四章

 十二月を師走と言うけれど、それに負けず劣らず三月も四月も慌ただしく過ぎていくように、俺は思う。
 中学──北一のメンバーの進路は意外とばらついた。例年だともっと青葉城西に進学する生徒の比率が高いはずが、今年は半分程度だっていう話。次に会うのはネット越しになるな、って笑って別れた卒業式から、半月くらいしか経たないうちに、高校の入学式がやってくるなんて、本当に目まぐるしいったらない。
 親戚からもらった入学祝は制服なんかの学用品に全部消え、俺の小遣いはちょっぴりの上昇にとどまる程度だから、いざ何か起きた時の手元不如意は気になるけれど、そんなことをいつまでも気にしていられる余裕もなかった。
 記念写真の撮影もそこそこに、校舎の玄関先に掲示してあったクラス割を見る。学校そのものの規模が北一よりも大きい分、新入生のクラスも多い。残念ながら岩ちゃんとは同じクラスにはなれなかった。でも、隣のクラスになっていた。
 一枚の壁で俺たちは隔てられてはいても、結局のところ中学の時と関係性はほとんど変わらない。休み時間になれば岩ちゃんの教室に行って入り浸りになったものだから、俺はすぐに岩ちゃんのクラスメイトに顔も名前も憶えられた。顔パスってやつになるまで、たった数日だった。
 そんな岩ちゃんは面と向かって悪態をついたり憎まれ口を叩いたり。俺の扱いは相変わらず雑の一言に尽きる。けれど、雑は雑でも岩ちゃんの雑は一味違う雑なんだ。俺を心配してくれてるのが伝わってくる、優しさと親しみのある雑、ってところかな。
 勿論高校でも俺たちはバレー部に入部するつもりでいた。なのに岩ちゃんときたら、入学初日の浮かれていた俺に、特大の釘を刺したんだ。
 去年の大会でベストセッターに選ばれたんだから嫌でも注目されるし、善意と同じかそれ以上の悪意も集まってくるから今まで以上に気を付けろって。中学ではどうにか隠し通せた体の事も、いずれ誤魔化せなくなるんだから、頃合いを見て明かすか最初から伝えておくか、選ぶ余地がある間に決めておけって。
 考えたくない事だから、出来ればそのまま素通りしたかった。初日から気の滅入りそうなこと言わないでよ、って一度は笑って煙に巻こうとした。
 でも、岩ちゃんが言わんとしていたことは、すぐに全身で感じ取る破目になった。
 あちこちから、好奇の視線が注がれる。集団の中に異物が混入していくのだから、歓迎される可能性は低いとは思っていたけど、こんなに冷ややかな空気は初めてだった。
 こうなると薄々わかっていたのか、岩ちゃんは周囲を威嚇するように視線を巡らせている。集団の中から、個人を判別する必要はないけど、アルファ共通のニオイも混じっているせいかな。こっちが向こうを正確に認識出来るように、向こうもこっちのことを正しく認識しているんだろう。
 高校在学中、生徒も含めた全員に、俺の性を隠し通すのは絶対に無理だ。卒業前のどこかのタイミングで、例外なく俺にも発情期が来るから。保健の教科書に載っていたのと同じ症状が本当に出るのなら、日常生活を自力で成り立たせるのが不可能になる期間が生まれてくるわけで。あんなにわかりやすい症状の兆候だけでも隠せた先駆者がいたのなら、是非そのコツを伝授願いたい。
 そんなこと、出来るはずもないけどね。
 進学に伴って、かかりつけの医院も学校のすぐ近くに変えた。不測の事態に備える必要性は、これまで以上に増している。今まで診てもらっていた先生に紹介状を書いてもらって、経過についての情報を一通り引き継ぎさえすれば、転院も比較的スムーズだった。医療の力を本格的に借りるのはこれからだから。
 抑制剤も体質の変化に合わせて種類を変えることにした。副作用の出過ぎている薬から別の薬へ変え、極力アルファを引き寄せないように、年齢に見合った処方の上限すれすれまでの処方を続けていたことも紹介状には織り込み済みだったらしい。そのあたりの融通を利かせてくれるのは、本当にありがたかった。
 バレーをやっている時が何だかんだ言っても一番楽しかったし、打ち込むものを持っていれば余計なことを考えずにいられるから。
 俺の体が本格的に変わってくるのはこれからなんだから、その変化をぎりぎりまで遅らせないと手詰まりになる。ウシワカの奴を凹ましてからでないと、おちおち発情期なんか迎えていられない。あいつの体は俺みたいな、強制的な下降線を描かないんだから。高い舞台に立つための恵まれた条件を、一通り揃えた上でバレーをやっているんだから。
 競技としてのバレーを続けるために、思いつく限りのことは全部やったつもりでいた。
 けど、現実ってのは残酷なもので。
 隔週で通院している医院に、いつものように然程重くはない足取りで向かっていたある日。
 嫌で、嫌で、どうにもならない、現実ってやつを突きつけられた。
 その日は、前回の診察の時に受けていた検査結果を聞きに行くのが主な目的の日で。落ち込むような結果が出た事はなかったから、そう深くは考えないままに診察室で説明を聞いていたんだ。
 薬の効果についてのデータを見ながらの説明は、言ってしまうと身も蓋もない話だった。
 諦めろ。割り切れ。
 つまりは、薬に過度の期待をするのはもうやめろ、ってことだった。
 重篤な副作用を出さずに服薬できる上限の量でも、俺の体からは微量のニオイが出てしまっているらしい。出てしまっているものはどうやっても消せないし止められないから、今後は主作用を期待できる上限いっぱいの処方量までしか出せないんだって。それ以上に増やすと生活に深刻な支障が出るから、いくら患者が希望しても医師としては処方箋を書けないし薬剤師も処方しかねるって。
 もうそろそろ自分の体と折り合いをつけて、大人のオメガとして生きていく心づもりでいなさい、ってことだった。
 大人になっていく以上は、もうここらが潮時だって。矛先や言葉を変え何度も説得されれば、諦めの悪い俺でも、首を縦に振り現実を受け入れるしかなかった。

 オメガへと転じていく過程では、アルファのように背が伸びたりするわけではないから、見た目上は大して変わらない。
 だからこそ、体の中が一気に変わっていくのは、想像以上に俺の精神を削り取っていった。
 抑制剤の効果でほぼ止まっていた体のオメガ化が、処方量の変わらない薬の効力をとうとう凌駕して以来。今までの遅れを取り戻そうとしたのか、劇的な変化が一気に全身に現れた。
 身長の伸びはかろうじて鈍化せずにいたものの、筋肉のつき方が悪くなっただけでは済まされなかった。筋肉の代わりにつきやすくなったのは贅肉で、気を抜くと体のあちこちがむにむにと柔らかくなってしまう。……それだけだったら、まだ笑い飛ばせる範疇だった。
 より深刻だったのは、下半身の変化。端的に言ってしまえば、骨盤の成長だ。これには参った。欲しくもなかったくびれが僅かながら出来てしまい、買って日の浅い制服を買い替える事態にまで追い込まれたんだ。
 いやその、尻がでかいとか岩ちゃんにからかわれるだけならまだしも。なんていうか、その、卑猥なものを見つめるような目で着替えの時に見られるのはね。誰も何も言わないだけに、視線が一層雄弁に語りかけてくるようで。搦手から攻められると、どうすればいいのかわからなくなる。お前はオメガなんだからそういう目で見られるのも覚悟して生きろ、なんてこの年で頭ごなしに押しつけられても反発したくなるだけ。俺はまだ、何も気にせずに生きていられた頃への未練を断ち切れそうにないから。
 第二の性別はオメガだと、説明されるのと経験するのでは、全くの別物と言っていいほどに世界というか、次元が違う。ホルモンバランスが将来の発情期に備えて周期的な増減を繰り返すようになり、情緒も不安定になりがちだったところへの追い打ちが入ったせいで、自分でもちょっと意地が悪くなったようにも思う。
 身体的な負担だけでなく、金銭面での負担も増していたって部分も、あるのかな。
 その一。ドラッグストアなんかで販売されている、オメガ専用の衛生用品が必要になった事。
 その二。その衛生用品は、下着を分泌液で濡らさないようにするためのものなんだけど、それを使っても時折間に合わない位の量が出てしまう事。
 その三。濡れた下着なんか着けていたくないから、穿き替えるための予備の携帯が欠かせない事。
 その四。一から三までの事情を両親には言いにくくて、大部分は毎月の小遣いから出て行ってしまう事。
 薬が完全には効かない生活が始まっても、一朝一夕で慣れるものでもない。生活のパターンにオメガ特有の症状が組み込まれるまでの間、バレーに専念できずに更なるストレスをも呼び込んでいた。
 高校にあがってから知った、発情期についての目安も懸念材料だった。精通から最大二年。男のオメガのほとんどは、それまでに最初の発情期を迎える。最大、としたのは理由がある。自然発生的に発情期が来るのにも個人差があるけれど、遅ければ遅いだけ発情に関連した症状が重くなるのが、主な原因。薬で発情期の訪れを遅延させずに、比較的軽く済ませられる年少のうちに起こしておくのも有効だと言う話も、医師から聞いていた気がしないでもない。
 ……言ってしまうと、俺の場合は六月の初旬。岩ちゃんの誕生日を目前にした日が、運命の分かれ道。インターハイの予選は間に合うかどうか微妙なラインで、本戦に勝ち進めたとしても時期的に非常に危うい。最後の夏が最悪の夏になりかねないなんて、ひどい話だった。
 制服の衣替えを済ませ、夏服の季節に差し掛かっても、体の変化は一向に緩やかにはならず。夏季略装になり身も心も軽やかに、とは俺の場合は言い難く……単刀直入に言えば、気鬱を拗らせていた。
 街を歩く女の子も少しずつ薄着になっていく季節柄、彼女たちの姿は大いに男たちの目の保養になるはずで、俺も本来であればその恩恵にあやかれるはずだった。無邪気に喜べない自分に気付くと、余計に気持ちも落ち込んでくる。一体いつが最後だったのか、そもそも女の子に下心を含んだ目を向けたことがあったのかどうか、記憶を遡ってもあやふやで。
 空しい思索を止めても、現実が変わるわけではない。アルファが俺のことを一人の人間として扱ってくれるのか、単にオメガとして片づけられるのかの、縮図に似ている気がしてならなかったせいかな。
 俺は……自分の性を未だに受け入れがたく思ってる俺は、彼らの目にはどう映っているんだろうな。
 疑問ばかりが浮かぶ。
 ゆくゆくは、岩ちゃんのこともバレーのことも、冷静でいられる間に見切りをつけておかなきゃいけないのかな。一緒にいたとしても、いてくれたとしても、性の壁が立ちふさがる。ベータの岩ちゃんじゃ、どうにも出来ない症状が出るんだから。ウシワカや飛雄みたいな、アルファにしか止められないから。オメガの発情は、そういうものだから。
 自分の事なのに、人任せにしか出来ないのは、今までにない位にもどかしくて悔しい。名実ともに対等でいられなくなる。従属しなくてはならない瞬間が訪れる。アルファに守られなければいずれまともに生活を送れなくなるんだ。
 もどかしい。俺は何のために、あいつを始めとしたアルファに張り合っていたのかが揺らいでいく。意地を張り、白鳥沢からの推薦を突っぱねて、岩ちゃんまで巻き込んで。そこまでして、俺は一体何をしようとしているんだろう?
 オメガという支えてもらう側の性として生まれてきた以上、俺のやっていることはおかしいことなんじゃないかって、疑問も生じる。誰かを支えられるような力は元から望まれていないのだから、与えられるものに甘んじるのと引き換えに、色々なものを諦め割り切って生きていくしかないんだろうか。……そうなるのが。そうするのが、自然で、当然で、周囲が期待し想像していたことだったんじゃないか。
 そこまで考えて。ずっと目を向けていなかった事実が、足を掬った。何を弱気なことを考えているんだ。今の俺はまるで、ウシワカや飛雄に──互いを対の性と認識しているアルファに──頼りたがっているみたいじゃないか。自分の足で立ち、生きるっていう前提が崩れている。誰かにしがみついて生きていく類の考え方だ。
 誰かに……例えば、少しでも関心を持った子に……何かする発想が、すっぽり頭から抜け落ちてもいる。
 そうだ。
 女の子に対して少しでも、かわいいな、と最後に感じたのはいつだった?
 いつから彼女たちに必要以上の関心を抱かなくなった?
 彼女らが持つ少女的でもあり女性的でもあるかわいらしさを、目にしても上滑りする。彼女らの持つ、一般的に定義されているかわいらしさに、心が動かされなくなっている。
 かわいらしさとは、なんていう柄にもない哲学的な思索に耽りそうになって、はたと気付いて、ぞっとした。
 特には男性的であれと育てられたわけではないにせよ、生まれも育ちも一般的な男性のものだと思っていたのに、性意識が世間的な多数派からずれてきているのかもしれない、と。
 特段の意識を傾けた事はなかった、けど現実は情も何もない。性的な好みもいよいよ、ベータが多数を占める一般的なものからかけ離れ始めたんだ。男女の性としては本来の機能を果たしていなくても、オメガの性を持つ者としては大して問題はないのかもしれない。
というのも、第二の性こそがこの先大いに影響力を振りかざすものだから。俺の体質としては男のアルファを引き寄せやすいようで、このままいけば番を持つとしても女の子ではなく男相手になるし、そのうち心理的な抵抗もなくなっていく……んだろうなあ。大した拒否反応も出さずに済むとは、今のところあまり思えないんだけどなあ。
 確率や統計上では、性的嗜好は男女で言うところのヘテロセクシャルが圧倒的。ただし、これはベータ間のケースが非常に多く、アルファやオメガのみに絞った場合にどのような結果が出るのかまでは資料にはなかった。
データはあくまでも数値を示しているだけで、自分が何に属しているのかを保証するほどの意味は持たない。自分は実際にはどんな嗜好の持ち主なのか。オメガの性に従順になれば、おそらくはアルファにのみ興味を示すようになるんだろう。
 ベータは単なる、社会を構成する要素に成り下がってしまう日が、俺にも来るんだろうか。そんなのは嫌なのに。岩ちゃんはいつまでも岩ちゃんのままでいてほしい、なんて考えるのは贅沢なわがままなんだろうか。 
 性に振り回されたくはないのに、俺たちは誰一人として、大人にならずには生きられない。
 その一環なのか、ちょっとした心境の変化もあった。
 俺は相変わらず岩ちゃんべったりだったけれど、それを時折岩ちゃんは嫌がるようになったんだ。だから、必要以上に距離を近づけないように、心がけるようになり。
 差し引き、ささやかな自由を手に入れた岩ちゃんは、独自のコミュニティを構築しつつあった。俺の知らない、岩ちゃんの付き合いってやつだ。
 他の誰かと話す岩ちゃんを、離れた場所から瞳の隅でこっそり追いかけるような真似を、俺はするようになった。
 そんな岩ちゃんは、俺に寂しさをもたらし、心に影を落とした。
 作り笑いをしないと笑えなくなったのも、仕方のないことなんだ。



 いつまでも、岩ちゃんが一足先に大人になってしまったような心地でいたわけじゃない。幸か不幸か、刻々と俺の体は変化し続けていたせいだ。
 注文して作り直してもらった制服は皮肉なまでに体にぴったりで、身長が伸びた場合に備えて裾も調節できるような仕立てになっている。普通に買うよりは高くついたけれど、差額は国からの補助金で賄えた。さすがに養育費じみたものまでは支給されないから、月々のかかりが増えている俺の懐までは潤わなかったけどね。 
 それでも、法律の上ではまだまだ未成年なのに、オメガってだけで変な目こぼしがあるのには驚いた。いかにもお堅い職業のお医者さんを筆頭に、良くも悪くも俺のぐるりは特別待遇で固められていき、一度慣れると苦笑の連続だった。
 俺の性欲はこの先、二度と女の子を矛先にしないかもしれない。
 俺の顔だけ見て近寄ってくる女の子をそれなりにあしらう昼休みは退屈極まりなくて、放課後の部活が待ち遠しかった。部活に出てからの方が桁違いに刺激的だから。良い意味でも悪い意味でも。
 勿論岩ちゃんはずっと近くにいるし、身の安全は相応に保証されている。けど絶対じゃない。中学では縁遠かったアルファの気配が、高校では近づいたり遠ざかったりとやけに慌ただしいから。それだけ、置かれた環境が実社会に近いものになっている、ってことなのかもしれないな。
 もう一回女の子に興味が持てるとしたらアルファ限定で、なのかなあ。それはそれで、なんだか寂しいし悲しい気がする。
 そんな考え事をしていたら、ストレッチで組んでいた岩ちゃんが、思いっきり背中を押してきた。
「ぼさっとしてんじゃねえ、またおかしなトスあげたら承知しねえぞ」
 岩ちゃんったらまだ、俺のちょっとしたミスを気にしてるみたい。
「い、痛い、痛いってば岩ちゃん、力任せにやんないでよ愛が足りないよ」
 体もオメガ化の影響で多少は柔らかくはなったとは言え、思いっきり押すことないじゃない!
「加減したらしたで、交代の時に抱きついてきて、てめえウゼェだろうが」
「……ご、ごもっともです。思い当たる節があります」
 この調子の岩ちゃんは相変わらずだった。作り笑いも作れなくなった時にしか、目に見えるような形で優しくしてくれない。
 贔屓目なしに格好いいところもあるんだけどなあ、勿体ないなあ。
 つい数日前だったか、部活に行こうとした俺を人気のないところへ連れて行こうとした、目が危ない先輩から助けてくれたんだよ。すぐに俺たちの間に割って入ってくれた時の岩ちゃんったら、その気がないような子でも思わずその気になっちゃうかもしれない位……素敵、って言葉が行いに適っているかどうかは不明だけど、とにかくその時の岩ちゃんに俺は救われた。
 同時に、悲しみの淵へと立たされたけどね。
 岩ちゃんは、単純な善意だけで俺を助けてくれたんだろうな、って。つい、考えてしまう。俺は岩ちゃんのことを、他の誰とも違う目で見ているから。
 俺の気持ちは、伝えてはいけないものだと思う。岩ちゃんの人生の、障害になり得るから。岩ちゃんは俺のために過ちを犯さなくてもいいんだ。
 ……でも。でもね。俺の気持ちに引きずられてくれないかなあって、思ったりもするんだ。絆されてくれたり、しないかなあ。
 もしも岩ちゃんがアルファだったら、絶対俺は岩ちゃんを選んでた。岩ちゃんを選んで、番になるために首筋を差し出したのに。
 世の中、うまくいくようには出来ていないみたいだった。



 番探しについて、他のオメガが本格的に動き出して然るべき年齢に達した俺は、自分の気持ちの在り処を再認識したところに追い打ちをかけられた。泣きっ面に蜂ってやつだ。
 隔週の恒例行事と化した、医院での診察と薬の処方に、思わぬ要素が入り込んだのが事の発端。その日に限って、いつもいるオバチャン薬剤師さんじゃなかったのが、俺の運の尽きだったのかもしれない。
 及川さん、って俺を呼んだ薬剤師さんは、研修中の札を胸元につけている二十代のお姉さんって感じの人だった。
 どことなくそわそわしているけど、そんなに変なもの処方されてないはずなんだけどな、って思っていたけど。
 そんなはず、ありませんでした。そわそわするだけの理由が、きちんとあったのです。
「内服分は種類も量も前回と同じなんだけどね……その……」
 話しづらいわけだよ。お医者さんの判が捺してある処方箋に書かれていた文字は、わかりたくもない内容だったから。
 薬の他に、器具が処方されている。医療器具だ。なのに、果てしなく、内容物がいただけない。
 医療用男性器なんてモノが存在してしまうなんて、世の中広いよね……。
 と、現実逃避するくらいにいただけなかった。薬の他にこんな、とんでもないものが処方されることになるとは予想もしなかったよ、オメガって診断を受けた時は。
 お医者さんってすごいなあ……合法的に、未成年者にこんなものを渡せてしまうんだから。今日はやけにニコニコしながら診察していたのは、こんな爆弾を仕込んであったせいだったのか。あの先生、茶目っ気あるんだなあ……。
 それにしても、他に処方待ちの患者さんがいなくて本当に良かった。調剤薬局お馴染みの情報提供タイムが危うく俺の公開処刑になるところだった。
「……洗浄も簡単で、使った後はこの図の通りに扱ってくれれば、年単位で買い替えもいらないから。……そして、肝心の、使い方ですけど……」
 い、いたたまれない。盗み聞きするような人は誰もいないのに、受けるダメージは全然減らない。
 それ、一応俺にもついてるものだから、使い方に心当たりがないわけでもないし、全部説明しなくてもいいのに……!
 箱を見ただけでおおよその見当もついたから。
 だから、俺から視線を逸らしたまま、無理に使い方なんか説明しなくていいから……もうそこまで子どもじゃないし、多少なりとも知識は習得してますし。
「な、中に入れたまま寝ちゃっても問題はないけど、忙しい朝には後始末の時間も貴重だと思いますし、抜いて洗ってからゆっくり休んでくださいね」
 とどめまで刺されてしまった。
 そんなことするつもりないのに!
 入れっぱなしで寝てられるわけないと思います、なんて口にしたが最後。俺は一人の男として途方もなく大切なものを失って二度と手に入らない気がしてならない。
 今後お世話になるものなんだろうけど、いずれはそれだけじゃ足りないって感じるんだろうし……いやいや。違う違う、そうじゃなかった。もっとこう、こんなものを処方されてしまった、って落ち込むところじゃないだろうか、ここは。どうして深刻になりきれないんだろう。やっぱり物がモノのせいだろうか。
 中身が見えないように濃い色のついた袋に入れられた箱の外装には、間違っても人前に出してはいけない物のシルエットが印刷されている。医療器具の肩書を持っていても、それは所謂……大人のおもちゃなので、所持者と所持者以外の健全な生活と関係性を保つためにも配慮が必要な点は疑う余地もない。体内に含ませる前提で作られた本格的な仕様は機能美さえ見出せるほどだから、おもちゃというくくりで呼んでしまうのはあまり適切ではないのかもしれないけどね。
 でも、世間一般に流通している物は医療用でもないジョークグッズめいた物だから、確かに冗談半分のおもちゃでもあって……よくわからなくなる。
 だから、公費負担ですさまじい一品を処方されてしまった現実だけ受け止めて、深く考えるのはよしておこう。同じ物を処方されているのは、俺だけじゃないはずだし……。
 ちなみに、予想外の顛末がその日は俺を待っていた。
 概算の金額に若干の余裕を持たせて財布にある程度入れておいたのに、予定外に高くついた会計額の影響で、帰りの交通費を圧迫した結果。
 いつもよりも長い道のりを、人に見られたくない物を持った状態で、歩く破目になった。
 

 そんなわけで、調剤薬局での波乱のひと時を過ごした後にも、また波乱が待ち受けているという全くもって歓迎できない非日常を味わっていた俺ですが。
 時間的に部活に出るには厳しかったから、真っ直ぐ家に帰ろうとしたところで、抜き差しならない問題が発生していました。
 少し考えれば判りそうなことなんだけど、いくら不透明な手提げ袋に入れていたって、アレを持って帰るのはひたすらに、目立つわけです。膨らみ方が処方薬とはまるで違うから、手にぶら下げて持ち歩くには、正直これっぽっちも適していない。
 正直に申し上げますと、確かに使いますし、実のところそろそろ欲しいかも……と思っていたのは事実です。そんなことを考えるのはオメガとして自然で当然だ、ってお医者さんにも言われてはいるから、精神的にはダメージを受けていないと思いたい。
 けれど、それとこれとは話が別だ。こうして持ち帰っている様を見られでもしたら、万一袋の中身を検められたら、と想像しただけで……俺の積み上げてきた社会的な体裁が、音を立てて崩れ去ってしまうように思われてならない。
 通り過ぎる人たちの視線が針のように刺さる感触を拭いきれないまま、早足で歩いてようやく家に入った時には、部活で張り切り過ぎた時以上の疲労感が全身を包み、掌を圧迫していた。



 家のパソコンを起動して表計算ソフトを開き、個人的につけている医療費のデータを眺めると、自己負担額とそれに伴う変化が客観視出来る。大部分が公費負担ではあるが、もちろん自己負担額も無視できない金額を支払うことになっているし、グラフ化した自己負担額はゆるやかな勾配を描いて上昇していた。
上がること自体は当然だった。大人になっていくにつれて、オメガの諸症状を消すために必要な抑制剤の量は増していくから。アルファにニオイを嗅ぎつけられないための量ともなれば、天文学的な差異になる。
 また厄介なことに、薬にばかり頼り続けることも出来ないのが、悪循環を生み出すどころか袋小路を作り上げている。薬に頼りすぎると、薬の効果に体が過剰に適合していき、結果として効力が弱まってしまうから。現に、時々薬の効きが弱い日もあって、そんな時は微熱が出やすいんだ。
 今も、そう。体がふわふわして、起き上がっていると体が傾いで、すぐ横になりたくなる。俺はさっさと諦めた。這う這うの体で着替えてから布団を敷いて体を投げ出せば、芯に篭っていた気怠さが一気に表に出てくる。
 夕食まで時間もあるし、少し寝ておこうかな。明日学校に行ってもまだふらふらしたままだったら、また岩ちゃんからのお小言が飛んでくるだろうし、余計に気を使わせちゃいそうだし。
 枕元に転がったままの手提げ袋から、持って帰ったばかりのアレがはみ出してきている。……外装だけでも外して隠しておいた方が、家族相手だとしても気まずくなりにくいよね、きっと。大っぴらにしていられるほど、人の目を気にせずにはまだ生きられていないから。俺自身が、自分の体の事を十分に割り切れていないから。
 箱を開けると、調剤薬局で見たものと寸分違わぬイチモツがしっかりと入っていて、結構複雑な気分になった。外装をばらばらにしてシュレッダーにかけるのも今度でいいや。何を出されたのかさえばれなきゃいい。もう、あまり細かいことで煩わしい思いをしたくない。
 体を慣らす意味合いもあるのか、成人したアルファのそれよりも小さめに作られている当の品はといえば。ほどよい硬さといい、弾力といい、再現性がとても高かった。高いだけに、こんなものにまで税金を使い養われるべき価値が、オメガの性にはあるのかどうかっていう疑問さえ、浮かんでくる。
 岩ちゃんは、こんなもの必要ないのになあ。
 横になったまま、ぷにぷにとした先っぽを突いていると……なんか、ヘンな気分になってくる。
 ……岩ちゃんは、普段どうやってるのかな。世間一般に漏れず、俺の想像のつく範囲での話なのかなあ。
 呪わしく忌まわしい、掌の中の肉色をした棒の感触に、本当の意味で馴染める日は来るのだろうか。



 その夜、探求心が俺を動かした。
 試してみても俺の眼鏡にかなうかどうかは話が別で、何かしら難癖をつけて使わずにいても特に問題はないだろう、って思ったから。
 終わった後の後ろめたさや虚しさが嫌で、二度と使いたいなんて思わなくなるかも、とも。
 だって、今までは使わずに済んでいたじゃないか。
 ……けど、結果はお察しの通り。
 ソレなしでは、俺のこの先の生活は考えられないって位に、夢中になってしまっていたんだ。
 実に丁寧に説明してある注意書きの通りに、お湯で洗浄して人肌程度に温めてから使ってみたところ……まあ、その、ね?
 口ではあれこれ言っていても、ああはなりたくないなって思っていても、俺はやっぱり一人のオメガだった、ということで。体の中に異物が侵入してくるんだから気持ち悪いんじゃないかって気にかけたのは、単なる杞憂に終わり。
 俺の体は、誰かに拓かれるのを待ち望んでいるかのように、異物であるはずの疑似性器を受け入れたんだ。
 気付かない間にとろとろと粘液を分泌していて、実にすんなりと準備が整う様は、いっそ諦めさえ覚える。今まで一度も何かを入れたりしたことはない。なのに、勇気を出して指も入れてみても、痛みどころか不快な印象すら感じなかった。ぬるつき柔らかく絡みついてくる粘膜の存在を、その時初めて知った。体内が待ちわびているもののことからは一旦意識を逸らして、知らない世界がもたらした快楽に、溺れていく。
 アルファと繋がるために全身が形成されている体。自分自身を、そう認識しなくてはならない瞬間が、とうとう俺にもやって来た。慣らす必要性なんか当然なかった。俺にとっての入り口に、軽く押し当てるだけでずぶずぶと入り込んでいくから。狭いところを押し広げて埋没した後は、最先端の技術の結晶らしく、体の力加減を多少変えるだけで中を勝手に蹂躙し始める。
 人間の感性の根源にある、快へと辿り着くために開発されたものは、あっさりと俺の理性を陥落させた末に……性を、目覚めさせた。
 泣きたいくらいの強烈な快感を伴う、淫靡な水音の果てには、恋しい人の名が浮かび漂っていた。



 枕に顔を埋めていなかったら、俺の嬌声で家族全員を起こしてしまっていたかもしれない。声を出さないよう我慢する、しないの範疇を軽々と飛び越えて、更に高い場所へと手が伸びようとしていたから。気をやる、って形容が確かにぴったりだ。何もかもがそちらに持っていかれてしまう。
 ドライオーガズムを経験した事実なんかどうでもよかった。手足を麻痺させるような甘い熱が、気怠さと睡眠欲を持ち込んでくる。余韻に浸る間もなく、現実に帰らなきゃいけないのは、少し寂しかった。
 人肌が、恋しい。隣に誰もいてくれないのを、寂しく思ってしまう。今までは一人寝が当たり前だったのに、何の変哲もない日課のはずがどうして物足りない。
 ここに岩ちゃんがいてくれたら、って。今は、そんな無茶苦茶なことを考えている。お向かいでもお隣でもない岩ちゃんは、俺のところに泊まりに来てくれなければ、同じ部屋で一緒に眠れるはずなんかないのに。
 恋しさの嵐に誘われて、窓の外を見やる。そこには当然、誰もいない。疼き続ける体の熱を散らしに、来てくれる人の姿もない。
 脱いだ服をもう一度着て玄関の外に出てみれば、表は当然真っ暗でひっそりと静まり返っている。住宅街の夜らしい夜。胸の中の嵐とは対照的に、そよ風が吹いている。
 曇り空には、かろうじて月が見え隠れするばかり。
 しばらく、ぼんやりと見上げ眺めていると、不意に岩ちゃんの声が聞こえた気がした。
 体冷やすんじゃねえぞ。風邪引いたらどうなるか、わかってんだろうな。
 ……ねえ、岩ちゃん。この位のそよ風じゃ、体も頭も冷やせないよ。体の芯に残る熱は冷めずに、くすぶり続けているから。岩ちゃんが隣にいてくれたら、俺はあんなことをしなくても済んだのかな。一人が寂しいなんて、思わずにいられたのかな。
 夜更けでも文句ひとつ言わずに来てくれそうな人は、一人だけいるにはいるけれど……あいつにだけは、頼ったが最後のような気がするから、頼りたくはない。いつの日にか、あいつを頼らざるを得ない日が来るのかもしれないけれど、今は考えたくはない。
 俺の中には、わからないことと、考えたくはないことばかりが、詰まっている。
 はっきりしていることの方が、ずっと少ないんだ。
 白鳥沢の高等部に進学したあいつが、俺が呼びさえすればいつでも寮を飛び出して駆けつけてくるんだろうなってこと位、かな。



 俺は人より遅らせているとはいっても、先の一件以来オメガとしての生活に染まらざるを得なくなっている以上、処方される抑制剤の量も増加が緩やかになっている。
 そもそも、抑制剤の主作用に効果を期待する以上は、相応の副作用も甘受しなければならない。頭痛や目眩なんかは一般にも知られている代表的な副作用だ。
 けど、その他にも抑制剤の副作用は存在しているし、むしろあまり知られていない副作用の方こそ留意すべき点が多々あるのだと聞かされている。だから抑制剤は迂闊に多用出来ないし、みだりに使えばひどいしっぺ返しを食らうんだ、とお医者さんにも口を酸っぱくして言われている。
 ただ、言われた時。俺は実感が湧かなかった。ぴんと来なかった。だから、それをそのまま伝えた。すると、だ。一日過ごせば懲りるから試してみるか、って。らしからぬ悪戯めいた笑みを浮かべつつ、常に服用する分の他にも追加で、医師は処方箋を書いた。
 好きな日に試してみていいと言う。だが可能であれば、動けなくなっても大勢に影響のない日を選んだ方が無難だとも言う。その言葉の意味するところは、処方の量にあった。
 疑似性器のお世話になってからというもの、着実に俺はオメガ化の一途を辿り、それに伴ってアルファを無意識に吸い寄せる体質にもなっていた。鬱陶しい位に近寄ってくるものだから、正直辟易していた。
俺の体から放たれる匂いがアルファを呼び、引き寄せられた奴らが俺を眺め品定めする。そんな嫌な日課の原因である匂いを、彼らの鼻を誤魔化せるものへとすり替える量なのだと説明があった。
 たった一日。されど一日。
 俺に出た結果は、散々なものだった。
 朝練を終えてから始業までの時間に、思い切って服用してみたんだけど……本末転倒もいいところ。内服してからたった三十分で、体が薬と大喧嘩を始めて。俺の平熱は高めだったのに、それでも結構しんどいレベルで熱が出た。勿論授業になんか集中できないし、話を聞く格好も保っていられない。顔色を悪くし荒い息を吐く俺を見かねた教師が、俺を保健室に連れていった位なんだ。勿論昼食を食べる気力もなくて、ただ横になって休んでいるだけ。アルファから隠れられたとしても、何もできない。何の意味もない、服薬だった。
 こんなのは、毎日繰り返せるわけがない。こんな目に遭う位なら、ウシワカの奴は絶対嫌だけど飛雄にだったら……百歩は少ないから一万歩くらい譲って、番になってしまった方がましだとさえ思えた。
 経験を受けての個人的な解釈だけれども、体から常に漏れ出ている匂いは、ただ単にアルファを引き寄せているわけではないらしい。抑制剤を多く服用していても、薬の効能を越えて体の外へと匂いを発しようとしている以上、他にも目的があるような気がしたんだ。誘引物質……動物で言うフェロモンのようなものを、体外に放出しなくてはならないのかもしれない、って。
どうしてそんな厄介な機構を体内に持ち合わせているのだろうか。自分に近づくアルファの中から番を選定する際の、助けにでもするとでもいうのか。体の成長が終わる前に番を見つけるために、抑制剤の多寡に応じた強弱をつけて。その匙加減を今日、薬が阻害した。本来の目的を達成できないように、本来はあり得ないような量を服用した。
 だから、薬の効果を超過するために体が無理をする。常にアルファを誘き寄せられるよう、匂いを放とうと悪あがきを続ける。オメガの性成熟は止まらないのに、いつまでも番がいないとオメガの体は壊れてしまう。アルファを探すための匂いを際限なく強めて、大して頑健でもない体を、蝕んでしまうんだ。
 本能に逆らう代償は重い。成長すればするほど、大人に近づけば近づくほどに、強い力を持ち圧し掛かる。そんな無茶は一生続けられやしない。もし続けられたとしても、その生涯はとても短いもので終わってしまう。人類史に革命が起きるような大きな奇跡でも起きない限り、一人で耐えきれるわけもないんだ。
 ……だから、どんなに嫌だと泣き喚いても、俺もいずれ誰かを見つけなきゃいけない。自分の身を守るためにも、他人に迷惑をかけないためにも。誰かに頼りきりになるって点では確かに抵抗がある。でも、誰かに頼らなくては、今まで出来たことさえ出来なくなっていく。オメガはとても不自由な生き物だ。体を蝕む本能から自我を守るためには、人の手を借りなければならないなんて。
 アルファに気に入られるような存在になろうとしても、なれるのかどうかはわからない。なのに、オメガはアルファに従属して生きていく位しか道がないなんて、ひどい話だ。番のアルファに気に入らないところがあっても目を伏せ、割り切って受け入れられるような、懐の深い人間にならないと。
 でなければ、俺は一体どれだけの不祥事を起こしてしまうのか、正直な所見当もつかない。俺にとっての時間切れが訪れたら、ただの熱が熱で済まされなくなる。時間切れになった俺は、全身でアルファを求めるから。かつてないほどの匂いを撒き散らし、周囲のアルファを見境なしに誘き出しては弄ぶ。もしくは相手のところへ行って、自ら首筋を差し出し、体の何もかもを明け渡してしまう可能性さえ、ある。
 一瞬、ほんの一瞬だけ。あいつでもいいかも、って。熱に浮かされた頭は、とんでもないことを考えた。
 何もかも、全部を、熱のせいにしてしまいたい。俺の中の変化だとは、認めたくはない。



 学校で一日熱を出して寝込んでしまった以上、何が原因だったのかを部の皆に伏せ続けるのにも限度があった。それに、何となく皆も気付いているんじゃないか、って思ったから、部活が始まる直前の体育館で、決心して打ち明けた。俺はオメガだ、って。
 俺の読みは外れた。嘘だろ、ってどよめきが広がり、嫌な感じのざわつきが消えない。居心地の悪い緊張感が、全員の足首を掴む。誰も一歩も動かない、重苦しい空気が場に充満している。
 隠してもいずれは知られることなんだから、早めに打ち明けたのに。途端に俺を見る目が、及川徹という個人から、オメガの一人という扱いに変わっていく。腫れ物を避けるように、精神的に距離を置かれたのが伝わってきてしまう。何もなかったかのように、部活は始まった。俺だけを取り残して。
 ベータとオメガ、性が違ったからって、今まで一緒にやってきた事実は変わりないのに。性が同じじゃないってことは、そんなに重要なことなの?
 ネットのこちら側にいたはずの皆が遠い。
 オレンジコートの頂点へ、って……同じ目標を掲げて練習を重ねていた昨日までが、嘘のように俺の前から姿をくらませた瞬間だった。
 ぎくしゃくした空気は、練習が始まっても一向に変化する様子を見せない。一年生は時間を個人練習に充てるよう部長から指示があったからって、昨日まで何の意図もなく話しかけてきてくれた人たちが、岩ちゃん以外誰も近寄ってこない。気にするなって、岩ちゃんは言ってくれたけど……俺の様子を窺っているのが伝わってきて、過剰なまでに気にかけてくれているから気が引けて、居心地を良くしようって心遣いが逆に重荷だった。
 結局、本来の時間の半分も経たないうちに、俺は周囲から孤立した。岩ちゃんは岩ちゃんで、俺にいつまでもかかりきりになっていられるはずもないし。下手に動いてまた熱が出たらどうする、って岩ちゃんに言われてしまえば、俺には立つ瀬がない。体育館の隅に腰を下ろしている位しかやることがなかった。
 部活が終わる寸前に俺は体育館を出て、部室への階段を大急ぎで駆け上がった。着替えもそこそこに、体を冷やさない程度に着込んで荷物を引っ掴んで、走って階段を下りた。その足で部の誰とも遭遇しなかったのは、ただの幸運だったと言えるだろう。
 普段必ず一緒に帰る岩ちゃんも待たずに、俺はあの場から──現実から、逃げ出すように家に帰った。脇目も振らずに、学校から自宅への一直線。玄関に靴を転がし、洗濯物を出す日課も飛ばして、自分の部屋に入ってようやく一息ついて。面と向かって何かを言われる圧力から一時でも解放されて、涙腺が緩んだ。
 どうして。どうして。
 ……どうして。皆と同じじゃいられないってのは、こういうことだったの?
 事実が受け入れられない。オメガの性を持つってだけで、あそこまで態度を変えられるものなのか、ベータって生き物は。
 幻滅、する。信じていたのに、裏切られたのかな、俺は。
 バレーを続けていて、苦しいって感じる機会なんか枚挙に暇がない位にあったけど……今日のは、今までとは系統の違う苦しさだ。競技として続けられるかどうかの瀬戸際に、こんなところで立つ破目になるなんて、予想なんかしなかった。
 感情の行き場を求めて、何の気なしに俺は一歩を踏み出した。視界の端に、年季の入った四号軽量球がネットに入ってぶら下がっている。家の手伝いと引き換えに買ってもらった、懐かしいボール。久しぶりにネットから出して手に取ってみると、かなり軽く感じる皮張りのそれは、ちょっとかさついていた。
 床に横になり、天井へ向けて軽くトスを上げてみる。何度も繰り返していれば、少しずつ頭の中も整理されていく。規則正しい音と手ごたえは、過去を振り返るのにぴったりだった。 
 バレーを始めた時、俺は一人だった。そのうち岩ちゃんも付き合ってくれるようになって、一人が二人になった。今回の一件で、岩ちゃんと二人だったあの頃に、今更戻る破目になるのかな。出来なかったことが出来るようになって、少しずつ思ったように球が飛び始めた、楽しさや喜びできらきら光っていた夏に。
 いくら楽しくても、試合には出られないのに。六人いないと、どうにもならないって知らなかったあの頃とはもう違うのに。
 クラブチームに入って人数が揃い、初めての試合に挑んだ日。ラリーがうまくいかないなんていう、勝つ以前の課題が見えた日。
 そんなに遠い日の事でもないのに、振り返る過去に成り果てた日々。
 スパイカーとセッター、それぞれの伸びしろを見出した日。役割を見直し定めて、初めての勝利を手にした日。
 今歩いているのは、それらの延長線上にある道だ。決して短くはない道を、岩ちゃんと二人で歩いてきた。人数が増えて、ウシワカっていうどうしても勝ちたい相手も見つけて、今度こそ雪辱を、と思っていたのに。
 惜しかったな、中学最後の公式戦の決勝は。頂まであと少しってところまで近づいて、手が届きかけた瞬間、勝利は指の間をすり抜けていったけど。ベストセッター賞を貰ったその日、ウシワカの奴はやっぱり俺に好き勝手していなくなったりもしたんだけど、そこはまあ目を瞑っておいてやるとして。
 勝利へのあと一歩を踏み越えるための時間は一分一秒も惜しい。それなのに、コート上の六人がまた二人に戻るかもしれないなんて、今更過ぎる心配をしなきゃいけないなんて、どうかしてる。俺はウシワカとも岩ちゃんとも違って、まともにバレーに打ち込める残り時間が、誇張表現無しに大して残っていないのに。
 努力すればその時間が伸びるなら、とっくに悪あがきもしているよ。
 けど、体が大人に近づいていくのを、どうやって阻めるのか。その方法を、俺は知らない。
 世界の頭脳って呼ばれる大人たちが総出で取り囲んでも正体が割り出せない難題に、今から二年足らずで結論が出せるとは思わない。そこまでの楽観視は、俺には出来ない。
 だから、万一の時は、岩ちゃんに俺の願いを託すことになるかもしれない。もしも明日から、俺が部内でつま弾きにされたとしても、何としてでも岩ちゃんは巻き添えにならずに済ませてもらおう。俺と岩ちゃんの夢は、こんなことで砕かせたりしない。夢はこれからも続いていく。あいつに勝つために出来ることはきっと、コートの外にだって無数にあるんだ。
 そんな夢を見る自由なら、今でも十分残っているはずだもの。

 そして、次の日。
 朝練には参加せず、熱が出る兆候もないのを授業中に何度も確認してから、放課後を迎えた。清掃を終えてすぐに体育館へと向かっているはずの足は、教室を出た途端に重さの桁を上げる。
 いくら俺が練習に参加したがっても、また昨日と同じように遠巻きにされたりしないだろうか、って。どうしても気になって、なかなか爪先を向けられずにいたんだ。
 俺がそんなになっていることも、多分見越していたんだろう。岩ちゃんが教室を出てすぐの廊下で待っていた。迎えに来てくれたんだ。
 遅い、って怒って、俺の手を引っ張ってさっさと歩き出す。立ち止まる猶予もくれないまま、連れていかれたのは見慣れた部室棟。皆に打ち明ける前の景色を嫌でも思い出す。
「『庇護も非難もしないから、自分の面倒事は自分でどうにかしろ』だそうだ。主将からの伝言、確かに伝えたからな」
 振り返りもせずに、岩ちゃんは独り言じみた言い方をした。岩ちゃんの話によれば、ただでさえ数の少ないオメガに、いて当然の番もなしにふらふらしてるって場合、先輩や部の一員としてどう接したらいいのか。何を言ってやればいいのか、言うべきなのか。あの場ではわからなかったから、部活が終わってから急遽話し合って、ひとまずの結論を出したってことだった。
「本人に言われてようやく気付くって、意外と及川のことは見てなかったらしいな。これでもか、って位に今でも匂い漂わせてんのによ」
 ──隠したつもりでもクソも隠れてないって思ってたのは俺だけか。
 ちょっとひっかかる岩ちゃんの一言以外はとりあえず、平和な日常に戻ったって解釈でいいのかな。都合、良すぎるかな。
 何はともあれ、俺は表情を緩めずにはいられなかった。



 そんな一件も手伝ったのかどうか。
 今まで俺は岩ちゃんに、隠し事らしい隠し事はしていなかったけど……どうしても隠させてほしいことが一つだけ、出来たんだ。何も言わずに黙っている俺を、怒らないでね。
 オメガの俺は本来、アルファだけを性的に好むはずだから、アルファにのみ関心を向けるべきだって。安全と安心をくれるアルファを探して番にしてもらうのが、俺の一番の幸せなんだ、って。……思い込もうとしても、出来なかった。オメガとして生きていこうって受け入れられたのも、体の変化に振り回されてもバレーを諦めずにいられるのも、全部岩ちゃんのお陰なのに。
 大事で、特別で、今まで出会った人の中で一番幸せになってほしい人なのに。もしかしたら、俺のせいでそれがぶち壊しになるかもしれないんだ。
 だから、秘密のままにさせておいて。
 俺は、どんなに優しくしてくれるアルファが目の前に現れても、ベータの岩ちゃん以上に好きになれはしないと思う。そんな人は絶対にいないと思う。
 けど、俺が勝手に想っているだけだから、岩ちゃんは一切気にしなくていい。俺の無謀な期待に応えるつもりは、岩ちゃんにはないってわかってる。
 言うつもりはないけど、大好きだよ。岩ちゃん。
 俺がそんなこと言ったら、岩ちゃんはきっと困るよね。
 今までと同じようには、きっと仲良くしてはくれなくなるよね。
 岩ちゃんが俺から離れていく位なら、一生黙っているつもりでいる。
 恋が叶わなくたって、岩ちゃんと一緒にいられることの方が、俺にとっては大切なことなんだ。
 本当のことを伝えて一緒にいられなくなるよりも、そっちの方がずっといい。


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