【牛白】止むことのない雨

考えられる限りで、最悪の夢だった。
書き記せばいつまでも記憶に残ってしまいそうだったから、忘れられるよう力を尽くした。
俺の最善手であったとの自負はある。
それでも
やはり
雨は、降ってしまうのだ。

十一月にもなれば、朝晩の冷え込みも一層強まる。その日の天気予報は曇りのち雨。本降りになれば折りたたみ傘では心もとないため、外出の際にはしっかりとした構造の傘を携行するのがお勧めです――天気予報のキャスターがそう言うのだ、行き交う人たちの実に九割以上が曇天の中、色とりどりの傘を手にしているのも道理。
けれど俺は自分用の傘を持たないまま、降りしきる雨に打たれながらも屋外にいた。
理由は実にシンプルだ。
牛島さんの傘に入るから――俺たちは、大っぴらにはしていなくても、『そういう仲』だった。
あの瞬間までは、少なくとも俺は、そのつもりでいた。

しとしとと降る雨。気怠い午後。
丸一日、希少なオフが重なった日は、生憎の悪天候。かといって俺は腐らなかった。
雨なんかに邪魔されるほど、俺の恋路は軟弱な地盤の上に作っていない。揃って外出する旨も、朝一番に確認済みだ。牛島さんからも、支度が済んだかどうか確かめる連絡が来ている。
理想的だった。順調そのもので、帰り道に虹でも見られるんじゃないかって、気持ちが浮き立っていた。
買い物を兼ねたデートは、傘の中の二人を近づける。肩や腕が触れ合う距離は、晴天では望めないもの。
自分に都合のよい解釈を重ねていたのかもしれない、けどいつもよりもずっと牛島さんの近くを歩いていられる時間は長くて、心がほわほわととても温かかった。
手を繋がなくてもこんなに幸せに過ごせるのだから、俺にとって牛島さんは本当の意味での特別な人なんだろうなって思ってたら。何か面白いものでも見つけたのかって、ほんの少し目じりを下げて、牛島さんは俺に問いかけてきて。
その表情を直視できずにそっぽを向いたまま、なんでもないです、って咄嗟に取り繕ってしまったのが、いけなかったのかな。そうか、って言ったきり、牛島さんは深くは詮索しなかった。頬の火照りに気づかれると居たたまれないから、なんて意地……張らなきゃ、よかったのかな。
ショッピングモールの中にあるスポーツ用品店と書店での買い物を終えて、そろそろ帰ろうかって雰囲気になった時、幸せな時間が少しでも長く続けばいいと俺は切に願った。
二人でひとつの傘を使う、いかにも恋人らしい一幕に酔った俺は、つい欲が出てしまっていたんだ。
夢も何もあったものではない現実に頬を張られるまで、夢見心地で花を咲かせていた俺は……牛島さんの本心を、ちゃんと見ていなかった。
だから、自分の希望が叶えられてばかりいる実態の裏に隠れていたものに、足を掬われた。
時間に余裕もあるから違う場所の店も覗いてみませんか、と口にしようとした矢先。店に入る前よりも強まった雨脚が、二軒目の希望を俺から取り上げた。
あからさまに気落ちする俺を慮って、『時間もあるのだから、雨脚の強い中無理に帰ることもない』と牛島さんは提案してくれた。
本降りの雨が奏でる雨音の囁きに耳を傾けながら、ホットコーヒーを二人分注文して、窓際の席で傾ける。ミルクと砂糖の溶けている香りよりも甘い味のコーヒーを、窓の外を眺めつつ減らしていくのも雨の恵みのひとつかな、なんて。
分厚い黒雲の裂け目から弱弱しい光が差し始める頃には、暮れてゆく街を照らす灯りの数が増えていき、傘を叩く雨粒もかなり減っていた。
腕時計を見れば、バス停に向かえば大して待たずに帰りのバスに乗れる時刻。モールを後にしてから行きと同じように傘を差し、同じように傘の中で身を寄せ合って歩いていた。
なのに、あの時。
俺たちは、見つけてしまったんだ。

何を、って?
……口にしたくもない。
牛島さんに、相好を崩させるような奴のことなんか。

二人で差すための傘は紺色をした大振りのもので、扱いにくいだろうからといつも牛島さんが持ってくれていた。俺の肩が濡れないように、いつも傘は俺の側へと寄せられていて、そんな気遣いを嬉しいとも誇らしいとも思っていた。
全部、ぜんぶ、今それらは過去形になった。
目に映るすべてがコマ送りの動画のように、秒あたり数十のフレーム数に分解されて、定時的に切られていく。
牛島さんの手を離れる傘。
重力に従い落ちようとする傘を、反射で拾う俺の右手。
強さを増していた雨で煙る中を駆けていく、牛島さんの背中。
通勤鞄を頭の上にかざして、わずかでも雨をしのごうとするサラリーマン。
幾人もの通行人の間を縫うようにすり抜け、牛島さんは俺から遠ざかっていく。
大粒の雨と、吹き付ける風を気にも留めずに、ひとり立ち尽くしている姿。
その人にまっすぐ近づいていく牛島さんもまた、雨も風も知らぬ風で、二人だけが雨の中で異質な存在だった。
牛島さんが声でもかけたのか、濡れ鼠が振り向く。
同じくすっかり濡れ鼠の牛島さんが肩をつかみ、強い口調で何かを言っている。
俺にはその内容が、全くわからない。
呆然と立ち尽くしている背が反るほどに、抱き締めているのは。
抱き締められているのは。
……瞬きをひとつ。
ふたつ。
みっつ。
依然として同じ像が映っている。
目に映ったままの、ひとつに重なっている像は、ふたりの人間から成っている。
ひとり。
さっきまで俺の隣にいたはずの、傘を捨て置いていったひと。
もうひとり。
ひとを豹変させ、俺の陽だまりのような幸せを数秒で奪い去ったひと。

骨を多く使った頑丈な傘は、その分重さがある。
ずっしりと、手のひらに不要な重みを感じさせる。
雨音は轟音と化しているのに、そこに混じって嗚咽が聞こえてくる。
傘のない二人は互いを離そうとはせずに、背に腕を回して……身を寄せ合って。
重たい傘を一人で差していても、傘のない二人よりもずっと、惨めで。
この場で全てを悟ったなら間違いなく、平静を保てない自分が哀れで。
牛島さんが誰を見つけたのかを目の当たりにする前に、俺は二人に背を向けた。
排水溝へと流れてゆく雨水が服の裾へと跳ね返るのも厭わずに、あの場所から俺は遠ざかった。

雨はなかなか止まない。
傘の中に降ったあたたかな数滴も、すぐに風に冷やされ足元へと落ちていく。
結局その日、深夜にならなければ雨は止まなかったらしい。
空にかかる虹を、二人で見つめる日は。
永久に、来ないのだろうか。

[ 71/89 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -