十四章 岩泉編

 時は大きく遡る。
 打つ手をすべて失うまでに追い込まれて、及川を手放し牛島に預けた岩泉は、早速平然と自分だけの生活を組み立て始めたわけではなかった。
 その他大勢のベータとしての生を、彼は選ばなかった。むしろ逆である。隣からいなくなった及川は幼馴染で、成就するかしないかを抜きにした恋人だ。どう過ごしているか、余計に様子が気になって仕方がなかった。
 早朝から家族全員を避難させるほどに拗らせた発情も、アルファであれば容易く鎮められるのだろう。事実、及川を抱き潰して部屋から出てきた牛島は、割と涼しい顔をして当人を連れ去って行った。
 及川家に一人になった岩泉はひとしきり呆けた後、どのような形であれ片がついたのだからと唇を噛みながらも及川の家族に連絡した。予想以上に散らかしていったから少し片づける時間が欲しいと言っておけば、多少の時間的余裕も精神的余裕も生まれるだろう。……と考えていた。甘かった。考えが甘すぎた。何が恋仲だ。結局オメガの性を手に余してアルファに差し出しただけではないか。学校にも電話をかけ、当面の間及川は登校どころではないことも連絡してしまえば、岩泉が出来ることがまたひとつ減る。
(あと、してやれることは)
 性事情を家族にさえも明かそうとしなかった及川のことだ、二度と帰れないかもしれない実家の自身の部屋を片付けるにしても、生々しい情事の痕跡など見せたくはないだろう。極力意を汲んで、戻れそうにない部屋の主の代わりに片付けを始める。一人で耐えていた間に使ったと思しき器具や、脱ぎっぱなしの湿った衣服を拾い上げては分別していくと、自分にさえ明かしてくれていなかったオメガ性の凶暴さを目の当たりにされてばかりだ。
(あいつの苦しみを、分かち合えるはず、なかったのにな)
 家族にまで蔑まれたり憐れまれたりしないよう、罪滅ぼしにもなるかわからない後始末を続けながら、まずは洗濯物を洗濯機に放り込む。使い慣れた洗濯機が問題なく稼働したと確かめ、並行して部屋の整理を進めていく。
 嫌っている相手に嫁がせるような真似をした自分を、及川はどう思うだろうか。恨まれていても不思議ではない。最後の最後で手の平を反すような、本人にとっての非道な仕打ちを受けさせたのだ。
 それとも及川の運命は、そんな目に遭うところまで決まっていたのだろうか。
 岩泉には答えを確かめる術がない。答えを持つ存在は既に遠く離れた場所にいて、何をしているのかは想像するしかない。考えても埒の開かない問いかけは宙にぶらりと下げられたままだが、立ち止まっている間にも等しく時間は流れ、及川の運命は番の片割れとして生きるよう本人に強い、染めていく。
 その過程は、今の及川の部屋に克明に残されている。知られたくない、出来るだけ普通に生きていきたいと、秘匿したがっていた性を暴くような真似だったから、他の誰にも後始末を任せるわけにはいかなかったのだ。一般的な私物の枠を越えないありきたりな物でさえ、及川は性的な用途に転用していたのを知っている。一般的には何の差し障りがあるのか首を傾げるような物も、使用用途を知っている岩泉の目にはいかがわしい物に見えてしまっていた。人目をはばかる品々を除外しても、大人が全貌を俯瞰するとどうしても、性生活を想起させる品々が並んでいる。私的で繊細な領域を今のような形で目にするとは、過去の自分たちが知ったらどんな言葉を発するだろう。目尻に熱いものが滲んだような気がしたが、気のせいだと岩泉は一蹴した。
 私物らしい私物を何一つ持ち出す余裕なく、及川は牛島と共にどこかへ行ってしまっている。身分証から制服まで、一切を残したままだ。表に散らかされていた数々は片づけたが、収納の中身は未だ手付かずで、どのように片付ければ及川の尊厳を保てるか悩みながらも、引き戸の一つに手をかけた。
 そしてすぐに、過去の自分の浅はかさを悟った。
 本能が自我を食い破りかけるまで追い込まれていた及川の部屋に何があるか、していたはずの覚悟も全く役に立たなかった。強烈な本能は及川を日々の自慰へと駆り立て、素人目でもそうと知れるほどに控えの処方箋には多量の薬剤の名が踊っている。処方された当初はおそらく押入の奥深くに隠していたと思われる、陰茎を模した医療器具もその内訳の一つだ。処方の日付が新しくなるにつれてより現実的な形状と大きさになり、比例して使い込んでいたような痕跡も見られる。自分との関係が始まってからも、それらが継続して利用されていた事実は、岩泉の鳩尾に鈍い痛みを残した。夜の関係が始まってからは使わずに済んでいたとばかり、思い込んでいたためだった。
 押入の奥深くに代わりに転がっていたものは、開封してもほとんど使われなかったローションの類。体質的に全く必要としなかった及川は、一度試しに使ったきりで用途を見出さなかったのだろう。パッケージに戻されていたがそれ自体が古びてぼろぼろで、二重の意味で処分しなくてはと苦笑した岩泉の手に、カサリとレシートが触れた。日付は割と新しい。薄暗い中目を凝らせば、くしゃくしゃの包装紙だ。だがレシートの金額は安く、包装紙は有名な百貨店のもの。両者に何の関係が、純粋な疑問は抱いた瞬間に一つの可能性に行き当たった。
 対照的で、いっそ滑稽ではないか。百貨店で買い物をしたのは、おそらく牛島。及川にとっての必需品――替えの下着でも贈って、その時は折れた及川は受け取ったものの結局は意地を張りしまっておいたのか。後になって必要に迫られ、開封して着用したのだろう。中身が残っていない以上憶測にすぎないが、そういう意味で及川が困っていた場面ならいくらでも思い出せた。
『替えの下着にお小遣いほとんど使っちゃって、買い食いなんてする余裕ないんだもん、世の中不公平だよ』
 総菜パンひとつを巡って及川が唇を尖らせていた帰り道。花巻や松川がいる時には絶対にこぼさない、弱音のような独り言を吐きつつ、男子高校生ならではの馬鹿馬鹿しくも大真面目だった駆け引きが今は遠く懐かしい。聞こえてくる腹の虫を気の毒に思い、一口だけならと妥協したつもりが結局半分与えてしまって、二人揃って空きっ腹を抱えて帰った記憶も蘇る。ただの日常と思っていた日々が、戻れない過去になってしまったとは、まだ信じられずにいて。何度も手を止めながら、乱雑だった部屋が粗方片付いた頃には、部屋の一角が異質な雰囲気を放っていた。
 部屋の片隅に並んでいたバレーに関するものは、その空間だけはオメガの性と切り離されたかのように整っており、及川の中の序列が垣間見えたような気がした。
 性に由来する品々を全て持ち出してしまえば、目も当てられないほど淫らな散らかり様だった及川の部屋も一転して、学生の本分に必要なもののみが残る殺風景な部屋に戻った。人目に触れても差し障りのない私物を押入の奥にまとめ、持ち主の窮状とは縁のない学用品を除けば、元から置かれていた家具がいくつか残るのみとなった。
存在を隠し通しておきたいであろう及川の私物は一旦自室で保管してから分別し廃棄するために持ち出し、自尊心を傷つけない程度に片付いたところで及川の家族にもう一度連絡し帰宅を促せば、幼馴染として――かつての恋人としての役割は、大方終わる。残ったものの中で一際目立っているのは、甘い香りが今でも漂ってくる一組の布団。及川が生活していた名残そのもの。残り香に誘われて掛け布団に鼻を埋めると、もうここにはいない幼馴染と恋仲になって以来、二人揃って見ないふりをし続けていた現実と嫌でも向き合うしかなかった。
 気持ちが成就した、と純粋に喜べたのはおそらくほんの一瞬。幼馴染の距離を越えて始まった生活は、必ずいつか終わりを迎えるとお互いに自覚していた。岩泉が及川を選んだとしても、及川の側は岩泉を選べなかった。選ぶわけにはいかなかったし、選べない理由もあった。
 ベータとオメガは、同じようには生きていけない。三つの性への分化が認知されて以来、覆るどころか揺らぎもせずに、事実が事実のまま厳然として存在し続けている。岩泉が及川にどんなことをしても、岩泉がベータである限り、本当の意味でオメガの及川は手に入らない。番になれるか、なれないかの決定的な違いは、事あるごとに突きつけられていた。
 試合で白鳥沢にしてやられるのも、事の中に入っている。整ったつくりの顔を盛大に歪めて悔しがる及川の隣で、岩泉もまた辛酸を舐めさせられていた。互いの力量差が即ち性差であるかのように、勝ち進んでも先には常に白鳥沢――牛島が立ち塞がった。ネット越しに対峙する牛島の顔には常に、及川を寄越せと書かれていた。及川の生涯を引き受けるだけの資質も能力も、お前には備わっていないのだから諦めろと、すれ違い様に呟いてもいた。及川とも違えば、牛島とも違う。岩泉は、必ず二人から切り離されて何の変哲もない日常へと連れ戻されるよう、手をこまねき待ち構えられていた。
 誰にも祝福されない仲だったとしても、手のかかりすぎる幼馴染を牛島に――アルファに突き出さなかった理由など知れている。岩泉なりの全力で及川を好いていたし、本気だった。簡単に諦められるのなら、体のこともあるのだからと及川に言い含めてとっくに手放している。間違っても、微熱でぼんやりと無防備な容体を終始案じて、及川の意に染まない相手が近寄らぬよう、睨みを利かせたりしない。そんなことは及川本人にも家族にも頼まれていないし、ごく個人的な理由が岩泉に生まれての結果だ。
 発情期を迎える前日までは、及川は確かに岩泉のものだった。そこから先に関しては許しが与えられなかっただけで、及川の過去については岩泉が独占していた。
 未来は、手に入れることができない。オメガの未来は、アルファの手中にある。ベータである限りは、アルファとオメガの世界に踏み入ってはならない。
 ベータで、ある限り。

 ……ならば。
 その前提が存在しなくなれば、どうなるのか?
 及川は自宅に戻らずに、施設を出たその足で牛島のもとへ身を寄せる公算が高い。発情期を乗り切ったからといって、そう簡単には帰してもらえるとは思えない状態だった。どうせ何週間か経てば、牛島から連絡も来るだろう。住民票等の公的な手続きも済ませて、牛島との新たな生活が始まる。始まりはするが、それは岩泉にとっての終わりという話でもなくなる。
 及川が搬送された施設の担当者が、わざわざ連絡をくれた。まだ予断を許さない状態ではあるが、行政が措置入院に踏み切る寸前だった割には症状も比較的落ち着いていること。機械的に番をあてがわれる秒読み段階だったが、任せられそうな相手が一緒に来てくれて良かった、と胸を撫で下ろしたこと。このまま二人が番になれば、不特定多数を巻き込む心理的負担も最小限で済むこと、等々。
 牛島のものになることを良しとしないどころか、虫唾が走る立場にある岩泉に聞かせる話ではなかったのだが、どれだけわめきちらしても現実は覆らない。
 別の方法がないかどうかを探すしかないのだ。
 及川を奪われたのなら、奪い返せばいい。その気があるのなら、牛島と同じ立ち位置まで出向けば良い。待てど暮らせど及川の対としての牛島の性が変わらずあり続けるならば、彼我の差である性という利点が利点でなくなれば良いのだ。
 突拍子もない思いつきは、すぐに消えるかと思いきやその場に留まり、岩泉の生活の一部としてしばらくの間鎮座していた。
 存在がすっかり定着し溶け込んだ頃、転機は人知れずやってきた。



 及川のために。言葉だけはただ美しい。が、己の矜持を一度放棄したつもりでいただけで、発情期が来てしまった及川が手に余るからと、自分の限界を線引きして諦めただけではなかったか。
 自分の内に問いかける間も、高校三年の目まぐるしい歳月は、岩泉にも絶えず諸事を運び込んでくる。及川のいない非日常も日常へと変わりつつあり、進路の話題が具体性を増すにつれて、もう隣にはいない存在にかかりきりにもなれなくなっていく。
 予想よりもずっと早くに部を去った、主将の穴埋めもそのひとつだ。持ち上がりのような格好で同じポジションに据えられた後輩では、まだどうしても不足が目につく。一様ではない個人の持ち味を活かした連携、持てる武器を正常に機能させ局面に応じて使い分けていく判断力、課題は散見されるが春高までに残された時間は長くない。正セッターに仕立て上げる時間は一秒たりとて無駄にはしたくないところであったが、岩泉にも別の事情が生まれたせいで、部には連日顔を出せずにいた。
 本来は負担の急増した後輩を手助けすべきだと頭では理解している。
 だが理解していても、実行に移せるかどうかはまた別の問題だ。岩泉も本当は一人のスパイカーとして、チームのエースとして、様々な助言をしてやりたかった。
しかしそれは叶わなかった。岩泉の身体に生じている違和感が、とうとう無視しきれなくなっていたためだ。
 当初は体内の不和をただの不調だと思っていた岩泉だったが、聞きかじった症状と酷似していたがために、疑いを抱かざるを得なかった。悲観するべきものでなかったことだけが、救いだった。
 感覚が鋭敏になった反面、まだ特定の相手を持たないオメガの放つ如何ともしがたい芳香に吸い寄せられて、場所の見当をつけ足が勝手に出向いてしまった回数は、覚えているだけでも三回。十八年分の日常生活は、慣例が持つはずの主導権をあっけなく失ってしまい、行動の舵取りは内から湧き起こる限りなく純粋な欲求に委ねられている。
 生活が破綻する前にと岩泉なりに調べて、縁のなかった神経内科を受診したのはその数日後。原因はさておき手掛かりでも判明すればと思い、受けられるだけの検査も受けた。両親にははっきりしてから一切を打ち明けるつもりでいたから、不調について聞かれても気のせいだと繰り返し言い含めた。
 それでも、検査結果は芳しくなかった。何らかの変化は認められるが、そのクリニックの検査機器では詳しくはわからない、と肩透かしに終わった。代わりに、ありったけの検査結果と紹介状を大きな封筒に入れて、とある総合病院で改めて受診するように強く勧められた。
 初診料の発生する総合病院など、大病でも患わない限りまず受診することなどなかっただろう。紹介状があれば確かに初診料は生じないが、学生の限りある懐事情には死活問題で、これから一体いくら請求されるのかと戦々恐々としつつ、岩泉は紹介された病院の門をくぐった。
 耳慣れない診療科の名が書かれた紹介状を頼りに足を運んだ岩泉は、まず異様なほどにひっそり静まり返った院内に唖然とした。訪れる患者の気配も、従事する者も出入りする業者も、ごく少数であるように感じられたためだ。受付を終え案内図のままに歩けば、人通り自体が皆無の棟の片隅に、その診療科のスペースがあった。
 三つに分かれる性を取り扱う点では共通していても、及川が長年通っていたような科とはまるで様子が違うな、と冷静に周囲を見渡せば。病院らしさの象徴とも言える、特有の消毒液の臭いさえまるでしない場所で、自分はどのような診断を受けるのか改めて不思議に思えてならなかった。
 成長過程にあるオメガを適切に育んで対のアルファに引き渡し、平穏に暮らすまでの万事を取り計らう、オメガの診療科はもっと福祉面の意味が強く和やかだ。中高生ばかりが集まる待合室は散らかっていて、殺風景とは真逆の空間が広がっていたのを思い出す。岩泉が今いる場所は、殺風景の規範となれるほどに、人の精神を癒す物が置かれていない。これでも病院かよ、と独り言がこぼれ出る程度には、内装の時点で病院らしくなかった。
 たった一つ置かれた椅子に腰かけて数分もせずに、看護師が一人通りかかる。顔を見るなり診察室に入るよう促して去っていったが、診察室も何もドアノブのプレートに『診察室』と書かれているだけの部屋ではないか、と突っ込みを入れつつ入室してみれば、確かに医師らしき人物が真正面に座って待っていた。
 渡した封筒の中から検査結果を取り出して眺めつつ、医師は渋い顔をしてみせた。紹介状の文面に目を通しても表情は変わらない。瞬きを何度か繰り返しただけで、目は忙しなく文字を追いかけながら、姿の見えない看護師に向かって何らかの指示を出していた。
 神経内科で受けた検査の値は岩泉も知っている。数値が何を指しているかはさっぱりだが、精密検査まで必要になったらいくらかかるのか、学生にとっては切実な問題に気を取られてしまい、医師の説明の中身も右から左へ抜けていくようだった。ただ医師の方も、口頭の説明だけで患者が理解するとは最初から思っていなかったらしく、採血の準備を進めつつパソコンのディスプレイ上に資料をいくつか並べ始めた。
 図で示された数値の高低は、紹介元の医師が実施した検査のもので、それ自体には新たな情報は含まれていない。針を刺し、検体を一通り採り終えてから再開された解説にこそ、岩泉の知りたかった情報が眠っていた。
 曰く。
 数値単独では特段の意味を持たないが、他の項目の数値も連動して変化しているケースは稀であり、その場合はひとつの可能性にいき当たること。
 取り決め上、精密検査の結果が出なければ正式な診断は下せないが、思い当たる症例は先の検査でも明示されているに等しいこと。
 制度上確定ではないが現実的にはほぼ間違いない正確性で、現在考えられる診断は、覆りはしないこと。
 大まかに三つを説明した後、医師は二週間後の日付が入った発行予定の診断書を岩泉の目の前にぶら下げて見せた。紹介状の内容にも触れた記述には専門用語が連なり、外国語交じりの手書き文字は常人の理解を盛大に阻んだが、岩泉にとって必要な情報は文中の立った二つの単語から汲み取れた。
 ひとつは、後天性の三文字。
 もうひとつは、岩泉と及川を散々に振り回し苦しめた存在の象徴を示す文字。
 アルファ。
 局面をすべて書き換える起死回生の切り札が、思いもよらない機に、岩泉の手中に転がり落ちてきていた。



 身体のつくりは確かにベータやオメガとは異なっているが、アルファとて生まれながらに優れた能力を持っているわけではない。望んだ相手を番として迎え入れるために。自分こそが最良の伴侶であると周囲に認めさせるために。生涯を担保できると目に見えるかたちで誇示するしかない、と理屈抜きで感じる瞬間が、彼らのほぼ全員の幼少期に訪れる、というだけだ。
 切磋琢磨に余念のないアルファのみが相手のオメガを選べるのだとするならば、過去に体感している牛島は当然の権利として及川を選ぶ、そこまでは理屈に合致はする。
 だが現状では、及川の側から牛島を能動的に選ぶとは考えにくい。牛島はアルファであることに胡坐をかく男ではないが、ベータの岩泉が及川とは絶対に番になれない事実に慢心している上に、本人が気付かないほどの心の奥底ではそもそもベータを侮っていると及川が見過ごすはずがなかった。
 それでも、岩泉の胸中は穏やかではなかった。受動的に、打てる手をすべて失って、仕方なく牛島を選ぶ可能性ならば十分に考えられる。それだけではなく、発情を制御する過程で必要に迫られ肌を重ねていくうちに情が湧いて、二人の考え方が変わっている可能性もある。
 及川に接する時間がごく限られていた牛島が、これ以上ないほどに用意された時間を最大限に活用した場合が、岩泉にとっての最悪のケースだ。及川の人となりを、価値観を知るにつれ、徐々にでも誤解を解いていったならば。軋轢の原因を探り当て、どうして二人があんなにもすれ違ってしまっていたかの原点を見つけ、僅かでも己の非を認め頭を下げたなら。
 心を解きほぐす糸口を掴まれてしまえば、同衾に嫌な顔もしなくなるのではないか。まさか、とは思いたいものだが、短期間で化けられでもすれば、幼馴染であった者としての――恋人としての利点が、なくなってしまう。
 半月も先の検査結果など待っていられない。形而上時間を要するのだと諭されようとも、岩泉の歯止めにはならなかった。体が安定するまでは慣れない事をするなと医師には言われたが、慣れた事しかやらなければ何も変わらない。やるべきことも、すべきことも、今まで以上に増えている。
 身体の異変の正体さえ判明すれば、貴重な時間を割いて単なる杞憂に付き合ってやる意味も、今となってはなくなっていた。
 一分一秒の時間が惜しい。及川ともう一度顔を合わせる可能性が高い十月の大会まで、部の体制再編も含むといよいよ余裕などなくなっていく。病院の敷地を出た時の速足が駆け足になり、春高を目指して練習を続ける仲間のもとへと戻り、着替えてから体育館へ向かえば、慣れ親しんだいつもの天井が出迎えてくれた。
 記憶との齟齬を修正しながら、身体感覚を研ぎ澄ませて、跳ぶ。世界は本当は想像以上に高精細なつくりをしていて、様々に変化している。同じ高さに跳んだつもりでいても、違う空がそこには広がっている。
 及川の、いない空。
 ボールは来ても、かけがえのないパートナーが去ってしまった、空。
 もう今の体育館で、同じ空を見上げてくれる機会はない。
 傍らから及川がいなくなってしまったのだと、割り切らなければならない時節に差し掛かっていた。



 打倒、白鳥沢。
 その一念で、チームとしては勿論だが、個人的な雪辱を果たすためにも、岩泉は連日コートに立ち練習に明け暮れた。蝉時雨がかき鳴らされる中、扉も窓もすべて開放して練習を続けていても、無風に近い体育館内は部員の体力を著しく奪っていく。日暮れ時ではあったが、過度の消耗を避けるためにも、水分補給を兼ねた長めの休憩を全員が余儀なくされた。
 トスの軌道を逆さに辿った先の顔は、蒸し暑さに音をあげたげな後輩セッター、矢巾。休憩の合図とともにその場に突っ伏して何やら呻いている。見かねた京谷がドリンクボトルを矢巾の利き手に握らせ、壁際まで引きずっていくあたり、一悶着あってもどうにか部内もまとまりつつあるのだろうか。
 思い思いの場所と手段で暑気を紛らわせようとする部員たちを横目に、持ち上がりで主将になってしまった岩泉は一人、体育館の外に出た。
 暑いからって、腑抜けていられる時間なんかないんだよ。
 オーバーワークが得意な及川がいかにも言いそうな台詞は簡単に思い浮かぶ。けれど、声の持ち主は青葉城西の敷地のどこにもいない。及川と長い時間を共にしたコートでは、今でも微かに気配を感じる時があり、無性に懐かしくなると同時に寂しさも呼び覚ます。どこか遠くから漂ってくる芳しさが、一層それを煽り立てる。
 薫りに胸が詰まりそうだ。
 爛熟したオメガの放つ薫りはやわらかくまろやかで、自己を律する指針とも言うべき社会規範などどうでもよくなってくる。及川のものと知れていれば、尚更だった。
 ……及川、の。
 俯きかけた岩泉の表情が消え、見開かれた目は虚空を宿していた。
 遠くから、とはどこなのか。
 部室の隅にある及川のロッカーの中身はとっくに片づけた後で、私物は何一つ残っていない。岩泉の部屋に置かれている及川の私物が放つ、弱まった移り香とも異なる、一線を画した強さだ。心を騒がせる躍動感さえ、今は感じられる。
 生身の及川が隣にいた時に覚えてしまった感触を、鼻腔は忘れずにいたようだった。
 ベータであった時でさえ何度も惑わされた薫香だ。
 間違いようのない、問いかけだ。
 ある程度距離が近づけば居場所を示す匂いが正確な位置を示すから、道案内など不要だと以前牛島が話していたのはおそらく、このことだったのか。岩泉は再認識すると同時に、駆けだしていた。
 夢中だった。
 及川の意識とは無関係に溢れ出て、番を含めたアルファを引き寄せる作用を持つそれは、誘い出すための強弱がある。気配と匂いの強まる方角へ、駆ける。駆けただけ、予感は確信へと変わっていく。
 そっちに、いるんだな。
 正真正銘の、及川の感情の起伏が、匂いに乗って伝わってくる。送り出す前が冬の荒波だとしたら、伝わってくるのは漣程度だ。せめて性には振り回されない生活を、と願って送り出した先では、想像したものとは方向性の違う穏やかな日々を過ごしているらしい。気持ちが浮揚した様子もなく、喜怒哀楽のうち人生を彩るための二つがすっぽりと抜け落ちているような印象を抱いた。
 強引にあてがわれた環境で、淡々と自身の日課をこなすだけの味気ない時間は、岩泉の知る及川を急速に損なっているとでもいうのか。喜怒哀楽も露わな、下の子気質の抜けない幼さを、表に出したくても出せない環境なのだろうか。
 そうだとしたら、牛島に及川を任せておくわけにはいかない。環境を変え、及川が元のままに振舞えるよう整えなければならない。かつての自分を殻に閉じこめて、急ごしらえの分厚い外面こそが自分自身だと偽らなければ、個としてどころか一人の人間として認めてもらえない場所にいて、幸せになれる可能性などあるはずがない。塞ぎ込み気を落としているだけなら楽観視も出来たかもしれないが、想像を絶した異常事態だった。ベータの身であった時は、陰ながら幸せを願うなどと殊勝なことを言っていられたかもしれないが、アルファとして生きていける可能性が生まれた以上、一刻も早く連れ出さなければ二重の意味で取り返しがつかなくなってしまう。
 事ここに至っては、あまり多くの選択肢は望めない。
 牛島が自身のあり方ごと環境を変えるか、及川の居場所を変えるかの、大きく分けて二つに一つ。
 双方をある程度客観視しようと試みても、時間はそこまで残されていないように思われてならなかった。


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