二章

 大会以外ではあいつと顔を合わせる機会も皆無だから、とりあえず安心して過ごせていた。
 これといった問題も以降は起きずに進級した俺たちにも無事に後輩が出来て、そこそこ平凡な生活が続いている。
 平凡な生活ってのは実は貴重なものだって知ってるのは、俺がオメガっていう非日常と隣り合わせの生き物に生まれついているせいでもあるのかな。あまり深入りはしたくないけれど、考えずにはいられない。身長も今のところは順調に伸びていて、まだ岩ちゃんには追いつかれていない。幸いにも俺は、岩ちゃんよりも上の目線を手に入れている。
 そこまでは、いいんだけど。
 癪なことに、一年生大会の時に俺にとんでもないことをしてくれたあいつ──後から名前は聞いたけど、意地でも名前で呼びたくはない──は、やっぱり俺より上から世界を見ていた。
 公式戦含めてあたったら全敗、個人的に顔を合わせても絶対何かしてくる気がするし、色々な意味であいつは俺の天敵になっている。もっともあの一件以来、ウザがられようと何だろうと、俺は自己保身のために岩ちゃんにべったりくっついている。一人にさえならなければ、全部未遂で済むからね。
 夏の大会まではそんな感じでやり過ごしたし、三年の先輩がまだいたから頭数の中に紛れ込んでいられた。問題はその先にあった。
 問題って程の問題じゃあないのかもしれないけどね。
 学年が変わった直後は比較的緩やかなペースだったのに、夏の大会が終わってからというもの、岩ちゃんの背が一気に伸び始めたんだ。それに伴って、抱きついたらむにむにする、ちっちゃい頃の岩ちゃんの名残がどんどんなくなっていって。俺にとっての、何も起きていなかった楽しかった過去が一気に遠ざかってしまったようで。岩ちゃんにくっついた時に真っ先に伝わってくる感触も、柔らかさから変わってきた。太くなってきた骨の硬さ、筋張っている手足、汗の匂いさえ違ってきている。
 虫取りに夢中だった、絵に描いたようなガキ大将だった岩ちゃんが、知らない人になっていくみたいで。
 去年の秋の、一年生大会の時に教えられた、あいつの感触と岩ちゃんが重なり始める。去年の時点で今の俺たちよりも体が出来上がっていたあいつは、軽く一年は体の成長が先行しているのかな。それとも、俺や岩ちゃんの成長期がゆっくりなだけなのかな。
 俺の成長はいずれ、オメガの本能が阻害しにかかってくるのはわかってる。そのためにも、俺はこの先自分の限界まで、抑制剤を服用しなきゃならない。高さはあるに越したことはない。どこまで伸びてくれるかは賭けにも等しかった、けれど薬で多少なりとも変化するならやれることは全部試しておきたかった。意地を張っているだけかもしれない。けど諦めたくはない。何もしなかった後悔よりも、何かした上での後悔の方が、ずっと俺の性に合っているから。
 岩ちゃんも岩ちゃんで、色々試してはいるみたいだけど、数ミリに一喜一憂する岩ちゃんを見ている俺としては少々複雑だった。
 ベータの岩ちゃんがアルファに果たして敵うのかどうかなんていう野暮じゃない。岩ちゃんや俺の成長は、俺たちが一緒にいられる時間が刻一刻と少なくなっていることと同義だったから、岩ちゃんが大人に近づいていくのを目の当たりにすると、俺に残されている制限時間をどうしても意識せざるを得ないんだ。
 俺が大人になったら。岩ちゃんが大人になったら。俺の隣にいる人は、岩ちゃん以外の別の誰かになるんだろうな。岩ちゃんは、あいつとも俺とも違う、実に一般的な生まれだから。いつかかわいいお嫁さんをもらって、見た目はちょっと怖いけどとっても優しいお父さんになるのかな。
 そんな未来がいずれ訪れるなら、俺は余計に岩ちゃんの隣にはいられなくなっちゃうな。
 だって、俺が大人になったら……誰かと番になっていないと、岩ちゃんにさえ迷惑かけちゃうから。

 夏の大会が終われば、勉強に集中するためにほとんどの先輩が引退する。言い方は悪いけど、隠れ蓑もなくなってしまう。紛れられなくなったら、この先どう身を処すのか、考えないといけない。
バレー部の人数が目に見えて減って、少ししてから。
 俺たちは自力で来年のことを考えざるを得なくなっていた。監督やコーチの考えももちろん重要だってわかってる。それとは別に、自分たちの考えもある程度必要になってくる。重要な場面で与えられた指示の意味を咀嚼し取り入れるには、日頃からきちんと考える習慣が不可欠だから。
 そう話せば聞こえはいいけれど、岩ちゃんとの話なら大抵の場合軽い話から始まる。
 来年の夏の大舞台。俺たちにとって最大の舞台で、どうやって憎きあのウシワカに一泡吹かせてやろうかと、岩ちゃんと二人で作戦を立てようとしていたんだ。
 その時に、本当は隠し通しておきたかった秘密が、隠しきれなくなった。
「及川」
 毎度おなじみの、岩ちゃんの家での作戦会議。岩ちゃんのベッドに勝手に横になって、フォーメーションや連携の確認から始まったそれは、いかにしてあいつに球を打たせずこっちのペースで攻撃を展開していくかに帰結する、お馴染みのパターンだった。図をノートに描き、ああでもない、こうでもない、と議論が白熱しかけた時に、事は起きた。
 隣に横になっていたはずの岩ちゃんが、いつの間にか起き上がっていたんだ。
「なんか、おかしくないか」
「ヘン?」
 そうなんだろうか?
「フォーメーションは確かに今いじってはいるけど、確かめてみたいことがあって──」
「そっちじゃねえよ、お前だお前」
「俺が? やだなあ岩ちゃん、いつも通りだよ、ほらちゃんといつもの可愛い及川さんでしょ?」
 顔には自信が……って、ふざけていられる雰囲気でもないみたいだ。ぷにぷにしなくなって久しい岩ちゃんの頬っぺたが、なんだか近い。
 何が何でも俺に問い質したいことがあるんだろうか。岩ちゃんは、俺の両手首をそれぞれ掴んで、ベッドに繋ぎ留めようとしている。
 ……あれ、俺、もしかして岩ちゃんに迫られてる? もしかしなくてもこの体勢は、岩ちゃんに押し倒されてるってやつ? 岩ちゃんったら、岩ちゃんのくせに、足りない頭使って何か企んでる?
「顔はいつものマヌケ面だ心配すんな。俺が言いたいのは、最近雰囲気っつうか、ニオイが違ぇってことだ」
 嫌な予感がする。でも、しらを切らないとまずい気がする。精一杯、表情筋を駆使して。
「そりゃあ、夢と希望が体いっぱいに詰まってるから、甘い香りくらいするよ。……やだなあ、岩ちゃんったら」
 まずい、今妙な間が空いた。絶対、指摘される。
「るせ、茶化すな」
 ほらね。岩ちゃんのくせに、勘だけは鋭いんだ。
 ……でも。本当に匂いがするなら、また薬を増やさないと周囲にばれるのは時間の問題だ。毎日欠かさずに抑制剤は服薬しているし、頻繁に検査もして処方量も増やしてるはずなのに。一体何が漏れ出ているのか、考えると気が滅入る。
「乳臭いのはどうせ牛乳の飲み過ぎだろうけどよ、それとはまた別の……いつだったかの何かの授業で一回、嗅いだような……」
 やだ。絶対気付かないで、岩ちゃん。保健体育の授業のことなんか、忘れたままでいてよ。思い出したくない。思い出さないで。先生が今日だけって約束で教室に持ち込んだ薬瓶のことなんか。あれ、俺にはさっぱりわからなかったニオイなんだ。
 密封されていた薬瓶を緩めたら、俺以外の、クラスのほとんど全員がそわそわし始めたあの一件。特殊なマスクをしていた先生も、ニオイのせいでどこか様子が変になっていた。大人のオメガが放つ誘惑のニオイは、オメガ以外にはとても良く効くから。オメガ以外を惹きつけ、アルファの理性を軽々しく吹き飛ばすニオイは、野放しにしていてはならないんだ。
 身をもって学んだあの経験を、今この場で思い出されたら。まずい、どころじゃない。
「あ、思い出した。確か保健体育で一回──」
「言わないでそれ以上言わないで!」
 むなしい抵抗だった。
「お願い……だから……」
 岩ちゃんの言葉を遮る、イコール。
「……岩ちゃんに言えなかった、俺が悪いんだ……」
 自分がオメガだと、白状すること。
 ……どうしよう。岩ちゃんに、こんなに早くばれてしまった。話さなきゃって思ってて、思ってるだけで、ずっと言えずにいたのが裏目に出た。岩ちゃんが、こっちから言う前にそれと気付いた時にどうするかなんて考えてなかった。
 泣きたい気持ちがいっぱいになって、目が熱くなる。岩ちゃんが今どんな顔してるのか、見るのが怖いよ。
 俺の胸中なんか知らずに、岩ちゃんは一人納得していて。
「だからか」
 瞑った目が、いよいよ熱くなる。泣きたくない。なのに目尻に、滲み出るものがある。
「なんかこう、今までも何回かいい匂いしててよ、何つけてやがんだ及川のくせにって思ってたんだけどよ」
 俺の顔見ないで、岩ちゃん。見られたくない。みっともないから。
「そっか、あれかぁ……確かに効くなこれ」
 飽きもせずに、岩ちゃんはさっきからずっと、俺の首筋のあたりでニオイばっかり嗅いでる。自分の今のニオイも、あの授業でどんなニオイがしていたのかも、似た者同士だからなのか、俺は全然感じ取れない。
 嗚咽が漏れないように、何度か深呼吸してから。
 岩ちゃんに言わなきゃ。ばれたからって、俺からきちんと言わないと、有耶無耶になっちゃう。それだけは良くない事だって、判る。
「……岩ちゃんも受けたでしょ、入学前の検査」
 あ、失敗。涙声になっちゃった。
 でも今更やり直せない。頬を伝う滴のことはもう気にかけていられない。言わなきゃ、俺はこの先ずっと後悔しながら、岩ちゃんと一緒にいることになるから。
「自分が、その中の何になるのかって、みんな黙ってるけど。俺はその検査の前から、ちょっとした事情もあって、自分がどんななのか知ってたんだ」
 他の人とは違う。知った瞬間から、本当のことを打ち明けられる人とそうでない人で、区別をつけるようになった。岩ちゃんだけは、言えるか言えないかじゃなくて、言わなきゃいけない人だった。岩ちゃんは当然、言える側の人だったけど、ある種の義務感を感じていたのは事実で。俺の抱えた秘密は、そう軽率に吹聴できっこないものだから、どうしても慎重になってしまっていたんだ。
「ごめんね、岩ちゃん」
 ずっと黙ってて。今までとは違う目で見られたくなかったからって、こんな大事なことを秘密にしていて。いつもと同じように話してくれる岩ちゃんが、どんなに心強いか、まだうまく言えそうにないんだ。
 閉じていた目を開ける。俺に対して怒ってるとばかり思ったけど、岩ちゃんの表情は全然違った。狼狽えているような、印象かな。
「おいこら泣くなって、泣いたらニオイ強くなんだよ」
「えっなにそれ知らない」
 初耳だよそんなこと。診断受けた時に渡された日常生活での注意書きにも、書いてなかった気がするし。読み飛ばしたのかな、うっかり?
「さっきより実際に、いいニオイしてんだよ。及川のくせに守ってやんなきゃなんねえ気がしてくる、くそ厄介なやつが」
 俺のくせに、ってのがちょっと引っかかるけど。岩ちゃんが言うんだから、間違ってはいないんだろうな。一人の時には泣かないようにしないと。関係ない奴を引き寄せたりでもしたら、いろんな意味で危なくなるから。
 吐き捨てるようにそう語った岩ちゃんは、そっぽを向いた。
「そんなにいいニオイ、する?」
 どんなに鼻の神経を研ぎ澄ませても、一体何がいいニオイなのかわからない。
「自分の事って、よくわかんないんだよね」
 なんだろ。岩ちゃん、照れてる?
 照れ隠しなのか何なのか、俺の上に乗っかってきて、そんなだからお前はグズなんだとかぼやいてる。
 けどね、そんなのはお見通しなんだよ、何年岩ちゃんの幼馴染やってると思ってんのさ。
 顔は見えないけど、これはきっと赤くなってる。
 ちらっと見える耳が、真っ赤だから。
 なにこれ、岩ちゃんのくせに。
 かわいい、かも。
「腹立つ位に自分の事わかってねえのな……色々我慢してるもんを全部取っ払って、据え膳目の前に出されるようなもんだな。晴れてフツー認定された俺でもはっきりわかるくらいの、それらしいニオイがすんだよ」
 何度も繰り返し嗅いでは頷く岩ちゃん。
「大人になってもいないお前のニオイだってこんだけわかりやすいんだから……アルファに生まれついてたら、たまんねえんだろうな……」
 とりあえず拭いとけって、枕元にあるティッシュを取ってくれるあたり、やっぱり岩ちゃんは優しい。
 無茶だってわかってはいるけど、大人になりたくないなあ。大人になっちゃったら、岩ちゃんと離れなきゃいけないから。
 でもまだ俺たちは大人じゃないから二人一緒にいられる。
 目尻に浮いてた涙を拭った岩ちゃん。その流れで、軽くでもキスした方が雰囲気出るよって言ったら、無言でぺしっとはたかれた。口より先に手が出るのは、大人になる前に直してほしいかもしれない。
「ねえ、岩ちゃん」
 雰囲気づくりがどうのって話を振った俺が言うのもなんだけど。
「さっきから耳の後ろのところばっかり嗅いでるのはまだいいんだけど、今の体勢、正直重いよ」
 もろに岩ちゃんの体重がかかって重苦しいやら骨が当たって痛いやら。
「上に乗られてもそこまで重くない岩ちゃんは、もう何年も前にいなくなったんだよ」
 抱き心地の柔らかだった岩ちゃんなら乗っかられても大したことなかったけど、成長しちゃった岩ちゃんは重いし硬いし、何よりも嫌なことを思い出しそうなんだ。
 ……あいつの、体温とか。
 あーやだ、もう。自分とは違う、不自然な温かさ。可愛げなんて全然なくて、口を開くより先に手出ししてくる不逞の輩。思い出したくないのに、思い出しそう。
「岩ちゃんも重たくなったけどさ……それよりもずっとでかいあいつ、ほんと腹立つ……」
 それこそ牛若丸みたいに小柄だったならまだましだったのに、あのでかい図体は愛でようがない。その上鉄面皮で身勝手で、俺にとってのプラスの要素がまるで思いつかない。
「そういや、確かにでかかったな……あんなのがアルファなのかもしれないな、いかにも他とは違うって感じで」
 この先のことを考えると気が重い。先輩が引退してしまったから、俺にはもう隠れるための森がない。試合には出られても、その分あいつからの視線をまともに浴びる機会が一気に増えるんだ。
「……なあ、及川。ウシワカがもしも、お前の対のアルファだったらって可能性、正直どう思う」
 どう思うも何もない。可能性があるってだけで反吐が出る。出会った瞬間から惹かれ合うはずの対なんだから、あいつだけじゃなくて俺の方からも憎からず思っていないと、辻褄が合わないじゃないか。今のところは、特別嫌いってだけだけど。
「それとも、もう何か」
「されたよ」
 癪なことに、されて、思い知らされたんだ。いつまでもみんなと同じじゃいられないんだって。俺の運命は、岩ちゃんじゃない誰かによって、運ばれてくるんだって。
「一年生大会の時に」
 また深呼吸をする。
「岩ちゃんが考えてるような『何か』は、もうされてる」
 思い出したくない過去を、思い出さざるを得ない。
 名乗りもせずに口づけられたこと。体をあちこち触られたこと。嫌なことをされていたはずなのに、その時は嫌悪感が湧かなかったこと。一切の抵抗が、出来なかったこと。
「……やだなあ。あいつ無駄に図体でかいし、成長も早そうだし。次に二人きりになったら、手籠めにされちゃったりするのかな」
 冗談めかして言おうと思ったけど、洒落にならないから余計に困る。一年近くも前の記憶なのに、あいつの体つきには隙らしい隙がこれといって見当たらなかった。なのに、先だっての公式戦でちらっと見た限り、あいつの背丈は順調に伸びてる。反則だよ、もう大人みたいな体格なのに。
「……んなこと、されてたのかよ」
 俺が既にそんな目に遭っていたとは岩ちゃんは思っていなかったんだろうな。呆然としている。でもそれが現実なんだ。俺が逃れられない、事実であり真実。
「だから俺、岩ちゃんにずっとくっついてたんだよ?」
 一人で行動するのは危険だって判ったから。
「隣に岩ちゃんがいてくれたら、取り返しのつかないことには、ならないように計らってくれるでしょ?」
 俺の買い被りかもしれないけれど、岩ちゃんはそういう人だから。ただの幼馴染にも、とっても優しくしてくれる。体の事ばかり気にして、俺の性にばかり夢中になって、肝心の俺の気持ちを気にかけてくれない奴が、世の中には思ってた以上に多いんだ。そんな奴から俺を守ってくれる岩ちゃん。今頼りに出来るのは、岩ちゃんだけなんだ。岩ちゃんが傍にいてくれるなら、岩ちゃんさえいてくれるなら、怖いことなんてなぁんにもないんだよ。
「……ま、手に負えるうちは、気ぃ向いたら何とかしてやるよ」
「ひどい!」
なんて言いぐさなんだ。
「細かいことはまだよくわかんないけど、死活問題らしいのに!」
 このまま頼っていいのかどうか、どうにもわかりにくいけど。俺が今のところ岩ちゃんしか頼れないって、わかってくれてるのかな。それとも、これから二人で何とかしていくために話し合わなきゃいけないことなのかな。
「いよいよやばくなったら助けてやるから、それまでは深刻そうな面しねえでヘラヘラしてろ、調子狂うんだよ」
「……へへ」
 こんな感じに岩ちゃんが、頭をくしゃくしゃにしてくるのはいつも、照れ隠しなんだ。
 くすぐったくって、あったかい距離。
 ずっとずっと、傍にいたいな。
 世界にただ一人の、俺の運命を手にした番の存在が、現れる瞬間まで。
 そんな人が岩ちゃんじゃないんだから、余計に、ね。


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