後日談・第三章

 最初に見せられたのは、三本の真っ赤な線が浮かび上がった検査薬の画像だった。
「これはあくまでの簡易的な検査なので、決まったわけではありませんが……おめでとうございます」
 三人揃って医師の説明を聞くために診察室に入ったのだが、誰も叫ばなかったのはある意味奇跡に等しかった。ぽかん、と口を開いたまま動かない岩泉。顔を蒼白にして何やらぶつぶつと呟いている牛島。顔を真っ赤にして頷き、はい、と返事をしたきりの及川。三者三様の反応を見、全員が落ち着くまで医師は次の説明までの間を空けた。
「三本の線が出ていますから……お子さんは三人かあるいはそれ以上の可能性が高いです」
 そこから先の説明は、三人が三人とも右から左へと流れていき。内容はほとんど頭の中には残らなかった。
「母体の健康管理に一層の注意を払う必要がありそうですから、また半月後に来てくださいね」
 その一言で弾かれたように顔を上げた三人。半月後の予定を確認し問題ないことを確認して、その日は診療所を後にした。
 帰り道、及川は二人の間を歩いて、それぞれと手を繋いでいた。
「ねえ、岩ちゃん、牛島……俺、ちゃんと薬飲んでたよね?」
「薬の管理は牛島の担当だったはずだが、俺の記憶の限りはちゃんと飲んでた」
「発情期の間もどうにか薬だけは飲ませていたんだが……及川、うまく飲み込めていなかったのか?」
「ううん、そうじゃなくて……」
 妙に歯切れの悪い及川。
「思い出してみて、二人とも。あの薬が『効かなくなる』条件のこと」
 しばらくの間があった。一つ目の条件……相手が、運命の番であること。そして、二つ目の条件……相手と、心の底から愛し合っていること。牛島は生まれながらに、岩泉はいびつな形ながらも、一つ目の条件を満たしている。とすると、考えられるのは……二人のうちのどちらか、あるいは両人が、二つ目の条件をも満たしてしまっているということだった。
「…………マジかよ」
 沈黙を破ったのは岩泉だった。及川は子を宿す母に、そして自分たちのどちらかかまたは両方か、いずれにしても人の親になるという事実に、無意識に口を開いていた。
「あの薬が効かなくなった、ということは……」
 牛島の顔色は芳しくない。二つ目の条件を満たしている自信が、彼に無いわけではなかったのだが。現在の及川の体に合う薬は一種類しかない上に、その薬が効かなくなった以上、新薬が開発されない限り……発情期から妊娠期、産褥期を経て再び発情期が訪れる悪夢のような循環を、繁殖期が終わるまでひたすら繰り返さねばならないという宣告も同然だった影響が多分にある。
「二人とも、考えてること、ばっらばらでしょ。顔見たらわかるよ」
 事の張本人である及川だけが、なぜか一番明るい顔をしている。
「あの薬飲んでても妊娠したってことは……そういうことだから。俺は後悔しないし、何人だろうと産むよ。……でもね。明るい話だけじゃ済まされないってことは、俺にも判ってる」
 にっこり笑った及川から、妙な迫力を二人は感じた。笑う般若という能面があったのなら、是非この及川の顔を採用してくれと能面師に土下座してでも依頼したい心境だった。
「お腹にいるのが何人なのかまだわかんないけど。どうして加減してくれなかったわけ? 俺、どんなお腹抱えてこの先何か月も過ごせばいいのかちゃんと想像してくれてる?」
 岩泉と牛島、二人の背に同じように冷汗が伝う。この際、子の父親がどちらなのかはもはや小事である。もはや母として子を守り育てていく及川という大事の前では、吹けば飛ぶような事項だった。
「初産だよ、初産。次に診療所に行った時にでも、本格的な検査をするのかもしれないけどさ……覚えておいてね。俺は一人しかいないんだ、って」
 一人で何人も世話をするのは限界があるから、必然的に岩泉も牛島も及川の手足となり子の世話を焼くことは必定。有無を言わせずに父親候補の二人の首を縦に振らせて、及川はずんずんと家路を歩いていく。及川の予想は的中し、次の通院では本検査の上で提携した産科への紹介状を持たされての帰宅。月に二回の定期健診と産科通いが決まったその次の通院で、持たされた封筒の中には。
『お子さんは四人です』
 薄々予想していた検査結果が書かれており、急遽会議まで開かれたほどだった。
「この検査結果には、疑う余地は残されていません。被疑者のお二人、異論があれば聞きます」
 腕組みをし、被疑者である岩泉と牛島を座らせたその真ん前に、仁王立ちをする及川。自分の子であれ、と思っていたものの、まさかこんな顛末が待っていようとは、という顔を二人ともしている。何だかんだで似た者同士だったのかもしれない。会議、いやこれはもはや裁判にも近い。ここまで及川に負担を強いることになるとは、と思おうと弁解しようともう遅い。及川の事だ、堕胎など許さないだろうし後々の事も考えると賢明な選択とはいいがたいだろう。かといって安易に産んでくれ、と言えた立場には、岩泉も牛島もいない。
 さて、どうしたものか。微妙な雰囲気のまま、時間ばかりが過ぎていく。異論も何も言い出せるはずのない空気を切り裂いて、今までは大人しかった牛島がおずおずと挙手した。
「牛島、何か言いたいことでも?」
 目は冷たく、言葉は刺々しく。静かに怒りを募らせている及川を正面に、怖気付くことなく牛島は答えた。
「ならばこちらからも、重要な話をさせてもらう。俺たち三人の今後に大きく関わってくることだ。勿論、お腹の子にも」
「……ふぅん? で、何だってのさ」
 及川の目が幾分か柔らかな印象に戻る。正直生きた心地のしなかった岩泉は、牛島の手柄に内心では拍手喝采していた。
「岩泉はまだ聞いていないかもしれないが……俺と岩泉は近々、代表に召集される。内々に打診があった」
「は?」
「えっ?」
 岩泉と及川が、それぞれ素っ頓狂な返事を牛島に寄越す。どうしてこうも大事な時期に限ってそんなことに、いやめでたいことではあるのだけれど、と二人とも戸惑い、及川の怒りの矛先もやり場が突如として失われた態になった。
「代表に召集されれば、今までのように及川の世話に付きっ切り、というわけにもいかなくなる。それに、これから生まれてくる赤子の世話をする上ではこの部屋はあまり向いていない。そこで、勝手だとは承知しているが、俺の実家に連絡を入れた」
 及川の眉根はもうほとんど寄せられていない。素直に牛島の話を聞くスタイルに落ち着いている。このあたりの手腕は見事というより他なかった。
「俺の実家の方では、いつでも及川の受け入れ態勢は整っている。どこで過ごすかは及川に任せるが、俺は俺の実家で過ごしてくれると安心して競技に打ち込める」
 俺が生まれた時も、母はそう過ごしていたからな。
 付け加えた牛島の一言が、及川の背中を押した。
「それもそうだな……俺や岩ちゃんのとこだと、後々の子供の世話を焼いてくれる人手がちょーっと心配だったけど、牛島のとこだったらそれこそ」
「ナニーもベビーシッターも一人一人に専属でつけてやれるし、及川は及川で養生するために世話役をつける。父親がはっきりしていなかろうと、及川の子だ。出来る限りのことをしてやるのは、父親の責務だと俺は考えている」
 で、お前はどう考えているんだ、岩泉。
 視線で牛島は岩泉に問いかけた。
「俺に異論はねえよ。代表に本当に招集されちまったら、俺は特にそっちに専念せざるを得なくなるだろうしな……代表に選ばれたら、早めに始めておきたいこともあるしな」
「何か、予定でもあるの? 岩ちゃんには」
「まあな」
 それきり岩泉は視線を牛島に再度向けて、話の続きを促した。
「金銭面では一切の心配は不要だ。そのための貯金であり財産だ。使うべきタイミングで使わずしてどうする」
「いや、もったいないとかそういうこと言ってるんじゃなくて……一緒にいられないの、寂しいな、って……」
 及川は俯き、岩泉と牛島は天を仰ぎ見る。嗚呼何と愛らしいことか。腹に子さえいなければ、愛情の限りをその胎に注ぎつくしていたものを……!
 しかし、及川が愛らしいからこそ今も胎の中で順調に育っているのが愛おしい我が子だ。そこへ激しい行為の余波が及べば、流産してしまう可能性さえある。二人は耐えた。耐えざるを得なかった。及川を牛島本家へ預けたその足で代表の招集先へと向かった岩泉と牛島は、年単位を覚悟せざるを得ない禁欲生活の幕開けを思い、密かに肩を落とした。
 だが、身体を動かすことで性欲を昇華出来た岩泉や牛島はまだずっと恵まれている方だった。牛島本家で過ごしている及川はひどい悪阻に悩まされ、バレーが出来る二人を羨む以前の生活を送っていたのだ。
 普通の生活がしたい。いっそのこと普通とは縁遠くてもいい、悪阻にさえ悩まされない生活がしたい。
 しかしそんな願いを嘲笑うかのように及川の体重は思うように増えず、医師が診察に訪れ栄養剤を点滴したり経口栄養剤を三食に足したりと悪戦苦闘の日々を送っていた。症状は伝えられていても何もできず手を貸す事さえ叶わない岩泉と牛島は、心痛とも戦いながら代表に召集されての練習に明け暮れた。
 安定期に入り、悪阻もさほどひどくなくなった及川が、膨らんだお腹を抱えて練習風景を見に来ることもあった。勿論世話役同伴、ボールが万一にも飛んでこない場所までという制限付きだったが、久しぶりに感じる体育館の独特の雰囲気を懐かしがる及川は臨月を迎えるまで何度も足を運び、夫たちの雄姿に目を細めていた。
 そして、迎えるべくして迎えた異変。予定日を間近に控えてかかりつけの産科に入院していた及川は、周期的にやって来る特色ある痛みと戦っていた。
(じ、陣痛って海の波に似てるっていうけどさぁ、引くたびに波が大きくなってきてるような気がするのは気のせいじゃないよね?)
 わけもわからず自然分娩を選んだ及川だったが、分娩室に入る車椅子に乗った瞬間にやって来た痛みと目眩で気を失い、再度気付いた時には分娩台の上だった。
(あれ……いつの間に、俺、気、失って)
「目、覚めましたか、及川さん」
 思うように声が出ず、瞬きを繰り返して及川は意思疎通を図った。
「一人目の赤ちゃんの頭、もう見えてるんですよ。いきんであげてください」

 その先、及川は夢中だった。人伝に聞いた話とも、雑誌に載っていた話とも異なる、自分だけのお産。不思議と、痛みはそれほど感じなかった。一人、また一人。赤ん坊の元気な泣き声が聞こえてくる。
 どこを切ることもなく無事に四人目を産み落とした時には、及川さん、お産のプロになれますね、とからかわれた。ああそういえば、まだ自分たちの籍はばらばらだったのだ、と思いながら、眠気に負けて少し眠って。
 目を覚ました時には、個室に親子ともども寝かされて、練習場所から駆け付けた二人の夫が左右についていてくれた。
「……牛島? 岩ちゃん? あっれ、俺、寝ちゃってて──」
「「及川!!」」
 二人の声が重なった。
「立ち会えずに寂しい思いをさせて済まなかった、よく……よく、頑張ってくれた」
 牛島の目尻には光るものがあった。
「及川……お前、お前すげえよ、すげえんだってほんとによぉ!」
 岩泉に至っては何がすごいのか肝心の主語が抜けるほどに興奮している有様で。
 平静に戻らざるを得なくなった及川は、一人ずつ交互に話を聞くことにした。
「えっと、牛島……俺、ちゃんと頑張って四人とも産んだよ」
「ああ、ああ……!」
 こちらはもはや感激なのか感動なのか感涙なのか、言葉に出来ない感情に支配されていて会話が成立しそうにない。とりあえず匙を脇に置くことにした及川は続いて、岩泉に話しかけた。
「ね、岩ちゃん……すごいって、四人無事に産んだことの他に、何かもしもあったなら言ってちょうだい」
 待ってました、とばかりに岩泉が話し始める。
「母子ともに健康ってのは言うまでもねえが、双子同士なんだよこれがよぉ! 二人は牛島が、もう二人は俺が父親って感じの顔つきで、全くお前ってやつはどうやってそんな器用な真似まで出来るようになったってんだ!」
 いつになく岩泉が多弁だ。もしかしたら双子同士だったりするかもしれませんが途轍もなく確率も低いですから、まずは無事に生まれてくれることを祈りましょう、と言われていた及川はまさかそんな、というところで思考が停止したきりになってしまった。
(えっと……えっと……岩ちゃんの双子と、牛島の双子と、両方を産んだってことは……ことは……?)
「そ、そうだ! 赤ちゃんの性別、俺知らない!」
 産む時は夢中で、性別を気にかける余裕など及川にはなかった。一旦頭を切り替えるためにも、おそらく知っていると思われる岩泉に問うた。
「どっちも一卵性双生児だから、全員男だ。……女の子、欲しかったか?」
「ううん、無事に生まれてきてくれればどっちでもいいよ……エコー検査で全然見えなかったから、気になっただけ」
 沈黙が広がる。泣き疲れた赤ん坊は揃ってすやすやと眠っており、束の間の平和が訪れていた。
 戦場は、その先に果てしなく広がっていた。

「この検査結果には、疑う余地は残されていません。被疑者のお二人、異論があれば聞きます」
 どこかで聞いた事のある台詞だった。いつぞやと同じく、笑う般若の面相をした及川と、弁解の余地なく座り込んでいる夫二人。今では改姓して及川ではなく牛島の姓を名乗ってはいるが、実の夫ですらつい癖で、旧姓で呼んでしまうのだから相当だった。
「こ、今度は二人だろう? 加減したんだ、それにずっと我慢もして」
「黙れ若利」
「…………」
 夫その一・牛島若利は自分の主張が全否定されたショックで黙り込むしかなかった。
「なあ及川……じゃなかった、徹、牛……若利の言い分、少しは聞いてやってくれても」
「何。岩ちゃんまでその発情野郎の肩持つ気?」
 あくまでも徹の声は冷たい。夫その二・岩泉一も思わず身を竦めた。
「発情期に俺の意識が吹っ飛ぶこと位、二人とも解ってたよね? 事実上、薬の管理は若利にしか出来ないってことも解ってたよね?」
 なのにさぁ。及川の憂いの溜息は悩ましく深い。
「治験中の薬、飲ませ忘れたままシちゃうって、どういうこと? 加減してくれたのも知ってるし、我慢してくれてたのは事実だから、あんまりうるさく言いたくはなかったけど。まだ産褥期抜けてないのに妊娠するなんて、って窘められるのは俺だって、わかってる?」
 岩泉もまた、ぐぅの音も出なかった。治験中の薬は期待の新薬で、運命の番ですらもその機構を一時的に止める可能性を持つとして被験対象を大々的に探していてのこの始末だ。治験はパァ、及川は身ごもり腹には子が二人。年子で六人の子を抱えることになった牛島家では、子育てという戦火の起きない日など一日たりとてなかった。
 都合の悪いことは続くもので、夫たちの過失により徹は三度目の妊娠を経験した。次は何が何でも、と意気込み我慢を重ねても所詮は若い番同士の体で、父と母ではなく雄と雌として相手を見なしてしまう瞬間がつい訪れてしまい。……結局新薬も効かないまま、徹は三度目の産科通いを始めた。
徹ももはや諦めの境地に達しようかというところで、産科医にかかりに行くと、見慣れてはいないが懐かしい顔に出会った。烏野に通っていた日向だった。かつての宿敵も今では学友で、徹は休学中と言えども日向と同じ学校に籍を置いている。徹が日向に気付いたように、日向も徹を認識したようで、最初に目が合った瞬間にはぎょっとした顔をしていた。
「お、及川さん……?」
「今はもう牛島だよ、元烏野のおチビちゃん」
「あ、そっか……そうですよね、結婚……したんですもんね」
「籍だけ籍だけ」
 徹はやわらかなソファの背もたれに背中を預ける。
「式挙げるどころの状況じゃないからココと顔なじみにもなるんだって……でさ、日向。妊娠してるようには見えないけど、どうしてここにいるの?」
「母さんが今日うっかり弁当忘れて出勤しちゃったんで、届けに来たんです。そうしたら偶然、お……牛島さんが、見えたんで」
 クスクスと徹が笑う。
「いいよ、及川でも。『大王様』でも何だって。あー、なんか懐かしいな、エアーサロンパスの匂いとか」
「そっか……及川さん、ずっと競技から離れっぱなしですもんね」
「そうだよ、今では乳飲み子の世話と自分の体調管理で手一杯、ってとこ。それにしても、岩ちゃんから聞いてるよ、日向はよくやってくれてるって」
「あ、あざっす!」
「声が大きい、ここ他に誰もいないっていっても病院なんだから、もうちょっと弁えて」
「す、すみません……」
 しゅんとする日向。それを励ますように、徹は自分が聞かされた日向の評判を口にした。
「身長には恵まれなかったけれど、それを補って余りあるスピードとジャンプ力を持ち味にしたプレイで会場を沸かせるムードメーカーだ、ってさ」
 岩ちゃんが言ってた、鍛え甲斐のある奴が入ると部全体が引き締まる、って。
 隣に腰かけた日向の頭をぽんぽんと撫でてやれば、途端にいつもの調子を日向は取り戻した。
「俺は薬が合ってるから、現役でプレイできてますけど……及川さんは、繁殖期抜けないと戻れなさそうですか?」
「……だろうね。今回で三度目で、二人いるって言われてる。さすがにそろそろ戻りたいけど、そうなると次の子はまた四人なのかなぁ、って考えちゃうんだよね」
 うちの旦那たち器用だから、半々で種付けしてくれるんだ。
 冗談めかして徹は語る。事実、生まれて来た子供たちは揃いも揃って父親によく似ており、どちらの遺伝子を継いでいるのかが明らかだった。既に、若利に似た子が三人、岩泉に似た子が三人。この調子でいけば今回も、それぞれの遺伝子を引き継いだ子が一人ずつ順当に生まれてくるのではないかという思いが徹にはあった。
「たまには俺似の女の子が生まれてきてもおかしくないはずなのに、今まで全員男の子でさ。……あ、呼ばれたから俺行ってくるけど、もし暇だったら待ってて。もうちょっと話したいから」
 まだあまり目立たない腹部を撫でながら、徹は診察室へと入り、そして戻って来た。その時にはまだ日向がいた。
「ありゃ、本当に待っててくれてたとはね……お腹の子は順調そのもの。待っててくれたお礼でもしよっかな。特別に、普段は答えないような話題でも振ってくれて構わないよ」
「じゃあ、その……及川さん、今回で三度目ですけど……体形ってすぐ、戻りますか?」
「体つきとか、筋肉とかのこと?」
「はい」
 日向の目は真剣そのものだった。日向もいずれ、徹と同じ道をたどると知っていての問いかけだった。
「個人差はあると思うけど……体つきはすぐ戻ったかな、俺は。激しい運動は控えるようにってお医者さんには言われるから、そう簡単にバレーの筋肉は戻せないけど……子育てって滅茶苦茶体力使うから、あんまり心配しなくても大丈夫だとは思うよ」
 でもこれだけは気をつけて、と徹は日向に忠告する。
「体形が元通りになったら、禁欲生活強いられてた旦那が我慢できなくなる可能性、かなり高いから。そのまま立て続けに、って事も起きかねない点だけは注意してね」
「う、うす」
 日向は顔色を若干青くしつつも徹に一礼してその場を後にした。日向の番の相手を徹は知らない。知っている人間か、知らない人間なのかも。あまり他人の事を詮索するつもりもなかった。自分たちのように入り組んだ事情があり、それを面白おかしく吹聴される屈辱も知っていたからだ。
 所変わってその日の夜の日向家では、珍しく影山からの連絡が日向宛てに入っていた。
「何だよ影山、藪から棒に」
『いや、及川さんどうしてっかなと思って』
「本人に聞けよ本人に」
『連絡先知らねえし、通ってるって噂の産科からお前が出て来たの偶然見かけてお前に連絡しただけだ』
「あのなぁ影山、いくらお前相手でもこっちには守秘義務ってのがあるんだよ」
『近況聞くのも駄目なのかよ』
「……三回目の妊娠で、お腹の双子は順調そのもの。もう立派な『お母さん』になってた」
『…………そうか』
「定期健診にも頻繁に通ってるみたいだから、そんなに気になるんだったら自分で行けよ」
『いや、俺が行って下手に及川さん刺激したら岩泉さんや牛島さんに何て言われるか』
「だよなぁ……お前、そのへんヘッタクソだもんな」
『うるっせえ日向、もう切るぞ』
「ああ、じゃあな」
 プツリと通話が途切れる。代表に召集されたメンバーの中で、影山はどうにもチームに馴染み切れずに孤立しかけていた。勿論話しかけてくれるチームメイトはいるのだが、自分から話しかけに行く機会が皆無の影山に根気よく声をかけていたのは、同じポジションを争う宮。中学からの誼のある岩泉。キャプテンを任されてしまっている牛島。立場上仕方なく、といった事情の者も含めた三人くらいのものだった。
「…………あの調子だと、岩泉さんに声かけるのが限度っぽいよなぁ……」
 日向には影山の行動予測など、お手の物だった。

 三度目の出産を終え、八人に増えたナニーに子育てを任せて療養を続けていた徹。そこへと牛島から吉報が届いた。私生活のことかと最初は思った徹だったが、文面を読み進めるにつれどうやらそうではないらしいと発覚した。内々にだが、繁殖期が終わったら代表選考会に、徹を呼ぶ予定があるとのことだった。まだ先の話になるが、蹴るか受けるか頭の片隅にでも入れておいて欲しい、と締めくくられた簡素な文体。
 しかし、それこそが、及川が待ちわびた召集だった。繁殖期さえ終われば、発情期の強度も比較的和らぎ、今まで効かなかった薬が効くようになるかもしれない。治験中の新薬が、番の運命をも変えるかもしれない。徹の期待は膨らむ一方だったが、夫たちの我慢の限界もまた、近づいていた。
 経産していてもすぐに元通りになる体つきを目の前にしての、待ちに待った産褥期明け。我慢など利くはずがない。目をぎらつかせた若利が、徹にとってある種残酷な事項を告げた。
「早く全日本まで上がってこい、徹。そのためには何が何でも、今回で四人産んでもらう」
 十二人も産めば流石に繁殖期は終わるだろう、と予想しての若利の発言だった。だが徹は、お腹に二人しか宿さずに済む快適さにすっかり体が慣れてしまい、その倍かそれ以上の負荷を急に恐れ始めた。
「ま、待ってよ、若利……また四人って、嘘だよね?」
 徹は壁際に追い詰められ、若利に平たくなった腹を撫でられていた。
「嘘ではない」
「諦めろ、徹。俺も若利と同意見だ。早いとこ繁殖期抜けて、一緒に全日本のユニフォーム着ようぜ」
 岩泉も追い打ちをかける。
「え、ちょ、待ってってば……まさか今日、そんなつもりで、二人揃って」
 徹の体は若利によって横抱きにされる。
「「そのつもり、だったが?」」
 二人の声が重なり合い、徹は観念せざるを得なかった。

「岩ちゃんと、若利の、ばかーーーーーー!!」

 その日めでたく、徹の胎に更に四つの命が宿り。
 慣れたはずの悪阻と体の怠さと戦いながら、日々を過ごす歴戦の母親としての生活が、再び始まったのである。



 四度目ともなれば陣痛の間隔から逆算して出産予定時刻まで自力で割り出す余裕も生まれようというものだった。少なくとも徹の場合は。
(あと、八時間ってとこかな……夜中に、なっちゃうな……)
 余裕綽々のように見えてはいるが、その実、結構な痛みの波が押し寄せてきている。初産の時のように痛みにばかり囚われたりしていないのは、単に慣れたためであった。
(連絡、入れとこ……)
『あと八時間って感じ。午前二時くらいかな。夜遅いから、こっちには来なくても大丈夫だから。何かあったら、また連絡する』
 岩泉と若利の携帯端末にそれぞれメッセージを残し、ふぅ、とため息をつく。順調だった。回数を重ねただけ、慣れれば慣れただけ痛みを感じる時間は短くて済むという話だったが、それは痛みの絶対量が少なくて済むのか、それとも感覚が鈍るせいで痛みをさほど感じずに済んでいるのかどちらだろう、と考えていられるくらいに順調だった。
 数時間経過し、子宮口も開いて、分娩台の上に乗っても徹は冷静そのものだった。腹の張りはひどかったが、そういうものだと話も聞いていた。
経産者の様々な話を聞かせてくれた日向のお陰かな、と思いながら、許可を受けて徹はいきみ始めた。

(つ、疲れた……さすがに慣れても四人は疲れる……ああでも寝てる場合じゃない……)
 産んだ直後から乳を催促されれば与えるしかないし、何より生まれたての赤ん坊の世話に当たってくれるナニーはこの部屋にはいない。これから雇うのだ。
(全員、また男の子……バレーの試合、出来ちゃうじゃん……)
 疲労からか、関係ないことを徹は考えていた。
(……牛乳パン、食べたい……おなかすいた……)
 しかし話し相手は部屋にいない。空きっ腹を抱えて眠るしかないのか、と諦めかけた矢先に、意外な人物が部屋の前に現れた。
「及川さん、及川さん、日向です。お腹、すいてますよね?」
 渡りに船とはこのことだった。そろり、と部屋の扉を開けた日向の頭が見え、中の様子を窺っている。
「おなか、すいた……日向、こっちこっち、はやく」
 寝ている赤ん坊が起きないように、そっと手招きして日向を呼びつけた徹。誰に似たのか、四人揃って大の字になって眠っている姿を見ていると、妙な意味で将来が心配になるのが親心だった。
 音をなるべく立てないように紙袋に入れられて徹に届けられた『救援物資』の中には、好物の牛乳パンも入っていた。目を輝かせてそれにかぶりつく様子を見ていると、日向がぽつりとこんなことを呟いた。
「及川さんは競技人生を始める前に、成り行き上仕方なくなのかもしれませんが産んでますし、その後も順調ですけど……怖く、なかったんですか」
 日向は日向なりの、悩みを抱えているようだった。
「……どしたの。へろっへろの今の俺でもよければ、話くらいは聞いてあげるよ?」
 牛乳パンのクリームで口の端を汚しながらも、徹はベッドのリクライニングを起こした。
「……俺、後のことはあんまり深く考えずにいたんです。まだ代表にも召集されてない今のまま、繁殖期を棒に振っていいのかどうか。俺の繁殖期、もう始まってて」
「ストップ。……ねえ日向、それは自分のパートナーには話してあることなの?」
「はい。話しました。自分の好きにすればいい、って言われました。繁殖期が一番妊娠に適している時期だってことも、体への負担が少ないことも母さんから聞いて知ってます。その後の発情期を軽くする意味合いも含めて、使わずに過ごすには勿体ない時期だってことも」
「そうだよね。俺は発情期自体を拗らせてた分選択肢なんかなかった。だからどうしたらいい、って選んだ経験がない分経験談ではうまく話せないかもしれないけど。自分の好きにしたら? って、昔の俺なら答えてただろうね。違う意味で」
「……違う、意味で?」
「そう。何が起きても自分で責任を取るしかないんだから、自分の好きなようにすればいいじゃない、っていう投げやりな気持ちで、ね。でも今はちょっとニュアンスが違う。日向は今、『選べる』立場にあるんだ。どっちを選んでも、賛同してくれる人がいる。それはとっても、心強いことなんだ」
「えら、べる……」
「そう。産むのが怖いなら相談してみるといいと思う。少なくとも体の準備は出来てるわけだから、あとは気持ち。気持ちの準備が出来てから産むのが、いつになるのかはわからないけどさ……日向は、一人じゃないでしょ?」
「…………」
 徹の誤解を、日向には繰り返してほしくはなかった。
「俺、ちょっと勘違いしててさ。体の準備が終わるのが早すぎて、気持ちの準備が整う前に産んじゃった経緯があるから、何とも言えないんだけど……日向の味方は、日向が思ってる以上に、たくさんいると思うよ」
 くしゃり。日向の癖っ毛に、徹の指が通る。
「言っとくけど、俺、日向の年にはもう産んでたわけだからね? そっち方面の人生経験も日向よりはあるつもりだし、誰かに助けてもらうってことは、悪いことでも何でもないんだ」
 皆通って来た道を、自分で歩くか近くで見ているかのどっちかしかないだけなんだし。
 そう付け加えて、徹は再び牛乳パンの残りを食べ始める。
「誰かに、助けてもらう……」
 徹の言葉を反芻する日向。その目からは、徐々に迷いが消えていくようで。
「また迷うようなら、牛島の家においで。子供たち見てると、少なくとも気分転換にはなると思うよ」
 ついでに子守りも手伝ってもらうことにはなりそうだけどさ、と付け加える徹と、まだ表情に曇りの残る日向と。
 正解の存在しない人生には、いくつもの迷いがある。ただ、日向はまだ知らなかっただけだった。迷うことのできる、迷っていられる時間こそが、徹の欲しがった幸せの一部だったことを。

 合計で十二人の子を産んで、ようやく徹の繁殖期は終わりを迎えた。発情期は勿論来る。だが、これまでよりはずっと軽く済むし、妊娠も必須ではないとの医師の見立てだった。長いブランクはあったが、ようやく選手生命が始まると思うと、徹は居ても立っても居られずに朝のランニングを日課にした。それを知った医師から窘められるまでは。
『牛島さん、繁殖期が終わったからと言っても、オメガの体は生殖に特化した体なんです。競技人生のことを考えるなら、あまり長時間体を動かすのは、逆に貴方にとってはマイナスになりかねない』
 長時間の運動を止められ、肩を落としていた徹のもとに、代表召集の選考会の通知が来ても素直には喜べなかった。ある程度の実力のある選手や、事情があって競技から一時的に遠ざかっていた選手など、幅広い層に向けて選考会の通知は届く。多くのメンバーの中で、自分をアピールするためには何を売り込めばいいかを考えなければならない。ましてや使える時間も体力も限られている。従来と比べて、選考対象として残るための難度はぐっと上がったに等しかった。
「……それでも、岩ちゃんも牛島も、先に行って待ってるんだ」
 自分に言い聞かせて、徹は必要な書類に記入していった。第二性別の欄に設けられていなかったオメガ性を勝手に書き加えて。今後同じ道をたどるかもしれない選手の踏み石になってやろう、などという殊勝な考えなど微塵もなかった。ただ自分のために。徹の意地っ張り人生の、第二幕が開きつつあった。
 代表選考会への参加選手はひとところに集められ、会場の中には岩泉や牛島の姿もあった。条件は皆同じ、というだけで徹は燃えた。
(自分の力で道を切り拓ける可能性が、ここにはまだ残ってる)
 影山の姿も会場内にはあった。高校時代に何度か名を聞いた宮侑の姿もある。彼らがコンバートしていなければ、正面からやり合わなければ代表メンバーの椅子には座れない。
(俺にやれるのか、だって?)
 会場のあちこちから、徹がオメガだと知る人間からの視線が突き刺さる。
(上等。十二人の母親の意地、見せてやるよ、お前らにも)
 狙うのは、正セッターではなく控えのセッター、もしくはピンチサーバー。両方の意味で使ってもらえるなら、願ったり叶ったりだ。それなら、動ける時間を制限された徹でも十二分に務まる。体力の配分は決まった。後は、集中力の問題になってくる。
(サーブの威力より、コントロールを意識して……よし)
 時間の許す限り練習したジャンプフローターサーブ。不可思議な軌道を描きながら猛スピードでネットの向こう側へと落ち、レシーバーの手元でふわりと浮き上がったかと思えばライン上に急転直下する、理想的なライン。ジャンプサーブは封印して、セットプレーを見せる時間まで余力を積み立て温存していく。
(サーブはどうにかなるだろ、これで。さて、セッター候補ならやんなきゃなんない他の項目って……あとは『アレ』か)
 徹の得意なセットプレー、しかも相手はほぼ合わせたことのない相手。よく観察し、最高打点を引き出せばそれなりの評価は得られる。
(でも、それだけじゃだめだ)
 試合中であろうと容赦なく最高打点を引き伸ばそうとする影山。スパイカーに能力を過信させるほどに理想的なトスを供給する宮侑。彼らと渡り合うには、徹ならではの武器が必要だった。
(今の俺じゃ、二人に比肩し得るだけの判断材料がない……)
 六対六で全体的なゲームの流れを見るセットプレーの時間は、最終的に徹に味方した。
(しめた。こっちに、二人ともいる)
 徹の最大の武器、感応能力が使える最高の環境だった。アルファばかりが揃う召集メンバーの中、土壇場でのこの引きは神がかっていた。
(さぁて……相手は飛雄だ。油断は出来ないけど……どう、食ってやろうかなぁ?)

 辛勝だったが、結果は結果だ。感応能力をフルに使い、動きを読ませない攻撃で叩き伏せた。終盤、体力の限界が来て一度だけ膝をついた以外は、セッターとしても十分に機能していたように徹は自己を分析し判断していた。岩泉も若利も、従来とは一味違う働きを見せられるようになった徹を見て顔をくしゃくしゃにして喜んでくれていた。
 数週間後に、正式に代表への招集がかかった。三人揃っての、初めての招集だった。牛島はキャプテンを務め、岩泉はウイングスパイカーの一人として。及川は狙い通り、控えのセッター兼ピンチサーバーという位置づけだった。
代表監督の話によれば、ツーセッターでの起用も候補に挙がったとのことだったが、岩泉と若利が強硬に反対したため話は流れた。ドクターストップがかかっていた事も勿論ある。診断書付きで、運動自体は許容できるものの激しい運動を長時間続けては後々に響いてしまう、と文面も渋かった。だが許し自体は出ている。及川が代表に召集されたこと自体は喜んでくれたが、診断書を書く時点では繰り返し念を押していた。
『最大でも一セット分、それ以上は試合に出させない。確約してくれないと、診断書は出せない』
 徹の体の予後を最優先に考える医師は、競技としてバレーを再開すること自体をあまり良く思っていなかった。それを説き伏せ、どうにかして許可を取りつけ、出場機会まで手に入れるところまで辿り着いたのだ。絶好の機会をものにしない理由などない。使えるものは何でも使う。バレーに関してはなりふり構わなくなっていた徹は、オメガの自分とアルファの岩泉・若利との間に生まれていた感応能力の行使を躊躇わなくなっていた。ハンドサインなしで複雑な攻撃を仕掛けられるのは三人の間での大きな強みで、徹につけられた異名は『曲者』。決して誉れ高いとは言えない異名だったが、徹はそれを耳にした時にシニカルな笑みを浮かべた。
「曲者、ね。まぁ、現段階での評価なんて、せいぜいそんなもんでしょ」
 あくまでも徹は冷静だった。バレーのコート程度は至近距離のようなもので、その距離であれば互いの考えなど筒抜けだった。敵味方をよく観察した上での指示出しも明確正確で、影山や宮と合わせた時の各選手の動きも頭に叩き込んだ。結果、かつての影山と日向の代名詞とも言えた速攻のような、一朝一夕にはまねのできないプレイを披露できるようにもなった。
 それでも、逆風は強かった。能力的に劣るとされ、日常生活ですら何かと不自由を抱え強いられてきたオメガの徹が、やっと自力でチャンスを掴んだというのに、だ。番のアルファの鶴の一声だ何だと陰口を叩かれ、因縁をつけられ、謂れのない批判に無防備に晒され続けた。自分のプレイで黙らせてはきたが、何せ日本人の好きな前例という後ろ盾が、徹にはない。何もかもを自力で切り拓かねば道はない困難がこれほどまでか、と膝を折りかけたのも一度や二度ではない。
 ただ、徹は一人きりではなかった。徹を単なるオメガとしてではなく、一定以上の能力を持ちうる仲間として見なしてくれる、チームメイトがいた。彼らの力を借りて徹は、自分に欠けていた実績を国内で積み重ねていくことが出来た。実績が増えるにつれて、面と向かっても陰口でも、徹をただのオメガと蔑む輩は減っていった。否定的な報道も減り、少なくとも国内では、肯定的な雰囲気が漂い始めていた。
 そんな時。代表にまだオメガが徹しか召集されていなかった時。日本代表の選手層は決して薄いわけではなかった。それでも海外メディアは今期の日本代表の選手層の薄さを危ぶむ報道を繰り返し、控えとはいえオメガまで起用している日本代表監督の采配を疑問視する報道まで流すありさまだった。
 しかし、その報道は日本国内ではすっかり、徹に対しての追い風となっていた。
 国際大会が開催され、決して大柄ではないオメガの徹に対し、良くも悪くもカメラが向けられる。カメラのシャッターが繰り返し切られ、様々な言語での解説も入る。
(……思ったよりも、会場の雰囲気は悪くない)
 肌を刺す視線の数々。勿論大半は好奇の目。お前にどれほどの事ができる、と差し向けられる疑いの目。
(いいさ、示してやる。尤も、監督が俺を出す決断を下せば、の話だけどな)
 早口の英語でまくしたてる解説が、不意に徹の耳に飛び込んできた。
『トオル・ウシジマ選手はオメガ性の選手ですが、オメガの選手の起用など類を見ませんね。控えのセッターとしての登録とはいえ、今期の日本はそれほど層が薄いのでしょうか』
『何でも繁殖期明けの選手で、一二人の子だくさんだとか。子供たちに夢を託した方が、現実的だったのではないでしょうか』
『同チームのハジメ・イワイズミ選手とワカトシ・ウシジマ選手とは番の関係にある、といった情報も入ってきました。彼らの影響かもしれませんね、トオル選手の代表起用は』
 試合直前に顔を合わせて話をしていれば、徹にとっては実に不愉快であろう言葉の数々が岩泉や若利の耳にも入って来る。
「おい、散々に言われてっぞ、徹」
「構わないよ、岩ちゃん。それだけ俺が注目されれば、他の選手への目を逸らせられる。それに、俺だって実力でここにいるんだって示せる絶好の舞台じゃないか、今回の大会は」
「しかし、侮りしか含まないあの言いぐさは、聞くに堪えん」
「若利に言われてる言葉じゃないし、後であいつらに掌返させる楽しみも出来たってことで、ここはひとつ無視してあげてよ、『キャプテン』」
 それでも何か言いたげな若利だったが、徹は集中力を高めるために線審の立つライン際をひたすらに見つめていた。
 徹たちの耳には届いていなかったが、日本のテレビ局の中継も入っており、こちらの実況ではまるで違う話が展開されていた。
『もう彼を、徹選手を侮る者など、今日この瞬間から世界からいなくなります。いいえ、オメガの性を侮る者など、彼の活躍を一目見ればいなくなることでしょう』
『それだけの活躍を、彼は私たち日本人に見せてくれました。次は世界です。世界が彼を見つける瞬間が、もう間もなくに迫ってきています』
『世界に彼を、彼が選び取って来たすべての軌跡を、とうとう手にした奇跡を、見せてやろうではありませんか』
『歴史が変わる節目に、彼が魅せてくれる最高の舞台を共有できる幸せを、世界に!』
 選手が並び、一礼してののちの通過儀礼に入る。ポジションにつけば、アルファ固有の殺気立った闘気が、コート内のあちこちから立ち昇る。徹は予定通りに控えで、体力を極力温存するためにベンチに腰かけてのスタートだった。

 獲れない可能性の高いセットを、獲りに行く時にお前を使う。切り札は使うべきタイミングがあり、優勢の時にお前を切るつもりはない。
 事前に監督に呼び出されてそう告げられていた徹は、押し気味の味方を目の当たりにしながら、ひたすらに時を待った。
 手の内を明かし終えれば、力の差が現れてくる。地力で競り負けつつある瞬間こそ、相手に隙が生じる。そこに付け込み、セットを掻っ攫ってくるのが徹の役目だった。

 メンバーチェンジのホイッスルが鳴る。
 交代の選手の番号が書かれたプレートを片手に、徹は立ち上がる。
 流れを変えたい、日本にとっての最大の分岐点がここだと、監督が判断したらしい。出番が告げられれば、後は与えられた役割をこなすのみ。
 快い緊張感に包まれて、プレートを手渡す。すれ違い様に、交代した選手に『行ってこい』と背を押された。
 
 付け入る隙は、徹の目には十分すぎるほどにあった。コートの端、ライン上、線審から見えるギリギリの範囲へボールを落とせば彼らは自滅していく。六点差あった差は見る間に縮まり、同点になり、こちらのリードとなったが攻勢を緩めることはなかった。
 サービスエース六本。それだけでピンチサーバーの役割は十分果たしていたのだが、徹はそれだけでは満足していなかった。
 叩くなら、折れるまで。
 高校時代の座右の銘は、今でも生きている。
 セットポイントとなっても、相手には意地でもサーブ権は渡さない。サーブトスをいつものように繰り返し、コートの角を狙って全力で球を押し出す。
 ノータッチエースで、そのセットは奪取できた。
 これで五分と五分。勝敗は、ファイナルセットへともつれ込んだ。

 ファイナルセットの十一対五の場面で、徹のシンデレラタイムは終わりを告げた。一人だけ息が上がり、立っているのも負担になっているような様子を見かねて、若利が交代の合図を監督に送ったのだ。
 ふらふらとコート外へと戻る徹の背には、会場全体から健闘を讃える労いの拍手が送られた。交代で入った選手からも、お疲れ様、と一言送られて。
 牛島徹の国際戦のデビューは、華々しく飾られた。


[ 24/89 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -