三章

 岩ちゃんは、俺の体のことについては周囲に漏らさずに黙っていてくれた。その事実が俺をどれだけ救ってくれただろう。
岩ちゃんは味方だ。それも、一番心強い、いつも近くにいてくれる味方。俺が健康に過ごせるように、ってアルファとのお見合いを考えていた両親の説得に始まり、かかりつけ医の緊急連絡先への登録まで、私生活に関して岩ちゃんが関わっていない部分を見つけ出す方がむしろ難しいくらいに、力を貸してくれている。
 周囲のそんな理解と助力もあって、俺は無事に最高学年に上がった。平均的なオメガなら、番探しを本格化させなきゃいけない時期だったし、場合によっては最初の発情期が来ていてもおかしくない。現に、登校が疎になった生徒の話もまことしやかに聞こえてきている。
足音を消したまま俺たちに近づいてくる、本格的な性の分化は、どんな風に俺たちを弄ぶのか。問題を先送りにする意味を頭の片隅に残して、迎えた四月。
 思えば、暦の意味が他の人とは違ってきていたのも、同じくらいの時期だったのかな。



 最高学年に上がったからには、それらしく振る舞うように周囲が期待しているのは感じていたけど、俺も岩ちゃんも相変わらずの毎日を過ごしていた。
 チームメイトには、やっぱりオメガだって言えずにいる。岩ちゃんも、黙っていてくれている。頑張れば、ベータとオメガの力の開きなんて、ほとんど埋められたから。隠したままで十分やっていけたから、俺がオメガだなんていう余計なことを気にしてほしくなかった。
 俺をこんな風に生んでくれたお母ちゃんに、恨みなんか全然なかったよ?
けど、自分の性を定めた血を否定するみたいに、来る日も来る日も練習に明け暮れて、春休みの後にやってきた始業式と入学式の日。
 校舎のなかで一番年期の入った制服は、先月まで小学生だった新一年生の目にはどう映るのかな。自分の時はそれどころじゃなかったから、全然覚えていないんだ。
 そういえば。春休みの間に全員が受けている検査結果が、この時期に出るんだった。自分の人生を左右する、道を閉ざしたり切り開いたりと気まぐれな、三つの岐路が。
 自分の生まれへと本格的に分化するのは彼らにとってはまだまだ先だし、俺の成長も順調に遅らせるのに成功しているようだって見立てを、かかりつけ医から聞いている。だから、下級生に気をつける必要もあんまりないし、抑制剤もこのところ処方量は変わってない。春の陽気が味方してくれたみたいに、俺のまわりは何となく平和だった。
過去形なのは、重い代償が、あったせい。


 岩ちゃんは相変わらず岩ちゃんで、その日もぽやぽやとストレッチをやっていた俺の後頭部に、さぼるな、って球をぶつけてきた。あんまり調子良くなかった自覚はあったけど、前の日はちゃんとぐっすり寝たし、お昼に食べ過ぎたり食べ足りなかったりもしてないし、岩ちゃんの言わんとする不調の理由はさっぱりだった。
 四月も半ば、今日から新入部員が練習に加わるって日。俺にとっての長い悪夢が、始まった日。
 俺の仕上がりは今ひとつ、正直なところよろしくなかったのだけれど、自分の性が周囲にばれるほどひどかったわけでもない。
 新入部員を迎えての新体制が本格的に動き始める初日なんだから、気を引き締めていかないと。
 そうこうしている間に、顧問の先生が新入部員を集めて体育館にやって来た。やや緊張した面持ちの並ぶ光景が、二年前を思い出させる。二年なんてあっという間なのに、妙に三年生が大人に見えたんだよな、あの頃は。自分がいざ三年生になってみても実感が湧かないのに、不思議なもんだよね。
 と、どうでもいいようなことを考えている間にも、新入部員の自己紹介は続いている。今年もオメガの子はいなかった。そんなに頻繁に居もしないけど。
 なのに。
 オメガの子は、いなかったのに。
 ベータでもオメガでもない、アレがいたんだ。
 アルファが。
 困ったことに、一年生の中に。
 そいつの名前は、影山飛雄。生活全部をバレー中心に組み立てているような、変を通り越した疑惑さえあるのに、見た目は間違いなくただの一年生。けれど、新入部員の中でも年季の入ったバレー歴を持つそいつは、一年生の中でも圧倒的にボールに慣れていて。プレイを一度目にしてしまえば、異彩を放っている能力や可能性に、見る者の目が眩む。こんなにも違うのかと。今年の部員には期待が持てそうだと。本来は、単純に喜ぶべきだったのだろう。
 客観的には喜ぶべき状況であり、そう振舞うべきだと思いつつも、俺の思考は別のところにあった。
 俺個人には、素直に喜べない因子がある。自分の性にも絡んでいるから、飛雄の実力に対してのものの他にも、違和感と焦りが背筋に張り付いて全く離れない。努力を重ねていく上での土台が、違いすぎた。俺一人が何をしたところで覆ることのない、努力が実を結ばない領域での隔て。あいつ──牛島と同じ側の存在。どうしても思い出してしまう、特有の圧力。理性を俺から奪い去る、腕の持ち主の候補。
 体からは、こっちの平静を失わせる風格を感じる。上に立つ者としての、威圧感のような何かを。体内の隅々にまで散っている抑制剤が、効力を振るおうとして全身で騒ぎ立てる。アルファを前にして研ぎ澄まされていく感覚を何としても鈍らせるように。本能が目を覚まさぬよう、眠りを続けたままでいさせるために。頭のてっぺんから爪先まで偏りなく薄い膜で包まれたように、五感が間接的なものへと変わっていく。
 抑制剤の別の効き方を、俺はこの時ようやく知った。発育を妨害するオメガ性を抑制する以外にも、アルファへの誘因も一定程度抑え込む効き目があったのかと。
 あいつの時にはまるで効かなかった薬が、今度はきちんと効いて、問題なく動けたし先輩らしくも振舞えたと思う。少なくとも部員全員の前では、ぼろを出さずに済んだ。

 件の新入生、影山飛雄は、自分の生まれや血には然程目覚めていないように俺には見える。目覚めていたら、あいつと同じようにすかさず近寄ってきた可能性が高かったからだ。その点は、まずあいつよりましだった。
 あいつと同じだったのは、自分の持つ能力に胡坐をかかずに努力を惜しまない点。そういうアルファを、神様はどんなに愛しているのだろうか。現段階ではまだ俺の方が上なのかもしれないけれど、追い付き追い越されるのも時間の問題のような気がしてならない。年は二つも離れているのに、俺だって努力を怠っているわけでもないのに、アルファに追われる別の意味の恐怖を俺は覚えた。
のんびりしていては、コートの中にあったはずの、俺の居場所がなくなってしまう。岩ちゃんの隣に立つのが、俺から飛雄に代わってしまうかもしれない。絶対に嫌なのに、一度生まれた疑念が頭から離れない。
思考の渦に呑まれそうになったから、俺は逃げ出していたんだと思う。上を目指せば件のウシワカに叩き落され、雌伏の時を過ごす間にも飛雄が下からおかしな勢いでこっちへやって来る。二人のアルファの潜在能力が、俺をそれぞれの方向から押し潰そうとするんだ。俺の余力ももう残り少ない中で、もしも頼みの綱の岩ちゃんまで失ってしまったら?
 恐ろしいとしか言いようのない妄想に、憑かれる。岩ちゃんがいなくなってしまったら。俺はどうしたらいいのか、途方に暮れるしかない。
 高みを、目指していた。何度阻まれても、飛ぶ意思さえ失わなければ、次こそ道が開けると信じて、今までやって来た。それは、これからも変わらない。立ち塞がる壁を破り乗り越え、遠くへ行くんだ。岩ちゃんと二人一緒にバレーを続けるつもりなら、そのくらいやらないと足りないんだから。
 ……だから、俺は焦ってもいた。コートの中で飛雄に追い付かれたら、俺よりもずっと速く駆けていける飛雄には二度と追い付けなくなる。ついていけなくなる。
 追い付かれそうになる前に、伸ばされた手を振り切らなければ。追い越された瞬間に、コートの中に二度と立たせてもらえなくなるかもしれないんだから。
 岩ちゃんの隣に、いつまでもいたいってワガママだけは、叶えさせてください。そのために必要なことは、何だってします。
 だから、俺から岩ちゃんを奪わないで。
「──及川!」
 いけない、試合の途中で考え事なんてしてる暇なかった。岩ちゃんの声だ。俺のトスを、呼ぶ声だ。
 レシーバーの返球は、綺麗に俺の上。球をさばく上では、かなり簡単な部類に入る。
 はずなのに、急に、天井や球が映っていた視界が暗転した。くらり、と意識が一瞬回転もする。目は閉じていないし、体もちゃんとトスを上げる形のままだ。体勢と気持ちの準備は整っていても、どういうわけか方向感覚が戻らない。トスを呼んだ岩ちゃんが、どっちにいるのかが、わからない。
 岩ちゃん、どこにいるの。もう一度、俺のことを呼んで。俺は今、自分がどっちを向いているのかも、よくわかっていないんだ。
 人差し指に触れたのは、知らない間に落ちてきていた球。反射的に弾いたら、バックトスになった。真っ暗な視界は、人の姿をちらつかせはしても、誰の輪郭なのかまでは映し出さない。誰かの声が、聞こえるような気がする。けどそれが、誰のものなのかがわからない。開かれていたはずの五感を、一斉に遮断されたような、そんな感じだった。
「──及川! 聞こえてんのか!」
 岩ちゃんの雰囲気が近くなる。何もわからないままに弾いたトスは、岩ちゃんの思っていた場所とは全然違う方向に飛んでいったんだろうな。試合中なのに、岩ちゃんまで余裕無くしてるのは、まずいかもしれない。
 少しずつ、本当に少しずつ視界が回復してきたけれど、まだ頭はぐらぐらしている。まっすぐに立っているのが不思議なくらいに、今日の副作用は強烈だ。いつもの何倍だろう。比較にならない強さで、平衡感覚を狂わせてくる。ぐにゃりと歪み元に戻らない景色、明滅と暗転を繰り返す光源。今まで経験したことのない症状たち。
 体の中を流れている血液が冷たくなって、手足を重く弛緩させる。感覚も鈍い。思ったように動かせているかどうかさえ、確かめようがない。
 今の俺は、跳ぶには程遠い状況なんだろうか……?
 どうやってさっきまで、コートの中で球を追いかけていたんだ?
『監督、及川の顔、真っ青です。交代させてやってください』
 ……何、言ってるの、岩ちゃん?
 俺は一緒に、いられないの?
 声がぶれて聞こえてくる。手を引っ張られて、どうにか歩かされているみたいだ。コートの内と外を隔てる、ラインが近づいてくる。勝手に足が動いている。
 線を、越えたくない。嫌だ、嫌だよ、その線の内側にいさせてよ。外側に出てしまえば、岩ちゃんと離れ離れになってしまう。俺のいた場所を飛雄が手に入れてしまえば、俺は元の場所を取り返せなくなるから。
 岩ちゃんの隣ってのは、俺の特等席なんだよ?
『影山、代わりに入れ』
『はい』
 その声だけが、はっきりと聞こえた。バレーを始めてからずっと、同じ場所にいてくれた岩ちゃんが、俺の隣からいなくなった瞬間だった。
 コートのあっち側。一緒にいられなくなった、はじめての時間。座らされて知った、低い視点。切り揃えているはずが、膝に食い込む爪。
 ああ、飛雄のトスがあがる。そこに合わせてくる岩ちゃん。空振らずにきちんと決めた岩ちゃんが、ハイタッチを飛雄に求める。
 それきりだ。
 その後何があったのかは、よく覚えていない。
 座って休んでいる間に、いつの間にか俺は倒れていたらしいから。



 飛雄は紛れもないアルファだと実感してからというもの、何事もなく残りの期間をただの後輩の一人で終えてくれるとは思わなかった。
 ひたすらに上を目指すひたむきさが俺の首を真綿で絞める。いつも最後まで居残り、練習に暮れていた俺のところに来るのも、ある程度は諦めていたけれど。
「及川さん」
 きた。
「サーブ教えてください」
「やだ」
 昼間に倒れていた俺を案じるでもなければ、先輩に取って代わった嫌味を言うでもなく、飛雄はただ飛雄だった。
 即断って、ジャンプサーブの練習に戻る。試合でも使い物になるまでには、まだまだ練習が必要な精度でしかない。そんな状況下で飛雄に時間を割いてやるほど、俺は人が好くない。
 そもそも、俺の半分以下の練習量で、同等以上の結果を叩き出している奴に、どうしてわざわざ塩を送ってやんなきゃなんないの。生まれた時に、それ以上望むべくもない最上の贈り物を貰って、生まれてきているのに。
 あ、またネットの上端にかかった。球がこっちへと戻ってきてしまう。
 どんなに欲しくても、才能ってやつは生まれ落ちた後からでは絶対に手に入らない。神様のえこひいきだ。努力を結果に繋げる力は、俺には大してくれなかったのに。
 十分にそれを持っているのに、元から大して恵まれていなかった俺からも、飛雄は取り上げるつもりなのか?
 ウシワカに一矢報いるためどころか、チームメイトと肩を並べて戦っていく上でどうしても必要なものなのに?
 俺の心中なんか慮る飛雄じゃないから、当然考えなしに俺に近寄ってくる。
 こっちに来るな。今日の試合で、お前はもう自分の居場所を見つけたじゃないか。チームの正セッターになるための足掛かりも手ごたえも掴んで、今更俺から何を奪えば気が済むんだ。やっとの思いで俺が作り上げた、たかが二年分の貯金なんか、赤子の手をひねるよりも容易に消し飛ばせるんだ。アルファに生まれたお前は、月齢差も年齢差も簡単にひっくり返して今まで生きていて、これからも数知れない他人の夢や希望を砕きながら生きていくんだろう?
 お前にそんなつもりがなくても、お前の目は語りかけてくる。あがくだけ無駄だって。大人しく諦めて、適当なアルファの番になって生きていけって、無邪気な目が言葉よりも残酷に訴えかけてくるんだ。
 俺はそんな風には生きたくないのに。そんな風にアルファが俺を扱おうとするから、アルファの好きなようには、絶対にさせてやらないし、あいつらの思い通りに生きてやるつもりもない。
「でも」
 全く空気を読まない飛雄は、食い下がってまだ話しかけてくる。
「及川さんは、俺とも岩泉さんとも、違いますよね」
 ……うるさい。そうだよ、違うんだよ。違うから、差がつかないように、何倍も頑張らなきゃいけないんだ。お前なんかに俺の時間はやるつもりもないし、奪わせる気もない。
「抑制剤が効いててもわかるって先生には言われましたが、確かにその通りだと思いました。及川さんだけ、他の誰とも違ってて」
 ……飛雄。それ以上、何も言うな。自分の番を惹き付けるためだろうと何だろうと、俺は好き好んでこんな体に生まれたわけじゃないんだ。お前にそんなことを言われる筋合いもない。ましてや、そう言わせる必要なんか、あるわけがない。
 決まりきったこと、賢しら顔して言うな。
「中学あがって、三年生にオメガでもいれば一発でわかるって。ホントにその通りでした。オメガは全然違うニオイがするから、もし『何か』あって困ってたら助けてやれって。それが出来るのは、アルファだけなんだって──」
 ……うるさい。うるさい。うるさいうるさいうるさい!
 俺が無力なことなんか、とっくにわかってんだよ!!
 目の前が、いつも感じている昼間の黒から、赤に変わる。
 オメガに生まれたから何だって言うんだ。オメガに生まれた以上は分を弁えて色々諦めて生きていけってことなのか。
 確かにそれは楽なんだろう。そう生きていくのが得なんだろう。そんな風に生きていくことが出来たら、こんなに苦しんだりしないんだろう。
 出来ないから、諦められないから、どんなにきつい副作用が出たって、抑制剤で無理矢理に性の機能を止めているのに。
 こいつは……飛雄は。俺を理解しない。理解させたくもない。させようとも思わない。この場所にこれ以上、立たせておきたくはない。
 自然と、手が動いていた。振り上げた手が、飛雄の横っ面を張ろうとしている。赤い視界の中で、自分の手だけが、ぼんやり白く浮かび上がった。
 ただ、その手は、飛雄に当たる前に止まった。手首を掴まれ、平手が飛雄の頬を打つ前に、寸でのところで。
 強い力で、多少なりとも俺を落ち着かせた手の主は。
 大好きな、大切な、岩ちゃんのものだった。

 俺専用のオーバーワーク監視係の岩ちゃんが割って入ったお陰で、事なきを得た俺たち。何が俺の逆鱗に触れたのか、飛雄はとうとうわからずじまいだったらしい。馬鹿げたことをしようとした俺を力づくで止めた岩ちゃんは、時間も時間だったから飛雄を先に家へ帰そうとした。なかなか首を縦に振ろうとしなかったけれど、あからさまに気を害していく岩ちゃんを見て、どうにか察した飛雄が体育館からいなくなる。
 俺と岩ちゃんの二人きり、いつもの状況に戻れば早速、やりすぎだって叱られた。多分、二重の意味で。
「……なあ。オーバーワーク、俺が止めに入るの、これで何回目か判ってんのか」
 数えてないって言ったら、岩ちゃんはどんな反応をするのかな。周りと同じ程度じゃだめなんだ。アルファに勝てないって最初から決めてかかりたくない。ウシワカに、飛雄に──アルファにどうしても負けたくない。勝てない理由を自分の性の中に見出してしまいたくないから、じっとしていられるわけがないんだ。
「俺は毎日お前と顔合わせてっけど、毎月お前を診てる医者よりも、お前の体の事は詳しく知らねえ。けどよ、体に負担かかってんのが透けて見えてる以上はやりすぎだ」
 そんな無茶はしてないのに。まだやれる手ごたえはあるし、体力も残ってる。時間はまだあるんだからと、球を持とうと伸ばした手を叩き落された。
「だから、やめろって言ってんだろ。俺たちから見ればわけのわからねえ薬飲みながら、頻繁に病院で診察受けてるような奴が、自分の体調気にする必要もなさそうなアルファに勝てるって、本気で思ってんのか」
 ……岩ちゃんまで、なんでそんなこと言うの。勝てる勝てないを考えたら、立ち止まることになるんだよ?
 勝たなきゃ、公式戦で県の外へ出られないのに。公式戦は、一回負けたらそこでおしまいなのに。あいつに勝たない限り、俺たちは全国へは行けないって、ポジションの同じ岩ちゃんならわかってくれてると思ってた俺が馬鹿だったの?
「……もっと強くならないと、ウシワカになんか勝てないって、岩ちゃんだって知ってるでしょ!」
 知らないわけないよね。あいつがどれだけ手強いのか。
「俺が休んでる間にあいつが練習してたら、追いつくために俺はあいつの倍以上頑張らなきゃなんない。追い抜くためには、あいつが休んでる間に、俺はあいつの倍やらないといけない。俺が──」
「るせえ、黙れ及川!」
 顔の中央でゴッ、とも、ガッ、とも違う嫌な音がする。岩ちゃんの石頭が、思いっきり鼻にあたったらしい。痛いを通り越して熱いし、なんだかぬるっとする。
「ウシワカに一人で勝てる奴なんか、あいつと同じアルファにしかいねえよ!」
 額も顔も赤くした岩ちゃんは、激昂していた。
「俺たちベータとだって根っこが別で、余計なハンデまで背負わされたお前がどうにかできる話じゃねえんだ!」
 激昂する対象は、俺に対してなのか、それとも自分自身も含んでいるのか。他人事のように岩ちゃんの顔を見つめていた俺は、岩ちゃんの額にも血の赤が滲んでいることに、なかなか気付けなかった。
「……一人で戦ってる気でいるうちは、俺が俺がって自分の出来で勝ち負けが決まるって思い上がってるうちは、お前はウシワカにも影山にも勝てねえよ」
 苦しい現実が、向き合えと迫ってくる。ありたいと願う姿との違いが、嫌でも脳裏に浮かぶ。
 けれど、現実は岩ちゃんの方こそ知っているはず。話をこのタイミングで持ち出した意図は。考えるんだ、岩ちゃんが本当に伝えようとしていることを。
「気付け」
 こつん、と額と額が合わせられる。
 ……気付く?
 一体何に?
 ハァ、と溜息を吐く岩ちゃん。俺の鈍さにしびれを切らしたようだった。
「なあ、何のために、六人でバレーやってんだ。六人で強い方が最後までコートに立ってられるって、単純なこと忘れてんじゃねえよ」
 ……六人、で。目から鱗が落ちる思いだった。どうして、今の今まで気が付かなかったんだろう。バレーは個人競技じゃないんだから、勝負は個人の優劣のみでつくわけじゃなかったことを。
「相手が生粋のアルファだろうと、天才の名に引けを取らない一年だろうと、バレーのルールは変わらねえ。コートの中だけでも、お前の他にまだ五人いんだよ。……俺たちは、そんなに頼りにならないか」
 そんなことない。そんなことないよ、岩ちゃん。
 必死に目で訴えた。どんな風に続ければいいのかが自分の中には見つからなかったから、言葉は声に乗らなかった。
「普段から、散々面倒見てんだからよ。今更コートの中で意地張る理由も意味もねえだろ」
 そこまで聞いたところで、思わず俺は口角を上げた。岩ちゃんが、柄にもなく格好いい事を言っているから。
 岩ちゃんのくせに。
 岩ちゃんの……くせに……。
「──ねえ、岩ちゃん。一年くらい、もう経ってるのかな」
 あの時から。
 去年の岩ちゃんは、肝心な所で微妙にずれていたのにね。たった一年でこんなにオトナになっちゃうなんて、ずるいよ。
「ちゃんと岩ちゃんは隣に居てくれてるから、俺は今でも割と安心して過ごせてるんだよ。今のままでも十分満足してるって思ってたのに、もっと頼ってもいいなんて言われたら、岩ちゃんに全部預けちゃってもいいんだなって、真に受けるよ、俺は」
 こんなに甘やかしてもらって、罰が当たらなければいいんだけど。
「……味方でいてくんなきゃ、拗ねるし」
 凹んだ時に岩ちゃんに抱きついても、突っぱねずにそのままでいさせてくれる。俺が岩ちゃんをどう思ってるかの気持ちも筒抜けのはずなのに、こんな時でも特別に甘やかしてくれる。小さい頃から岩ちゃんのそんな所が全然変わっていなくて、嬉しくて。
「放っておいても、どうせ俺に泣きつくのは同じだろ」
両腕が、抱き締め返してくれる。泣きそうになってる顔は、このまま肩に埋めて隠して。
「だったら最初から近くにいて、負担が減るならそれに越したことはねえってだけだ、その方がお互いに──」
「岩ちゃんが、いてくれるならさ」
 アルファなんかに負けたりしない。いつかはわからないけれど、勝てる日が来るって信じられるんだ。諦めない限り、可能性はゼロにはならないんだから。
「向かうところ敵なし、って気がしてくるんだ」
 俺は一人じゃない。一人で戦わなくてもいい。もし、自分の能力が単独で劣っていたとしても、皆を最大限に活かせれば、活路が見出せるかもしれないんだ。
 そのためのトスをあげよう。最初はうまくいかなくても、続けていればいずれ、目指した姿に近づけるから。
 俺の隣には、岩ちゃんがいてくれるんだから。



「及川さんサーブトスのコツを」
「やだね」
 飛雄は変わらない。変わっていないけれど、別に構わなかった。飛雄は飛雄の道を行くんだろう。俺が歩むことのできない道を、一人きりで。
 けどもう俺は焦らない。目指す先は同じだとしても、辿るための道は無数にあるって岩ちゃんが教えてくれたから。
「一年に絡んでる暇あんのかよ及川、入らねえサーブどうにかしろって昨日言っただろうが!」
 岩ちゃんがこっちを睨んでいる。岩ちゃん曰くへっぽこジャンプサーブらしい現段階の俺のサーブは、決定率の低さが確かに問題ではあったけど、あんまりな言いぐさのような気もするような。
 とりあえず、俺と飛雄をこれ以上接触させないために、声をかけたんだろうけどさあ。もう少し、言い方ってものを工夫した方がいいと思うんだよね。主に俺の心を傷つけないために。
 ……おふざけは、さておき。岩ちゃんの視線の先にいるのは、実は俺じゃない。飛雄だ。サーブを教えてやれ、とは岩ちゃんは絶対に言わない。同じチームにいるからといって、岩ちゃんは必ずしも仲間であるとみなすわけではないらしいから。
 岩ちゃんは、飛雄を──後輩としてではなく、敵として認識した。倒すべき相手、越えるべき相手として。もしかすると俺以上に、飛雄を敵視し始めたのかもしれない。
 俺が唆したわけでもない。岩ちゃんは、自分の意思で飛雄と敵対したらしく、他の子とは多少扱いが違う。表面上の付き合いしか飛雄には求めていないし、飛雄にも深くは踏み込ませようとしていない。面と向かって嫌い嫌いと連呼する俺よりも、ある意味では残酷だ。
 なのに、俺も相当に嫌な奴だ。飛雄に冷たい岩ちゃんの、重たい愛が嬉しかった。先輩の風上にも置けない俺の肩を持ってくれて、あからさまに敵意を飛雄に向けてくれる。その分だけ俺は隠れ蓑を手に入れ、飛雄を無駄な矮小化なしに嫌っていける。
 岩ちゃんは、誰よりも俺のことをわかってくれる。岩ちゃん位に俺をわかってくれるアルファなんて、俺の人生には現れないんだろうな。
 岩ちゃんと一緒にいられる時間は、限られてる。
 だからこそ、その時間は最大限、笑って過ごしたいな。
 ……岩ちゃんの、隣で。



 自主練にも付き合ってくれる回数が多くなった岩ちゃんを見ていると、胸が苦しくなったり泣きたくなったりする日もあるけれど。俺一人の時じゃないと岩ちゃんが邪魔をして、まともな会話が成立しない、と飛雄も学習したらしい。個人的なことで近づいては来なくなった。
 いつも一緒にいる俺たちは、私生活の共有さえ始まった影響なのか、コートの中でもお互いのことが手に取るように理解出来つつあった。相手を出し抜くためにはどんなトスをあげて誰に打たせるのが効果的なのか。力で押し切った方が良い場面なのか。次の攻撃の効果を引き出すには何が必要か。
 自分のことにばかり気を取られていた今までとは、物事の見え方が変わってきている。よく観察し見極めれば、ひとくくりにベータとまとめられている彼らも千差万別で、得意不得意の個人差も分野差もかなり大きかった。
 例えば岩ちゃん。比較的力任せで、小技に頼るケースはあんまりない。真っ向勝負に自信があるって言えば聞こえはいいかな。穿った言い方をしてへそを曲げられたら厄介だから、何がいけないのかは不要不急の場合は言わないことにしてる。だから、ちょっとした捻りが欲しいかなって時はトスを控えてみたりして。試合中、各人の手綱を握るのはセッターだから、普段から個人の特長を把握しておく必要もあるし。
 勿論、相手がうちのチームをよく研究している場合はその限りじゃない。真っ向勝負大好き野郎と思われている岩ちゃんに、敢えて頭を使った一打を要求したりもする。岩ちゃんがそういうのをあまり得意としていないのは織り込み済みだから、苦手分野を逆に得意としているメンバーにコツを聞いておいたりもして。
 チームの中の会話が増え、それにつれて俺自身のあるべき姿も少しずつだけど、見えてきていた。
 個性豊かな、俺の仲間たち。俺や岩ちゃんが不得手な分野をそれぞれ補ってくれる、心強い味方。なかなか気付かない、鈍いセッターでごめんね。チームメイトって、仲間って、そういうものだってようやく思い出した俺を、皆はずっと待っていてくれていたなんて。
 どんな言葉に乗せても気持ちは伝えきれそうにないし、お礼をしようにも何をしたらいいのかわからないから。一緒にいられる時間を増やそう。
 皆で一番長く、コートに立つ道を目指そう。
 しあわせもののセッターは、そこまで器用ってわけでもないけど、自分の出来る精一杯で、皆を支えていくつもりでいるから。



 俺たちの、最後の公式戦。勝てば目にしたことのない舞台に立つ可能性が開けるし、負ければそれっきりになる。そんな試合に、これから臨もうとしている。ユニフォームには悔し涙ばかりを吸わせてきた。あの時ああしていたら、が許されない世界であっても、どうしてもその先にあったかもしれない事実を思わざるにはいられない、紙一重にも感じる差。試合が終わってしまえば、俺はもう二度と袖を通すことを許されない、使い込んだ布地。泣いても笑っても最後の、四号球での試合だった。
 順当に勝ち進み、白鳥沢との決勝が始まる前に、俺たちは祈願の意味も含めた円陣を組んだ。鼻先がくっつきそうな距離。イタズラを企てる悪童みたいな顔をした岩ちゃんが、こっそり言ってくれた。今日こそ白鳥沢の戦績に、ケチつけてやろうぜって。コート上の六人の中にアルファがいなくても、やる時はやるんだって思い知らせてやろうぜって。
 だから俺は余計な力みを捨て去れた。純粋に勝負を楽しめるかどうかはわからなくても、最善を尽くせば何かが起きるかもしれないっていう、漠然とした予感があった。
緊張も不安も全部飲み込んで、コートのラインに沿って整列する。まっすぐにウシワカの目を見ても、余計なことは考えずに済んでいる。見つめていると、目が合った。雪辱を晴らすなら今だ。どうやって地団駄を踏ませてやろう。あの高慢なまでに傍若無人な奴の顔が盛大に歪むところを見てみたい。持っているもの全部をあいつにぶつけて、俺たちなりのやり方であいつの鼻っ柱をへし折ってやる。
 ホイッスルが鳴れば、互いに一礼した後に、ネット越しの距離が一気に近くなる。
 肌を刺すような緊張感と、血が沸き立つような高揚感。強敵と相対した時しか感じられない空気は、いっそ快い。
 トーナメントの最終戦の、火蓋が切って落とされる。始まってしまえばあっという間に、球が手に手を渡っていく。
 この舞台で思うがまま跳び振舞えるのは、ウシワカ一人だけじゃないって思い知らせてやるんだ。
 個人技だけがバレーじゃない。結束の力だって、立派なバレーだ。
 俺たちは、コート上に六人で立って、戦っているのだから。



 あっという間の時間だった。夢のように速く、時が過ぎていった。
 結果だけ見れば、準優勝。二位だ。白鳥沢にまた負けた、その事実は変わらない。
 いつもと違うのは、ストレートには勝たせてやらなかったこと。白鳥沢から初めて、セットを奪えたこと。
 今回こそいけるって手ごたえがあっただけに、決勝点を奪われた時、何が起こったのかをすぐには理解できなかった。頭がついて行かなかったんだ。
 けれど、球が落ちた音の後に、聞き覚えのある歓声が聞こえてきて。球が落ちたのはこちらのコートの中で。そこから導き出される結論を、消去法を使って弾き出して、やっと事態を掴んだ。
 頭の中が真っ白だった。整列して、開始の時と同じようにまた一礼して、その後の閉会式までどんな風に過ごしたのか、記憶がうっすらとしか残っていない。
 ただ、岩ちゃんが満面の笑顔で、うちにも一番があったぞ、って教えてくれたことだけは、よく覚えてる。
 ベストセッター賞を、俺が受賞していた。大会を通して最も優れたセッターに与えられる栄誉。チームでは一番を逃したけれど、個人では頂点を手にしていた俺を、掛け値なしで皆大喜びしてくれた。ラリーの真ん中に入って、点を取るためにスパイカーへとラストを託す役割を果たすには、全員が俺を信じてくれないとうまく機能しないのに。他の皆がいてくれたから、俺はトスをあげていられただけ。賞が貰えるほどに立派なセッターであれたのか、皆にそれだけのことを出来ていたのかも、試合に夢中になりすぎていて全部は思い出せない。
 表彰式で、さも当然とばかりに優勝のみならずベストスパイカー賞を受け取ったウシワカの隣は、耐えがたい圧力を感じた。それでも、俺は表彰されるだけの評価を手に入れたんだから、奴の隣に立ちたくないって理由だけで賞を辞退するなんて考えは毛頭なかった。
 アルファに生まれなくたって、賞は取れた。オメガに生まれたって、やれることはいくらでもある。 
 その証が、手の中の楯であり、初めて奪った一セットだった。
 
 個人の表彰が終わった後は、団体の表彰──白鳥沢の実質的な二冠を称える、実に腹立たしい儀式が待っている。
「スパイカーに一番力を発揮させてたセッターがお前でも、大会一番のスパイカーはウシワカか……」
 不服を取り繕おうともしない岩ちゃんは、ウシワカの手の中にある楯を、親の仇を見るような目で見つめている。あの楯は揃って手に入るのが理想だったし、そうなれたらいいなと思ってずっと目指していたものだから、岩ちゃんの形相も無理もないけどね。
「まぁまぁ、俺のトスでの部門だったら間違いなく岩ちゃんなんだから、今はあいつに華を持たせておくとして」
 今は、ね。
「──次は、こうはいかない。高校行ったら今度こそ、『あれ』を岩ちゃんのものにする」
 未来を思い描いた。
 俺のトスで、岩ちゃんが跳ぶ。ブロックの向こう、レシーバーの一歩先に、叩きつけられる五号球。大人と同じ条件下で戦う舞台に、俺たちはとうとう立つことになる。バレーを始めた時から二段階重さを増した球が、それに見合う威力を含んでネットを越えていく様子が、鮮明に思い浮かぶ。
「そして今度こそ白鳥沢に、今の俺たちと同じ思いをさせてやって、思いっきり凹ますんだ……!」
 ジャンプサーブがもっと決まっていたら。ブロックをもっと機能させられていたら。レシーブを乱されても攻撃が単調にならなければ。
 あの時ああ出来ていれば、なんていう不毛な可能性に思いを馳せて、いつまでも辛酸を舐めている側にいるわけにはいかないんだ。
「当たり前のこと、言ってんじゃねえ」
 岩ちゃんの顔は見ていないけど、声がいつもと少しだけ違う。悔し泣き、してるんだろうな。……皆同じだから、誰も何も言わないだけで。
「──そうだ、飛雄ちゃん」
 一言言っておかないと。気が済まない。
「これから先どんなバレーするのか、どこでバレーするのか、どんな道選ぶのかは知らないけどさ」
 この学校で、このチームで過ごす、あと二年を。勿論、過ごし方を強制する権利は誰も持たない。何をしてもいいし、何もしなくてもいい。選ぶのはあくまでも、飛雄自身でしかないのだから。
「高校別れて試合でぶつかったら、一切加減しないで潰しにいくから。覚悟しといてね」
 天から与えられた贈り物で、人生は決まったりしない。そう証明するためにも、飛雄に思い知らせたい。セッターとして俺とそっくりな道を歩き始めた飛雄に、どうして俺が何も教えなかったのか。後輩でも愛弟子でもない、一人の敵として認めなければそんなことはしない。公式戦で鉢合わせたら、その時の俺の全力で叩き潰してやる。コートの外へと追い出して、俺を単なるオメガとは思えなくなるよう仕向けてやる。
「──続いて、準優勝──」
 二つ目の晴れ舞台には、チームの皆で立つ。岩ちゃんの隣で、岩ちゃんと一緒に手にする、銀の誉れ。



 大会の全日程が終わったのは夕暮れ時だった。人影もすっかりまばらになり、どうしても一人で少しだけ過ごしたくなった俺は、岩ちゃんにわがままを言って誰もいない廊下をふらふらと歩いていた。
 射し込むオレンジの光がとても綺麗な色をしていて、空にたなびく雲は七色で。ガラス窓越しに見える幻想的な風景にすっかり夢中になっていたら。
 真後ろからの足音に気付くのが、遅れた。声をかけられた時には既に、二年前の一件とほぼ同じ状況になってしまっていた。
「及川」
 また、ウシワカの奴だ。一気に体から自由が失われていく。押さえつけられているでもないのに。触れられる感覚はそのままに、身動きだけが取れない、金縛りのような。服の上からしか、まだ触れられていないのに、込めた力が全部逃げていく。
 飛雄の時とは全然違う。薬が効いている気がしない。オメガの形質を抑え込むための、抑制剤じゃなかったのか。飛雄相手には効いて、ウシワカ相手にどうして効かないんだ。そもそも、飛雄の時には偶然効いただけだったのか、思い込み効果でそれらしい症状が出ただけだったのか、それさえわからない。
 こんなに薬が当てにならないのは、どうしてだろう。薬の量が合わなくなってきたんだろうか。
 いや、考えてる余裕なんかない。他のアルファがまだ寄って来ていないのは、薬の効果じゃなくて、単に周囲にいなかっただけって可能性さえ出てきてしまう。
 二年前はわからなかった、アルファの放つ特有のニオイ。今ならわかる。痛いほどに。こんなのを普段から嗅がされていたら、開くつもりのなかった足も開いてしまうって。
 俺たちオメガの放つニオイがアルファの理性を吹き飛ばすなら、アルファの纏うニオイは俺たちオメガの理性をぐずぐずに溶かして役立たずにする。気持ちなんか二の次で、体がアルファを求め欲しがってるんだ。もっと深いところまで暴いてくれって。何もかもを曝け出して、自分のすべてを独占してもらえるように、迎え入れようとするんだ。
 汗が完全には乾ききっていない腹のあたりを背後から、骨の太い指がくすぐる。服の中へと勝手に入り込んで、臍から上に、少しずつたくし上げながら触れていく。
 遮るもののない、直接的な接触と、熱。臍の上だけでは済まされずに、下へも入って来た。ためらいなく突っ込まれたウシワカの手が、下着の中をまさぐる。体が違う熱を帯びて、ねだるように、腰が勝手にウシワカの方へと突き出される。
 なんで、こいつ相手の時だけ、俺はおかしくなるんだ。壁に押し付けられてるならまだしも、二年前と違って、今回は両腕が完全に空いてるのに。すぐに逃げられる体勢のはずが、前よりも好きにされてるし、させてしまっている。どう考えても、おかしかった。
 他人の手で初めて局部を触られる刺激に過敏になって、とうとう膝が震えて立っていられなくなった俺を、ゆっくりその場に座らせて。後ろから覗き込むようにしたあいつから、欲しくもない約束のような、逃れることのできない呪縛のような、深くて濃厚な口づけがひとつ、与えられた。
 つらくなったらすぐに呼べ、って。連絡先を書いたメモを、ジャージのポケットに捩じ込んで、あいつはいなくなった。
 久方ぶりの腕の中は、うっかり変な気を起こしそうになるくらいに、居心地が良かった。そんな事実を悔しく思うどころか、俺を置いて立ち去ろうとする背中をただ見送っていると、これでまたしばらく何もしてくれないんだろうかって、いつの間にか考えていて。
 しばしの間、俺はぼんやりしていた。
 昂った体の熱を鎮めるため、って理由もある。
 そして、落ち着いてきた頃にやっと、気付いたんだ。
 気付いて、ショックで、落ち込んだ。
 ウシワカ相手に抵抗らしい抵抗が出来なかったことじゃない。
 普段あれだけ岩ちゃんの事を考えてて、岩ちゃんにべったりだったのに、呼ぶって発想が俺の中からすっぽり抜け落ちていたんだ。
 手も足も出なかったことよりも、試合でまた負かされたことよりも、何倍も何十倍もショックだった。


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