十七章 岩泉編

 彼らの生き様は、時に戯曲よりも鮮烈である。人類のうち多数を占めるベータには、集団に疎らにしか存在しないアルファとオメガの数奇な巡りあわせが、いつの時代もひどく眩しく映る。
 アルファがオメガに恋い焦がれるのも、オメガがアルファなしには生きられないのも、当事者ではないベータにとっては人生を彩る最上のスパイスになりがちだ。理由はただ一つ。彼らは、アルファとオメガが惹き合う構造を半端にしか知らないという点に尽きる。
 だからベータはアルファの恋を知らない。彼らが一度オメガに夢中になってしまえば、もはや滑稽なほどに、選んだオメガの事以外のほとんどが頭から抜け落ちてしまう。
 生涯を捧げ、傍に寄り添い、如何なる試練が立ち塞がろうとも手を取り合い乗り越えていく。彼らの本能は告げる。そうするしかないのだと。そうしなければ望むものは手に入らないと。
 愚直で不器用極まりない彼らには、幾多の試練が降りかかる。憐れむ声は数知れない。かの有名な戯曲家が手掛ける悲劇でもあるまい、と胸の潰れる思いをする大衆も少なくはない。
 それでも彼らは信じている。越えられぬ試練は自らには与えられないと。越えた先へと進むだけの能力が自身には備わっていると、信じ疑わないだけの自負がある。才能と呼ばれる機会の多い大きく秀でた能力は、傲慢とも受け取れる自己肯定に根差していると論じた言説が、市民権を手にして久しい。
 否応なく惹き合う自分の対を求めて、自分のためだけに生まれてくれた運命を探して、アルファは持てるすべてを駆使して生きていく。自身の半身となるに値する、表裏一体の能力を持って生を受けたオメガを探した結果に引き起こされる、同類同士の争いも辞さずに。
 過酷な生存競争の果てに作られる番は、勝者となったアルファに特別な一生を約束する。それだけに、恋に殉じる覚悟さえ、彼らに容易に固めさせた。
 そんな運命のいたずらが、ここにある。



 ベータとして過ごしていた時には知りえなかった葛藤の数を、随分前から岩泉は数えなくなっていた。
 アルファに転化して初めて、三様の扱われ方がいかにかけ離れているかも知った。
 周囲が自分をどう見なすのか。周囲が自分の目にはどう映るのか。及川の強がりを甘く見て、悩んでいるのに軽くあしらってはいなかったか。いずれ訪れる発情期は、二人が離れ離れになる境だと知っていたら、もっと気を遣い優しく接してやれたのではないか。
 思いを馳せる余裕が生まれると、ベータのままでもしてやれたのに気付けなかったこと、ベータだったからしてやれなかったこと、あれもこれもと現れて様々に列を成す。もっと早くに転化出来ていたら、望まない相手をあてがう愚挙は避けられた上に、遅い発情期の兆候を感じた時点で番にでも何でもなれたはずだ。
 間に合わなかった結果、及川は本人の意思とは無関係に、牛島のもとへと身を寄せることとなった。自分に責任はないとは、岩泉にはどうしても思えない。始終負い目もつきまとう。
 過去は消えない。
 消せるわけもない。
 だが、及川の憂いだけでもどうにかしてやりたかった。そのためなら誰を敵に回しても構わない。及川が塞いでいる様子など、今生二度と知らされたくない。人に何と言われようとどうでもよかった。それが岩泉の愛だった。及川さえ真っ当な幸せを手にしてくれたら、それ以上を望むつもりは毛頭なかった。
 自分で選んだオメガのために。
 相手を定めたアルファは、全ての行動の軸が自分自身ではなくなる。
 真摯に向き合うが故に融通の利かなくなった彼らへともたらされるのは、勝利の美酒か、ほろ苦い悔恨か。
 二極に分かたれた先に潜む結末は、時として人の英知を凌駕し、遠大な迂回路を指し示すことさえあった。



 答えは決まった。
 俺は、岩ちゃんのところへ帰る。帰って、もう一度あの日の続きを生きて、やり直していく。
 自分の性を今度は否定しない。置かれた環境の中で、自分の足で立って生きていく。
 …………けれど。
 岩ちゃんのところへ、帰るってことは。
 岩ちゃんを喜ばせる以上に、あの人を傷つけるって意味をも持っていた。


 振り返るのが、ちょっとだけ怖かった。少しばかり、気配が遠くなっている。俺たちの話の邪魔にならないように、気を遣ってくれたんだろうな。俺がどうするつもりでいるのか、この距離なら手に取るように分かっているに違いないから。面と向かっての『お別れ』を……許してくれるかな。
「言いにくいなら、俺から言ってやる」
 岩ちゃんの助け舟もあったけど、人任せにするつもりはない。とても大事なことだから。
「大丈夫……ちゃんと、自分で伝えてくるよ」
 俺が受けていたのは、あっさり切り捨てていいような、半端な愛情じゃなかったから。
 ごめんねと、ありがとう。二つとも、自分の口で伝えないと、あの人は悪い意味で一生俺に縛られたままになる。
 俺が俺のまま、あの人を好きにならなかったとしても、一生一緒にいてくれるつもりだったから。なのに、俺は結局迎えに来てくれた岩ちゃんの手を取り、岩ちゃんについて行く。あの人の、一度は実現しかけた幸せな生活もこれからの人生も、全部全部破壊していなくなるんだ。
 はっきりと、俺を選んでくれていたのに。俺の決断は、あの人にとってはあまりにひどい仕打ちだった。
 多少なりとも気持ちに応えられたなら、何か変わっただろうか。変えられただろうか。少なくともこの一年の間は、俺は完全にあの人のものだったのだから。
 思い切って、振り向いた。
 視線を感じる方向が、それぞれ真逆になる。
 岩ちゃんはあれで心配性だから、何かあったらすぐに動けるように身構えてるんだろうな。もう、何も起きやしないのに。そんなことをする気が回らない程、あの人はこれから俺の選択に打ちのめされるんだから。
 変、だな。
 俺はこれから、帰りたいってずっと願ってた場所に帰るっていうのに。
 一歩、また一歩と変化する視界に、陽炎が混じる。
 俺とは比べ物にならない程、あの人は今から苦しむっていうのに。俺だけが傷つけられたって顔で、あの人の前に立ちたくないのに。
 どうして、俺は吹っ切れない。
 ……木陰から俺たちを静観していた立ち姿は、一見するといつもと何も変わらなかった。こんな時でも黙っている、かといって口を開いても気の利いた台詞ひとつ言えやしない、考えをあまり表に出さない朴念仁。
 けど、本当にそう思うのなら、相当見る目のない奴に間違いない。洞察力が足りないだけなのに他人のせいにして、知る努力を放り出した怠慢をやり玉に挙げられないよう、逃げ出しただけだ。
 大方の事情は会話が聞こえていなくても、俺を通じて察していたらしい。引き結ばれた口元は真一文字に、一人だけ先にこの世の終わりを迎えたような顔をして、俯いている
 罪悪感に押しつぶされてしまいそうだ。
 それもそうだ。生涯かけて償っても足りない位に、俺の罪は重い。俺をどんなに想っているのか、気持ちを知りながら裏切るんだから。
 最悪の、形で。
 ……もしも、俺が同じ立場に立たされたら、どうするだろう。
 少なくとも、訳知り顔をして送り出してやったりしない。手を振って背中を見送るくらいなら、絶対に自分から離れていけないように、汚い手だって平気で使うだろう。綺麗な体でなんか帰してやらない。自分の形代を腹の中に仕込み、金銭面も勝手に工面して。関係を絶てないように外堀を埋めて、結局は自分のところへ戻るしかないように仕向けてやる。
 牛島がそうしなかったのは、単に見通しが甘かっただけなのか。
 それとも。
 ……いいや。これ以上考えても、もう俺たちの間に意味なんか生まれない。
 秤の傾きが今更変わっても、自分の答えを決めた後なんだから。
 人通りも少なくないのに、俺たちの周りだけは静穏そのものだった。
 連れてこられた時よりも、牛島との目線の距離はやや離れた。俺だけ背が伸びなかったから。いくらでも絡めようと思えば絡められる範疇の距離だったはずなのに、今日は交差しない。俺の左手にぴたりと留まり動かないから。
 そこにはまだ、約束が残っている。
 これから俺が反故にする、約束が。
 下手に期待を持たせておきながら、結局は元鞘に戻ろうとしている俺は、どう見られているのかな。言葉が足りなくて不器用で、何回平手で打ったか知れないけれど、自分の非はしっかり認める度量を持った誠実なこの人に。
 非難の言葉は降ってこない。視線はひとところに留めたまま。膠着が続いた。破ったのは、彼の柄じゃない遠慮がちな抱擁だった。
 いつもと違う、抜け出そうと思えば簡単に抜け出せる、隙間の大きな腕の檻。俺が自分の意思を持ち、そこから外へ出て帰ってこないのだろうと暗に語る空洞。
 普段ならお返しに肘のひとつも入れている。見せ物になりたいのなら一人でやれ、俺を巻き込むな、と。
 でも、もうこれが最後だから。今までと同じ日常は、繰り返されなくなる。未だに言葉を発しない口の中では、ついに俺が耳にすることのなかった数多くの本音が、役割を果たすことなく死にゆく最中なのだろうか。聞こえてくる鼓動はとても静かで、そら恐ろしいのに不思議と心が凪いでいく。
 いつの間にか俺は、この人の体温にも馴染んでいたのに。どうして一番好きにはなれなかったんだろう。
 ずっと、ずっと、今だって。
 俺の心を、待っているのに。
 初めて会った、あの瞬間から。
 この人は。
「及川」
 掠れた声が一筋注がれる。檻が開き、俺は自由になる。牛島が両手で、俺の左手を恭しく掬い上げる。繊細な硝子細工であるかのように、薬指がごく軽く摘ままれた。
 ……ううん、指そのものじゃない。付け根に嵌まっている、指輪だ。
「お前の前に現れたのは、紛れもない『二人目』だ」
 指の腹がやや強めに押し上げられる。環の内側に余裕が生まれ、むくみとは縁のない指先に向かって、引っかかりもせずにそろそろと抜かれていく。形に沿った若干の凹みを残して、俺を縛っていた約束がひとつ、失われた。贈ってくれた人のポケットの中へと姿を隠した指輪に僅かに残る俺の体温も、いずれ消えていく。俺の名残は、指輪についた細かな傷くらいのものだ。
 岩ちゃんのところへ返してくれるつもりで、こんなことをしているのかな。快いそよ風を感じながら軽やかに空気を切って駆けていけるはずの足が、その場に縫い付けられて動かない。
 俺は本当に、帰ってもいいのかな。
 二人目が岩ちゃんなら、正真正銘の一人目は、目の前に立つ牛島若利その人に他ならなかったから。
 牛島の厚意を疑おうとする気持ちの方が、彼を信じようとする気持ちより、まだ俺の中では大きい。
 けれど彼の眼は、心にもない嘘を言っているようには見えなくて。俺はやっぱり、惑う。
 自分自身のことは脇に寄せておいて、俺の選択を優先させようとしているのかな。
 そんなところが、彼らしくないのに、目が離せない。似ても似つかないはずの目元に、岩ちゃんを見出してしまったからだろうか。
「そんな顔をさせるために、俺はお前を連れ出したのではない」
 顔に浮かべた下手くそな作り笑いはひどく寂しげだった。遮二無二俺を手に入れようとした荒々しさは、影も形も残らず消えている。
「岩泉のところへ帰った方が、お前は幸せになれると思っただけだ」
 俺の心が変わらなかったら帰してくれるよう、最初から計らってくれていた?
 だから辛抱強く、待ってくれていたのなら。八月に噛まれて俺たちが番になった時に、あんなにも謝っていたのなら。
 ……わかりにくいよ。優しくしてくれるなら面と向かって、優しくしてやってるんだから有り難く思え、くらいのことは言っていいんだよ。言ってくれないと俺は気付けないから。気付けなくて、余計に傷つけてしまう。
 結局俺が、心の底からは牛島を受け入れなかったから、うまくはいかなかったんだ。番は二人でひとつなのに、俺が一人立ち止まって牛島に独り歩きをさせて。等身大の牛島をひとりの人間として向き合おうとしなかった、俺の狭量が関係を大きく歪ませたんだ。
 牛島だって同じ人間だ。どんなに鈍かろうと心の痛みを感じるに決まってる。なのに、俺はそれを無視していた。俺はどんなにひどい馬鹿だったのか。感じた痛みを伝えてこないからって、痛み自体がなかったことになるわけがないじゃないか。牛島は俺をずっと、見ていたんだから。
 俺しか見ていなかったんだから。
 それでも……俺がしてしまったこと、は。
「誰よりも幸せになってほしい。そう考えていた」
 ようやく、わかったよ。
「今も変わってはいない」
 うまく言えないし伝えられないけれど、確かなことがある。
「お前に対する俺の望みが実現する場所が、俺の隣ではなかっただけの話だ」
 やっぱり俺たちは番だったんだ。
 二人で同じことを考えていたんだから。
 ……そう。迷っちゃいけない。何のためにこの人が、俺を指輪から解放してくれたのかを、はき違えてはいけない。理由を見失ったら、俺の意思を尊重してくれたこの人の決断が無意味になる。
 帰ろう。岩ちゃんのところへ。
 裏表なく、心の底から、笑って過ごせる場所へ。
「…………ごめん、ね」
 嵌められていたもう一つの枷が、外れたみたいだった。知らずに全身に纏っていた、番の片割れとして生きようとしていた名残の自制。これからの俺には不要なもの。
 もう自分を殺す必要はなくなるからと、牛島が半歩下がる。触れていた手が離れて、体温の混じり合う場所もなくなる。
「岩ちゃんは、俺の特別なんだ」
 くるりと振り返り、牛島に背を向ける。俺たちを二人きりにしてくれた岩ちゃんが、遠くで待つ姿も見える。一年前とは、遠目にも雰囲気が違っている。じゃれ合って遊んでいた頃とは一線を画する、揺るぎない強固な芯が通った背筋が誇らしい。俺が選んだ人。俺を選んでくれた人。
 これから一緒に生きていく人。
「今までずっとそうだった。きっとこれからも変わらずに続いて、岩ちゃんの隣で俺は俺のまま生きていく」
 もう、牛島の目は見られない。心境を雄弁に語る目を見てしまったら、俺は二人分の決意を裏切ってしまいそうだったから。期待させるだけさせた結果が、誰一人幸せにはしないのなら……俺が今示せる答えは、ひとつきり。
 だから俺は、さよならを言えなかった。背を向けて、違う道に通じていた架け橋を断ち切る。一緒には行けないんだ。でも、言葉にする勇気が、今の俺にはなくて。汲み取ってもらっておしまいにしようとする弱さを、赦してもらえるだろうか。
「この先、お前のことを、嫌いじゃなくなる日が来たとしても」
 きっと変わらない。変わるとは思えない。
 俺の人生の一部は岩ちゃんのもので、岩ちゃんの人生の一部もまた、俺が預かっている。離れて生きていくと、お互いに歪んでいってしまう。そうならないように、ひとりでに惹き合ってしまう。誰も、俺にとっての岩ちゃんにはなり得ないんだ。
「──そうか」
 十七歳の六月九日。悪夢としか思えなかったあの日。そこでずっと止まっていた時計の針が、俺の中で再び動き出す。刻まれ始めた時間が、今に繋がっていく。
 俺を選んだがために牛島が費やした時間は戻らない。無駄にはならなくても、実りまでは届かずに朽ちていくだけ。朽ちて土へと還った中から産声を上げたものが、いつか牛島を幸せにするかどうかは、まだわからない。
「……拒絶も否定も、しないってことはさ。俺がこうなる可能性も、ちょっとは考えてた?」
 言葉は返ってこない。この文脈だと、沈黙は七割方の肯定、ってところかな。
 返事の代わりに、項に落とされた口づけ。名残を惜しむように、何度か繰り返されて、離れていく。
「予想してて、最低一度は考えたことがあるのに、俺を引き留めない」
 未練はあるに決まってる。衝動を理性で制圧している。今だってひしひしと感じてるんだ。行くな、って。
 それでも俺を解放しようとしている。俺には難しい芸当をやってのけている。八月の件を除けば、強固な理性にひびさえ入らなかったんだから、疑問に思うまでもないのだけれど。
「その強さが、俺には眩しかった。眩しくて羨ましくて……悔しかった」
 今の俺はきっと、今の牛島とは釣り合わない。隣に並び立つに値する自分自身にならなければ、いずれ俺は壁を越えられずに立ち止まってしまう。俺が立ち止まったら、隣を歩いていても先へと進んでいても、歩みを止めて俺を待っていてくれるんだろうな。
 けれど、俺がそのまま立ち止まっていたら?
 かの人は、長く続いている道の先へと、進めるはずなのに進まなくなる。
 俺のせいで高みへと至るのが遅くなっただけで済まされるとは限らない。一度きりの機会だって多い。限られた時間を使い切ってしまい、好機に間に合わなかったら?
 想像しただけで背筋が凍る。
 誇れる未来を共に掴むためには、何もかもを牛島に頼りきりの現状に甘んじていてはいけないんだ。
番という立場は確かに、オメガにとっては安住の地かもしれない。
 けれど、俺にとっては必ずしもそうとは限らない。他でもない自分の足で、先を行った牛島に追いつけるくらいじゃないと、恥ずかしくって番だなんて名乗れやしない。お膳立てされて、一方的に選ばれただけで番になっている以上、今の関係から生じた結果には俺の意思がほとんど混じらないことになる。自分たちで作った番という関係から、本来得られる幸せを、半分しか手にしないことになる。
 選んだ相手を手に入れる幸せ。自分が選んだ相手に、自分もまた選ばれる幸せ。両方手に入らないなら、そんなのが運命だなんて嘘だ。俺たちが本当に、何を以てしても絶てない繋がりを持っているのなら、選んだ道は必ず相手のところへたどり着くように出来ているに違いない。
 互いの手を取るべき時期はきっと、もう少し先なんだ。
「──それは、買い被りだ」
 悲しみを湛えた声色は、ひどく人間くさい情緒に溢れている。雲ひとつない晴天に、雨さえ呼べるほどの曇り声。知らぬ顔をして燦々と照る陽が、とことん無神経に思われるほどに。
「お前が思っているほど俺は、強くはあれない」
 背を向けているから、牛島が今どんな顔をしているのかはわからない。
 確かめるつもりもない。
 もう迷わないためにも、振り返らないと決めたから。
 閉じた瞼の裏側には、俺のもうひとつの過去へと繋がっている、後ろ髪引く記憶が絶え間なく流れてくる。
 考えなきゃいけない。
 自分のわがままで、誰を一番振り回していたのかを。
 忘れちゃいけない。
 誰のおかげで、俺は好きな人の隣に帰れるのかを。
「……俺は、岩ちゃんがいないと、だめみたいだ」
 一年という歳月は、自分のことを再認識するためには十分な時間だった。岩ちゃんと離れていた時間と同じだけ、牛島の隣で過ごしていた。生活のすべてを共有してみて、自分の思い込みにもいくつか気付かされたけど、やっぱり順風満帆には程遠かった。俺のためにって買い与えられる品物が増える度に、引け目を感じた。期待しないでくれって。お前の人生に俺を引きずり込むなって。子供っぽく当たり散らしたことだってあった。
 それでも、ただ静かに、気が向いたらいつでも使っていいと、言ってくれていた。身勝手な暴君とは縁遠い穏やかさのせいで、息が詰まる思いだった。
 俺はいずれいなくなるのに、形代なんか残していったら、お前は俺に囚われ続けるんだろう?
 俺を忘れたくても簡単に忘れられるような奴じゃないって、俺はもう知ってるから。
 俺が今からすることは、罪滅ぼしにもなりやしない。わかってるのに、俺に何が出来るのかはとうとう思いつかず仕舞いみたいだ。俺を思い出さなくなるように。違う誰かを、かつての俺と同じように想える日が来るように。祈り願う以外に、何が出来るのかわからなかった。
 だから、俺がお前を傷つけた記憶まで、後生大事に残しておかなくていい。すべてを背負う責任なんかない。
 必要なものだけ持っていけ。他のものは投げ捨てろ。追いかけてくる記憶になんか立ち向かうな。
 振り向かず、前だけ見て、そのまま進んでいけばいい。隣から俺がいなくなったって、目指すものが同じである限り、遅れてでも俺はお前と同じ舞台に立ちに行く。お前に連れて行ってもらわなくたって、自分の足でお前に追いついて、同じ場所で俺自身を誇示してみせる。
 今までお前が見ていた俺は、そういう奴だ。
 オメガの性が一度は過程を阻んだのは確かに事実で、お前は俺を救うつもりで連れて来たってのもわからないではない。
 けど俺はもう、お前に守られなくたって平気なんだ。
 今までと同じように、岩ちゃんが傍にいてくれるから。大勢の中から俺を見初めた時と同じ、お前にとってのかけがえのない価値を、誉れある舞台で存分に披露してやる。岩ちゃんがいれば、それは叶うから。
 ……俺は、今の俺にできる精一杯で、俺自身をお前の人生から切り離す。一人で先に、舞台に立って待っていてほしい。俺は俺のやり方で、アルファとオメガのあり方に答えを出してから、そっちに行く。
 お前は正しかったのかもしれないけれど、俺だって間違ってたわけじゃないって、証明しておきたいんだ。
「ありがと……助けてくれて」
 清く純粋な好意は、至上の愛へと通じている。過ぎたものを俺は与えられていた。そうでなければ俺の居場所は、大学の構内ではなくて産科のベッドだったのかもしれないんだから。
 俺のことをどう思っていたのかを知っているから、何もせずにいるのがどれだけ難しかったのかも、わかってる。だから俺も一度は、自分のためだけに生きるのは、やめようと思った。自分の幸せが手に入らないならせめて、俺を望んでくれた人──お前が俺の分まで幸せになってくれたら、幸せのお裾分けをよすがに過ごせるかもしれないって、思ってた。
 何も残らなかったはずの掌に、希望のかけらが転がってきたんだ。とても小さくて不確かで、けれどもそれに縋るしか俺にはなくて、ようやく向き合おうとした。違う人と生きていくために、岩ちゃんを一度は忘れようとした。
 でも、岩ちゃんともう一度会ったら、肌で感じてしまったんだ。やっぱり一緒にいないとだめなんだって。離れていては、俺は俺のまま生きてはいけないって。
 岩ちゃんと離れていた間、自分でも気付かないうちに、自分自身が潰れかけていたから。
 俺の喜怒哀楽を歪めずに表に出すための鍵は、苦楽を共にした幼馴染が今でも持っていて、他の誰が何をしようと代わりにはならない。この後何が起きてどうなるかはわからなくても、少なくとも今の時点では、間違いなく。
 これまで生きてきた中で俺が見つけた幸せと呼べるものは、岩ちゃんと共に過ごしていた時間の全てだったんだ。



 どうしてだろう。絶え間のない問いかけを、自分に投げかけ続けた。
 オメガに生まれたってだけで、つらい目に遭わなきゃならないなんて、間違ってると思ったから。
 事あるごとに、恨み言を口にしたくなった。苛立ちをぶつけて、八つ当たりしたくなった。オメガに生まれなきゃ俺の苦しみなんか分かりっこない、って。
 回数なんか数えきれないくらいに。
 それでも俺は、自分の中の『どうして』を、一人で抱え込み悩みぬかずに済んだから、随分と恵まれていたように思う。
 手を差し伸べてくれる人がいた。
 大好きな人は俺を追いかけて、とても細かなふるいの目を潜り抜けてきてくれた。
 なのに俺は、二人に同時に報いることができない。二人なりに、俺のためにしてくれたことはそれぞれ違う。同列に並べて単純に比較するわけにもいかない。選べるのはたったひとつの航路だけ。
 三人分の未来を乗せて、一度だけ舵を切る。
 岩ちゃんのもとへと。
 一緒に幸せになりたい、そう願ってやまなかった人のもとへと。
 軛から解き放たれて歩きだしかけて、しばらく忘れていた大事なことを思い出し立ち止まる。俺が牛島のお手付きだってわかる、あの噛み跡はどうなったんだろう。
 恐る恐る項に指を這わせて、触れたら判る凹みを探した。浅い噛み方で元々そこまでくっきりとは残っていないし、見た目も仰々しくはないにしても、あるかないかで言ったら『ある』から。
 ……けれど、指先に意識を集中させて何往復しても、なだらかな感触は途切れない。一生残るはずの跡が、なぜか失われたとしか思えない。所有の確たる証拠が消えたすべすべの首に慣れるまでは、ちょっとした違和感が続くんだろうか。
 番の証は昨日の夜までは確かにあったし、番らしいことだって当然のようにしていた。無意識に俺が立ててしまうらしい爪の跡も、牛島の背中には今でもくっきりと生々しく残っている。体の中も外も知り尽くした、ごく自然に体の境界が消える間柄に一度はなったと言っても、離れるとなるとこんなにもあっけないのか。愁嘆場は願い下げだけど、あまりにあっさりしすぎていて、現実味がなかなか湧いてこない。
 番が解消されたなら、俺は晴れて自由の身に戻れるんだから、もっと喜んでも構わないんだろうけれど。晴れやかな心地にはなれない。運命の半分を切り捨てて生きていくのだから、当然と言えば当然か。俺が捨てさせたものの大きさも、重みも無視してまで、六月九日の続きを生きていいわけがない。
 俺は大きな罪を犯している。言葉が致命的に不足していた牛島の非が咎められるならば、自分の番からの求愛を何もかも拒絶した俺の非は如何ばかりか。
 犯した罪への代償は、不自然なまでに軽く感じられた。



 岩ちゃんのもとへの道のりは、ともすれば跡形もなく消えてしまいそうな幻のよう。
 ゆらめいて、長さを変えつつ歩みの過程で問いかける、神代の世界の物語にも似ている。
 黄泉の世界から恋人を連れて帰る神話は、何もかもが自分に都合よく出来てはいないと暗に示していて、幼心に身に積まされるものがあった。あの世とこの世の境界を越える寸前でつい振り向いてしまった男は、黄泉の王と交わした約定を違えたがために愛する人と永久に世界を分かたれた。
 悲愴な運命は、目には見えなくとも、今でもおそらく数歩横あたりにぱっくりと口を開いて待ち構えている。誰か落ちて来ようものなら、逃れられぬよう捕らえて食らい尽くす。そうなるかどうかは、予兆を感じて応じていけるかどうかにかかっている。
 俺はおそらく、間に合った側なんだろう。
 けれど、岩ちゃんはどうか。俺に囚われてからでは遅いんだ。岩ちゃんに、俺の一生を背負わせてしまっていいのかな。他の子を知らないまま、俺しか見ないまま選んでもらうような価値を、俺が備えてるとでもいうのかな。
 本当に後悔しないのか、させずにいられるのか、臆病風に吹かれてる自覚はあっても、やっぱり気になるんだよ。
 これ以上誰も不幸せにはしたくないから。
 せめて岩ちゃんには、本当の意味で幸せになってもらいたいから。
 


 躊躇いを残した及川の歩みは、岩泉に向けた爪先を時折蛇行させながらも、止まりはしなかった。向かって伸びていた岩泉の両腕へと、危うい足取りで及川が飛び込み、岩泉がほっと溜息をついたのも束の間。
 両腕を体の横へだらりとぶら下げたままの及川が口を開き、おずおずと尋ね問いかけた。
「……アルファなのに、オメガより小さいなんておかしい、って。後ろ指差されて笑われたりしてもいいの?」
 多少は岩泉の背丈も伸びていた。だが牛島と比肩する以前に、まだ及川にも届いていない現状は、世間でのアルファの常識には当てはまらない。ベータの頃から背丈を物足りなく感じていたのを間近で見ていた及川は、身長を気にする理由が増えた点を案じていた。
「これから伸ばすから、そんなの気にすんな」
 成長痛がまた来るかどうかは運次第だし、その時ほど急には伸びねえかも、ってのがもどかしいけどな。
 かねてからの悩みも吹っ切った岩泉は静かに語り、及川の言葉に目くじらを立てたりはしない。愛しげに及川の髪を撫でる手つきはあくまで柔和だ。大台がどうのとぼやいていた頃と今とが繋がらず、岩泉が変わっていった過程を知らない及川は、胸中で密かに目を白黒させていた。
「……ほ、ほら、ふわふわでもないし柔らかくもないし、自分で言うのも何だけど扱いは面倒くさいし」
 扱いの面倒くささを、岩泉はまだ半分しか知らない。性格に関しては長年の付き合いで許されていようと、及川が自分でも散々手を焼いているオメガ性の扱いは別の話だ。やはり手に負えない、と再び牛島に引き渡されでもしたら。確かに、最悪の結果は免れるだろう。引き換えに、精神的な支柱としての岩泉を失って、今度こそ本質的に『独りぼっち』になるだけで。
 そんなことになる位なら、岩泉に何かと案じてもらえる望みだけでも残しておきたかった。閉じかけの退路を抉じ開けて、本当に自分を選んで後悔しないのかを問いたかった。今ならまだ気が変わっても、傷は浅い。
 及川の表情は曇ったままだ。何を考えているかが筒抜けになっていようと、安心できるまで何度でも答えが欲しくてたまらない。意を汲んだ岩泉の唇が及川の望む答えを繰り返し発しても、及川に食い込んでいた不安の根は奥深く、分厚い薄雲は一向に晴間を見せなかった。
「今更だろ。素直になれ、手間かけさせんな、なんて一度でも言ったことあったか?」
「……どっちも、ベッドの中なら」
「あー……そういやあったな、そんなこと」
 睦み事の最中に、意地を張った及川が拗ねて布団の中に籠城を決め込んだ際、言ったような言わなかったような。まだ互いの肌しか知らなかった頃の出来事で、今とはまるで意味が違っているあたりが、岩泉にはおかしくてならなかった。
 苦笑する岩泉をよそに、及川は尚も続ける。
「それにさ」
 尋ねるなら今しかない。今ならまだ、岩泉の気が変わっても、居場所になりそうな場所がある。今の自分を望んでくれた場所が、残っている。牛島の存在を逃げ道にする後ろめたさはあったが、頼る先もないのに賭けに出る、向こう見ずな自分ではいられなかった。
「『岩ちゃんの』オメガは、ちゃんとよそにいるかもしれないんだよ?」
 畳みかけるように、及川の迷いが吐露されていく。
「俺と番になったら、岩ちゃんは一生、俺のわがままを聞かなきゃなんない。俺が岩ちゃんの負担になって、迷惑かけて、でも誰も助けてくれないかもしれないんだよ? 自分でどうにかしなって、突き放されてもおかしくないんだよ?」
 いつか岩泉が、自分を否定する日が来てしまったら。一人で生きていけるほど甘くない性を抱えた身を、いずれ捨て置かれてしまうならば。忠告が示唆した意味に気づかず、単なる脅しと軽視したかつての自分が、いかに浅はかであったか思い知った以上、同じ過ちを岩泉にも犯させたくはなかった。
「すごく手がかかるって、岩ちゃんはもう知ってて一回懲りてるのに、それでもいいの?」
 期待が膨らんだ分、付きまとう懸念も数を増す。不自然な胸の高鳴りが息苦しさを呼び、望まない結果を迎えた時のことばかりつい想像してしまうのは、自己防衛に過ぎないのか、それとも。
「……二度と、他の人のとこに行けなくなっても、後悔しない?」
 自身の心境に名を与え、口に出し告げたが最後、不本意なかたちで岩泉を自分へと縛り付けるのではないか。
 強ばり微かに震える及川の手は、冷えて青白くなっている。その手をやんわりと握って揉み解し、人間らしい体温を分け与えていく岩泉は、もう見ていられないとばかりに閉ざしていた口を開いた。
「なあ、及川」
 及川の芯を杞憂から解き放ってやるためには、本当は伏せておくつもりでいた一切を、洗いざらい吐き出さなければならない。それが、岩泉に知らされた『決意』に報いる手段でも、あったからだ。
「あいつ――牛島にとって、お前はなんだ?」
「え?」
 予想もしなかった問いかけに、及川の思考が一旦ぴたりと止まる。改めて考えようと記憶を遡り始めるや否や、矢継ぎ早に告げられる事実の濁流が、及川を押し流した。
「牛島には、最初からお前しかいなかった。自分の対が誰なのか、はっきりわかるってのは場合によっちゃ裏目にも出んだよ。お前とずっと番になりたがってた理由も、あいつなりにある。……及川以外の誰とも、番を作れないからだ」
 そんな、馬鹿な。
 アルファが、特定の相手以外と番が作れないなんてこと、あり得るんだろうか。
 驚愕が奔流となり、瞬時に脳天から爪先へ巡っていく。岩泉の口許に釘付けの視線は、動かそうとしてもまるで動かない。
「……ね、ねえ、待ってよ、岩ちゃん。でたらめ、だよね?」
 自分が今さっき振りほどいた手は、過去を過去として清算出来るだけの時間さえ流れれば、自分ではない誰かを見出してもう一度やり直せるとばかり思っていた。少なくとも、振り向かないたった一人に生涯を捧げ、人生を棒に振ったりはしない、と。いつか自分は、生まれてから死ぬまでに出会って別れる、何人かのうちの一人になるのだろうな、と軽視していた。
 だから及川は、牛島の言葉の意味をあまり深くまで掘り下げずに、単に逃れたがるのみに自身をとどめた。牛島と及川、それぞれの思惑は顕在しない本音によって歪められ、相手には伝えたかったことを半分も伝えられずにいたのだが。当事者の彼らは、それにさえ気づけない。幾重にも連なった誤解と、誤解が生んだ悲劇、互いの行動が及ぼした影響など、全体像を知り得たのは、皮肉にも岩泉一人だった。
「わかんだよ、俺もあいつと同じになったせいで。お互いの代わりには、誰もなれない。なろうと思ったって、なりたくたって、なれるもんでもない」
 場を立ち去り、今では背中も見えなくなった牛島は、別れを告げた及川が何も知らないままに自分から離れたのだと知ったなら、どんな表情をしたのだろう。憤りを感じるのだろうか。無知を憐れむのだろうか。それともようやく番の玄奥に指先が触れた及川の名を、万感の思いを込めて呼び、改めて岩泉と対峙するのだろうか。
「認めんのは癪でも、あいつは紛れもなく、及川のための番で、片割れだ」
 その逆も事実だった。自分が及川を攫って行くのは理に適っているようで反していると、とっくに岩泉は重々承知している。
 けれども、番の辿る運命は、理屈だけで片付けられるほど単純なつくりをしてはいない。岩泉と及川の出会いは単なる偶然で片付けられても、そんな生易しい接点を牛島は持っていない。必然を背負った二人は、本当は一目で互いに惹かれ合い、金をも断つ契を結んだ後は終生を共に過ごす、はずだったのだが。
 及川に示された牛島の約束は、報われることなく露と消えた。
「他の誰かを選ぶ気も、最初からなかった。あいつの頭にあったのは、及川が手に入るか入らないかの、二つだけだった」
 結果、及川の望んだ顛末を迎えたのだが。岩泉が伝えようとした本題は、もう少し違うところにあった。及川が知らねばならない事実は、勝手に伝えてよいものではない。自力で辿り着いた先で何を思うか、自ら気づいて選び取るものを、尊重しようと決めていた。
 あの男のように。
「……岩ちゃんは、知ってて、俺を手放させたの」
 あの時、こうしていたら。意味のない問いかけが深い悔恨と共に、際限なく湧き降り注ぐ。
「俺は、何も知らなかったんだ。俺には、教えるつもり、なかったのかな。……自分のことなのに、蚊帳の外に置かれるなんて、思ってもみなかった」
 金縛りに遭ったように、身動きが取れない。過ぎた時を振り返れば、思い当たる節はそこかしこにあり、気づかない方が不思議なくらいだった。見落としたのか、見向きもしなかったのか、自分が牛島の目にはどう映っていたのかさえ、及川は認識していなかった。自身の下した決断の重さに押しつぶされそうになって、呆然と立ち尽くし浅い呼吸をかろうじて繰り返している。
 他人を傷つけてしまった時、その痛みを克明に想像して一層自分を傷つける。傍で見ていないと気づけない脆さを愛し、心を頑なにせずとも生きていけるよう、支えたいと思った『二人』の望みは、ぴたりと重なっていた。
「じゃあ、言うけどよ」
 俯瞰し全容を把握していると言わんばかりの岩泉の目は、及川よりも牛島に寄った立ち位置をして、顔色の優れない及川を案じる視線を向けている。
 幼稚とも受け取れる無知を責め咎める風ではない。むしろ逆であった。
「あいつが――牛島が何考えてるのか知ってたら、大して中身の詰まってない頭捻って、どうするつもりでいたんだ」
 自分の行動が周囲に及ぼす影響全てを計算できるほど、単純な社会を人間は生きていない。未熟さゆえに過ちを重ね何度も振り返り、過去を糧に先を切り拓いていく。アルファもベータもオメガも、持っているのは一人分の裁量のみ。
 壁にぶつかり、何度も間違え、苦しいと泣き言を口にしても、越えていく以外の選択肢は時と共に消えていく。過酷な試練を与えられようと折れさえしなければ、待ち望んだ瞬間はいずれ訪れると信じ進んでいく。
 泥濘の中を探して初めて、自身にとっての正しいものが手に入ると、生まれた時に刷り込まれたかのように。
「『あいつが自分の番だから』」
 及川の鼓膜を、不思議な木霊が震わせる。
「『あいつは自分を選んだから』」
 岩泉の声に重なって、声がもうひとつ。
「『離れたら不幸せにしてしまう』」
 この一年間、一番よく耳にしていた、大して感情の乗らない声が。
「『自分が何かして、誰かが幸せになれるなら、いっそのこと』」
 主はこの場にはいないのに、はっきりと聞こえてくる。
「我慢すればいいと思い込んで過ごした結果がどうなったか、もうわかってるな」
 捉えきれていなかった牛島の実像が、岩泉を通してゆっくりと、及川の中に浸透していく。
 傷つけるつもりは、最初からどこにもなかった。自分の手で幸せにしてやりたいと思った。良かれと思いやっていたことの大半が、不器用な気質もあり裏目に出てしまっての、食い違いが根幹にあった。
 傷心の及川を癒す術を持たない牛島が、及川の心痛を前に何も感じず過ごせるわけがなかった。
 互いの運命を決定付ける、番同士であったのだから。
「……岩ちゃん……俺……おれ、っ……」
 涙を湛え潤んだ及川の目が閉じ、一筋作られた滴の跡を岩泉の親指が拭う。
 岩泉にはまだ、一度もされたことのなかった仕草。
 牛島に泣きついた時には、よくしてもらっていた仕草。
 いつの間にか生まれていた、二人の間の共通点。
 苦しかった時間が過去へと変わり、懐かしむ思い出へと昇華されていく。
「あの絶望的に鈍かった牛島が、折れざるを得なかった。一生面倒を見るつもりで、傷つけさせてたまるかって目光らせて、なのに結局一番傷つけてんのが自分だった。笑わなくなってんのに無理させたまま、隣に置いとくほど、お前のことは軽く考えてねえんだよ」
 俺だってそうだ。
 最後に囁かれた含みのある一言には、牛島と及川、そして岩泉の一年――いや、半生が詰まっていた。
 傍らに身を置き時を共にするばかりが、愛情の示し方ではない。健やかに過ごす日々を慶び、病が身を蝕む時はその身を労り、二人でゆっくりと築き上げる日常の中にこそ幸せが散りばめられている。
 牛島も岩泉も、及川の存在を機に生活が変化してからずっと、己の本当に望む生き方は、環境は、有り様は何か、自問し続けていた。
 結果導かれたのが、番の相手にと願った存在の幸せ。
 同じ答えを手にした二人を分かつのは、及川の心の在処ただひとつ。
「『俺』は、番の相手を無条件に探し当てられるわけじゃねえよ。ベータの世界から俺を『こっち側』に引きずり込んだのが及川だろうと、心境だの体調だのが伝わってくる距離に限界もあれば、精度だって甘くなる。神経尖らせたって全然わかんねえ日だってあった」
 岩泉が敢えて使った反語表現は、暗喩する意図を違えずに及川へと伝えていた。無限にとまではいかないが、番の相手を感じ取る能力は、岩泉と牛島とでは程度が異なる。制約を特に持たない牛島は、岩泉が『感じ取れない』距離であろうとお構いなしに様子を詳らかに知ることが可能であり、意識せずとも及川の現況は逐一舞い込んでくる。
 口にしない所謂本音も、範疇にあった。岩泉のもとへ帰りたいと喚く及川が、同じ言葉を繰り返しながらどんな思いを込めていたかの変遷も、全て把握している。
 少しずつ塞ぎ込んでいき、悪い意味で自分を受け入れようとし始めていたことも。寸でのところで間に合っただけで、あと少しでも遅れていたら、まやかしの自我が服薬を放棄させ帰るに帰れない身に変わっていたことも。番のアルファとそれ以外、両極端な代名詞でしか構成されない、歪みきった暗い世界へ呑まれつつあったことも。知りたくない事柄さえ、押し寄せる情報により知らされてしまう。
 そんな状況に置かれた牛島が、及川自身よりも及川の事情に精通していたのもまた、理に適っていた。誰よりも多くの事項へ、自分自身の言葉で形容を並べ立てられる自信があった。部外者が何を思おうと、気にもならなければ関心もなかった。自分たちが他者の目にどう映るのか、及川が気にかけ苦虫を噛み潰していたのは知っている。ただ牛島個人としては、周囲の視線が及川を傷つけ精神的に追い詰めさえしなければ、野放しでもよいと思っていた。二人の意識には、それだけ距離があった。
 だが、手に取るように心情を掴めていても、気持ちを満たしてやれるとは限らない。
 他の誰も自分の代わりになりはしない、揺るがぬ事実は矜持を得る上で一役買ったが、事は思惑通りには運ばなかった。同じ言葉が意味を変え自分自身に跳ね返ってからは、及川とどのような関係を築き上げていくか、見つめ直さざるを得なかった。
 岩泉は自分と同等の役割を果たせない。同様に、岩泉の役割もまた、岩泉自身にしか果たせるものではない。大切な存在――及川の、『一番』になろうとしても、絶対に手に入らない要素があると突きつけられ、焦がれた人の前で昏い嫉妬に何度も染まった。
 それでも、牛島は知ってしまったのだ。
 自分は、及川にとっての『岩泉一』にはなれない。その他大勢としての立ち位置にしか、身を置くことを許されていない。
 痛痒があった。
 煩悶を内に秘め、眠りの浅い夜を明かした。
 夜の数を重ね、及川の望みを叶える方法を模索した。及川の幸せとは何なのかを追求し、辿り着いた転換点で、振り向いた。
 己の恋慕が及川を苦しめるのならば、それを封じてでも尚、望むものを与えてやるべきではないか。
 真摯な愛の、萌芽だった。
「――手に入りかけた番を手放すのに、どんな葛藤があったかは知らねえ。同じ立場に立たされて、俺もあいつと同じことしてやれるかって聞かれても、きっと俺は違う答えを出す。しぶとく及川の隣に居続ける」
 前科あっからよ、と岩泉はきまりが悪そうに頭を掻いたが、当時と同じにはならないと二人とも十分に理解していた。違う結果が待っていると見込んだからこそ、岩泉は及川を攫い返しに足を運んでいたのだから。
 結果的に、牛島は岩泉には及ばなかった。悲運は、出会いの遅さに根差していたのかもしれない。運命、持たぬものからすれば羨望を込めて見上げる輝かしいものは、牛島以外にも手にした人間がいた現実がある。自分だけの切り札だったはずが、いつの間にか状況は一変していた。手に渡ってしまえば勝ち目のない男のもとへと、及川の運命は落とされていた。
 及川の自我は、その片割れである、岩泉の存在を前提として形成されている。無理に引き剥がしたら、愛した性質は歪み、芯は損なわれた。運命の形代が身の形のみを保ち、肌を寄せ合うばかりになってしまった。自身の性に目覚めてから引き取って、いざ手元で存分に慈しもうとした時には既に、心の中に住まわせていた岩泉がそれ以上の接近を許さなかった。
 自分の番として生まれたはずなのに。こと及川に関してはあてが外れるを通り越して、整然と並べておいた番の理屈が尽く通用しなかった。心を移そうとしない及川は、寝ても覚めても岩泉の面影ばかりを探し求めて、目の前に立つ牛島自身には向き合わず言外に拒絶していたに等しかった。自分をかつての『及川徹』として保つために、想い人との逢瀬が叶う夢の世界へと入り浸った。癒しを求めて、現実を見つめずに済む時間欲しさに、眠りが訪れぬのを承知の上で目を閉じた姿を何度も牛島は目にしている。個人の区別をつけられなくなる発情期以外では、体を隅々まで手に入れたところで、及川の気持ちは岩泉以上には、牛島に寄り添いはしなかった。
 ただの、一度も。
 体の繋がりが番を作ってからも全く変わらず、及川は帰りたがり声なき叫びをあげた。透き通った瞳に奪われた時間の名残を浮かべ、折に触れては何事かを言いかけては口を閉ざしていた。本人の口からは何も聞けない。何よりも牛島の胸を深く抉ったのは、口を噤んだ及川が珍しく自分に縋りついても、岩泉の身代わりにしかするつもりのなかったことだった。
 好いているのは、自分だけ。
 当初、虚しいとは感じなかった。片恋がもう何年か長引いても構わないと思っていた。肌を重ねれば及川の心もいずれ解けて、岩泉を見なくなる日が来る。持久戦にもつれ込めば、勝ちは決まったようなものだった。いずれ本能に侵食され、番のアルファ以外には見向きしなくなっていく、過程を大いに楽しんでしまえばよいのだから。
「勘、だけどよ。あいつはお前の一番の願いを、その時その時で最大限に叶えようとしてたんじゃねえか」
 番狂わせを招いた要因のひとつに、牛島自身の心境の変化も含まれている。発情期の只中にあった六月は、本能に振り回される生活から救い出すため。性に染まりきってはいない、初々しさを多分に残した体はひどく居心地がよく、拓く歓びを覚えて以来完全に魅了されたとしか言い様がなかった。何もかもが愛おしく、微笑まずとも一瞬でも頬を緩めた姿を目に焼き付けられれば、心は満たされた。
 その充足感を共有したいと、欲が出た。及川の心が欲しかった。二人で、幸せになりたいと思ってしまった。
 オメガの性に悩まされる生活から縁遠くなれば、及川が心底好いた相手と添い遂げられる。その時に及川が選ぶ、生涯を負うに相応しいアルファになろうとした。自分の性に対して好い感情を抱えていない及川に、悪くはない、と言わせたかった。
 自分の手では実現しないとしても、揺らがなかった。
 及川の幸せが、及川自身が選んだ相手のもとにあるのなら。手放して望むままにさせてやるべきではないか。指輪の軛から解き放ち、顧みられぬまま二度と会えなくなろうと、然したる問題ではない。自らの性を卑下も否定もせず受け入れ、そのままの形で肯定し、自分自身のすべてを好きになってもらいたかった。
 牛島が及川の存在そのものを、愛してやまなかったように。
「あいつはちゃんと考えてたんだ。考えて、考え抜いて、その上で手放した。アルファになったからって、生半可な覚悟で俺が及川連れてったら、あいつの立つ瀬が無くなる」
 愛の形は違えども、幸多き生を願う心は同じ。
 及川の両目を潤ませていた滴があふれ、頬から顎へと伝って次々と滴り落ち、足元を湿らせる。小さな嗚咽も聞こえてくる。あの及川に、自分のことを想い落涙させたのだから、牛島も報われたのではないだろうか。
 二人分の愛情に包まれていたと、ようやく気付いた及川が、背を丸め手の甲で何度も目元を拭っている。色の変わった袖口の代わりに、赤みを帯びた目元の薄い皮膚へと岩泉の親指が触れ、肌艶の良い及川の額に自身のそれを重ね合わせた。
「あいつの決断を蔑ろにはしない」
 岩泉の目は澄んでいた。
「俺にまだ資格があんなら、今度こそ手を放さずに、隣で一生面倒見てやれたらって思ってる」
 額越しに体温を混ぜ合っていると、十年以上も前の、古びた色をした記憶が二人の中に蘇った。
 自分の心境を伝えるに相応しい言葉を見つけられずに、かつての及川はすぐ顔をぐしゃぐしゃにして泣いて、大人の手を焼いていた。そんな及川を子どもなりに慰めようとしたのが発端で、お互いの温もりを何度も確かめ合い、一度は止めた足をもう一度前へと運ぶ原動力になっていたと気づいたのは、いつのことだっただろう。
 泣きべそをかいているなら泣き止ませ、迷っているなら背中をそっと押す、立ち直るための魔法の仕草。ばらばらに砕けかけていた心を繋ぎ合わせて、もとの形を取り戻すための治療法。
 自身の弱さ脆さをさらけ出し、向き合う不安を分かち合える場所に帰ってきた実感が、ようやく湧いてきたらしい。泣き腫らした目にはもう、引け目や躊躇いはなかった。
「俺の番に、なってくれるか。他でもない、及川、俺はお前に、」
 真っ直ぐに注がれた視線を、真正面から受け止めて。細めた及川の目から、もう一筋だけ伝うものがある。
 出会ってから初めて経験した、互いが互いを知らない時間は終わりを迎えた。語りつくせない変化の先にあったものは、一度破綻した運命を乗り越えてやっと見えてくる、奇跡という表現の相応しい結末。
 及川の側から寄せられた唇は、しっとりと重なりあい、離れる。岩泉の問いかけに対しての肯定の意を示す形に変わり、囁く吐息ごと吸い込まれ、もう一度離れた口角が見る間に上がっていく。
 忘れかけていた、心からの微笑みだった。


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