【岩及・モブ及】キャンパスの中の麗人

切り取った彼の一瞬は、私の中で永遠へと形を変えた。



母校でもない。近隣と形容するには些か距離が離れすぎている。
特別講師にと招かれたのは、他校も含めれば何度目だったろうか。画壇に立つ人間の口から、美術についての忌憚ない話を聞かせてやってほしいとの要請を受けて、青葉城西高校の美術室に足を運ぶまでの私の人生はそこそこの鮮やかさを保っていた。
作品を発表し界隈で生前から評価されるのは僥倖でしかなく、売れるための作品を作る人間もいるが私の美学には沿わない、といったような主義の話から始まり、描きたいものを描く中でこそ自分の本質と向き合い、ひいては美や芸と向き合うことにつながるのだと、ある意味『らしく』聞こえる話で〆てから見つめた時計の短針は、予定よりもひとつ小さい数字を指し示していた。
習うより慣れろ。時として乱暴に聞こえる言葉だが、思い悩むよりはまず手を動かして、手を止めずに考えてみるのもまたひとつの方法だ、という解釈を採るならば、なかなかに良い表現だと思う。
絵画に限った話ではない。表現したいものを、伝えたいものを、どの手段を利用して自分以外に知らしめしていくかの選択肢は個々人で大いに違うし、違ってよいものだ。抽象画であろうと、哲学であろうと、物語文であろうと、貴賤はない。手段としての平等さは担保されている。
興が乗れば好きな画材を手に取って好きなものを描きに行ってきて構わない、一時間後には戻るようにとだけ言っておけば、大抵の生徒は教室を離れて気ままに過ごす。その中で気に入った一場面を描いて寄贈でもしておけば、多少の適当さには目こぼしがあるに違いない。
興味のあるものばかりを追いかけていられる青少年と同じようには、もう私は過ごせない。今からでも昔のようにと願うにしても、後戻りのできないところまで、私は歩いてきてしまっている。通りすぎてしまえば後戻りの叶わない、一度きりの時間であるからこそ、その時間の輝きは珠玉となるのだと思うしかないのだ。
それでも私は、その輝きの只中にある彼らへ、羨望の視線を向けずにはいられなかった。



「……あの、鉛筆と、スケッチブック一枚分、持ってっても構わね……構いませんか」
椅子に腰掛け思索に耽っていた私の頭上から、声が降る。目線をあげると、窓側の席に掛けていた、猫を彷彿とさせる目尻をした男子生徒がこちらを見下ろしていた。
「そこにある分を使うなら、特に許可は必要ない。スケッチブックは使いさしでよければ、一枚と言わず好きに使って問題ない」
じゃあ、遠慮なく使いますんで。
短い言葉を残し、彼は画材を手に窓側の席へと戻った。後ろの席にもう一人、座っている生徒がいたのだとその時ようやく私は気が付いた。
机に突っ伏して、すやすやと寝息を立てている、もう一人の少年。年齢としては青年になりかけの時期だと思ったが、見え隠れするパーツのひとつひとつが少年と大人の過渡期真っ只中にあり、失われつつある丸みを帯びた線の匂いが彼のそこかしこから漂ってきていた。
大人しいなと思えば人を盾にして寝やがって、と悪態をつきながら、先の猫目の少年が筆を紙の凹凸に乗せ走らせていく。口で言っていることと、目で語っていることが食い違っているが、まだ年若い彼は知る由もないのだろう。鏡を使って顔を見せてやれば、さぞ興味深い光景が見られるに違いないが、彼らの間に横たわる機微はおそらく繊細極まりないもので、余人が土足で踏み荒らしてはならないもののようだ。目を細めて指先でそっと、眠る少年の髪を梳く。何度も、何度も、繰り返し。確かめると同時に、何かを諦めるように。
机の脇に寄せられた描きかけのスケッチブックには、安心しきって眠る少年が、うららかな日差しを浴びて息づいている。
私の他にはもう誰もいない、果てしない世界の中で切り取られた小さな小さな空間には、誰にも伝えてはならない本心が吐露され満ち溢れていた。



気づけば私も彼らのすぐ近くの椅子に掛け、無心に鉛の筆を腕が動かしていた。彼らの間に交わされた言葉のひとつも、私は知らない。彼らの間に重ねられた時間は一瞬でさえ、私と重なっていなかったかもしれない。
なのに、眠る少年のうっすら開いた唇が、私にしきりに語りかけてくる。辿り着けないのだと。どうしても届かないのだと。何のことを言っているのかを察してやれない私に向かって、それでも彼は繰り返す。届かないと思い知らされるたびに、割り切ろうとした。それでも諦めきれずにずっと追いかけている。正しいかどうかもわからないまま、正しいと信じて進むしかなくなっているというのに、まだ戻れると手を広げて待つ人がいる。たとえ居心地が良くてもその先には未来がない。だから戻らずに進もうとしているけれど、虚勢を張らなければ時として世を渡っていけないのだからやり切れないのだと、彼のすべてが語りかけてくる。
巣立ちを控えても親の給餌が続いている雛鳥なのか、彼は。迷いながらも進む姿は、胸が痛くなるけれども目が離せない。今初めて彼との時間が重なり、同じ空気を共有し、同じものを見つめる可能性と権利を私は手にしている。
だがそれも、もうそろそろ手放さなければならない。彼の時間と一度は重なったが、彼が彼のままであり続けるには、私とは性質を異にした時間が流れるべきなのだから。
すっかり先が丸くなった筆を持ち替え、刻一刻と移ろいゆく彼の一瞬を残しておくためだけに、私は己を捨てた。己を捨て去らなければ、彼の生き方が芳醇な美酒となり、私を酔わせ根底から覆しかねなかったからだ。
年端のいかぬ、黄色い嘴のヒヨコのような者に、何を言い出すのかと笑う者もいるだろう。
笑うならば笑え。
まず年齢ありきの物差しを持つ輩には、至高を目指す彼にどれだけ私が胸を打たれたかを察してくれとは言わない。理解できぬ愚か者よと、嘲弄する意図もない。
人ひとりひとりの、価値を置く尺度は同一であるとは考えていない。
私はあなた方を、否定しようとは思っていない。
だから、私が彼を肯定したいと思った点について、口を出さずにいてくれればそれでいい。
彼の世界に介入して、彼の道を己の側へと手繰り寄せるつもりもない。
彼の前途が開かれるよう、私は願う。



指定した時刻の十分前あたりから、散っていた生徒が教室へと戻り始めた。近づく複数の足音に気が付いた瞬間、眠る少年の一瞬を何とか切り取り終えて席を立つことができた。何を描いたかを知っているのは、違う角度で同じ人物に向き合っていた、岩泉という姓の少年ただ一人だ。
生徒たちが帰り支度をし、続けて私も後片付けをしている最中に、彼はスケッチブックを返そうとして私の元へとやって来た。差し出されたスケッチブックに新たに描かれたものを、手元に残そうとは思わなかったのかと問うた。
すると、形に残したせいで枷になりでもしたら俺もあいつも報われない、といった意味合いの言葉が返ってきた。
忍べば彼らの願いは成就するのか、更に問おうかとも思ったが、よしておくことにした。
彼はおそらく、私と似通ったことを考えているのかもしれない。同じならば、彼の決断を私が蔑ろにできるわけがない。
眠る少年――及川という姓を持つ少年だと、最後に聞かされた――が巣立つ前に見せていた、あどけなさを多分に残した時間。
心血を捧げたその一枚は、岩泉少年以外には存在すら知り得ない。待てど暮らせど、時の流れる中を生きている生身の彼から切り離された時間の『彼』は、瞳を開いて私を見るはずもない。
それでも、この一枚に描かれている『彼』は、他の誰のものでもない。
私しか目にすることのない、私だけの彼の時間だ。
目に焼き付いた姿を何度キャンバスへ移し替えても、あの胸騒ぎにも似たときめきは、色あせることなく私の道を照らし続けている。


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