【白及】青天の霹靂

晴れた空で雷鳴が唸り轟く驚きについての表現は、今日の俺の心境を七割五分ほど示してくれた。
残りの二割五分には何が相応しいかは、目下捜索中。
平静を装いつつ、真実を追い求めるのは、大層骨が折れた。

白鳥沢が県内でも屈指の名門校であったことに、今日ほど心から感謝した日があったかどうか知れない。
今日限りだとしても、憧れた先輩が……俺の『生徒』になっている。心躍らずにいられる輩がいれば、それは木石か何かに違いない。コートの脇に立ち、売り言葉に買い言葉の舌戦を繰り広げる彼を繰り返し見ていた分、落差は人一倍大きかった点もあるのだろうけど。

時々手を止め、首を傾け思案顔をする横顔を眺めていると、この人が年上だなんて事実が嘘のよう。うっすら開いた唇から、悩み考え込む声にならない吐息が漏れ出て、それだけで個人的な指南役を買って出た甲斐もあるというものだが。
なぜこんな展開になったかの理由も、なかなかに喜ばしいので、記念に書き記しておく。

及川さんは、良くも悪くも牛島さんとは違う。バレーの成績のみで進路を切り開けるかと問われれば、否と答えるしかない。青葉城西の一員として彼の残した公式戦の戦績は、これといって彼の今後の展望を切り開きはしない。
だから俺にも、つけ入る隙があった。
進学を主軸とする大多数の生徒の一人として、バレー部での正セッターを務めながら学業に勤しむ俺は、志望する大学の個別試験に馴染むため、その日は書店に足を運んでいた。整然と並ぶ書架の網目をすり抜け、志望校名が背表紙に大きく書かれた、分厚い朱色のとある一冊を探し求めていたとき。売り場にはやや不釣り合いな、棚の端から端まで並ぶ朱に気圧され腰の引けている、この場に用があるにしては少々危なっかしい立ち居振る舞いの男が一人、隣に立った。
最初は誰なのか大して気にしなかった。目当ての一冊を手にして会計を済ませようかと踵を返したところで、背後から聞こえてきた独り言にさえ気づかなければ、彼とのかすかな縁もそこで途切れていたに違いない。
「進路なんか聞いてきたけど、お前と違って推薦も選び放題ってわけじゃないんですー……見てろあの野郎。俺に推薦出さなかったチーム入って、こてんぱんにのしてやる」
やや物騒な独り言は、何度も耳にしていた声と同じ音をしており。試験と戦うつもりなのか、それとも既にその先に居る仇敵と戦う気でいるのか――整った顔立ちを盛大に顰めた及川さんは、俺と同じ校名の記された書籍を右手で握りしめていた。

その後は俺から及川さんに声をかけた。学年は違っても共通の話題ならある。バレーを差し置いても、及川さんが内心で望んでいる話に合わせることも可能だと思ったし、白鳥沢の学生だからこそ使える、ある種の切り札もある。
二年の十一月なら教科書の中身もほぼ終えている。高度な科目が志望校の試験範囲に含まれていても、例外はないに等しい。勉学の話なら、学年が違う場合は本来容易く越えられない壁を、シャボン玉の薄っぺらな膜よりもあっけなく破り越えていける。
試験を受けて進学するつもりですかと問えば、最後まで推薦が来なかったときに自分の選択肢を減らされるのが我慢できないし、学校がかぶって同じチームにされたら目も当てられないからね、と露骨に牛島さんを毛嫌いする、変わらぬ一面を見せてくれた。
バレーも大事だけど、関連の深い知識を身につけておいて損はないからさぁ、と具体的な話は濁したがっていたから突き詰める気はなく。プライベートの及川さんは、牛島さんに見せていたような剣呑さを微塵も感じさせず、ひとりの高校生として等身大の悩みをこぼしてくれた。

受からないかもしれない、って不安は誰でも多少は持ってるだろうし、払拭できるような性質とは対極にあるのは知ってるよ。でも、俺は同じ試験に対して、もっと早くから準備してた奴より絶対量が不足してる。四月から同じ学校に照準絞ってやってきた奴と、十一月にようやく部活を引退してスタートラインに立った奴が、同等に戦えるのかどうかって話。
思う存分に、バレーがしたい。望みを叶えるには、叶えるための環境に身を置いて、全力で向き合う必要がある。妥協はしたくないし、妥協して棒に振った時間を取り戻そうにも現実的には無謀でしかない。
だからここがいいかなって、探して決めたまではいいんだけど、バレーの片手間にやってたような成績を見る限り、先生が苦い顔してさ……って、ごめんね変な話して

話を切り上げようとした及川さんに、とっさにかけた一言。
思い返してみれば、嫌みに聞こえていても不思議じゃない。
けど及川さんは額面通りに受け取ってくれた。
「受験に使う科目、教えてください。俺でよければ、教えます」

言ってみるものだ。
牛島さんに対しての、塩対応の鏡とも言えるあの顔を、及川さんはしなかった。
その逆で、ぽかんとして、元から大きめの目をさらに大きく丸くして。
いいの?
と、何度も瞬きを繰り返しながら、俺の返事を待っている。
睫毛の長さを計るくらいに、俺が見つめていることにも気づかずに。
これが、及川さんの、本来の姿なんだろうか。
だとしたら、無防備が過ぎる。
羊や猫なんかの化けの皮を被った悪い人間に騙されて、勉強そっちのけで余計なことだけをされてお仕舞い、なんて展開は考えないんだろうか。
及川さんには、お目付け役が必要だ。今俺が見ているような、ふわふわした素の姿は、おいそれと他人に見せていいものじゃない。
受験対策のついでに、悪い虫がつかないよう入れ知恵をする位は役得の内として。
貴重な半日の休日を、及川さんのために捧げる価値は、十二分にある。
根拠のない確信が、首肯と同時に産声を上げた。


そして、及川さんは、狼の巣に警戒心ゼロで座っている。
バレーボールの代わりにペンを扱う指は長くしなやかで、整えられた十指の爪は丹念にヤスリがけされており理想的な曲線を描いている。部屋に入ってすぐ脱いだコートからは、温かみを感じさせるオードトワレの匂い。ハンガーに掛ける時に感じた穏やかな香りは、あのむさ苦しい部の連中と過ごしている限りは縁遠いもの。及川さんの私生活の片鱗を知ることができた優越感が身を包み、頬の筋肉が若干不審な挙動を見せているが、幸いにして問題集と四つ手を組んでやりあっている最中の及川さんは俺の胸中まで推し量る余力など絶対にない。
ポジションの都合上、割とよく見ているスパイカーの体つきと、今目の前で問題集相手に防戦一方のセッター――及川さんの体つきは、体格指数以上に異なっている。二度とないかもしれない機会を存分に味わい尽くすために、舐めるように視線を肌の隅々まで這い回らせる。頭を支えるための首はそこまで太くはない。ユニフォームで隠されて今までお目にかかれなかった、深い位置も今なら見放題だ。皮膚の下、重たい頭を支えるための筋肉と、体の幹としての大小から成る種々の骨。細やかな凹凸が織りなす丘の向こうには、未成熟な危うさを感じてならない引き締まった背がある。薄手のセーターは、及川さんの体つきを目に焼き付ける上ではむしろ俺に手を貸してくれている。よくぞ今日に限ってこの服装を選んでくれたと、目にした瞬間叫んでしまいそうになったほどだ。
もっとも、俺が及川さんを『そういう目』で見ているとは誰も知らない。知り得ない情報だ。
及川さんに私的な意味合いで関心があるなどと、一度たりとも口にしていないのだから。

「えーっと……とりあえず、できたけど……どう、かなぁ……」
旗色の怪しいまま、目安の時間を超過して作り上げられた、及川さんの解答案。
こんなところにまで可愛げがあっていいのだろうか。
俺が採点者なら正答とは無関係に、他の科目の点数も無視して、何としてでも自分の学部に入れさせる。
解いていたのは数学の大問ひとつ分で、後半にはやや癖のある高次方程式を解く必要がある、時間を割くか捨てて違う大問に費やすかの判断が分かれる問が含まれていた。
途中までは順調に、模範解答と等しい数式が展開されていたのだが。
(――数式の中に、兎が見えたのは初めてだ)
ここまではわかったよ?
でもでも、この先って、これでいいのかなぁ?
多分、こうなんじゃないかなあって、思うんだけど、あってる?
手書きの数式は、一見するとそこそこ順調に解き進めているような印象を与える。
それなのに、迷いが生じたタイミングと前後して、丸みを帯びた文字が答案作成者の心境を代弁し始めているように、見える。
解き進めていても、自信なさそうに草むらに姿を隠して、様子を伺う兎。
脇に書かれた二通りの計算過程が別々の最終解を示したせいで、余計に兎は臆病になっているのだろうか。
解が正しくても、見当違いでも、放っておけるはずがないじゃないか。

「――残念ながら、不正解です」
しょんぼりと肩を落としている姿。与える印象が、どう考えても俺より小柄な何かだ。
解答集を見る前に即答されたのがよほどショックだったのだろう。このまま、『慰めて』しまっていい間柄なら、いくらでもそうしたに違いない。
「過程は概ね問題なかったんです。一か所だけ、計算ミスがありました。式を展開した後かなりの長さになりましたが、その場合は特に注意が必要なんです。次数の同じ項をまとめる際に、次数の転記ミスがあって――そう。ここです。一か所次数が変わると、項をまとめた際の係数が二か所ずれます。そうなると、正解からはかなり離れたところへ着地せざるを得ません。本来の次数、本来の係数で解き進めていくと――」
及川さんの愛くるしい計算過程の傍に、少々味気ない自分の文字を書き足していく。導かれた解は、解から逆算して問の複雑な数式を作り上げた可能性の高い、簡潔で美しい値を示していた。
「――難解な式でも、解いてみるとあっけないほどに単純な解だった、なんてことはよくあります。むしろ数学は、解の美しさを導くために敢えて不可解な問を作る出題者が一定数います。最後まで解いても有理化の叶わない、見目に劣る解を出させる場合も勿論ありますが、数学に一定以上の美学を求める出題者ならば、整数解とまでは言いませんが根号の中が身近な素数で構成された解になったり、有理化を正しく行うことで分母がどんな値になるかが問題文中に仄めかされていたり」
数学の問は、蟲毒でもある。
毒が全身を巡るうちに時間を浪費し、力を使い果たすか。毒を薬とし、その効能に脳髄を支配されて、解法と過程に出題者の意図と美の極致を見出すか。どちらにせよ、あまり長時間を割いていては、本来の目的から逸れて自分自身を見失ってしまう。最初は弱い毒しか持たなかった虫たちが、生存競争を繰り広げるうちに己が毒を変化させた果ての産物に、まともに相手をして支障ない大人はごく少数。毒により計られる立場である限り、深入り無用の毒がある事実さえ知っていれば十分な自衛になる。
及川さんは、まだそういった類の毒にやられたことがないだけのこと。
自分にとって、薬として振る舞うのか。
はたまた、害を及ぼす毒として振る舞うのか。
その見極めもままならないほど、及川さんは周りの大人たちに大事に、大事に守られ育てられてきたんですね。

薬と毒の違いさえまだ知らない、いとけない及川さんはと言えば。
俺の導いた解と、解答集に印字されていた文字を照らし合わせている。
「……あってるし」
不服そうに唇を尖らせる仕草は、誰を見て覚えたんですか。
解法に大きな不安材料がなかった分、余計に貴方は悔しいんでしょうね。
「落ち着いてもう一度検算すれば、同じ解が出ますよ」
半ばまでは手を引き、自力で前へと進む標を示せば。
途中で迷子になった兎が、一度間違えた道に差し掛かる。
そろりと前足を出し、外敵が向かう先にいないかどうかを伺いつつ、ゆっくりと進んでいく。
見覚えのない草むらを抜け、待ち受けるものへの怯えを払い落とし、視界を遮る丈の高い草がまばらになり始めたら。
(ほら、探していたものは、しっかり見つかりましたよ)
今度はあってる、とつぶやいた及川さんの唇が、うっすら開いたまま時を止める。
瞬きの回数を減らした目に、達成感の光が照り返す。
最初から自分の力だけで解こうとしなくてもいいんです。
何度も迷って、間違えて、人に尋ねて、正解を導き出す能力を身に着けていくんです。
できている人の真似をするところから、学習を始めていくんです。
体裁なんか気にしないでください。定めた目標がどれだけ今の自分と離れていようと、
俺は一度、今の及川さんと似たような境遇に立ったことがあります。
その難関を越えて、白鳥沢の生徒として、貴方と個人的な接点を持つに至っています。
俺は、経験者なんです。
だから。
俺を頼ってください。及川さん。

視線が絡み合う。
自分の中にあったイメージが、形になったと自覚した瞬間に浮かび上がる、高揚感を瞳に乗せて。
今おそらく、及川さんの中に芽生えた手ごたえは、数か月先に待ち受ける難敵と戦う上での強力な武器になるはずだ。
バレーでなら何度も経験しているに違いない感覚が、試験に対する学びへと舞台を変えても同じだと一度気づけば。
大化けする可能性を、持っている。

「……バレーばかりにかまけていて、その分学業はおろそかになっているかと、最初は正直侮っていました」
失礼にあたるのを承知で本音を伝えると、耳に痛い事実だったらしくそっぽを向かれた。
「ただ」
その視線の先にもう一度立ち、両手を及川さんの頬にあて固定する。
もう視線は逃さない。
「基礎は仕上がっています。このまま自習を続けていれば、合格率はおよそ」
「六割、良くて七割、でしょ」
「正しい見立てです」
彼我の差はもう計算済みだった。やはり、セッターとしての分析能力は、多方面に活用されていたか。
「けど、その率では、使い物になるとは言い難い。そうも、思っていますよね」
言わんとしている事柄が同じ。及川さんが掴もうとしている頂は、一人で目指すわけではないのだと伝えたら、どんな顔をしてくれるだろう。
「万全を期すならば」
言葉を発するために、息を吸う及川さんの動きを、速さを計算する。
一瞬の勝負。
聡いこの人は、言葉以上の含みに気付くだろうか。

「「九割五分」」

その率へと手をかけるために、必要なものは?
利用できるものはすべて、利用しつくしてこそ、セッターとしての及川徹の真価は発揮される。
とっくに俺も把握しています。
利用、いいえ、搾取と揶揄されても俺は構いませんよ。
引き換えに、俺も貴方に求めるものがありますから。

貴方が、『及川徹』として生きていく、この先の時間のすべて。
一番近くだなんて、贅沢は言いません。
ずっと、貴方を見て生きていける権利を、俺にください。

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