つの違いになど気持ちを傾ける余裕がない位に多忙で。自分がいざ『送る』側に立った時、心など痛みはしないと慢心を増長させる因子はなかっただろうか。思い返しても、もうわからない。
見てしまったから。人間界へと転属になったら、何をしなければ悪魔として一人前の働きとして認められないのかを。
青い顔をし、牛島の所業に若干引き気味になっている及川をいつもの調子に戻すべく。魂の狩人は、及川をそっと褥に押し倒した。
ぽふん、と軽い音を立てて背中から布団に落ちる及川の体。胸にある桃色の果実に吸い付くと、ひゅっと喉の鳴る音が聞こえてくる。
「……何、して……るんですか……」
「偉いな。犬よりはましになったか」
「そりゃあ。いつまでも犬扱いされていい気分はしないし」
少しずつ、いつもの及川に戻っていく。そのまま牛島が果実の片割れにも吸い付くと、喉を反らした及川の腰が浮く。
「ん、だめだってば……っう」
すぐに体に熱を灯すよう、快楽の種を撒き萌芽を促したのは、他でもない牛島だ。興奮した及川の尻尾が左右に振られ、シーツに奇妙な形をした皺が生まれていく。
「……その、何だ。今のように、気を弱らせているお前を抱くのは俺の主義に反する」
及川の上から退き、条件反射で反応した体を鎮めるように、牛島の掌が及川の体の上を滑っていく。後戯に牛島がよくやる手つきだった。腿から膝へ、膝から踝へ。何度か繰り返したのちに、牛島は及川の隣にその身を横たえ、及川の体の上にブランケットをかけた。
「ひとつ、馬鹿馬鹿しい昔語りがあるんだが、寝物語ついでに聞くか?」
ブランケットから頭を出しゆっくりと牛島の方を向いた及川は、夜の湖を思わせる静けさを彼の存在の瞳に見出した。言葉以上の意味はなく、額面通りに意図を汲んでゆけばよい、と万年次席に甘んじていた頭も判じている。肩の力を抜き、尻尾をブランケットの中に引き入れて、牛島と目を合わせる。
ゆったりとした口調で、話は始まった。




馬鹿な男がいた。
その男は自分の馬鹿さ加減に気付かずに、人命を軽視し送還リストのまましらみつぶしに魔界へ送ればそれでいいと思い込んでいたんだ。
あまりにも仕事のペースが速いのではないかと杜撰さがないかどうかの監査が入っても、男は自分のやり方を曲げずにいた。
男は人を人とも思わない、簡単に摘んでしまっても当然のものと思っていたのだから。
困り果てた監査部は、その馬鹿な男に特殊な案件を一つ与えた。
ある一家の生活を、三か月見届ける事。
典型的な核家族で、親二人子二人の四人家族。朝早くに姉は学校へ行き、まだ小さい弟は母親に連れられて保育園の送迎バスに乗り込むような、平凡で退屈でありきたりな光景ばかりを見せつけられた。
これを三か月も繰り返さなければならないのか、と頭を抱えたくなるような刺激のない監視だったはずが、男に変化をもたらした。
どんな変化があるのかと思われた一市民の日々の生活にも、小さな出来事ならばあちらこちらに転がっていると男は気付いた。その連続が、傍から見れば単調でも当人たちにとっては必死に生きる日常を作り上げていたと。
……感情移入、と言えたのかもしれないな。男は、家族が揃って何事もなく一日を終えようとしている様子を見て、安堵している自身に気が付いた。このまま何もなければいい、と思えたのは、定められた三か月のうち一週間を残した頃合だった。
そのまま何事もなく、期日はやって来た。
監査部長直々のお出ましで、形式に則った礼を尽くし出迎えたんだが。
開口一番、監査部長は、男に淡々と一家の『送還』を命じたんだ。
当然、ここ三か月を見ていて家族に何の問題も罪もないことを知っている男は監査部長に食って掛かった。
まだ何の罪も犯していない彼らを何故今日『送還』しなければならないのかと。
そう口にした後で、男はようやく気が付いたんだ。
罪の起発点。罪の連鎖の始点とされる、事象のことを指している。記憶に新しいテキストの文面を頭の中で思い描いた男は、監査部長が直接出向いてまで自分に見せたかったものにようやく気が付いたんだ。
『明日の朝は一家には訪れない』
夜に姉が原因不明の病で倒れ、一家はその病を治癒できる医師を探して様々な場所を巡ろうとするんだが、何せ一般庶民だから蓄えなど知れたもの。募金を募って東奔西走するうちに、弟までもが病に倒れてしまった。苦しむ幼子を前にして両親の出した答えは、募金活動を続けて金を集め子が死なない程度の治療を施し自分たちは贅沢三昧の生活を送ること。
犬畜生にも劣るだろう?
結局姉も弟も最初は親の気を引きたいがための仮病から始まり、仮病が仮病でなくなっただけの話だった。
こんな人間のために正当な労働に対して支払われたはずの金銭を投資する価値があるだろうか。
そのような未来が引き起こされると知っていて、放っておく理由などどこにあろうか。
罪を重ねると判明した天界に行けるはずのない魂は、直ちに刈り取り魔界へと送らねばならない。
いつもなら無機的に重ねる予定の罪状を検めた。間違いではないのかと何度も。
しかし、間違いではなかった。
今まさに、目の前で、姉が病を装って倒れようとしているではないか。
起きようとしているのは単なる悲劇に留まらない、多くの人の善意を食い物にする悪意の始まりではないか。
監査部長が、指笛を吹く。
何度も耳にしたことがあるはずの音色はどうしてか、この上なく不穏かつ不遜で、豪快だった。
一家が住む家が、空間ごとねじ曲がっていく。当然中に住む人間が無事でいられるはずなどない。体を変形させられる断末魔つきだ。
軋む音。折れる音。破裂音。破壊の限りを尽くしても、被害が及んだのは一家の住む居住区画の一軒分だけ。
男はようやく思い知った。
やがて罪を犯す人間は、罪を犯す前にこそ狩らねばならないのだと。
背後にある事情を知ったところで悪魔のあるべき姿は揺らがず。有機的な心の在り方を失わずに、いかに無機的に罪の在処のみを刈り取っていくか。
今まで男がやってきたことは、無機に過ぎたのだと、男は知った。
そして、男は変わった。
重なってゆく罪が命を奪われるだけの一線を越えた瞬間、出来る限り早期に狩るように。
他者の手で嬲り殺しにさせる位なら、苦しむ時間は一瞬で済むように。
男は研鑽を重ね、元から得意であった魔術を変質させていった。
人の命を最も効率よく奪うためのものへと。
万一、一撃で仕留められなかった時に備えて、掌中には常に麻酔薬で出来た短剣を隠して。
腕を買われ同業者同士で組むことになっても、それは変わらなかった。
どれだけの命を奪おうとも、どれだけ対象の持つ背景に深く踏み込もうとも、天界が『救えない』と烙印を押した人間はこちら側で『処理』しなければならないのだから──



「……及川? ……眠って、いるのか」
昔語りは及川には少々長かったようで、すっかり寝入ってしまっている。
自分の過去を他人のものとして語ることなど当然牛島は初めてで、及川相手にこんなことを話して何かが変わるとは思ってもいなかった。
だが、いずれ及川も自分と同じ思いをする日が来ると、牛島は知っている。
心の準備だけでも、前々からさせてやりたかったのだろうか。
自分の『有機的な』心の動きは、まだ自分でも理解の及ばない動き方をする。
そう、牛島は知覚していた。

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