十五章 岩泉編

 正式な診断結果を受け、晴れてアルファの一員となった岩泉は、同時に手渡された一冊の書籍に目を通していた。書かれていた情報が一体何を示しているのか、連日噛みしめてもいた。番のいるオメガといないオメガの違いを体感した以上、避けては通れない道だった。知っていてもそれ以上の関心を持たなかった及川以外のオメガに自然と意識が向き、ベータであった頃とは比較にならないレベルで発情に引き寄せられる。足が勝手に動き、ひどい時には数キロメートルも離れたオメガを追いかけていたのだから、その差は歴然としていた。薬で症状を抑えているはずのオメガであっても、吸い寄せられるようにふらふら出向いてしまう点はほとんど変わらなかった。
 アルファとなってから改めて及川と他のオメガを比較してみると、及川の発情はかなりの重症に該当する現実も知った。
体が変化した今、あの発情に巻き込まれでもしたら。間違いなく理性と記憶を、喜んで放り投げただろう。
 そんなものは必要ない、と。
 牛島のように理性をかき集めて、発情期の最中にわざわざ服薬を管理するだろうか。答えは恐らく否定形になるだろう。薬など絶対に飲ませてやらない。項に噛みついて証を残し、同時に腹の中にも所有の印を拵えるだろう。二度と他のアルファに見向きしないよう徹底的に飼い慣らして、選択権を失う不幸せなど感じる暇もない位に愛したかった。
 夏が終わりかけた頃、段ボール箱いっぱいに詰め込まれた性の関連書籍が役所から届いた。既に身に着けた知識も書かれていたが、読んでようやく腑に落ちる点がいくつもあった。読みながら及川と牛島の行動を振り返ってみると、及ばなかった理解も及ぶようになっていった。
 オメガの性成熟が他の性よりも早熟化しつつあること。近年の研究では遅くとも十五歳前後に最初の発情期を迎えるというデータが存在すること。オメガの中で、及川の成熟は特に人より遅かったこと。薬の効果を最大限に使えば、リスクは伴うが長ければ数年、発情期の到来を遅らせることが可能だということ。ただし患者からの強い希望がなければ、医師は発情期を操作する処方箋は書かないこと。発情期は先延ばしになった分だけ症状が重症化し、社会生活に支障が出る場合も多々あるため、性成熟を誘発させ発情期を早める薬もあるということ。症状の重い患者の場合、十五歳を迎える前に誘発薬を投与して妊娠・出産させたケースもあったこと。
 アルファ、ベータ、オメガの三つの性成熟の違いについて、詳らかな記述のある本。性差が引き起こす決定的な差異に言及している本。どうしてもっと早くに寄越さなかったのかと憤慨するほどに、巷の情報との乖離が激しかった。一致していることと言ったら、オメガの性成熟が進むにつれて、体内の変化が激しいため身体の成長が緩やかになっていく、位のものだった。
 成熟に伴い激変するオメガの行動は、すべて必要に迫られてのこと。彼らはどうしても番を必要とする。公私を共にする伴侶を求め、惹かれた相手のもとへと身を寄せる。オメガが本当の意味で惹かれていくのはアルファに限られた話で、ベータ相手に恋愛感情を持ったとしても一過性あるいは疑似恋愛であり、いずれ見向きもしなくなるのが殆どだという話もあるが、統計として信憑性の高さを担保できるだけの母数自体が不足している点が岩泉の耳に痛かった。また、ベータもオメガ相手に理性を揺らがせることはほぼなく、揺らがせるようであれば岩泉が該当する所謂『転化組』のアルファであるということ。
 様々な知識が書かれているが、岩泉が一番衝撃を受けた情報は以下のものだ。
『正真正銘のベータに万一オメガが靡いた場合、来るべき発情期に備えて体を慣らすためにベータ相手に予行演習をしているだけで、性交に身体が馴染んだ頃に発情期が訪れベータからアルファへと鞍替えする』
 自分たちも該当したのではないかという疑念。いや、転化した以上は該当しないから鞍替えした及川は不実などしでかしていない。それでも当時自分たちはベータとオメガの間柄で……考えてもきりがなくなり、岩泉は考えるのをやめた。
 一般に社会が想定するある程度典型的なオメガとして、例に漏れず及川もまた生きていくつもりでいたならば、身の安寧のためになりふり構わず番探しに奔走している。番のいない十八歳のオメガとは、そのくらいの年齢だった。成人してからも長く続いていく自分の一生に直結する選択を誤らないよう、番探し以外の余計なことに時間を割く意味などなかったはずだった。
 だが、持って生まれた自分の性の言いなりになるのを、及川は拒否した。バレーという、全身全霊を傾け追いかけるものを見つけてしまったからだ。魅せられ、一時は精神の均衡を崩しかけるほどに愛し、手の届かぬ高みを目指して必死にあがいていた。
 どんなにバレーが好きだったのか、隣でずっと見ていたから知っている。遊興としてではなく競技として、バレーを続ける道を選んだ及川。競技生活を続ける上で薬は欠かせず、服用し続けた抑制剤の効果で、確かにコートに立っていられる時間は延ばされていた。
 だが及川の努力と意地で作り上げられた体格は、周囲の祝福を受け望まれ恵まれたとは言い難い。あくまでもバレーを競技として続ける上で必要だから本人が何とか手に入れたもので、牛島にとっての公私にとって理想的な番となる流れに棹さすためではない。全ては運命の番を引き寄せるためだとしたら、あまりに及川が報われない。
 限界まで競技の表舞台に立ち、性が引き起こす様々な生活への支障を代償として甘んじ受け入れるか。自分を求めるアルファと番になって平穏に暮らすために、対価としてバレーを差し出すか。どちらへ転んでもいずれ、オメガである及川はバレーから引き離される。変えられない結果が待つと及川は当然知っていたに違いない。バレーを志してどんな道を選んでも、ことごとく行き止まりだと知った時は、自棄を起こさなかったのだろうか。周囲にとってのいつもと同じ及川徹であり続けるために、生まれてから今まででどれだけのものを捨ててきたのだろう。
 意地っ張りの及川は泣き言をまず言わなかった。及川が口にした葛藤しか、岩泉は知らない。口にしなかったことは、わからない。全部打ち明けてもらえたらわかってやれたはずだ、そう考える傲慢な思考も持ち合わせていない。新しい命を育む準備ばかりが着々と進み、受け入れがたい相手と添い遂げる道のみが残されて、自分の将来が勝手に決まってしまった今の及川の心境は、さぞ荒んでいるであろう。
 避妊薬の効き目についてはある程度知っていたが、現状、及川にとっては最悪に等しいほどに分が悪い。牛島の心ひとつで薬は絶たれてしまう。毎日の服薬でかろうじて避妊できているに過ぎず、たった一日途絶えればたちまちに、希望はささやかな意地ごとアルファの繁殖力に食い潰される。薄氷を踏む思いで過ごす日々の中で、二人を番として名実ともに断ずる決定的な存在が、及川の胎にいつ宿ったとしても不思議ではない。それどころか、牛島の側が虎視眈々と待ち望んでいるのは明白だ。岩泉が悠長に構えていては、及川の中で息づくオメガの生存戦略によって、牛島を伴侶として自発的に選択する瞬間が来てしまう。
 近くにいる番ではない、違う存在を想い続ける意志には封をされ、張り続けた虚勢を無理矢理に解き。存分に愛してもらえるようにでっち上げた、真実とはかけ離れた心を、開いたように見せかけて。番にと選ばされた牛島を、自ら選んだと自分自身に言い聞かせ、牛島を好きな自分を演じ、本音が隠れているとは悟らせないための仮面を生涯外せずに。バレーに焦がれ希求した未来を、次世代を担う命のために捧げさせられたなら。
 及川はどう生きれば、不幸せにならずに済むのだろう。今の岩泉にはわからなかった。
 時間切れになる前に手元へと取り返そうにも、猶予はほぼ無いに等しい。
 牛島と一緒に過ごしても及川は幸せになれないのなら、一体何のために及川のことを諦めたというのか。少なくとも、牛島がこれといった好手を持たない以上、及川をくれてやる理由は岩泉の側にはなくなった。
 もう、遠慮はいらない。万事を整え最小限の負担のみで及川が生活できる基盤を用意するのが、まだ二人の蚊帳の中には入れない今でも出来るすべてだ。転化組への補助制度を最大限に活用し、住まいを設けよう。周囲に迷惑をかけずに生きられる場所を、自分の足で地道に探そう。何か起きてしまっても理解のある土地柄を持つ地域があるのか、新たな住まいの候補範囲を広げてでも見つけよう。
 心の底からの及川の微笑みを、もう一度見たいから。他の誰でもなく、自分の手で。
 そして、何もかもの要となるのは、及川がいつまで牛島を拒んでいられるかだ。幸いにして、現状の及川は決して牛島を好いてはおらず、仕方なく時間を共にしているだけにすぎない。岩泉にははっきりと、及川の意志が伝わってきている。牛島もまた同じように及川の意志が伝わっているはずだが、どうしたことか及川の意は大して汲まれぬままに時は過ぎていく。そして及川は牛島を嫌う。悪循環だ。
 アルファとオメガが言語や肉体以外でも通じ合えるのは、書籍によるとアルファが持っているオメガへの感応能力の一種だそうだ。が、このような手段で終始嫌いだと示され続けたのでは、思い余った牛島が薬断ちに踏み切る懸念もあった。アルファ同士が通じるケースに関しては特に記載はなかったが、同じ態度を示され続けた時の牛島の反応など予想できる。
そもそも二人は互いを伴侶として生まれついているのだから、遠回りをしたところで強固な結びつきが生じるのは必然。なのに、及川はなかなか靡かず、隣には邪魔者がいる。更には他人――牛島にとって岩泉は及川の付属物に過ぎない認識だ――の恋路に首を突っ込もうとしているのだから、歓待とは真逆の対応を受けるに違いない。
だが、摂理に反する愚かさを詰られようとも、及川の本心が牛島を望んでいない以上は、生来の番であるからといって引き合わせてやる意義も義理も、岩泉の中から失われている。
 及川の意に染まない相手ならば、奪い返して自由にさせてやるだけ。
 以前不可能だった選択肢は、今となっては不可能でも何でもなくなっていた。もう及川の選択肢は一つだけではない。本人がまだ知らないだけで、もし知ってもらえたなら、どんな反応を返してくれるだろう。想像しただけで岩泉の心は弾む。
 及川を苛んでいた運命とやらも、とうに訪れた後だとは言い切れるだろうか。誰と番になるのか、行く末が決まったと断言するのは、まだ早計であるように感じられてならなかった。
 まだ終わったわけではない。
 及川の意思が残っている限り、本人の口から牛島を選ぶと聞かされない限り、岩泉にとっての終わりは訪れない。
 及川が安直に自分のもとへ帰ると言うとは限らない、大きな賭けではある。だが岩泉には、失って惜しいものなどもはや及川以外になかった。
 握り締めた右手が軋み、痛みを訴える。近頃とみに盛んな成長痛だ。こんな年になってとは思ったが、転化の影響なのだから今なのだと医師にも諭されている。
 今ではその痛みさえ、及川を取り返すための布石のようで、誇らしかった。


  
 八月、九月、そして十月。八月にちょっとした違和感を覚えた以外、及川に大きな動きは見られなかった。
 事態は小康状態が続いていたように思われたが、それは岩泉が感じ取っている限りの情報から得た主観であって、客観的にはどう受け止められるかを知る術はない。
 十月の末、組んだスクラムの中に及川のいない春高予選。チームメイトの奮戦もあり準決勝までは勝ち進んだものの惜敗し、順当に見えた白鳥沢も牛島がどこか精彩を欠いていたが、どうにか勝ちを拾おうとしている。そんな中、観客席で一人決勝を観戦していた岩泉は、強烈な疑念に襲われた。
 あれだけ牛島が執着していた及川は、どこだ。白鳥沢のチームメイトとしてコートに立っていない。どころか、控えのメンバーにもいなければ、応援の一団にもそれらしい姿が見当たらないのだ。
 体調が優れないのだろうか。だとしたら、今はどこか別の場所で休んでいるのだろうか。その不調を気にかけているから、牛島も言ってしまえば上の空なのか。気配は遠い。遠く、儚い。鮮明とは程遠い濁りの中で、何となく及川の気配がする程度だ。気配は及川の体調次第で、弱っている時はそれなりの弱さにまで落ち込んでしまうのか。それとも、何もなかったとばかり思っていたこの数か月の間に及川は少しずつ弱っていただけで、今に始まったことではないのか。
 隣にいられない分、わからないことは多い。仮に牛島に話を聞いたところで、大した収穫も得られそうにない。
フルセットまでもつれ込んだ試合の結果が出る前に、岩泉は観客席から離れた。離れてしまえば歓声は聞こえてこない。
 静かに、決着がついた。どちらが勝とうと皮肉なことに、岩泉には直接の関わりがなかった。
 まだ、蚊帳の外に置かれている。痛感した瞬間だった。



 春高も終わり十一月ともなれば、バレーに染まりきっていた三年も引退し、進路を見据えて動かざるを得なくなる。各々が打ち明けた志望校は見事と言っていいほどに散り散りで、学科も方向性も重ならなかった。とりとめのない話の中、白鳥沢で過ごす二人の噂話も、時折口の端に上った。だがそこはバレー漬けだった人間の発想で、具体性を持ち語られる内容は牛島に関してのことばかり。傍らの及川までは話の出処の人間がそれほど興味を持っていないらしく、白鳥沢から青城まで流れ着く頃には言葉で語られる埒外に置かれて仕舞い、だった。
 だから、岩泉が何となく察知している以上の情報は、手に入らないままだった。
 それでも、牛島が実業団入りはせずに進学してバレーを続けるらしいという話は、岩泉にとって有益な情報と言える。及川の進路も必ず同じになるためだ。むしろ、及川と一緒に過ごせなければ、牛島にとってその大学は大した価値を持たない場所となる。及川というある種の枷つきでも進学、或いは推薦が通る進路を選ぶはずだ。場所さえ明確になっていれば、岩泉の計画は大きくは狂わなくなる。一点へと収束する。蛇行すれども辿り着く場所が決まっている以上は、過程に拘泥する必要性も低くなっていた。
 進学し、大学でもバレーを続けて表舞台に立てばいずれ、競技の第一線で二人を見かけることができる。
 岩泉の確信の根源は、春高で見た白鳥沢のチーム編成にあった。
 及川の姿がなかった、の一点に尽きるのだが。
 調整等で夏の本戦には間に合わなかったとしても、十月の末であれば及川は十分に合わせてくる。試合に出られるコンディションであったなら、白と紫のユニフォームを身に着けた及川が、牛島とともにコートに立つ可能性があった。長年求め続けてとうとう手に入れた及川の、セッターとしての『本領』を、公式戦を舞台に存分にお披露目か。頼もしかった味方とネット越しに対峙するのではないかと身構えていた、青葉城西の面々が何度観客席含め見渡しても、ユニフォームどころか制服を着た姿さえどこにも見当たらなかった。どんなに意識を傾けようと同じ施設にいるとは思えない気配の薄さで、不在を疑う余地もなく。結果として肩透かしとなったが、様々な事情を含めても岩泉にとってのささやかな安堵をもたらすことになった。
 及川らしくないとは思うが、もしも現実を素直に受け止め、牛島との関係を前向きかつ建設的に考え始めていたら。身の振り方を定めて、仲睦まじい様子など見せつけられようものなら。
 万に一つの、限りなくないに等しい可能性を疑ってかかる程度には、離れ離れの時間を実感させられている。バレーを始める前からの知己だ。友人や親友の枠を越えた、たった一人の存在だ。そんな及川を案じるのは当然だし、大っぴらにはせず妙にひっそりと、匿っているという形容が相応しそうな接遇の理由を、勘ぐる猜疑心が湧くのも仕方がないと、岩泉は考えている。牛島への態度が硬化するのもやむを得ない、とも。
 そんな心境はさて置き、現実と向き合う必要もある。及川と牛島の間柄を世間ではどう認識しているのかも、感覚的に受けつけないだけで理屈の上では分かっている。分かっていても、承服できるものとできないものとがある。意識とは裏腹に公認の仲として扱われるせいで、周囲の視線に耐え切れず気鬱を拗らせていやしないか。精神的に追い込まれると思いもよらない行動に出る及川が、案じられてならない。扱いの難しさなら、今までに出会った少なくない人数の中でも頂点に君臨してしまうのだから。
 また、バレーの表舞台に姿を現せば必ず、気に入らない相手だとしても、及川は牛島を邪険には扱えなくなる。チームの一員としても、番の片割れとしても。二人の間に性的な関係があると周知されている今では、好奇の視線も無遠慮に注がれる。二人の奇縁と因縁を肴に、愛憎劇をでっち上げ吹聴する不届き者が現れても不思議ではない。
 そんな輩から及川を守るためなのだろうか。前の公式戦とは違うユニフォームを着る意味を邪推する輩が、会場のどこかには必ずいると踏んでの防備なのだろうか。雑音から距離を置き、建設的な関係を築くために現実を正視させ、牛島なりに及川の気持ちを慮った結果がこの場の不在なのだろうか。
 様々に考えた。考えさせられもした。
 高校在学中、白鳥沢の選手として公式戦には出なかったことで、悩みの種をひとつ減らせたのだろうか。余計な負荷を負わずに済んだのだろうか。少しでも及川が気楽に過ごせているのなら、直接顔を合わせられない位で気を落とすわけにはいかないし、苦にするべきではないのだが。
 来るか、来ないかの話なのか。
 それとも、来られるか、来られないかの話なのか。
 可不可も絡んでくると、話は一層複雑になっていく。



 伝わってくる気配の差異を感じ取り、弱々しいながらも及川の様子を逐一把握できるようになると、結構な量の情報が手に入った。夜をどう過ごしているのかも、その中に含まれる。
 興味関心がないわけではなかった。ある時不意に、そういえばと思い当たったのだ。純粋な関心事として、及川はかけらも牛島を好いていないにしても、アルファを前にすればベータ相手の時とどれだけ変化するのか。きっかけは実に単純だった。だから敢えて耳をそばだてるような真似をした。普段よりも集中して及川の様子を窺ってみた。
 次第に及川の思考までもが、明らかになっていく。だからこそ、直接見聞できない環境が、この時ばかりは幸いした。その場に立ち会っていたのなら、埋まらない溝を目の当たりにしただけに留まらず、牛島に手を挙げていた可能性さえあったからだ。
(つか、れた)
 ちょうど風呂から出てきたタイミングだったらしい。寝間へと戻る足取りは覚束ない。オメガとしての性成熟が終わり体質の変化した及川は、以前より格段に疲れやすくなっている。この時岩泉は知らなかったのだが、登校できる日は登校して授業にも顔を出してはいても、背筋を伸ばしていられる時間は少なく肘をつき体を支えている時間が殆どだった。
(十四、十三、十二)
 寝間への残り歩数なのか、数を数え何度も壁に手をつきよろけながら、どうにか引き戸までたどり着く。それでも、開けた引き戸を閉じる余力を失い戸口にへたり込み、這いずって布団に倒れ込んだ。ろくに乾かしていない髪の滴で掛け布団が湿っていく。気にかける余裕もなく、目が閉じられる。
(いま、何時だっけ)
 閉じられた目元に浮かんだ疲労の色は濃い。連日連夜、やっとの思いで回復させたなけなしの体力を、牛島によって奪われ続けているせいだ。失神同然に眠りについていても尚、事の元凶たる牛島は事態を軽視しているかのように思われた。
 及川の意識はプツリと途切れ、粘性の高い液体にでも全身を浸しているかのような抵抗が指の一本にまで圧し掛かっているようだった。体力の限界が訪れただけとも言える。それでも体力には自信があったはずの及川の体が、こうも簡単に音を上げるまでにオメガの性は強力なのか。心臓を鷲掴みにされるような痛みを覚える。苦痛を和らげる手助けさえ、今の自分にはできない。崖の彼岸にいる身を投げたとて、到底届かぬ隔絶を感じた。
 そうこうしている間に、牛島が戻ってきた。開けっ放しの引き戸を閉め、バスタオル片手に布団の上の及川を見下ろしている。髪や体に残る滴を拭き取る間、及川の瞼が開く様子もないことにも当然気付いているに違いない。
 なのに、あろうことか、岩泉としては許容しがたい暴挙に打って出たのだ。
 泥のように正体をなくして眠る寝姿に布団の一枚を掛けてやるでもない。倒れ込んだ時のままの体勢を仰向けに変え、羽織っていた寝間着を肩から落とし膝を立てさせていた。
 合わせて及川の意識も僅かに浮上する。
(や、めて)
 吸われた乳首がぷくりと膨れて擦られる。
(やすませて)
 快感は濁流となり、及川をどこまでも押し流していく。
(あさに、なるから)
 刺し貫かれる感触が意識だけを覚醒させ、体内で爆ぜるばかりの快楽は勝手に及川の体をおののかせる。
 体がまるで動かせないのを知らないはずなどないのだが、及川の都合など牛島は取り合わない。意識が浮上するのを待たずに繰り広げられた淫行が、ただの一度であったなら。気持ちはわからないでもない、と目を瞑ることも出来たかもしれない。
 だが現実は岩泉の願いを砕いてばかりだ。
(くるしい)
 不憫にも、及川は回復できたはずの体力さえ搾り取られている。
(たすけて)
 浅く速い呼吸を繰り返すことしかできない及川を、一体誰が助けられるのだろう。
 聞くに耐えず、岩泉は一夜で事を詳らかにするのを止めた。明くる日も、その明くる日も、同じような時間が繰り返されていたせいだった。性欲ばかりが過度に満たされた肉体は、及川の精神を緩やかに狂わせていく。
 ふわふわ漂いながら、岩泉の手の届かないどこかへと向かっていくようで、得体の知れない焦燥感を覚えつつも日々は過ぎていく。
 牛島の様子はほぼ変わらない。及川のことを根本的に勘違いしているかのような無神経さが、悪化の余地もない程に悪化した岩泉の心証を害した。とうに及川の体力は底をついているというのに、自分は平気だからと余計な一回を挑む意義はどこにあるのか。ふて寝しているわけではないと気づいているはずだが、番の相手にここまでの野暮が出来る神経が信じられなかった。
 岩泉がどんなに憤りを感じたところで、今は腹の中で飼い慣らすより他ない。耐え忍ぶ時間は長く、及川の疲弊を肩代わりさえできない歯がゆさとも戦う夜に浮かぶ月は、しんと冷え切っていた。



 何度試みても及川の意識につながらない期間が発情期に当たると知って以来、岩泉の持つカレンダーには毎日記号が記されている。
 比較的はっきりと及川の思考が感じられた日。ノイズ混じりでもそれなりに伝わる日。集中しないとまともには感じ取れない日。全神経を研ぎ澄ませても音沙汰のない日。
 何か思うことがあった日は、日記もしたためるようになった。
 日単位では誤差でも、月や季節単位では明らかに、及川は変わりつつある。記録は嘘をつかない。手のかかる患者のカルテのように、一日を子細に書き連ねていく。祈るような心地で、良き明日が訪れるようにと夜にその日の分をつらつらと。
 心配で居ても立ってもいられなくなる時期は過ぎ、環境に関しては最悪の事態を回避しているのだからと、ある程度割り切って雌伏の時を過ごしている。
 進学先は二人とは異なるけれども同じ地域にある大学を選んだ。バレーを続けられる環境も整っているかどうかも十分に下調べし、吟味を重ねた進路だ。途中で及川が転学する可能性についても織り込み済みだ。転化したアルファへの補助金制度を活用し、及川と二人で暮らせるだけの住まいと住環境も手に入れている。
 準備が着々と進めば、決行日に相応しい時機を作らなければ、と気も逸る。いつ及川達と自然に顔を合わせて話が出来るのか。誰も経緯を疑わないよう、仕込みは万全にしておかなくては。
 親元を離れての新生活への戸惑いはほぼ無く、むしろ及川の気配が変質しつつある点ばかりが気になっている。以前のように単純に弱々しいだけではない。及川自身の、心の声のようなものが伝わってくる頻度自体が減り始めていたのだ。時間がない。焦りを生む要素は重なり、岩泉を追い詰めていく。
 寒風が和らぎ、緑の息吹が地を覆い尽くす季節も遠ざかった。じっとりと、肌に生ぬるい水気がまとわりつく月を乗り切り、熱気が全身を包み始めた頃。
 ようやく、岩泉の仕込みが効き始めた。
 バレー強豪校を中心とした、サークル活動の域を出た切磋琢磨の場として設けられている、合同練習の輪の中に今年からは入れるようなレベルに達したこと。
 牛島や及川の進学した学校もその中に入っており、開催場所は毎回持ち回りであること。
 今年の場合は真っ先に、牛島と及川の在籍する学校が当番校になったこと。
 千載一遇の好機だった。一日千秋の思いで待ち続けた日が、やっとカレンダーの特定の日付に定められた。
 競技としてバレーを続けているに違いない二人と、揃って会うのはどれくらいぶりだったろうか。彼らが進学した先はバレーでの推薦もあり、定期的に練習試合も組まれている。岩泉の進学先と、環境としては同等かそれ以上だ。岩泉が一番期待を寄せているのは、当番校として指定されたのを機会として、ものは試しと実戦に及川が投入されるかもしれない、といった点だった。
 牛島は当然ながら名指しで警戒され対策を練られているが、及川は事情が多少異なっている。高校時代の無冠を軽んじる輩が多く、下馬評も芳しくない。随分自分たちは見くびられているものだ、と岩泉は取り合う気にはならなかったが。大した困難にぶつかりもせずにバレーを続けているだけの人間と、困難ばかりにぶつかり乗り越えようといつも必死になっていた及川とを比較して、どちらの地力があるのか。牛島の身勝手による消耗があっても執念でコートに立とうとし、華やかな舞台で大輪の花を咲かせる日を目指してきた及川だ。直接目に出来ていたわけではないが、時間と体力の遣り繰りの果てに機会を捻出していたことを知っている。
 そんな事情をろくに知らない輩は、知らないからこそ自分たちの持つ数少ない情報を面白おかしく解釈し、敵味方に分かれてネット越しに火花を散らしていた者同士が番になる過程を、下世話な物語として脚色しせせら笑っていた。
『あんななりをしていても、及川はオメガだから』
『アルファにとっての雌に過ぎないし、警戒するだけ馬鹿馬鹿しい』
 及川に言及する言葉が悉く侮りに満ちているのは、性的に成熟を終えたオメガが自分たちより能力で勝るはずがないという、無邪気な確信のせいなのか。彼らは知らないのか、忘れてしまっているのか、どちらなのだろう。一度くらいは、高校時代の及川の、修羅めいた姿を目にしているはずなのだが。よくそれだけ過小評価できたもの、と揶揄を一蹴する岩泉。チームメイトとは言っても、まだ及川に対しての認識には大きすぎる隔たりが存在していた。
 だから、決行日も、チームメイトの一団から少し距離を置き、歩いていた。注意が自分から逸れ、構内を歩く違う集団へと向いた隙に踵を返す。気配を殺し、一団から姿をくらませた後は、何十回と眺めた構内の俯瞰図を脳裏に浮かべる。及川の匂いが漂う中、強まる方向と構内図を照らし合わせながら、ひたすらに歩を進めた。大学の敷地内は、全員の性差が出尽くす希少な場所でもある。まだ番のいないオメガが放つ悲愴なまでに芳しい香りと、獲物の奪い合いも辞さない攻撃的でいけ好かないアルファの臭いが、不規則な濃淡で入り混じっていた。
 及川と距離が離れていた時の方が逆にはっきりと、気配から位置を割り出せていたのではないかと思ってしまうほどに、余計な気配の頭数が多い。間接的な邪魔者ばかりが視界をちらつき、舌打ちのひとつもしたくなるというものだ。日頃であれば距離としては誤りもためらいも生じるはずのない近さが今回ばかりは仇となり、及川の気配に確証を持てないままに時間ばかりが浪費されていく。
 時間がない。練習試合を始めるまでには十分な余裕が出来るように皆を出立させてはいたが、自分が肝心の及川を見つけて話をするだけの時間が刻一刻と削られていく。
 いっそこのまま虱潰しに探していくしかないのかと歩き回っていた最中、無性に腹の立つ気配がひとつ、こちらのことなど気にも留めていないが近づいてきた。牛島だ。及川よりも先に牛島をこの敷地内、大集団から見つけ出すとは思わなかったが、辿った先には九分九厘及川もいるに違いない。
 この気配の主から、及川を奪い返すための一年。長かったような、短かったような。
往来に紛れてしまっている及川を探し当てる助けとなるか、障りとなるか。
 苛立ちを隠せないまま、岩泉は爪先を牛島の方向へと向けた。
 その結果は、果たして。



 前者であった。
 牛島とは春高予選以来、及川とはあの嵐のような六月九日以来だ。顔を合わせたらまず牛島に何を言ってやろうか、などとつい岩泉の意識は物騒な方向へと流れがちになる。その矛先を変えたのは、たとえ弱々しくとも鮮明に思い出せる、華やぎのある懐かしささえ思い起こさせる香気だった。
 即座に位置を逆算する。牛島と寸分違わぬ方向と距離。ベータであった頃でも時折目眩を起こすほどに濃密であった甘美な誘惑は、すっかり隠されほぼ振り撒かれていない。以前が立派な前栽の牡丹やシャクヤクであったのなら、今はせいぜい道端のハコベ程度にまで低減されている。
 やはり、八月の時点で生じた違和感は、二人が番になったことが原因だったのか。
嫌な予感が的中している。
 だがここで引くわけにはいかない。
 二人が本当に番になっているのなら尚のこと、お互いにとっての最適な距離を改めて模索すべきだと考えたからだった。
 微かに感じた気配は、徐々に近づくにつれ、岩泉を確信へと導く。
 本物の及川だ。やっと見つけた。
 運命に魘され囚われていた及川が、もうひとつしか残っていないからと諦めて手にした未来。そんな必要はもうないと、ふたつ目がここにあると示してやりたかった。小さな頃からずっと一緒にいたのに、発情期が来て手に余るからと一年も他所の男に任せて放り出し、今更どの面引っ下げて来たのかと罵詈雑言を浴びせられる覚悟も出来ている。
 それでも岩泉は、まだ及川が自分自身の未来を選んでいけるのだと伝えたかった。自分の時間をどう費やすかを定め、最大限納得した形でこれからを過ごしていくための権利を掴み取ってほしかった。囲まれた状況に流されていくのではなく、まだ先の長い自分の人生を能動的に生きていくために。
 傍らにいることが許されなくても、少しでも幸せになってもらうための後押しをするために。
 誰の手を取るのか。
 決める権利を持つ及川の姿が、牛島に伴われて近づいてくる。人目を惹く長身は然して変わっていないはずだが、岩泉の記憶の中よりも小さく、萎れて見えた。牛島の半歩後ろを、手を引かれるがまま意思もなく仕方なく歩いているようだった。前を行く男の姿は大して気にかけていない様子で、覇気のなさが顔に浮かんでいるのを取り繕わず、笑みを口元だけに張りつけて。明らかに、及川の中のどこかがおかしくなっていた。岩泉がいくつか用意した中の、悪い予想が的中してしまっている。
 一年余りを遡り、及川の身に起きた劇的な変化を思えば、避けられない結果ではあったが。
 及川の左手から、きらりと自己主張する光が反射した。三月のあの日に、牛島から贈られ受け取った指輪だった。詳細を、岩泉は知らなかった。乱高下する及川の胸中を感じ取っただけで、まさかと思っていた。思いたかった。薬指の形にしっくりと馴染むそれは、決まった相手がいると周囲に誇示するばかりではなく、現在の関係を及川が否定していないと見せつけられたようで、及川の選択を思い知らされたようで、岩泉の心には暗いものが落ちた。歩みを止めるだけの威力があった。
 考えたくはなかったが、及川は牛島を選んだ後だったのか。それとも、オメガの本能が生来の及川を乗っ取り、手遅れになってしまったのか。他に打てる手がなくなったからと、発情期の只中の及川を牛島に預けたのはやはり間違いだったのか。及川が予てより望んでいたならまだしも、あの土壇場での決断は岩泉の一存で下されている。だから、元々及川を手元に置きたがっていた牛島がすっかりその気になり、及川の身をどのように扱おうとも、岩泉には本来口出しする権利はあってないようなものだ。及川は牛島の好意に応えるしかなくなり、課せられた義務が重荷として関係を歪ませ、及川が一方的に疲弊していこうとも。
 促されるままに、ただ牛島の後をついて歩く及川は、見違えるほどに静かだった。人となりを知らぬ場所に置き忘れて、視界に入るものに大仰に反応したりはせず、穏やか過ぎて却って気味が悪かった。
 今自分が目にしているのは誰なのか。今でもまだ、自分の知る及川を取り戻そうとして間に合うのか。
 岩泉の背に、時節に似合わぬ冷たい汗が伝う。精神的にいくら身構えても、様相を異にする本人を前にするとてんで意味がなかった。
急に立ち止まり及川の様子だけを見つめていた岩泉に、ようやく牛島も気づいた。
 敵意をむき出しにした、睨み合いが始まる。アルファ同士の鍔迫り合いは水面下で攻防の激しさを増すばかりで、牛島の意識が及川から岩泉へと逸れていく。
 牛島と及川の歩みは止まらない。一直線に、岩泉へと向かっている。
 常とは違う牛島の様子に及川の意識が向いたのは、偶然か、それとも必然か。
 足元から数メートル先をただ追い続けていた及川の視線が、地から離れて浮き上がる。
 焦点の合わない視界の中に岩泉の姿が混じり、及川の世界にも、牛島以外の存在が個として認識されていった。
 六月九日を境に途絶えていた記憶と現実の間に橋が架かり、過去の延長線上に立つ自分自身を及川が正しく知覚したのなら。
 まだ岩泉と牛島の決着はついていない。
 舞台の幕は上がったままだ。
 一度きりの天祐を我が物とするために、岩泉は自分から及川へと歩み寄っていった。


 細かな砂粒を踏みしめる音をきっかけに、及川の双眸が示す方向を変える。上へ。上へ。
 しかし、それきりだ。
 かの人のもとへ帰りたいと切に願った、記憶の中の幼馴染の姿と、今目に宿った姿とが及川の中で結びつかない。視線は岩泉へとは留まらず流れて行き場を失い、視界の主役は仰ぎ見た空に取って代わられた。
「今なら帰れるぞ、及川」
 すれ違い様無意識に、岩泉は及川の左手を掴んでいた。岩泉をまだその他大勢と区別できずにいる及川は、おっとりと岩泉に向き直り、邪気のない目をして風貌を見つめている。どうしてこんなことをされたのかわからない、といった顔をして不思議そうに首を傾ける仕草は、小さい頃の、出会って間もない時期と何も変わっていなかった。
 及川の右手の延長線上には、事態を半分呑み込んだ牛島の左手がある。
 唇を真一文字に引き結び、険しい表情を浮かべている牛島。岩泉の変化に感づいた様子で、己の優位性が揺らぐ可能性への警戒心を示しつつ、一挙一動を注視していた。



 及川は、二人の思惑が生んだ渦の中心にいた。距離が離れていたせいで岩泉が感じ取れず仕舞いだった葛藤を抱え解決しないまま、今の場に立っている。誰の隣でなら、一生を過ごしたいのか。誰の隣でなければ、生きていけないのか。好きと嫌いとの二つに分けて考えられるような、単純な話では済まされない。
 本能に溶かされ顕在しなくなった及川の本音は、幾重にも層が重なって、齟齬のないまま形容していける範疇を大きく越えていた。
 夜中にふと目を覚ました時。登校を制限され部屋で一人体を休ませている時。することが何もなくなると、目を背け続けていた自分のオメガの性に、ふと向き合う瞬間がある。既に人生を二度も狂わせているこの性は一体何のために、それなりに平和だった日常をぶち壊していくのかと、考えずにはいられない時間だった。
 ベータでもアルファでもなかったと知った日。薬で押さえつけていた性成熟が終わってしまい、牛島の家に迎えられた日。これからもまた、日常を粉々に打ち砕き違う生活を送るよう強いられるのかと思い、何度塞ぎ込みそうになったか知れない。
 だが、自分自身を散々に振り回してきた性は、共に過ごしたいと選んだ相手の人生をも、同じかそれ以上に振り回す。どんな道を選んでも、誰をパートナーに選んでも、逃れることのできない宿命。
 だから発情期の間、生活の一切が牛島に任せきりになっていたと後になって判明し、あまりに手のかかりすぎるオメガ性に嫌気がさした。厄介者を大喜びで迎え入れた牛島の神経が正直知れなかったし、どうして今でも捨て置かれずにいるのかが理解できなかった。周期などあって無きに等しい発情にも、どんなに長引こうと根気よく付き合ってくれる牛島への引け目もあった。正式な番として丁重に扱われても嫌悪を感じなくなってからは一層、拒むに値する正当な理由が見つからずに従順に振舞う場面も増えていった。
 及川が自分の意思で牛島を番として認めるだけの決定打のないまま、二度目の発情期でなし崩しに体だけが番になったのは、偶然が重なりすぎた不運だった。
 第一に、インターハイの本戦を戦ううえでの遠征先にも連れていかれて、現地に到着した翌日にひどい風邪を引いたこと。第二に、宿泊場所に及川を残しておくつもりはない、と牛島が頑なに主張したこと。第三に、解熱剤を服用した状態であっても、会場となった体育館の医務室で休んでいたこと。第四に、服用した薬が体質に合わず、風邪による発熱が発情期の熱に取って代わってしまったこと。
 予測よりもかなり早く激しい発情期を、医務室で及川がひとりで迎えていた時。セットポイントを争っていた牛島は、及川の異変に気が付いていても、抜け出すに抜け出せない状況に歯噛みしていた。辛くも勝利を収め、大急ぎで医務室へと駆け込むと、前後不覚に陥った及川がすすり泣いている姿が牛島の視界に飛び込み。まずい、とさえ意識する暇もなく理性が吹き飛んで、牛島の記憶はそこで途切れている。
 一部始終を知る者はいない。
 噛みついた項の柔らかさを知覚した時には既に、消えない噛み跡が刻まれていた。その時は痛みが引き金となり、及川にも一時的に理性が戻った。首の骨あたりに走った違和感と湿った温もり、体内を満たした精と肌の熱さ、すべてを束ねまとめて得た結論に身をこわばらせ目を見開いていた。
 何、してんの。
 戸惑い。怒り。焦り。悲しみ。一斉に押し寄せた感情と衝動は、及川の動きを完全に止めた。これは悪い夢でいずれ覚め、終わりが来ると信じなければ、及川の自意識が瓦解してもおかしくはなかった。何を言えば自分の思いが伝わるのか、及川自身わからなかった。牛島が意図を正しく汲んでくれる言葉を、自分が持っているかどうかさえ。
 牛島が体を離し、そこかしこに快楽の証が散っている及川の体を清めていく中で、いかに声をかけても横たわったままの及川はろくな返事を返さない。会話の成立しないまま下半身の繋がりが解かれて、及川の全身を甘い疼きが這いずっていく。その疼きに狂ってしまえたのなら、及川の口も悩ましげな吐息などこぼさずに、素直に続きをねだっただろう。
 この時の牛島がもしも不遜であったのなら、及川もまたあらん限りの罵詈雑言を浴びせかけていたに違いない。同意のないままに番が成立してしまった腹いせに、ありとあらゆる言葉を駆使して眼前の男を否定しにかかったに違いない。
 だが、事はそうは運ばなかった。番になった途端に発情も一旦落ち着き、互いに素面で顔を合わせることが出来たのに、二人はまともに会話を交わさずに試合の日程を終えた。
 帰宅した日の夜に発情が再燃し、症状が多少緩和されても体は抱かれたがるばかりで。体を必死に戒め、潜在する本能とのせめぎあいに気を揉んでいる及川は、どこからどう見ても隙だらけだった。消えそうにもない噛み跡の消毒を始めた牛島だったが、唐突に及川が振り返り口づけた。焦点の合わない目を見て、ああ、と道具を投げ出し押し倒したきりで、作業は中断された。発情期の只中にいたはずの及川が、あの瞬間から今さっきまで大人しかったのが逆に不思議なほどだった。どうしてもと欲しがる及川と二人きりで遅れて帰着する心積もりもしていたが、こんな風に形を変えて現れるとは、と感慨深くもあった。
 それでも、寸でのところで行為に及ばなかったのは。項を撫でたときの及川が、何とも言えないほどに穏やかで満ち足りた顔をしてみせたためだ。性的な目的を抜きにしても、番の相手に項を触られると純粋な快さを感じるオメガは多い。ただ、及川にとっては今回が初めての経験で、ふるり、と体を震わせる程度だった。最初、消毒液が沁みたのかと勘違いした牛島だったが、それにしては痛がるわけでもない及川を覗き込んで。どう反応したらいいのかわからない及川が取り繕うのに必死になっていると、患部を乾かすために牛島が団扇を手にする。扇いでいるうちに、牛島の面持ちが神妙なものに変化していき、ついに手が止まった。
 乾いたのかと思い患部に手をやると、そこはまだほんのり湿っている。自然に乾くから後は放っておくのかと及川が顔を上げた先では、正面に腰を下ろした牛島の静まり返った瞳が鎮座していた。
 及川がぼんやりしている間に正面に座ったのであろうか。牛島が正座する姿は見慣れている。ただ、目的は多々あれ及川が知る限り、布団の上で正座までしたことはない。
だから余計に気になった。面持ちからも、彼がこれから何を言おうとしているのかがわからなかった。ひとまずは体勢だけでも合わせておいてやるかと及川が姿勢を正せば、それとほぼ同時に牛島の背中が見えた。
 傍からは罪人を見下ろす判官のようにも見えたであろう。布団に額を擦りつけた牛島は、及川の聞いた事もない胸の詰まる声色で、喉の奥から言葉を絞り出していた。
 すまない、と。
 及川の一生を勝手に定めてしまったのは自分だ、と。
 本来は下げなくても構わなかった頭を下げ、偶発的な事故に責任を感じたこの男は、一切を自分の落ち度として片付けようとしていたのだ。及川は自分のことを、謝ってもらえる立場にはいないと心の奥では認めていた。一度噛まれてしまえば他の誰も受け付けなくなる、そうと知っていて謝っているのだろうが、そもそも及川は謝罪など期待していなかった。ただの事故だと流すに違いないと思っていた。
なのに、男はそうせずに及川に謝った。
 理解できずにいた牛島の、ほんの小さな一端だが、この時ようやく及川にも掴めかけていた。後の祭りだと熟知していて拗ねて、寛容さにつけ入り甘えていたのが恥ずかしくなる程度には。最初の発情期がそうだったからと、期間中でも失われなかった強固な理性に油断していた非を咎めるでもなく、謝ってきた男。知らない角度で、及川が背を見下ろしている男。その背中に、男の誠意を見出してしまった。及川にも情状を酌量される余地はあったが、男を前に行使してはいけない気がしていた。
 だから及川は何も言わずに、自分よりも厚みのある背をただ撫でていた。
 会話の必要のない、夜だった。
 体を繋げぬまま牛島の腕の中で眠ったその日以来、及川の歯車は少しずつ狂っていった。
 男─―牛島を自分の番として認めようとする意識と、岩泉以外を頑なに拒否する意識とが衝突して、支離滅裂な言動をとる日もあった。
 しかし、過程はどうあれ、同じ結果に帰結すると決まっている。自分の運命は牛島のもとにあり、牛島もまた自分に運命を見出した唯一の存在なのだと。悔やんで番が解消できるわけもないのだから、岩泉のことなど忘れて暮らすのが今後のためだと頭では判っていた。番らしくあろうとする側の意識が勝った日には、強いられずとも身を寄せて、吐息を共有する距離で一晩過ごし何度も睦み合った。
 手荒な扱いをしなくなった牛島は、岩泉以外を拒む側の及川の意識をも戸惑わせた。日頃丁寧に扱われる中、時々我慢が利かなくなって性急に求めてくるその緩急に、岩泉の影を感じてしまったせいだ。無下にしきれず、態度を硬化しきれず、流される場面が徐々に増えていく。素のままでも甘えてしまいそうな自分自身をどれだけ戒めても、ふとした瞬間に緩んでしまう。袖にされる回数の減った牛島は、及川の変化を単純に喜んだ。喜んでくれた。その喜びように及川も悪い気はしなくなった。かつての自分の意識が食われつつあると自覚する前から、及川自身が出来ることなど本当に限られていた。
 番の片割れとして生きようとする側の意識が、あくまで岩泉に固執する側の意識に、囁き唆す。
 今の牛島以上に大切にしてくれる人にはこの先出会えない。今捕まえておかなければ、目移りされた後では遅い。
 本能に忠実に、肉体的な訴えを最優先にすれば、それは確かに真実であった。心の訴えを黙殺すれば、との条件付きであった点を除けば。
 心の求めと体の求めが一致しなくなった時にどうしたらよいか、もう誰も及川に教え導くことはできない。及川が自分の頭で考え、自分の答えを見つけなくてはならない問いかけだった。消去法であっても答えを出さなければならない、オメガの義務とも言える選択だった。年齢的にも向こう数年のうち、家庭に入ると社会的にみなされている存在に、敢えて茨の道を歩ませるために薬を処方する酔狂な医者ももういない。
 及川に残されていたのは二つの道だった。表と裏に分かたれているように見えて、いずれ表へと引きずられていく道。実質ひとつだけだが、仮初めの猶予がまだ残されている道。及川は運命へと突き進まずに迂回する道を選んだ。答えをすぐには出さずに、口を噤み、現状を出来る限り保ったまま最善を模索していく道ならば、かろうじて許されている。
 項にくっきりと残る番の証を受け入れ認めるか否か、及川の意識はそれぞれ真っ向から対立したまま全く進展は見られず、まるで均整の取れない振子のように、おかしな軌道を描きゆらゆらと揺れ動き続けていた。
 体が必要としている牛島を選ぶのか、心が必要としている岩泉を選ぶのか。精神を生かすか殺すかの究極の選択。番を持って以来目に見えて体調が戻ってきた事実は否めないが、胸中に住まう岩泉を切り捨てるなど、かつての及川の意識には考えられないことだった。
 その経緯が、オメガの本能にさらなる火を点けた。忘れられない記憶なら上書きしてしまえとばかりに、本能が実力行使に打って出た。後ろ髪引かれる思いを膨らませてばかりのかつての及川の意識を、食い潰していったのだ。
 帰りたい。
 連れて帰って。
 早く迎えに来て。
 湧き出る及川の本音は変わることのないまま、湧き出た回数と同じだけ本能に呑み込まれた。叶うはずのない願いにいつまでも囚われるくらいなら、いっそ何もかも忘れてしまえたらよかったのに、と願いそうになっては踏み留まり、その度に傷つき思いを巡らせた。
 岩泉を胸中に抱えたままでは、いずれかつての及川はオメガの本能に食い尽くされて、違う別の何者かになってしまう未来さえ生まれる。それを知っていた牛島は、考え付く限りの方法で及川が能動的に自分へと心変わりしないか試みた。及川の恋慕の在処を知っていたから、片恋も承知で及川に手を差し出していた。その手で及川が救われることはなかった。岩泉を忘れて、第三者相手であっても別の幸せを手に出来ないかどうか、あらゆる手段を講じたがひとつとして実を結ばなかった。
 理性と本能、このふたつに分かたれた及川をかろうじて繋ぎ止めていた岩泉の存在。牛島は扱いあぐねた。及川の人となりを通じて生まれて初めて、懊悩を体感した。
 本能に席巻され違う及川へと変わってしまう未来の訪れを待つしかないのか。牛島は途方に暮れつつあった。望んだままの及川は手に入らなくても、自分の傍にいるのならそれでも構わないのではないか。完全な形ではかなわない望みにひとつの区切りをつけるつもりでいたが、それさえももはや絵空事。及川の変化は、止まらなかった。
 だが、牛島の持たなかった最後の因子。使うなどという発想自体が抜け落ちていた因子。
 岩泉一。
 彼の声が及川の耳に飛び込んだ時、牛島にとってはとても懐かしい兆候が見て取れた。
 瞳に精気が宿り始める。無意味に三日月を描いていた口元が形を変える。瞬きを繰り返す目が、岩泉の姿を具体的な像として認識していく。
 まだ、彼らの中では何も終わっていない。決着がつくのはむしろ、これからと言えた。

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