十三章 岩泉編

 抱え上げ開かせていた足は、深い眠りの訪れと共に力が抜け重みを増した。方々に散っている白い蜜は、双丘の奥にある窪みから今でも滲み出ていて、次の発情期までまだ十分な間があると示す最たる証拠でもある。湿らせたガーゼタオルを用いて清拭しておけば、纏わりつく性臭も多少は緩和され、起き抜けに及川が渋い顔を作って見せることもないだろう。物思いに耽りつつ手を動かしても、指先の力加減を誤るなど、牛島には万に一つもない。ほんの少しの気まぐれと、嫉妬心と、愛情と。体調を整えるも崩すもそれらの織り成す綾模様次第であり、適切に育まれなかった果てに待つ答えを知らないアルファなど、牛島の周囲にはいなかったし、いるわけがないと牛島自身も思っていた。そういう意味では人が好かったと言える。甲斐甲斐しく世話を焼くための十分な良心は、問題なく機能すれば、及川の望む居心地の良さを常に供給できるだけのものだったのだから。
 問題が、なければ。
 安らかな寝息を牛島に聞かせている及川は、多少のことでは起きる気がないらしい。アルファの庇護下で生きるオメガは大抵の場合そうなると知っていたが、自分にだけ特殊な警戒態勢を敷いていた及川も例に漏れずとあっては、牛島の心境にも複雑な色が滲みはじめる。己の対として認めた相手にのみ、警戒を解き自分の一部とみなして受け入れる、自と他の垣根の改変が起きたのだろうか。俄かには信じがたい仮説が立ち、真偽それぞれを検証しようと思う反面、疑心の源となっていたものは、何ら動きを見せない事実に他ならなかった。
 及川本人の口から、色好い返事を聞いていない。
 言葉を濁し、最終的な意思の在り処を悟らせぬまま、噤んだ口に音が乗る機会も減ってきたように思われてならない。打ち解けてきてはいるのに、真意は遥か彼方にあり、ともすれば飛び立って二度と帰ってこぬような、幻を見せられているだけのような。自分が日常として信じ切っていたものは、彼にとっては虚で飾っただけのかりそめの積み重ねであり、核心に至る道はとうに閉ざされているのではないかと懸念されたが、曖昧に笑む及川を前にしては具体的な話など出来るわけがない。暗い予兆は幾度となく足首を掴み、及川が直面している希望か絶望かのいずれかを示そうとしているのだろうが、感じたものを及川自身が形容しきれないなら、アルファとベータに差異はなかった。
 噤んだ口が開かなければ、動きようがない。あと一歩の距離を詰められずに、皮肉な平等に阻まれて、置かれた条件のもと空疎な時間が過ぎるばかり。
 泥のように眠る及川の体を清め終えた牛島は、最善手と思われる解決法をその日も見つけられずに、退けておいた薄手の肌掛け布団で及川の体を覆いはしたが、その隣に横たわる代わりに部屋を出た。
 常夜灯が足元を照らすのみに光源の絞られた居間を通り抜け、冷え切った缶飲料を冷蔵庫からひとつ取り出した。軽い音を立てて開いた注ぎ口で弾けた飛沫はいつになく冷ややかで、気泡の責め苦をやり過ごそうとした左手の指が缶をつまみ上げた。窓辺に立ちカーテンを開ければ、大部分を街路灯にかき消され、数えるほどしか星の残っていない空が広がっている。灯火の明るさに目を細めそのまま閉じてしまうと、注意力の向きが変わり自身の心音以外の音が聞こえ始めた。泡のはじける音と、時計の秒針が刻む規則正しい音。二つは星の語りかけるあえかな声に重なり、日常と非日常の境を曖昧にしていった。
 閉じた瞼の裏へ真っ先に描いたのは、ぐったり横たわる疲労も色濃い寝姿。原因の推測は容易だった。疑いようもなく、牛島本人にあったからだ。
 自分自身の内に秘めておく必要がなくなってからというもの、及川に対しての性衝動は膨れ上がる一方で、体調を顧みてやるべき立場にありながら疲弊させている矛盾は当然自覚している。
 だが理想と現実は一致せず、二人の心境を知ってか知らずか嘲弄する。及川を前にすると、発情期中はあれほど機能していた自制が一切の仕事を放棄してしまい――遮るものの無くなった欲求が支配する、理性を内在させただけの獣が一匹、かの肌に牙を突き立てるだけだ。体の隅々まで堪能せねば気が済まない、といった風の荒々しい自分自身の台頭を俯瞰するばかりで、目を背けたくなる己の所業を否定できる要素も、もとよりなかった。
 及川の態度が軟化しつつあるように思われたのも牛島の罪悪感を募らせる一因であった。人の心の機微に思いを馳せる機会が増えるにつれ、一層表面化した不可思議ないじらしさに愛おしさを募らせた。だが一方で、胸を抉られてもいる。牛島のやりようを非難して然るべき立場にあるはずの及川が、牛島が知る限りの人となりからは考えつかぬほどの従順さを見せて、恨み言ひとつ吐かずに身を捧げ尽くしているせいだ。行為の最中に疲れて眠ってしまっても、揺すられるばかりになった抱き人形は閉じた双眸を開いて、夢の世界から舞い戻ってくる。まどろみと現実の間を揺蕩いながらも、妹背の仲となった者をひとしきり愉しませ、意思とは関わりなく捧げた身を堪能しつくしたと確かめてから、ふわりと笑んで再び休む。昼間の振舞いに見合いも似合いもせぬいじらしさが、また格別であった。
 得体のしれない及川の変化に付け入り牛島が無体を働いているのは、真実でもあり、誤解でもあるのだが、傍から見た場合行きつく結果は一つしかない。一番気遣うべき立場にありながら、疲労の最たる原因となっている自分を、ほめそやす者はないと牛島自身が十分に理解している。理解してはいるのだが行動が伴わない以上、理解していないと受け取られても不思議のない話で、蓄積した及川の疲れが癒えたりもしない。淫らに蠢き吸い付いてくる粘膜の揺りかごに包ませたまま、横たえた身の力を抜いて朝を迎える日も珍しくはない。
 心なし肉の削げた上体を、自らの両腕で作った領域の中に閉じ込めたとしても、もう逃げられもしなくなった。警戒心を抱く余裕はとうに失われ、体力の浪費を避けるために重ねた妥協の副産物、だったのかもしれない。それでも牛島にとっては、及川が抵抗を見せず手の届く範囲に居続ける、この一点だけで十分だった。大切にしたいと願った人と共に過ごす、かけがえのない時間を得るためならば、自分の生涯が根本から覆ろうとも構わないとさえ思うほどでもあった。
 及川の中に二面性を見出すまでは、自分たちの関係にはどのような隈も現れはしないと信じ切っていた。現れてからでは遅いのだと認める重苦しさを呑み込めぬうちに事態は足早な展開を見せ、二人だけのものではなくなった関係性が拡張し何処かへ繋がっていこうとも、指を銜えて見ていることしか出来ずにいた。自分なりに最善を尽くしたつもりでいたはずが、過ぎた時の中置き去りにしてきたものに足元を掬われて。至らなさを痛感した頃には星の数ほどの不可能にすっかり取り囲まれて。途方もない変化だったが、どれほどの期間をかけて起こったのかは、曖昧になっている。だが、運命を手にしても万事が万事望月のようには運ばないと知るために、不条理な高さの対価を払わされていたように感じた。
 冴えてしまった目をゆっくりと瞬かせ、白む気配はまだ見せない空を、牛島はぼんやりと眺めていた。どこを注視するでもなく、平面と化した星空に、視界を埋め尽くさせて。星図片手に天体観測と洒落込むに相応しい、平穏な深更を最後に過ごしたのはいつだったろうか。何を差し置いても優先せざるを得ない事情が自分たちを繋ぎ合わせたとしても、及川さえ拒否しなくなれば、世間並みの恋人同士のように過ごせる日が来るのでは、という甘い幻想が牛島を髄から酔わせた。具体的に何かを思い浮かべてはいなかったが、及川の体だけでなく、心にも寄り添えたのなら、と顔からは想像しにくい夢を胸中で育んでいた。
以前とは比較にならない多くの時間を及川に費やし、思い描いた未来図を絵空事で終わらせまいと腐心しながらも、精神的に満たされず鬱憤が溜まっているかと問われれば。否、と答えて、いや断言していたに違いない。歯がゆい思いをしながらも、従来とは異なる悩みを抱えた自身に風変わりな幸せを覚えてもいるのだから。
 自分自身を、高望みをしているとは思ってはいない。
 多くを望んだ結果自分の存在が及川の重荷となり、不仲を拗らせた末に離れ離れになる位なら、突きつけられる無理難題に匙を投げずに向き合うと随分前から決めている。
ただ、それでも足りない時にどうすべきかを、教えられずに育った。
かつて導き出された規範は参考にしか過ぎず、活路を開くには研鑽を重ねるのみだと示されるに留まった。
十八年余りの時が過ぎ、責務のひとつを忘れかける頃合いを見計らったように、もう先延ばしにはならないと告げられただけの事。
探し続けた答えを掲げ、建設的な前途を生み出す時機が訪れている、と。
ここで決断を下してこそ、辿り着ける場所があるのだ、と。
 詳らかにできる根拠はないが、漠然とした予感があった。



 結局、中身を半分も干さないまま、缶を片づけた牛島は部屋へと戻った。
 離れた時と同じように、体を丸めた寝姿が布団をこんもりと持ち上げている。冷えを嫌い鼻先まで隠して眠る恋人の背中を一撫でし、下がった室温に肩をすくめていないのを確かめてから、一息ついて隣へと潜り込んだ。
 年の割に幼い印象の顔立ちは、眠っているとあどけなさが顕著になる。及川の上背については十分に理解を深めた気でいたが、それとは何の関係もなく、目に留まる姿形の何もかもが『これは、庇護を必要とする生き物である』と声高に訴えかけてくる。寝付くまでの間耽っていた行為も相まって、途方もない大きさに膨れた愛しさに背を押された牛島は、力の抜けきった及川の体を胸元へ抱き寄せた。
 夢を結ぶ及川の口から漏れ出る、あたたかな吐息が牛島の肌をくすぐる。帯びた湿り気が、一度は確かに宥められた劣情を呼び起こしかけて、はっと息を呑んだ。
 そんな牛島の様子など、及川は当然知らない。
 何事もなかったかのように、散々自分を苛んでいた相手が戻ってきたというのに、意識は浮上せず依然として全身を弛緩させたまま。
 力加減を間違えた牛島の腕が背骨を軋ませ、痛みが夢にも干渉したのか、痛いよ、との寝言が甘えた声で飛び出す位が関の山だ。
 咄嗟に力を緩めて柔らかい癖毛を撫でれば、むにゅむにゅと動いた及川の口が、くすくすと上機嫌な笑い声を奏でる。
 やだ、くすぐったいから、それやめてよ。
 割とはっきりと牛島の耳には聞こえてきた。
 だから余計に、続いた一言が、汗の引いた背中に冷や水を浴びせかけた。

 岩ちゃん。

 ここが舞台で、芝居の一幕に巻き込まれただけなら、ひどい出来の滑稽劇と一蹴し、気にも留めなかったのだろうが。
 生来器用な性分とは縁遠かった牛島には、出来るはずのない芸当だった。
 身を渦中に置いていたのだから、尚の事。

 強引に連れてきた直後は特に、及川は過剰なまでに岩泉の名を出しては露骨に牛島を嫌い、悪態をついてばかりいた。
 それでも、牛島の生家を軸とする全く新しい生活に慣れていくにつれて、少しずつ落ち着いてきたようにも見えていた。
 及川の順調な経過は自分の願望が見せたまやかしだとしても、生活の不自由が減り続ければ、考えが変わるかもしれない。
 悲観的な見方を避け、良い兆しが何かないかと目を皿にして探していたからこそ気づいたのか、気づいてしまったのか。
自分の中で万事の折り合いをつけたとしても異様でしかない、このところの及川の様子に。
牛島の知る限りの、及川の人となりと照らし合わせて浮かび上がった、見過ごせぬ不自然。最初は、日常の振れ幅が気まぐれを起こしただけかと思ったのだが、同じような日が三日も四日も続けば疑いを挟む余地も消える。意趣返しか、何らかの無理をしているのか、牛島の思案顔を覗いてきた及川の瞳を凝視したところでいずれの性質も見出せぬままに、一週間が過ぎていき。
 牛島の背にも、うすら寒いものが走った。
依存と形容しても過言ではない岩泉の存在が、すっかり鳴りを潜めるとこうも気味が悪いのか。扱いに手を焼く気性も、丸ごと抜け落ちてしまうと物足りなささえ感じられる。個人的に大いに買っていた気骨は、すでに失われてしまったのだろうか。だとしたら、いつ、どの時点で。
思い当たる節というやつはおそらく、牛島自身が気づいていないだけで、牛島の愛した及川のすべては失われつつあるのだろう。ならば、いつ、どの時点が起点か。そこまではわからない。久方ぶりに虚しさに支配され、気を許そうとしない及川への腹に据えかねるわだかまりなど、どこかへ消えてしまっていた。
 かといって、諦めてはやれないのだ。
 からだの繋がっている間は至極心地よさげに腰を振るくせに、胸の中で想う相手が自分ではないのだと、特別な存在が既にあるとわかりきっていても。一枚岩ではない及川の内面を看過しきれずに手酷く抱いてしまい、一日立てなくした件も記憶に新しい。
 その点、皮肉ではあったが、発情期の及川が一番牛島には好都合だった。
 日頃は隔ての内側に入れてさえもらえないが、理性が消失してしまえば他の男の名を出さない。
 視線の先には自分しかいないから、まともに向き合ってもらえる。
 際限なく求めてはくるがその悉くに応じてやると、この上なく幸せそうにふんわりと微笑む。
 平生とは大違いで、牛島の望んだ通りに甘やかされまっすぐに見つめ返してくる。
 本能に支配されている間ならば、ごく自然に番らしく振舞っていられる。
 互いが互いしか目に映さずに、労りも意図を曲解されずに受け取ってもらえる。
 体に限った話ならば及川はとっくに自分のもので、中に注ぎ込まれる感触に陶酔し目を閉じて艶めかしい息を吐く様は、睦まじく子作りに励む番そのものと言えた。
 ただしそれは、見かけに限った話でしかない上に、肝心の及川はどうも不安定なところがあるように感じる時が増えている。
 何かとこちらのやることに目くじらを立て、不平不満を口にしては機嫌を悪くし背を向ける姿。
 肌を直接触れ合わせるのを好み、わざわざ抱きついて眠りたがる姿は、近頃は発情期以外でも見られるようになった。
 二つの姿はかけ離れているがどちらも及川の一面であり、自分を欺くための罠と疑う余地もない。どちらかに絞り込んで人となりを語れるほど、当人の性格も単純ではない。多様な側面を持ち刻々と様相を変えていく、特有の気性は確かに厄介だったが、己が気を千々に乱すほどにその全てが愛しかった。かの人を知れば知るほど深みに嵌まっていき、かの人の隣に自分よりも長く在った岩泉が、ベータでありながら同じかもしくはそれ以上に拘泥していたのも頷ける。
 だが、想う深さならば一歩も引けを取らない自負ならば、牛島にもあった。
 好意が高じて攫うに至り、悲願叶って占有出来るかと期待を膨らませたのも束の間、及川と岩泉の間に育まれた因縁めいた絆が盤面を狂わせてしまうまでは。
 岩泉から及川への感情は二の次としても、及川が頑として岩泉との『ひととき』を清算しようとしない、見込み違いさえ起きなければ。
 目こぼしが裏目に出た末に、かける言葉は上滑り。
 愛していると、どれだけ告げようとも響かない。
 岩泉の存在が及川の胸中を覆い隠し、言葉の意味を歪めてしまう。
 求められている意味を含ませて、及川の持つ文脈を汲んで正しい補語を用意出来なければ、本意も真意も伝わるはずなどなかった。
 薄々感じ取り、時間をかけてでも知覚した現実だったはずなのに、思いを馳せる度に深く、深く胸を抉る。
 岩泉が教えたと思しき身体言語ならば即座に理解する及川を、いつまで大人しいままに腕の中に閉じ込めておけるのだろうか。
 根拠のない不安は牛島の忌み嫌うものだが、及川と岩泉の諦めの悪さは既に経験している。
 あと数時間で夜が明ける空はまだ暗いが、闇の中から光が割り入ってくる瞬間の眩さの前では、独善的な執着などひとたまりもない。
 実のない温もりをかき抱いたまま目を閉じても、及川が振り向く佳夢は訪れず、代わり映えのしない朝につながっていただけだった。



 二人きりで過ごす時間が何倍にも増えた生活を送るようになり、一月も経った頃だろうか。
 牛島と同じ大学へと進学した及川は、公私共にほぼすべての時間を牛島と過ごしており、見かけの上では確かに番らしくなってきていた。肉体的な面に限らず、社会生活上でも、牛島を伴った前提で何もかもの話が進んでいく。
二人でいるのが当然、周囲からそう思われるのを、及川は本心から望んだわけではない。必要に迫られて作り上げた関係性にすぎないはずが、二人のありようは実にしっくりと周囲の環境に溶け込み、羨望の眼差しを時として受けることもあった。
 しかし良い影響ばかりが出はしなかった。望まない環境は、及川の生来の人となりを緩やかに蝕んでいった。
『騒がしい印象を以前は持っていたが、番を作って落ち着いたのか随分と大人しい』
『何かにつけ矢面に立ち積極的に思うところを口にするきらいがあったが、一歩引き控えめな今くらいが丁度良い』
とんと縁のなかった言葉で形容されるに至った及川の物腰が、別人のように穏やかになってしまっていた。
古式ゆかしい大和撫子、とまではいかずとも。
 久方ぶりに及川を目にした旧知の友の一人が言葉を濁し、哀惜の念に堪えず目を背けたのも、オメガの生存本能を改めて見せつけられ思い知らされたからであろう。彼が敢えて具体的な変貌を言及しなかった理由には、恐れが多分に含まれていた。
 軽薄にも見て取れる言動を繰り返していた及川は、姿かたちしかもう残っていない。はっきりした喜怒哀楽を持ち、くるくると表情を変えて周囲を振り回し振り回された日々など嘘のようで、生返事の増えた単なる抜け殻が佇んでいるだけ。習い性で牛島に付き従っているばかりだった。
 これはいくら何でもおかしい、及川の姿をしていようと今目の前にいるのは別の何かだ、そのように牛島が気付いた時にはとっくに手遅れで。少しでも気に入らないことがあれば即刻言い返してくる、敵意の棘に覆われた茨の中に息づく及川は、一体どこに行ってしまったのか。人の機微に疎いがために途方に暮れたのは、牛島自身にとって初めての経験でもあった。
 雲居の彼方へと消えてしまったかと思われた旧知の及川が垣間見えた瞬間さえ、牛島にとっての幸福な絶望へと繋がっていた。



 布団の上で本能が求めるままに体を重ね、仮初めの愛を誓い合った後、未だに膨らんでこない腹の上で二つの視線が交差した。含む意味もそれぞれ異なっている。かろうじて保たれていた均衡が崩れ去ろうとしている今、絡み合った意図は二度と解けぬようもつれ混迷を極めていた。
 及川の自我は哀れにも悉くオメガの本能に『上書き』され、かろうじて残った部分ももはや領域とも呼べない一本の線になってしまっている。そのせいで、行為の名残も色濃く昂ったままの肉体とは裏腹に、意識を夢幻と現実の波間に揺蕩わせた及川の目は、冷たく澄みきっていた。
 最後に残った線の中に押し込められたのは、絶対に忘れたくないと願った数える程度の記憶たち。
 今際の際まで及川を支えた、拠り所に等しい記憶たち。
 だが皮肉にも、それらは願った理由諸共に、かつての『及川』が自らの手で消した。オメガの本能が足元に転がしておいた鋏で、実にあっけなく断ち切られた。
 牛島の番として歩を進めるには邪魔な、足元に一本だけ意味もなく引かれている罠のような糸。拠り所と呼ぶにはあまりに繊細な遺物。擦り切れる前に敢えて断った時に、及川が何を思ったのかを、牛島が知るはずなどないであろう。
 二度と叶わぬ願いが身を滅ぼす前に。跡形もなく自分自身が失われてしまう前に。本能に消し去られるのを待つくらいなら、せめて自分の手で。内に息づく岩泉のすべてを消し去ることで、失われていく宝物へのせめてもの手向けとなるように。
 痛みさえ覚えるほどに強く恥骨を押し付けた牛島が、一滴残らず蜜液を注ぎ込み終えた直後。貫くものの質量の分だけふっくりと膨れた下腹部を撫でながら、すっかり掠れた声の及川が牛島の耳元で囁いた。
「あのさ……飲むの、やめようか」
 何を指しているか、今の二人の間では自明であった。主語の抜け落ちた不自然な物言いの示す先、つまり提案の中身自体は、牛島が首を長くして待ちわびた話で相違ない。及川が日々服用している薬のことだ。
 だが、同じ言葉を引き出しはしたものの、喜ぶ気になれるはずもなかった。我が手にと渇愛した及川の意志がそのように言わせているのではないと、直感で悟ったせいだ。覇気もなければ、敵愾心もない。聞こえは悪いが、オメガの本能のせいで腑抜けにされた及川を手に入れても、今までの延長線上で愛していけるとは思わなかった。
 薬を止めさせたならば、望む結果は確かに得られる。成熟したアルファとオメガの間柄なのだから、結果だけならすぐに得られる。
 けれど、それは牛島が望んだ及川ではない。変質した人形が手に入るだけで、その結果からは意味も意義も見出せそうにない。空虚が残るだけだ。
 もしもその結果に何も見出さず、及川の心を蔑ろにしても構わないと冷酷に切って捨てれば、オメガの本能が時間と共に及川の自我を食らっていく。何もせずとも、体は手に入る。今までと環境も変わらずに、穏やかに微笑む、及川と同じ姿をした人形が、生涯隣から離れなくなる。番の体さえ共にあれば他を望まない、牛島がそんな男だったなら、及川の心は捨て置かれていただろう。
 そうならなかったのは、単なる僥倖か、それとも……及川に感化されていたのか。
 牛島もまた、番に心を求めた。番の心が欲しくて、わざわざ効率の落ちる回り道を選んだ。薬を止めさせても、彼の渇望した及川の心は手に入らないと感づいていたから。
 一番幸せにしたい人だった。幸せにしてやれる、自負と驕りがあった。番になれたら不幸になどさせるわけがないと信じていたから、及川が心を開くのを待った。待ち続けた。待つ間に、及川のことをより深く知っていくにつれて、自分は本当に何も知らなかったと痛感した。その分これからは誰よりも深く理解してやりたいと思うようにもなった。
 だが同時に、及川から岩泉を奪ってしまえばどうなるのかを、大いに危惧した。引き離しただけでこうも萎れ、元の及川に戻らなく――戻れなくなるなど、誰が予想できたであろうか。
 頭を鈍器で殴打されたかのような衝撃を受けた牛島をよそに、尚も及川は続ける。
「俺一人の体じゃなくなったら、きっと諦められるから」
 及川の変化を奇妙に感じていたのに、薬を止めると言い出すに至る経緯が、理解はおろか想像も出来ない。まだこれだけ距離があるのかと思い知らされ余計に気の塞がる思いだったが、思いのほか『及川』に残された猶予は少なかった様子だった。
 是とも否とも答えないままの牛島は、平静を取り戻そうとして手の届く範囲を拭き清め始めた。そんな彼を視界の端に残し、及川は微睡みの中へと吸い込まれ、細く息を吐いた。
 薬を飲まなくなれば、少なくとも今以上には、渋い顔をされなくなる。自分の境遇をいくら嘆いても意味がないなら、この手で幸せに出来る人が幸せに生きていけるように、自分が折れた方が結果として苦しまずに済むんじゃないか。
 未練が、悲しい結末の呼び水にならないように。
 これから嘘を重ねていくことになるけれど、積み上げた嘘が自分の番を幸せに出来るならば、存在を本能に否定された自分自身も少しは救われるんじゃないか。嘘によって別の新たな自分を作り上げ、心を違う人に殉じさせる我が儘を許してほしい、と言い残していなくなるひどい番で申し訳ない、とは思っているんだよ。
糸を断った今、その両端を拾い上げて火を灯せば、ほのかな光とともにじりじりと焼け焦げていく。
 過去が、思い出が、自分自身と思っていたものが、消えていく。
 真っ黒に焦げた燃えかすを捨て置き、全ての過去から解き放たれたら、苦しみが消える瞬間がいずれ訪れると信じて。
(今度こそ、本当に、さよならだね)
 もう顔も名前もわからない、誰かへ。
 きっと最後の、さよならを。

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