【牛及】白鳥沢公認の二人【知らない幸せ番外編】

 八月の中旬、うだるような暑さとは縁遠いほどよく空調の利いた体育館で、白鳥沢学園バレーボール部の面々は練習を重ねていた。インターハイ予選では勝ちはしたものの楽勝と言えるほどの点差ではなく、その後も勝ち進んだとはいえ良くも悪くもエース頼みのチームである点が裏目に出て、肝心な局面でエースを欠いたチームは結局敗北した。今年こそ優勝旗を持ち帰ることが出来ると意気込んでいただけに、衝撃は大きかった。
 何故エース不在のままで試合に臨まなければならなかったのか。禁句であるかのように、その話題になりかけると部員たちは口を閉ざす。不文律がそこにはあった。
 その不文律の中心にあったのが、番の噛み跡も生々しい及川徹。先日十八歳の誕生日を迎えたばかりだ。盆休みの近いこの時期、彼の番もそろそろ誕生日を迎える。法の上では、婚姻届けを提出できるようになる二人。二人は同じ体育館の中で、対照的な行動を取っていた。片や、頭上に向かって上げられるトスを左手で強烈なスパイクへと変え。片や、体育館の隅で空調にミルクチョコレート色の髪をそよがせての座り込み。
 座り込んでいる方が、渦中の人物……及川徹だ。バレー用のシューズは履いているものの、その靴裏は摩擦熱を持たず冷たい。羨ましそうに、けれども眩しそうに、彼もつい数か月前までは青春の全てを賭け捧げて来た競技に打ち込む姿を今も見つめている。腹を守るように膝を立てて座る姿は、すっかり体育館に定着して久しかった。
「はぁ……」
 及川の懊悩は浅くなかった。
 白鳥沢の面々は、自分を『いないもの』としては扱ってくれない。『いるもの』として扱い、万が一にも球をぶつけないよう、球拾い兼控えのリベロが常に一人はすぐそばに配置されている、気合いの入れようだった。
 及川の身に何かがあってはいけない、と暗黙の了解が存在し、何をするにも一人にはされないよう、下にも置かない扱われ方の現状を、及川自身は決して良くは思っていない。
 ただ、『可能性』がどうしてもついて回る以上は、『そういうもの』として扱う、というのが牛島の方針だった。その胎の中に、新たな命が息吹く可能性がある以上は、慈しみ育む母体に万一の事態があってはならない、と考える男であった。それがたとえ、現在妊娠している可能性はゼロに等しいとしても。
 だから、お腹を守るよう厳命されている上に、激しい運動も許されていない。折角体育館にいるのに、バレーが出来ない。拷問のような時間だった。ただ、いくら不文律とは言えども例外がないわけではない、と考える男がいた。法には穴がある、と熟知している男──白布賢二郎だった。
 白布は練習を一旦取りやめ、及川に一直線に近づいていく。控えのリベロに一度席を外させた白布は、彼を労い、しゃがみ込んで及川に目線を合わせた。じっとりとした目でコート内の様子を見守っていた及川の視界に、一気に白布が入り込む形となった。
「……どうしたの、白布。正セッターさんが練習抜け出しちゃ、だめでしょ」
「質問が、あるんです」
 二人は見つめ合う形になる。白布の目は真剣だった。
「たとえ妊娠初期でも、軽い運動くらいは母子の健康のためにむしろ推奨されているはずです。サーブ練やレシーブ練ならともかく、球が飛んでくるリスクがゼロに近いトス練やスパイク練にさえ、どうして参加しようとしないんです。牛島さんの一言があったせいですか。それとも別の理由があるからですか。答えてください」
 及川は言い澱んだ。確かに、牛島の言葉の影響もある。ただ、理由がそれだけではないのも確かに事実で、返答に困っていた。
「……ごまかしちゃ、だめ?」
「駄目です。このままじゃ誰のためにもなりません」
 牛島さんも過保護に過ぎます、と愚痴をこぼしながら、白布は及川の言葉を待った。
「……妊娠は、してないと思う。薬はちゃんと飲ませてもらえてるし、陽性反応出たこともないから」
「答えになっていません」
「俺は春高には出られないから、練習に参加する意味は薄いんじゃないかな、って。部に籍はあるにはあるけど、今までやって来た体制でちゃんと機能してるわけだし、今更異分子を入れなくても」
「それ以上自分を過小評価するなら俺だって怒りますよ、及川さん」
 白布の目つきが鋭くなる。
「貴方がその気になれば、俺から正セッターの座を奪い取ることも出来るはずです。どうしてそうしないのか、説明してください」
「春高に出られない具体的な理由を説明すれば、納得してくれる?」
「内容によりますが、引き下がります」
「……そう。俺が春高に出られない理由はね……開催時期。牛島から聞いてるよね、六月上旬と、今月の頭に、発情期が来たこと。まだ発情期が明けたばかりで、うまく説明できるかどうかはあんまり自信ないけど……今月の頭にきたのは、イレギュラーだったんだ」
「イレギュラー? 二か月弱で発情期が来る周期は確かに相当短いとは思いましたが」
 及川は白布の言葉を遮った。
「本来もう少し遅くに来るはずだったんだ。ちょうど、今くらいか、もうちょっとしてから。……体調管理が甘くて、熱が出たせいでああなって」
 今度は白布が及川の言葉を遮る。
「だからあれは、仕方のない事故だったって言ったじゃないですか。皆そう思ってます。誰も及川さんを責めやしませんし、どうせならチームの力に少しでもなってくれたらって、誰も彼も思って」
「俺が俺を、許せないんだ……」
 及川が俯く。
「皆が俺を許してくれても、俺は自分を許せない。不可抗力だからって、そう簡単にあんな大事な舞台に穴を空けさせた自分が許せなくて……苦しくて……コートに立とうとしても、思い出すんだ。あっさりアレを過去に昇華させることなんて、俺には出来ない」
 それに、と及川が続ける。
「たとえ俺の覚悟が決まっても、下手をすると予選の日に発情期がぶつかるかもしれない。そうなったら? 選手登録は間に合うかもしれないけれど、控えの控えの席に甘んじていた選手の気構えが間に合うかどうかはわからないよ?」
「瀬見さんならそんなことは」
「わかってる。そんなことはないんだって。でも、考えずにはいられないんだ。試合が近くなってまた熱が出たらどうしたらいいんだろう、って。また牛島をチームから取り上げるようなことになったら、俺は皆にどんな顔をして会えばいいんだろう、って」
「だから、誰も貴方を責めるような事は……」
「堂々巡りなんだ。俺がいる限り、不安定な因子はあり続ける。存在してしまうものは仕方ない、って皆が受け入れてくれてるのはわかってるし、嬉しくて泣きたくなるよ。でもね……でもね……」
 及川の声が、涙声へと変わっていく。
「因子は小さい方がいい。正セッターとエースが揃って不在でも勝ち抜けるほど、春高は甘い舞台じゃないと思う。どの学校も、死に物狂いで練習してる。白鳥沢も、そうでしょ?」
「……それは、そうですが」
「だから。……だから、俺をチームの一部にしちゃだめだよ。俺は不完全にも程があるパーツだ。チームに組み入れたら、既存の機構までだめにしてしまいかねない危うい部品でしかない。そんなのを使っちゃだめだよ……司令塔」
「……ですが」
「でも? けど? だって? 飽きたんだ、考えるのにも。バレーは高校で終わりってわけじゃない。大学だろうと実業団だろうと、続けられる環境さえあれば俺はバレーを続ける。……多分、牛島と一緒に」
 やおら及川が立ち上がる。
「それにさ。アイツの心配も的外れじゃないんだ。今お腹に赤ちゃんがいるわけじゃないけれど、いつかはそうなる体だから大事に大事にしておきたいって、思ってるように感じるんだ、ひしひしと」
 だから白布くんも過保護になりすぎないでね、自分の役割を忘れない程度にしないと監督から喝入れられるよ。
 体育館から出つつ、及川は白布に言葉を残した。

 そして、悲劇は繰り返されたのか。
 本人たちしか、知り得ない事実もあった。

[ 58/89 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -