十六章 岩泉編

 都合が良すぎる。こんな場所で、岩ちゃんの声が聞こえてくるなんて。そんなはずないし、あり得ないと思った。なのに、俺の手は両方とも塞がっている。右手はいつもと同じように、牛島と繋いでいるのに。どうして?
 ……どうして牛島は、苦虫を噛み潰したような顔をしているんだろうか。もう誰も、俺を迎えに来るはずはないのに。俺を囲い込んだのはお前なんだから、横から誰が現れようと、今更俺を引き渡す意味なんかないだろう?
 目の前にいる人は、記憶の中の誰かによく似ている。それが記憶の中のその人でも、回答は変わらない。俺は手に負えないって答えが出たから、手放されたんだ。俺はその人を散々に苦しめたから、報いを受けているだけ。きっと、久しぶりに顔を合わせたんだろうな、この人とは。懐かしい、って感情が前面に表れている。けれど、わざわざ俺の様子を見に来るだけの理由が、思い当たらない。
 この人が誰なのか。どんな目的で俺に会いに来たのか。わからないことを挙げたら、きりがない。自分がこの人のことをどう思っているのかも、以前はどう思っていたのかも。どんな言葉が、この人には適しているんだろう。どんな表現を使ったら、離れていた間のことが伝わるんだろう。言葉がうまく出てこない。体の中を流れていたあったかな血が、音を立てて下りていく、とても冷たい音が聞こえる。
 記憶の中のあの人と、目の前に立つ人がうまく結びつかないのはなぜ?
 言葉を交わすのが、怖い。人と会話するのがこんなに怖いなんて、今まで一度だって思わなかった。
「少しこいつ貸せ」
 頭の中のぐちゃぐちゃを片付けようとしたら、いつの間にか右手が自由になっていた。牛島が手を離したんだ。俺は貸されるんだろうか。それと同時に、肩に痛みを覚えるくらいに強く、左手が引かれる。上体がふらついた。ここではないどこかへ、連れていく気なんだろうか。
 どこに行ったところで、何一つ変わらないのに。何を考えているのだろうか。離れていた間に、俺はこの人についての情報を粗方失ってしまっているらしかった。仕方のない変化なんだろうな。俺は、牛島の番としての最適化が進んでいる。不必要と判断された情報は随時失われていく。それを、この人は知っているのかな。それとも知らないのかな。どちらにせよ、俺がどうしたいのかは抜きにして、強引に事を進めようとする姿勢は、好きじゃない。
「……悪目立ちすんだろ。話があるだけだ、ろくでもない連中と一緒にされる筋合いは」
「どこでも、変わんないよ」
 話す場所を変えたって、事実が変わるわけでもないし、牛島にも話は筒抜けだ。俺たちは誰も過去へは帰れないから、昔何があったのかは俺が自力で思い出すしかない。砕けた口調から察するに、相当親しい人だったんだろうな。なのに俺がすっかり忘れてしまってるんだから、怒りもするか。
 もう一度腕を引かれて、転びそうになる。この感覚も、どこか懐かしい。早くしろ、って声がどこかから聞こえてきそう。きっと、この人の声だ。大事なことを、俺は本当に忘れてしまっていたんだな。
 思い出したくても、思い出せない。きっかけがまだまだ足りない。思い出さなければ、俺はこの人と深い話をする資格を手に出来ない。どんなに強く手を引かれても、自分の意思で後を追いかけなければ、意味はないんだ。
 だから俺は、彼の後を意地でも追いかけなかった。必死でその場に踏みとどまった。振り向いた彼が困惑しきった視線を向けてきても、動くわけにはいかない。けじめをつけるんだ。そうしなきゃいけない時期に、差し掛かっているんだ。
「俺を連れて帰って、どうするの」
 言葉が自然に口をついて出た。彼のところに俺は帰りたがっていた、ってことなのか。それとも彼は俺を一度手放していて、事情が変わったから連れ戻しに来た、ってことなのか。あるいはその両方か。色々な可能性は考えられる。名前が思い出せそうで、思い出せない。わからないんだ。彼を俺はどんな風に呼んでいたのか、それさえも。
「……あのね。発情の症状が重篤だと判明したオメガの扱いは、病人そのものだから。牛島が俺につきっきりになるって条件付きで、俺は学校にも通えているし、バレーも続けていられる」
 あれ、今俺はどうして彼にバレーのことまで説明したんだ?
 ……思い出した。彼と俺は確か、同じチームでバレーをやっていた。打倒白鳥沢、ってスローガンまで勝手に掲げて頑張ったけど結局倒せなくて、って時間がどのくらい流れていたんだったかな?
 心が少しずつ昔に返っていくような。
「アルファと離れた生活なんか論外で、早急に番を持って一切の症状を抑え込んでもらわないと、取り返しがつかなくなる。取り返しがつかなくなったオメガは、収容施設から一生出られなくなるし、飼い殺しを不幸せと感じる内面さえ本能が食い潰すんだ」
 そう聞いても彼は顔色を変えない。ってことはきっとアルファだ。それっぽい雰囲気はあまり感じないけれど、ベータならここでまず間違いなく引き下がる。
 俺はもう牛島に噛まれた後だと悟っただろうに、それでも彼は引かない。元からの気性に由来しているのかな。……そういえば、こんな感じの幼馴染が、俺にもいたんだった。
「俺はいつ、自分の全部が本能に食い潰されてもおかしくない。不測の事態に備えて、あいつ──牛島が神経を尖らせるだけの理由は、ちゃんとあるんだ」
 本能はいずれ、過去を懐かしむ気持ちさえ俺の中から消し去ってしまうのかもしれない。バレーが出来なくなる日が来るかもしれない。ただそれは、早いか遅いかの違いであり、来る来ないは選べない。せっかく俺が自分の行く末を受け入れかけたってのに、どうしてこうも未練がましくさせちゃうのかな……ねえ、岩ちゃん。
 思い出したよ。思い出せたんだ。思い出したけど、岩ちゃんのところには、俺はもう戻れないんだよ。だって……。
「もう一人じゃ俺は生きていけない。自分のことなのに、自分じゃどうにもできないことが多すぎる。発情の周期も全然落ち着かなくてばらばらで、いつどうなるかわかんない」
 事実の中に嘘を隠した。一人じゃ生きていけないけれど、アルファさえ身近にいればどうにかなる点がいくつもある。けど、どういうからくりなのかアルファになってる岩ちゃんに、今更頼れない。俺は少々特別が過ぎるオメガだから。
 発情期の期間、牛島はカレンダーに印をつけていた。一般的に言われる周期──数か月に一度なんてのは、真っ赤な嘘だろう、って俺には感じられてならない。それくらいの短い周期で、赤いペンの跡が刻まれている。間が開いていても一か月半。だから俺は夏の盛りの八月、誰の邪魔も入らない空間で、人知れず噛まれて牛島と番になった。九月だと思っていたものが、まさか一月以上も前倒しでやってくるなんて思わなかったんだ、本当に。
 平均的なオメガであったなら、最初の発情期を終えた六月の末から二か月はおいた九月以降に、次の発情期が来るはずだった。俺は自分も例から漏れないと思っていたから、公式戦で遠征するとしても置いていかれても問題ないし影響もないと思っていた。楽観視していたんだ。けれど牛島は真逆の意見を持っていた。話したこともないアルファを番にせずに済んだから、結果的には離れずにいて正解だったけれど、腑に落ちない点はやっぱりあった。
 不慣れな土地で体調を崩さなければ、そもそもあんなに早く発情期なんか来なかったんじゃないか?
 医務室で休んでいた時に、番を探しているアルファが偶然通りかかりでもしたら、離れないよう連れて来たのが裏目に出ていたんじゃないのか?
 本格的な猜疑の目を向け詰らなかったのは、衝動に魘される俺を一人にしないために、牛島は次の試合に出なかったと後で知ったから。大黒柱を欠いた家屋は長くは機能せず、瓦解したまま持ち直さずにそのまま白鳥沢の夏も終わりを迎えていた。なのに、敗戦の責はひとかけらも俺には回ってこなかった。チームの柱を引き抜いたのは間違いなく俺だったのに。どうして誰も俺には触れないんだ。自分たちの中で完結させてしまうんだ。俺個人を責める資格くらい、持ってるじゃないか。
 誰も俺を責めなかった。俺の憤りは行き場を失い、心身の異常として自分に跳ね返ってきた。最初から俺に関しては何もかもが赦されていたせいで、却って苦しかった。誰も彼もが俺を、牛島の特別として扱うから。
 一人の人間としては、扱ってもらえなかったから。
「…………迎えに、来たの? 顔を合わせたからって適当なことを言うなら、いくら岩ちゃんでも、俺は本気で怒るよ」
 岩ちゃんは今の俺のことをよくは知らないはずだ。岩ちゃんと一緒にいた頃は、まだ体の変化が終わっていなかった。その頃とは、取り巻く事情が全然違う。気持ちの問題だけで語れる時期はとっくに過ぎている。オメガはアルファと離れては生きていけない、言葉にするのは簡単で、軽い響きだ。なのに、示す意味は番の数だけある。俺は大いに遅れて、自分の身で理解したんだ。
 いつまでも牛島を嫌い続けても、誰も幸せにはならない。俺の中の潜在意識、本能ってやつがそう教えてくれた。俺にとっての嘘でもなくなった。わが身可愛さで殺された恋に縋りついても、まだ生きている恋さえ死なせてしまうんだ。そんなの、あまりにも報われない。俺の気持ちが成就しない以上は、誰かにその分幸せになってもらいたいんだ。これ以上人を不幸に叩き落したくないんだ。
「ねえ、岩ちゃん。岩ちゃんがいなくなってから、俺の『隣』には一度空席が出来た。その席を埋めた牛島と過ごすようになった意味を、岩ちゃんは全部わかってくれるの?」
 俺は今まで、岩ちゃんをここまで冷たくあしらったことがあっただろうか。随分と低く沈んだ声が、喉の奥から這い出てきた。
「わかってくれるわけないよね。岩ちゃんは俺じゃない。自分を番にしたがってる奴に、あからさまに欲情されたことだってあるわけない。俺がどんな思いで牛島のおもちゃになったのか、ならざるを得なかったのか、部外者の岩ちゃんは推量する必要もなかったわけだし」
 責めるつもりなんかないのに、詰る言葉ばかり浮かんでしまう。止められない。悲しい心地になる記憶が次々蘇り、忘れてしまおうと思っていた出来事までもが、口の端から溢れて晒されていく。
「発情期に限った話じゃないよ」
 岩ちゃんを、傷つけたくないのに。
「毎日必ず、俺は牛島の性欲の捌け口にされてた」
 一言一句が、岩ちゃんを斬りつけにいく。
「そもそもは誰のためだったのか、途中から目的なんか無くなってた」
 環境に流されまいと張ったはずの虚勢は片っ端から本能に食われて、俺は無防備な姿をちらつかせるただの餌になっただけ。体を重ねる頻度は上がる一方で、何もかもを相手に委ねてもう楽になってしまおうかと、弱気なことを何度考えたか。
「オメガの体ってね、すっごく現金なんだよ」
 今だって、アルファの──牛島の気配が全身をやわらかく包んでる。
「普段からアルファの精液を体に馴染ませておくと、少しずつでも発情期が穏やかになっていくんだ」
 だめだ、こんなこと岩ちゃんに言っちゃだめだ。あてつけじゃないか。
「でもね」
 岩ちゃんは、今でも俺のことをちゃんと気にかけてくれてるのに。
「性欲に敵わないのは、俺もあいつも同じ。体が慣れてくると、どうしても人肌恋しくなって」
 発情期でもないのに何回ねだったか。もう数えきれていないことまで、口にしそうになった。
「俺の体はきっと、岩ちゃんを忘れてる」
 俺はもう全身が牛島用にカスタマイズされた後なんだろうな。岩ちゃんがどんな風に抱いてくれていたのか、どうやって一緒に夜を過ごしていたのか、この頃は考えなくなってた。
「思い出せなくなってきて、意識しないように避けてたのかな」
 幼いままでいられた過去と今とは、軸がずれてもうほとんど繋がっていない。揺りかごに揺られていた日の延長線上に、岩ちゃんと重ねたすべての記憶が敷き詰められているのなら。
 最初の発情期を迎えたあの日に俺は、記憶を含めた自身の一切を置き去りにしてきたんだ。
 牛島の番として生まれてきた自分と向き合うために、支払う代償が少ないわけはない。持っているもの全部を差し出してもぎりぎりで足りるかどうかさえ怪しかったから。
「誰と生きていきたいのか。俺はもう、昔みたいに即答できない。一回番のアルファの体を覚えたら、離れられなくなるんだよ。帰れるか帰れないかの二択で、もう話は片付かない。岩ちゃんと一緒にいた時とは、事情が違いすぎるから」
 素直に岩ちゃんにわがままを言えたなら良かったのに。こんなに症状が重くなければ帰れたかもしれない、なんて今の俺は言えるわけないんだよ。
 帰りたいって言えない体のままで、無理に帰ろうとしてまた岩ちゃんを困らせて、挙句の果てにそのまま発情期を迎えでもしたら。岩ちゃんがアルファだからって、他に番のいるオメガの発情を制御できるのかどうかは未知数だ。発情で死にかけたオメガの話を聞かされて背筋が凍らずにいられるほど、俺は自分を捨て鉢には扱えない。
 もしも今の俺が帰りたいって言ったら、何だかんだあっても優しい岩ちゃんは、絶対にここから連れ出してくれる。でもそれじゃ意味がない。
 後が続かない生活を岩ちゃんに強いても、後悔が残るだけだったらどうする?
 帰りたいって言おうとする自分。牛島の番らしくなろうって諭す自分。俺の中には両方が存在している。正面からぶつかり合って、必死に最善を探してる。好きになった人と一生を一緒に過ごす夢物語を、信じたがる自分を押し殺すためには、周囲が求め望む像であれとこだわらなければ、自分の中の均衡が破綻しそうだった。
 幸せな顔の仮面をつけて、誰もが羨む理想の伴侶を生涯独占する舞台に立ち続けるならば。相応の対価が必要になる。今はまだうまくいっていないからって、逃げ出すわけにはいかない。
最後には岩ちゃんが俺を救ってくれるって信じてた、身勝手甚だしい自分じゃなくなったと思ってたのに、思いを馳せたらまだこんなにも未練がましく執着してるなんて、ね。
 俺がよそ見をやめて牛島一人を選んだら、運命のお導きとやらが必ず幸せにしてくれる。少なくとも、牛島一人は。時間はかかるかもしれないけれど、信じていれば、いずれ実現する。未来が約束されているのが、運命の番だから。
 血が繋がっていなくても俺を慈しんでくれる人からの、期待の眼差しも、望まれている未来も。俺と岩ちゃんの関係が続いていたって変わらないし、俺の意向は特段優先されるわけじゃない。自分の運命を受け入れたように見えてる俺が、近々新しい家族になるって信じきってる目は、澄んでいるだけにそら恐ろしかった。
 だから岩ちゃんに何を言われようと、俺のあるべき姿は変わるはずないと思っていたんだ。
「……俺にはもう、『運命のお迎え』が来てるから。今の場所から逃げ出しても行く場所もないから、ちゃんと自分と向き合うって決めたんだ。成り行きに任せたら絶対に後悔するから、自分で選んで決着つけるって。岩ちゃんがわざわざ巻き込まれてやる義理のない話だよ」
 俺は嫌な奴だ。岩ちゃんの隣にいられなくなった時、悲しいとか、寂しいとか、そういうのを感じるのと同時に、安堵したから。もう余計な心配をかけなくて済むって。
 でも岩ちゃんは俺の事見捨てないから、どこからかとっておきのやり方を見つけてきて、俺を助けてくれる。自分に都合のいい過去の経験を、現在にも強引に当てはめようとしている。岩ちゃんを試すようなことを言っても、岩ちゃんは最後には一緒にいようって俺を甘やかしてくれる。全部計算して、弱い自分を演じようとしている自分自身が大嫌いなのに。オメガの本能は、岩ちゃんさえ利用しつくそうとしているのかな。
「自分で決着つけんのは構わねえけどよ。どうするのか決めんのは、俺の話聞いてからにしろ」
 岩ちゃんは、諦めてなかった。昔とは違う雰囲気をまとって、まだ終わりじゃないって言ってくれている。
 あの日一番打ちのめされたのは、他でもない岩ちゃんだったはずなのに。どうして、そんな風に強くあることができるんだろう。どんな根拠があるのかな。勝算、あるのかな。とても大事なことを、まだ俺は見落としているのかな。一刻も早く気づかなきゃいけない、何かを。
 焦りが膨らんで泣きたくなって、でも岩ちゃんの言葉で直接答えを聞かせてほしくて、どうしていいかわからなくなる。もっとたくさん声を聞かせて、俺が閉じこめられてる檻を壊して連れ出してって、軽々しくって厚かましいお願いが、喉元までせり上がってきている。
「いつか迎えに来る運命は、誰なのか。最初から決まっていたと、お前もあいつも思ってたんだろうな。その通りだったなら、俺だって慌ててここまで来たりしねえよ」
 最後の悪あがき、どこ置いてきてんだ。
 にっと笑った岩ちゃんは、本当に久しぶりに目にした気がする。ただただ懐かしかった。とっておきを隠してる時の、岩ちゃんの癖。勝算があるってだけじゃない、自分の勝ちを確信してる時の顔。
 このタイミングで見られるなんて。夢よりもずっと、都合がいい。出来すぎている。
 目に見えるかたちで、答えが表れていないか、探しても見つけられなくてあたふたしていたら時間切れになった。
 俺の体は、岩ちゃんの腕が作った檻の中に、さも当然とばかりに収まっていたんだ。
「そろそろ、鈍いっつっても、気づくよな」
 事態に理解が追いつく前に、二つの理由で体から力が抜けていった。腕の感覚は一年前と同じようで違う。岩ちゃんは背が伸びていた。正確には、俺との身長差が大きく狭まった、かな。包み込まれる感触は、とても落ち着けるもの。本当は牛島しか持ちえないもの。……どうして、岩ちゃんが持ってるのか、まだよくわからない。
 けど、俺の居場所は元々ここだったなって、あらためて実感した。
 不思議なことといえば、岩ちゃんからはベータの匂いがまるでしないこと。どうやら本当にアルファになっているらしい。ここ一年で嫌というほど教え込まれた、俺の理性を蕩けさせる対の匂い。懐かしさで涙さえ浮かぶ、思い出の象徴と言っても遜色ない人から、抗えない情欲を呼び覚ます匂いが漂ってくる。
 ……牛島以外にはもう反応しないはずなのに、頭がくらくらする。我慢が、抑えが、利かなくなりそうだ。
「ねえ、岩ちゃん。……どうして」
 現実味がなかなか湧いてこない。感じた温もりが夢より都合が良くて信じきれなくて、瞬きばかりを繰り返していた。けど、困惑してる俺を見て、悪戯めいた笑みなんかを浮かべるこの人は、やっぱり岩ちゃん以外の誰でもないわけで。
 一年前の俺なら、自分の中に浮かんだ突拍子もない急ごしらえの仮設を、無邪気に信じて笑えたんだろうな。転化した岩ちゃんの番が偶然にも俺だった、って。でもそんな確率は天文学的なもので、現実に起こり得るかって言われると途端に自信をなくす程度でしかない。
 岩ちゃんがベータなら絶対こんな匂いはしないよ、って口にして抱きついて、何の未練もなく元の生活に戻ってそれきり。牛島のことは犬に噛まれたとでも思って忘れようとしたに違いない。再び環境が急変するのを、恐れたりもせずに。かつての向こう見ずな俺なら、そう考えただろう。
「結局俺も、あいつのやり方を非難する権利なんかなかった。綺麗事並べんのはやっぱり性に合わねえし、この際だから聞くけどよ」
 俺が即答せず躊躇した理由全部に、岩ちゃんはきっと気付いてる。気付いていても無視してる。どうして気付いたのかはこの際問題じゃない、全部承知の上で岩ちゃんがこの場にいる事実が全てなんだ。風格さえ感じる、確固たる自信を備えた出で立ちの芯には、俺を捕らえて放さない真っ直ぐな目があった。
「牛島に限った話じゃねえ。アルファの番になるのは、今でも嫌か」
 アルファ、って物言いが、岩ちゃんも色々と考えてくれていたと端的に示していた。オメガは奪い合い勝ち取る景品じゃないから、俺の気持ちを蔑ろにはしない意図を感じたのは、好いた欲目かな。岩ちゃんも含めた誰かのものになるってこと自体を、俺が望んでいるかどうかを尋ねてくれている。
「俺は一度自分の意思で、お前を手放してる。他の男の手に渡ったお前がどんな目に遭うか大して考えずに、軽々しくアルファに引き合わせたろくでもない奴なんだ、俺は」
 そんなことないのに。
 ひとりのベータとして。幼馴染として。色々な名乗りを、岩ちゃんは持っていた。
 それでも、離れ離れになる寸前、岩ちゃんが持っていた名乗りは『恋人』だよ?
 その特別な文字の並びを使っていいって、俺が認めたただ一人の人なんだ。俺が岩ちゃんを選んだのに。岩ちゃんは俺に選ばれていた、って誇っていいんだよ。
「苦しがるお前を、少しでも楽にしてやれたら。あの時の俺はそれしか考えてなかった。良かれと思って牛島を呼んで、お前を連れて行かせた。俺のしたことでお前がどんな思いをするのか、考えたつもりで実際は何一つわかっちゃいなかった。お前を本当に苦しめていた原因は、俺の浅はかさだった」
 悔やんでも悔やみきれない。罪悪感をありありと浮かべた岩ちゃんは、今の今まで自分をどれだけ責めていたんだろう。負い目があるからか、とても苦しそうに、自分を傷つけるようなことを口にして。そうさせた元凶は、昔の身勝手でわがままばかりだった俺。岩ちゃんが悪いわけじゃないのに、岩ちゃんの優しさを利用していた、甘ったれ。どう考えたって、誰に何を言われてもずっと番を作らずにいた俺のせいなのに。
「俺もあいつも突き詰めれば、根っこは同じだった。大勢の中から選んだのが、及川だった。他の誰にも関心を持てずに、欲しいとは思えなかった。本気で手に入れたいと思ったから、自分の手元に置かずにはいられなかった。誰にもお前を任せたくなくて、片時も離れずにいられるよう、何としても連れて行こうとしたあいつの心境は、今ならよくわかる」
 一瞬でも他の奴に介入されたくない。干渉されたくない。よく態度で示していたし、縄張り意識が強いなとは思っていたけど、それは岩ちゃんも同じだったのか。アルファの本能に根付いた形質だったのかな。俺に甘い分、他へのあたりが強かったのは、それ相応の理由があったんだね。
 不確かなことはまだまだたくさんある。
 けど、確かなことも増えてきた。
 俺は自惚れてもいいのかな?
 岩ちゃんは仕方なしに一緒にいたわけじゃない、って。心の底から俺と同じ気持ちでいてくれた、って。
 俺は、岩ちゃんを選ぶ権利を、もらえたのかな。
「自分のために相手がいて、相手のために自分がいる。惹き合いもう繋がってる番の片割れを横から攫うなんて馬鹿げてるって一蹴されて、はいそうですかって引き下がれるなら、こんなとこ来ねえよ」
 掴まれている肩が熱い。ひたすらに熱い。そこに小さな火が灯されたように。生まれた熱が、凝固した時間を再び世界に返して、一年前のあの日、六月九日と今日との間に橋を架けていく。
「お前が俺じゃない誰かしか見なくなるかも、って思ったらよ。居ても立ってもいられなかった。けどそれは俺だけの都合だ。俺がお前を無理矢理連れて帰っても、また同じことの繰り返しになんだろ。決断に、及川本人の意思がまるで含まれない」
 確かに、牛島の時はそうだった。だからきっと岩ちゃんは、同じ轍を踏まないように予防線を張っている。話に流されて大事な決断をしないように。俺が自分の意思で、牛島を選ぶ可能性を見越してるんだ。確率なんか考えずに、俺に選択肢をくれているんだ。
……馬鹿だな、岩ちゃんは。
 本当に俺が選んでいいなら、誰を選ぶかなんて、最初から決まってるのにね。
「本当はお前の好きなようにさせてやるのが一番なんだろうが、実際に会ったら嫌でも思い知らされた、俺は、お前を攫ってでも」
「あのね、岩ちゃん」
 記憶の蓋がずれて、閉じ込められていた記憶たちがふわふわと浮かび上がっていく。俺の本能は記憶を消したわけじゃなかったみたいだ。傷つかないように記憶に封をして、思い出に昇華した頃に取り出せるように残しておいたんだ。
 浮かび上がった記憶たちは、長い列を作り始める。一本の線の上に整然と並んでいく。
 六月十日、岩ちゃんの誕生日。俺は岩ちゃんのことを思い出してさえあげられなかった。罪悪感のかけらさえ、俺には訪れなかった。俺の中の生存本能──オメガの本能が、余計な情報であると判断した思考を全部、意識から振り落としたんだろうって。発情期が終わってしばらくしてから牛島に聞かされた。
「俺はもう……岩ちゃんしか知らなかった頃の俺じゃないよ」
 七月二十日、岩ちゃんのいない中で迎えた俺の誕生日。夜のお務めこそなかったものの、その分だけ甘さを増しに増した昼夜になり、丸一日を腕の中で過ごす破目になった。
「変わりすぎ、ってくらいに、俺は変わってしまってる」
 八月の夏休み期間、自力では勝ち取れなかった全国行きの切符を握らされての遠征の最中。番にされた瞬間、痛みは確かに覚えたけれど、それより先に思ったことがある。俺はこの人に選ばれるために生まれてきたんだ、って。絶対、岩ちゃんには言えない秘密。けど、いつか打ち明けなきゃいけない俺の罪。
「知らない方が良かったことも、たくさん覚えた」
 得意だった愛想笑いは、振り撒いても何の得にもならなくなったから、牛島を懐柔する手段にした。
 そう、最初は手段の一つでしかなかった。なのに、微笑みかけた分だけ、心も体も少しずつ靡いてくのが止まらなかった。
 岩ちゃんが来るのがもっと遅かったら、越えるまいと誓ったはずの最後の一線を、踏み越えていたかもしれない。
 岩ちゃんがどう思うかはお構いなしに、単純に自分だけの都合で。
「なのに岩ちゃんは、俺でいいの」
 気持ちが、未来が、重なっているとしたら。俺にとってのこの上ない幸せが手に入る。俺の運命が元々どんな形をしているのかわからなくても、岩ちゃんは絶対に俺を不幸せにはしないから。
 でも、岩ちゃんの方は?
 俺は岩ちゃんに、一番の幸せをあげられるんだろうか?
 今の俺が、岩ちゃんに最もふさわしいかどうかの、自信がない。良くも悪くも大人になった俺は、多くのものに目を向けるようになった分、臆病にもなったんだろう。ひとつの選択肢を選ぶってことは、他にあった大量の岐路全部を捨てていくってことだから。
 重ねた時間の分だけ重さを増した決断は、下すのが正直恐ろしい。一度知ってしまえば、進もうとした足だって凍り付く。迎えに来た手を即座に取る思い切りの良さは俺にはもうない。消えゆく記憶の道標の片鱗をかき集めても、俺の手からは全部零れてしまっていたから。
「俺の事考えてくれるのは、とても嬉しいよ。でも俺はね、引き返せない渦の中に、二度と岩ちゃんを引きずり込みたくないんだ。俺に関わったせいで、岩ちゃんの人生が壊れでもしたら。手に入るはずの幸せを奪ってしまったら、自分で自分を絶対に許せなくなる」
 俺の都合で、また振り回すくらいなら。何年かかっても俺は、岩ちゃんとのこと一切を清算して、なかったことにしてみせる。岩ちゃんは、俺に無理に踏み込まなくていい立場なんだ。まだ引き返していい立場なんだ。俺が独占していた岩ちゃん自身の選択肢はもう返すよ。だから、本音だけが知りたい。岩ちゃんの本心が知りたい。俺がどう思ってるかは抜きにして、岩ちゃんが自分自身どうしたいのかを、聞かせてほしい。
「んなこたぁ、どうでもいいんだよ」
 額を軽く小突かれた。あまぁい囁き声を、そのまま吸い込める距離に顔が近づく。頬がほわほわと温かくなって、嬉しくてたまらないのに、泣きたくなってくる。
「俺は最初から、及川以外選ぶ気なんかなかった」
 岩ちゃんは、やっぱり岩ちゃんだった。
 何十回も繰り返して確かめたから今更疑っても無駄だからな、なんて言って。説明してもらっても何時間かかるかわかんないから後でゆっくり聞かせてね、ってからかってみたら、首筋を噛む真似事までしてみせるんだから、岩ちゃんも意外と大胆だしやっぱり目が離せそうにない。
 ようやくたどり着いた二人の結論。俺は岩ちゃんを選び、岩ちゃんも俺を選ぶ。そしてこれからは二人一緒にいる。
 遅咲きの決意は、穴だらけになっていた俺の胸の内を潤し、鼓動を速めつつ傷を癒し塞いでいった。
「……で、その指輪は、あいつからのか」
 首を縦に振る。将来の約束を俺に贈ってくれた人は、岩ちゃんの他にもう一人いるから。
「そうだよな。あいつには、最初から──及川しかいなかった」
 不思議だな。岩ちゃんの声が、あいつの──牛島の声に、重なる。
『他の誰も、欲しくはなかった』
『ようやく一緒に過ごせるようになって、俺がどれだけ嬉しかったか、お前はきっと気付かない』
『報いてくれとは言わないが──ただ』
『ただ、お前の生涯を、俺に引き受けさせてくれたなら』
『俺にとってのこの上ない、誉となる』
……なんで。なんで、今まで思い出さなかったんだろう。俺の一番にはしてやらないって、何十回と否定したのに。あいつは諦めなかった。醜い執着しか向けられなかったなら、この一年余りを俺は簡単に捨てたに違いないのに。
 性に抗えなくなった俺が腐らずに過ごせたのは、誰の助力があってのものか、どうして深く考えずにいたんだろう。
 俺を守ってくれていたのは、岩ちゃんだけじゃなかったのに……!
「……でも、俺には、岩ちゃんがいてくれた」
 俺たちは何かと一方通行で、うまく噛み合うことの方がずっと少ないのかもしれない。牛島には俺しかいない。俺には牛島しかいないわけじゃない。岩ちゃんがいたから。
 岩ちゃんが俺の隣にいてくれたから、青城で一緒にたくさんの時間を過ごせた。岩ちゃんがいなかったら、自分の居場所を求めて、誘われるままに白鳥沢に通っていたかもしれない。
 岩ちゃんがいないときっと、俺は俺のままでいられないんだ。自分の体の事で悩んだからって、周りに当たり散らして、笑えなくなっていって。自分の変化にも気付かない、人を傷つけるばかりの、誰も幸せにできないつまらない存在になってしまっていたことだろう。
 たくさんのものを俺は失ったと思っていた。けどそんなことはなかった。俺が落としたものは一つ一つ岩ちゃんが拾い集めていた。拾い集めた全部を、わざわざ俺に返しに来てくれた。
 だから俺は、自分の答えを見つけられた。
 久しぶりに正面から見た岩ちゃんの目が、俺を迷いから解き放ってくれた。


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