十二章 岩泉編

 嵌められた指輪を外す機会のないまま帰宅して、食事の後は普段通りに二人一緒に入浴。長居するとそのまま寝そうだったから、一人で先に部屋に戻ってぼんやりと待っていれば、どうしても昼間のことを思い出してしまう。
 即座に返事をしろと言われなかった点は、救いだったのか、罠だったのか。感情に任せて拒んだところで、ただの一時しのぎ以下の効果しか持たないことは、見透かされている。俺が最優先すべきは婚姻を受け入れるか否かではないから、いつまでも意地を張って牛島の逆鱗に触れた結果、体を壊してしまう可能性は勿論あった。飼い殺しにする気はないとしても、俺がバレーを続けられなくなる位なら、と極端な行動を取る見込みは大いにある。我慢の限界が訪れて、理性的な判断を下してくれなくなったら、もう俺は唯々諾々と従い続けなくてはならない。
 そうしないと、生きていけない。
 もしかするととっくに、俺の社会生活上の生死は、牛島の掌の上で転がされているのかもしれないな。
 もしかしなくてもオメガの性が絡むと、掌の上に自分から乗って転がされに行くしかない現実は、相変わらずだったし……おそらく一生、ついて回る。程度の差はあれ、オメガに生まれたら全員同じ目に遭う。不公平も例外も慈悲もなく、誰もが同じ道を辿る。外れた先に待ち受ける破滅から目を背け、自分を殺してでも定められた道の通りに足を運ぶしかないのだと、誰かに言われなくても悟る。
 諦めにも似た、適応。そうまでして生きる目的は、俺の場合は何なのだろう。以前なら即答出来た。けれど、今は。言い澱む。名を奪い棺に横たえ、厳重に封までしたものを呼び覚ましても、今の俺の足しにはならない。過去としていつか振り返り懐かしむための、数ある記憶の一つとして並べるつもりならば、眠らせておくしかない劇物だった。
 風呂で蓄えた熱が布団に移ると、横になる誘惑がいよいよ腕を引く。目を覚ましてから続けざまに二度、保健室で三度、夕食前に一度。はっきり覚えている回数だけで六度、今日は体を重ねている。日中の三度が効いたらしく、強い性衝動はもう感じないけど、体力の限界が来たみたい。牛島を待たずに一人で先に眠ってしまいたいのが本音で、一応は待ってやらないと叩き起こされたくない、って建前は風前の灯火。首と名前のつく箇所に鉛の重しを何重にも巻き付けられているような、沈み込む倦怠感に軍配が上がる。
 横になったまま何日も過ごせる発情期の方が、却って身体への負担が軽かったとしたら、ひどい皮肉だ。相変わらずその期間の記憶はほとんど残らないけれど、正気を取り戻した時は少なくとも、今よりは多少はましだったような気もしてくる。期間以外だと好きなだけ休んでいられない分、疲れが残りやすいしふらつきやすくなるから正直参ってる。両手で支えていなければ、とっくに背中が布団に密着しているはずだから。
 とまあそんなわけで、いじらしい俺は旦那様候補のお戻りを待っていたのだけれど、日頃は長湯をしないから遅れが妙に気になって仕方がなかった。待っている時ってのは一秒が長くて、秒針が進むにつれ取るに足らない揚げ足取り用のあら捜しが始まる。掛け布団の中で先に休んでいる下半身は実に幸せそうだ。眠い目を擦って耐えてる上半身の気も知らないで。いやいやどっちも俺だ、不毛極まりないから深く考えるのをやめよう。
 ……まだ、なのかな。
 一体何時になったのかを確かめようと、少し離れた位置の置時計を見澄ませば、短針が九を通り過ぎたところ。
 このまま何事もなく眠れれば、久しぶりにゆっくり休めるんだけどな。いっそのこと二度寝して、昼まで布団から出ずにのんびり過ごしてみたいけど……一人で寝かせておいてくれないだろうから、難しいかな。
 一人にしておくわけにはいかない、って事務的に隣にいるならまだしも、寂しい思いをさせたくない、って言いたそうな目でこっち見るんだから。邪険に扱おうにも限度があるよ。いつまでも冷たくあしらっていられる自信を、どこかで見失ったんだよ。
 ……なぜだろう、へその下というか奥というか、火傷する過程で熱が沁みていくのにも似た感覚があって、でも熱いまではいかずに温かい、って感じがする。今まで一回もこんな症状なかったけど、普段と何か違うこと、したかな……。今日の朝もぎりぎりまで二度寝してから仕方なしに布団から出て、俺だけ寝すぎたから朝ごはん食べる時間なくて着替えてそのまま家を出たし、卒業証書を受け取ってから保健室で大変な目に遭って、帰ってからも物足りないからって畳に押し倒されてそのまま……あ。
 今日の分の薬、まだ飲んでない。
 一瞬で冷え切った血が重力に従い、血の気が引いた頭の中では重苦しい波音がする。
 日付が変わる前に、いや一刻も早く、何を差し置いてでも飲まないと。
 どうしてこんなに重要なことを忘れていられたんだ。昨日の薬が多少は体の中に残ってるとは言っても、そもそも俺の場合はかろうじて薬が効いてるだけだから、現実的な猶予はとっくにゼロに等しい。万一、間に合わなかったら――考えたくはないけど――婚姻届に署名と捺印して役所に提出するのが先か、三つ指ついたご挨拶はもう丸ごと省略して式の次第を決めるのが先かって話になるってのに。そういう責任なら、喜び勇んで取るに違いない。牛島という男も、その家族も。
 大慌てで布団をめくり立ち上がると案の定ふらつき、傾いだままの視界はゆらゆらと揺れている。急上昇した心拍数は軽い頭痛を呼び、何度も深呼吸を繰り返してやっと、視界にかかっていた靄が晴れ始めた。だから、気づくのが遅れたんだ。いつの間にか、珍しい長湯を終えた牛島が立っていたことに。
 飲もうとした錠剤と白湯は、都合よく牛島の手の中にある。それをこっちに寄越せと口にするより早く、牛島は無言で包装シートから二錠取り出し、あろうことか俺ではなく自分の口の中に放り込んだ。
 舌の上で転がされている糖衣錠は、オメガ以外が服用しても何の効果もない。渋みのある苦い薬だと知っていて、こんな手に出るってことは。
 示された交換条件に、頷くしかない。
 寝る前にもう一度、付き合え。
 語りかけてくる血走った眼は野生の獣じみていて、俺の是非を無視してでも食らう気なのだと、容易にうかがい知れた。向こうがその気になってしまったら、俺がしたいかどうかは関係ない。抵抗した分だけ手ひどく全身を凌辱される。かといって明日に延ばすため媚びを売るほど、俺はまだ堕ちていない。体しか差し出さない妥協案はあちこち綻び、あるがままに叩きつけられるアルファの本能が、俺のオメガの本能と結託して大切にしていたものを次々蝕んでいたとしても。添い遂げたいと望んだ相手を選ぶ権利は、誰だって持ってる。俺だって例に漏れないはずだ。
 なのに、いくら俺が自身の願いを掲げていようと、ぬるま湯に慣らされ箍が外れた体は楽な方へと流されていく。俺の変化を感じ取り、俺以上に変わっていった牛島もまた、本能に自我を汚染され楽ができる方へと流され始めたのかどうか、このところ疑念が湧く機会がとみに増えた。
 俺の体の扱いに慣れるにつれ性的な昂りを抑えなくなり、俺を抱きたがる回数もわかりやすさもはっきりと比例しているってだけじゃない。任せきりの薬の管理は完璧に近く、当座の心配はしなくて済む一方、習得に至る経緯を想像するのも恐ろしい性技を徹底的に体に仕込まれ、精神的にはとても健やかに成長していた涙ぐましいまでの俺の努力を木っ端微塵に破砕する赤面ものの知識を散々教えられ……外見はそのままに内面が豹変したのか、はたまた元から牛島はこういう側面を持ち合わせていたのか。正解を探す気力はとっくに萎えている。
 今でも体が変化し続けている俺に対して、とどめを刺すのはとても簡単だ。魔が差した、気まぐれを起こした、理由なんか後からいくらだってつけられるし、発情期に入った俺に種付けするかしないかも、牛島の心ひとつでどうにでも出来てしまう。俺を囲って、生活に一切の不便のないよう取り計らう裏側で、婚姻への下準備を整えてること位知っている。実力行使に出ない理由も、大体見当はつく。
 力で屈服させても無意味だと知っているから。身重の、帰れない体にされたからって、選択肢がひとつに絞り込まれたからといって……俺の気があっさり変わりはしない。岩ちゃんのところに戻れなくても、岩ちゃんの代わりに消去法で……牛島を好きになるような精神構造をしているわけがない。そんなのは、牛島が長年追い求めた俺じゃない。俺が自分自身の意思で、牛島を選んで初めて本懐が遂げられる。理屈抜きで、感じ取っているんだろうな。
 けど、そんなのと性欲は別物。俺自身がそうだから。欲情した牛島の匂いに、俺は今日も流される。口づけて舌を突っ込み、糖衣の薄くなった錠剤を奪い取り飲み込めば、冷めた白湯の入ったマグカップを渡された。喉に残る若干のひっかかりを洗い流し、飲み干し空にしたマグカップを片隅に寄せるが早いか、部屋着の下を一息に脱がされる。
 緩い服は足首から簡単に抜け落ち、風通しの良くなった臀部は湿っていて。ひやりと冷たさを感じたのはほんの一瞬で、片膝を抱えられ昂ったものがすぐさま俺の中に埋められる。慣らしもせずに一息に押し込まれて、圧迫感に息が詰まる。十分に嵩の張ったものが内側から蹂躙し始めたら、俺は瞬く間に陥落し目尻を染めて、抱き寄せる腕に縋らずにはいられなくなって……少しずつ、得体のしれない何者かに、己の裁量の及ぶ範囲を狭められていく。そんな気がしてならないんだ。
 立ったままするのはそんなに慣れてない。壁に手をつき、時折押しつぶされそうになりながら、背後の気配に支配されていく。途中までしか自力で立っていられなくて、その分負担も増大するのは理解してるはずなのに、どうして牛島はこんなに大変な体位で繋がろうとするんだろう。がっつかなくてももう俺は逃げないし、誰も横槍を入れたりしないのに。
 満たされず飢えたままなのは、俺がもうどこへも行かない確たる証拠がまだ存在しないから?
 俺の体はお前の番になったのに、いつまで経っても俺の心がお前のものにならないから、お前は安らげないのか?
 俺に限らずオメガの体は、相手の快楽を引き出すためなら大抵のことをやってのける。肉体的、精神的問わず、番の相手の好みを鋭敏に察知して己を変えていく。好ましいと感じてもらうためなら、既に自分自身の中で確立していた人となりや、普段は意識しない立ち居振る舞いでさえも、オメガの本能は従来のものを侵食し書き換えていくんだ。
 緩やかに、俺の内面は死に向かっていく。避けられないのに、誰も悲しんでくれない。番が出来てからあいつは変わった、で全て片付けられてしまう。俺が、自分自身であると認識していたものは、他でもない俺の中にあったオメガの本能に殺されるってのに。一体誰なら、俺の中で成長を続ける性の本能から、十八年分の『及川徹』を守ることができるんだろう。不可抗力として、安直に片付けたくない。諦めたくない。俺は今のままで、一人のオメガとして生きていきたい。
 与えられた環境に迎合し、本能のままに表向きの安寧を満喫するのは御免だった。意識的にも、自発的にも、俺を牛島に合わせてやるつもりはない。勿論、俺が自分のオメガ性と付き合っていくにはアルファの存在が不可欠ではあるけれど、それだけだ。生きていくうえでどうしても必要だから一緒にいて、体の都合を最優先してセックスに明け暮れているだけ。俺から牛島に向けて持つ感情には、恋とも愛とも名前はつかないし、今後つける予定もない。
 俺は、牛島に想われるだけの価値を持っているのか、問いかけても。一蹴されて今のように腕の中に閉じ込められて、情熱的な返事をもらうだけ。一分の隙も存在しなければ、疑う余地も残されていない、俺の何もかもが肯定される歪んだ恋文が、淡い花びらとなり全身に描かれる。俺が否定するたびに、牛島は肯定しなおす。番を作ったから生涯他の誰も愛してはいけないって決まり事もないのに。人を好きになる気持ちと、対の性に引き寄せられる体の欲求とは、同一とは限らないから。
 俺を好きになる必要性はなかったし、義理なんかあるわけない。将来の番のために操立てするような貞操観念もなければ、一方的に他人の肌を知っている後ろめたさも感じなかった俺は、特別でも何でもない相手として扱っても構わなかったんだ。
 本当は。
 ……そのはずだったのに。そう思っていたのに。
 変わってきている。
 変わりつつあると、俺は自覚している。
 良心が咎め、胸が痛むんだ。寝付く前、俺が返事をしないのを承知で、愛してるなんて言うから。俺が今の俺である限り薬の効力は続くのに、詮無い行為と知りながら、今以上には膨らんでこない腹を撫でるから。
 まだ俺のお腹には誰もいないんだよ?
 なのに、幸せそうに目なんか細めてさ。頬擦りして、語りかけて、俺の嫌味もどこ吹く風で受け流して。人の親になる未来を、お前は俺相手に描いてるんだろうけど、俺が本当に好きなのは――岩ちゃんなんだ。未来永劫、変わることのない、俺の中の真理とも言える根幹。お前が懸想している俺を形作ったのは彼以外には考えられず、お前の存在はひとつの契機に過ぎない。
 だから俺は、お前なんか好きになってやらない。
 そう思っていたい。
 そう、信じたい。
 身を穿つ不規則な律動が次第に速さを増し、白んでいく思考から様々なものが削ぎ落とされていく中、俺の中に最後まで残っていたのは誰なのか。お前は確かに、運命の寵愛を受けたのかもしれないし、俺自身も認めている部分はある。
 ……けど、ね。お前の本当の望みは別のところにあるんじゃないかって。正直俺は疑問に思うんだ。
 形式上、俺がお前を受け入れても、俺が本心からお前を選ばない限り、お前の望みは叶っていないんじゃないのか。お前『で』いい、と妥協し受動的に選ばれるのと、お前『が』いい、と能動的に選り好みした結果の間には、天地ほどの差があると気づいてるから。だからしぶとく食い下がっているんじゃないのか。
 お前の望む未来など訪れないのに。早く諦めればいいのに。お前の望みは、歪んだ形でしか叶わない。俺がお前のものになった時には、お前が渇望した俺はお前の前から消え去った後なんだから。
 このままじゃ余りに、お前の恋が不憫だ。縛り付けられた運命からお互いを開放しても尚、自分自身の意思で互いを選びあいたいと思ってるなら、今の生活は悲劇しかもたらさない。俺を手にしてもお前は却って苦しむ羽目になり、悔いを残して生きていくんだ。
 そんな未来、俺は御免だ。俺の人生が破綻した連鎖に、お前を巻き込むつもりなんかない。
 だから俺を、お前の運命から解放してほしいんだ。取り返しがつかなくなる前に。俺を形作っているあらゆるものが、不可逆の変化を起こし四散してしまう前に。
 取り返しがつかなくなる前に。



 振り返ってみると、牛島が俺を傍に置き片時も離そうとしなかった当初は、ただの束縛の域を出なかった。なら対処は難しくないからと俺は侮り、行きすぎなければ好きにさせていた。その認識を改めざるを得なくなってからでは遅かった。俺の落ち度だ。束縛ではない、別の名を持つ得体の知れない何かに変わってからというもの、俺は牛島をまるで拒めなくなっていた。
 目の前にいる人が岩ちゃんではないと頭では理解しているはずなのに、所作の端々からどうしても彼を思い出してしまい、矛先が鈍っただけじゃない。馴染めなかったはずの口づけを交わしても、もう背筋にぞわりと走るものはない。俺が手放さずに済んだかけがえのない宝物のはずだった、岩ちゃんと過ごしたとても鮮やかな記憶も霞み分解されつつある。思い出の中で笑いあってたはずの俺たちがどんな顔をしていたのかも、俺はいずれ思い出せなくなるし、忘れてしまったことにさえ気づかなくなるんだろう。
 そういった俺の変化と関係があるかは不明だけれど、指輪を俺に贈った数日後から、牛島は俺を名で呼ぶようになった。耳に飛び込む一層甘い響きの声色を悉く無視してやっても余裕綽々、度量の深さを見せつけられたようで何とも腹が立つ。二人揃って同じ進路を辿るのももはや当然といった扱いで、入学が決定すると同時に関係についても広められ、早々と『公認の仲』と見なしているとも聞いた。
 外堀を埋められた俺は、本当のことを誰にも言えずにいる。俺たちの関係を祝福しようとする人に囲まれているのに、俺は今の関係も、その延長線上にある結末も望んでいないなんて、今更口にできない。悪い冗談のような実態を喧伝したところで何も変わらない。
 加えて、俺が牛島をどれだけ袖にしようとも、『牛島の恋女房』で扱いが定着している以上、俺の振る舞いは全て好意的に解釈されてしまうから厄介だった。どちらから近づいて番になったかは勿論、牛島がどれだけ俺に執心していたかまで知れ渡っていると聞かされたときは、眠ったまま二度と目を覚まさなくても構わないと思ったくらいだ。まだ二人が表向きしっくり来ないのは、俺が人前ではなかなか素直になれずにいるからだ、なんて思われているらしいし。
 ……そうじゃないのに。
 保身のために口を閉ざすのも癪だけれど、はっきりと牛島を拒まないイコール、俺もしっかり好意を寄せている、と思われるのだけはどうにも耐えられない。
 まだ俺はオメガの性にも運命にも屈していない。未来は一つだけじゃない。可能性はまだいくつか残っている、諦めるのはまだ早い、そうやって自分を奮い立たせて今までやってきた。
 ただ、俺たちの顔と名前が一致する程度には親しい人たちは、俺が独り戦っている相手の味方だ。口々に俺たちの奇跡的な運命を羨み称賛し、罪のない無垢な未来を各々が描く。
 『早くから見つけてもらえてよかったね』
 『環境が変わってから馴染むまでに時間がかかってるだけだろうから、授からないのを気に病まないでね』
 俺が手に入れる幸せはどんな形をしているのかを、彼らは一度として疑っていない。人の気も知らず、無邪気に、決まりきったものとして、彼らは俺の将来に名を与えていく。進学を機に親元から離れ二人だけで暮らすようになった分、恋愛譚には若さゆえの過ちまで織り込まれているのだから、俺一人があがいても彼らの夢想に影響は出なかった。
 灰色の雲が空を覆う季節から、麗らかな日差しに照らされた草木が眠りから覚める季節へと変わっても、俺の中には冷たく凝った隔てが依然として残っている。その隔ては、俺を二つに割いている。ひとつは、牛島と距離を取りたがり岩ちゃんを慕う俺。努めて作り上げた、過去から連綿と続いている、従来の『及川徹』。もうひとつは、望んで牛島の番として生きようとする俺。知らぬ間にオメガの本能が生んでいた。オメガの性を軸に形成されている、過去とは袂を分かち新しい人生を送るための意識。
 ふたつに分かれた俺はそれぞれ、違う人を恋い慕っている。拮抗している勢力は、その時々で旗色を変え、俺の行動から一貫性を無くさせた。前ほど俺は岩ちゃんのことを思い出さなくなったし、現実を儚む機会も減った。引き換えに牛島のことを考える時間が増えて、囁かれる睦言にくすぐったさを感じるようにもなった。
 たったひと月、されどひと月。人が変わるには十分な期間だ。
 オメガの性が、本能が……従前の俺を食い始めたのは、その中のいつだったのか。
 今となってはもう、思い出せそうにもない。



 自分の置かれた境遇を、悲しいとさえ感じなかった。多かれ少なかれ、オメガに生まれた以上は何かと制約が付きまとい、その制約の中にいなければ肝心な時に守られないと散々聞かされたから。
 本能の赴くままに行動しようとする側面を自身の中に感じた時だって、まあ仕方ないか、と割り切るより他なかった。発情期があれだけ強烈なんだから、人一倍オメガの本能が強かったって不思議じゃないもの。割り切らないと前に進めないから、環境に適応しようと力を尽くした、の方が正しいのかもしれない。
 過去を振り払って生きようと必死な俺と、過去を抱えたまま生きる道を模索する俺は、適応の過程で衝突を繰り返した。何もかも忘れてしまえばいい、そうすれば今以上の不幸せは訪れないし少なくとも番の相手は幸せになれるじゃないか、楽な方へ流されても誰も責めやしない、さかんに訴えかける声は悲鳴じみていた。それはきっと、これ以上傷つかずに済むよう、本能から発せられた防衛反応だったのだろう。
 黙殺した報いを受けると承知の上で、内から聞こえた声を放置し続ける俺に、牛島から敢えて何かすることもなく。
 新生活の準備に追われ瞬く間に過ぎた三月、期待と不安と諦めと希望の区別がつかないまま迎えた四月。入学式を翌日に備えた日の夜、俺は……とあるものを手放した。
 前に進むために。



 初日から遅刻したら笑い種になるから、その日は何もせずに休もうかと口約束を交わしていた。食事の後、いつも一緒の入浴も今日くらいは別々にしてみようか、なんて流れになったのをいいことに、浴槽の中で足を伸ばして存分に寛いだのも束の間。長湯を揶揄する声を受けて浴室を出れば、俺の頭にバスタオルを被せた牛島と入れ違いになった。用意されていた着替えを身に着ける間、管理された空調は不必要に俺の体温を奪いはせずに、肌から不要な熱だけを払い落としている。この部屋も番となった二人に対して支給される支援の一つで、学生の住まいとしては分不相応にしか見えないが、そのあたりは大人の事情が複雑に絡んでいるらしい。深く考えると気が滅入るから、格安でいいところに住める幸せというやつを享受しておこう。余計なことを考えるとろくなことがないのが、最近の俺の傾向だった。
 寝室には今までと同じように布団が敷かれ、置かれた枕の上には入浴前に外した俺の指輪が乗っている。だから今、俺の薬指にあるのは、指輪が作り上げた薄い括れだけ。外していたのは短時間だから、跡はしっかり残っているけどね。
 外したままの指輪をつけずにいると牛島の機嫌が悪くなるから、いつもならすぐに指に戻している。
 けれど今日は、いつもとは俺の事情が違う。こんなのつけたくない、今すぐ帰る、帰してよ、なんて癇癪を起こして外した前科のある俺だから、素の薬指を牛島に見せるのは特別珍しいことじゃない。前科も当然一回じゃないから、外したままならため息を吐かれる程度で済むんだろうな。またか、って。恋人の我儘に振り回されてやる、懐の深い一面を誇示してるのかは知らない。あいつの言動の裏をいちいち読み、含んだ意図を汲んでいたら、こっちの身がもたないもの。
 掛け布団を捲り、中へと身を滑らせれば、まだ人の体温を含まない僅かばかりの涼が心地よかった。横になると眠ってしまいそうだから上半身だけを起こして、仄かな明かりを点し指輪をかざせば、闇の中に光の半円が浮かび上がる。
 ぼんやりとした輪郭の、俺の薬指に合わせて誂えてある白金の装飾品は、温かみのある色の光を帯びていた。それは、断絶された過去と知りえぬ未来をつなぐ架け橋のようで。生涯で二度目の――予定よりも早い八月に訪れたがために、何もかもを変えてしまった――発情期を境に事実が先行し、結果的には俺は牛島の番となってしまったのが、運の尽きだとでもいうのか。
 欠片でも好意を持てるような出会い方をしていれば、心変わりできたのかな。岩ちゃんから牛島に、なんて想像できないけど。いつまでも現実を拒絶しても意味なんかないって、口々に大人は言うし、機械的に損得を計算したら俺だってその答えに辿りつく。わかってない、わけじゃないんだ。
 けど。すぐさま、否定する言葉が続いて、同じ迷路を迷い続ける。
 俺の一番の間違いは何だったのだろう。何がいけなかったんだろう。
 あんなに大事にしてくれる人に、心を明け渡そうとしなかったから?
 番になれるはずのない人を、好きになってしまったから?
 自分の性を否定し続け、オメガとして生きていく意味について余りに浅はかな考えしか持たなかったから?
 全部が正解のようであり、不正解とも思える。
 これじゃあ迷子だ。何をしなくちゃいけないのか、俺は完全に見失ってる。やるべきことを、気持ちのやり場を、最も強く想ったことを、見失ったら。今までなら、岩ちゃんが察して俺を『迎えに』来てくれた。そんな岩ちゃんに俺はすがりついて、甘ったれの本領を発揮して、不平不満をぶつけた。ぐちゃぐちゃになっていた俺の中身を、岩ちゃんはひとつひとつ捕まえて整理して、どうにか片付いてる元の俺に戻してくれたけど……俺はもう、岩ちゃんに助けてもらえる立場にはいない。なのに、岩ちゃんがいないと、何が原因で苦しいのか、思ってることをどうやって表に出せば伝わるのか、両方がわからなくなる。助けを呼べないまま俺は立ちすくんで、言葉になる前の強すぎる衝動が大渦を巻いて俺を呑み込まんとしても、されるがまま。
 らしくないよね。けど、自分じゃどうにもならないみたいなんだ。
 元凶の牛島にだけは泣きつきたくない。弱みを見せたくない。言葉を尽くして何か伝えようとしても、あいつが相手なんだ、一体何が変わる?
 変わるとは思わない。少なくとも俺はそう思ってない。思いつくまま口に出してみても、気も晴れない。的外れな慰めもいらない。下手に宥められたくない。裏切られるとわかってて期待するほど、俺に余裕は残ってないから。黙って耐えていた方が、まだ何か起きるんじゃないかって、思えたんだ。
 ……ってのが、俺の本音の半分。もう半分はきっと、岩ちゃんには酷な話なんだろうな。
 俺が牛島を拒絶した回数なんかとっくに数えなくなった。あいつも毎回目くじらを立てるような神経をしていない。だから俺は、結構長い間、あいつの胸の内なんて気にしなかった。
 なのに、いつだったかな。俺が突っぱねたあいつの背中に漂う哀愁を感じたのは。傷つかないわけが、なかったんだよ。あいつだって人間だ。表情になかなか出ないだけで、人並みに怒りも悲しみもする。……あいつの眦に、罪悪感を覚えたんだ。目を伏せたあいつは、俺に何もしなかったから。
 とても静かな時間だった。あの牛島と、ここまで穏やかな夜を過ごせるなんて、一度だって俺は考えたことがなかったって位に、本当に何もなかったんだ。腕枕されてるだけの俺が、負担になるから腕よけてあっち向いて寝ろって言っても聞かずに、結局はそのままで。あいつの心音を子守歌に、その日は眠った。ぐっすりとね。夢も見ないくらいに深く眠って、目が覚めたら同じ体勢であいつが顔を覗き込んでいたんだけど、まだ眠かったからそのままもう一度目を閉じたんだ。
 その時、額に落とされた口づけに、安心したんだ。ゆっくり休めって言われて、でもあいつは日課のロードワークに出たから隣にはもう誰もいなくて、寂しい、って思ったんだ。人恋しさでも、寝起きの思い違いでも、原因が何であれ。一緒にいてくれないことが、俺の中では『不満』として認識されたんだ。
 一人で眠れる時間なんかほとんどなくて、休ませてほしいとずっと思っていたのに、どうしていざ一人にされたら広い布団が嫌なんだろう。考えてもやっぱり具体的な理由はわからなかった。わからないけど、わからないなりに、自分の中から出てきたものはあったよ。
 このままでいいのか、ってね。自分に問いかけた。かれこれ十か月俺は牛島と一緒にいて、こっちの都合で散々振り回してきた。競技としてバレーを続ける障りにもなり得る俺を抱えて、あいつは生きてる。俺が非協力的なままだと上を目指すには間違いなく不利で、選手として周囲から寄せられる期待と、番の俺に対する責任の板挟みに遭うかもしれない。俺自身の意思ではなかったにせよ、俺が引き金となり、あいつの人生が歪められるかもしれないんだ。
 俺はあいつにそうまでさせる権利を、人ひとりの人生を壊す権利を、傲慢にも行使するつもりでいるのか?
 等しく時間を費やし、同等の機会を与えられ志したバレーから、自分だけはじき出されようとしているからといって。自分に勝る実力の持ち主と認めるわけにはいかない、一矢報いなければ気が済まない、そんな否定的な感情ばかりが先行して大事なことを見失っているんじゃないか?
 そう簡単に過去を水に流せやしない。どんな形であれ、あいつが長年俺を苦しめてきたのは、俺の中の事実だ。
 けど、受けた仕打ちの腹いせだとしても、していいことと、悪いことがある。俺は視野を狭めて、あいつを構成しているバレー以外の要素を見て見ないふりをした。ひとりの人としての、あいつの全体像を見ようとしていなかった。それは確かに、かつての俺には適していた。牛島の人となりは俺の在り方にそこまで大きな影響力を持っていなかったから。
 今は違う。俺はただの『及川徹』でいられなくなった。『オメガ』の及川徹としてしか、生きられなくなった。周囲が俺を認識する要素の比重が変わり、俺に対して抱く期待の内訳も大きく変わった。バレーを軽視されたのなら、俺の憤りは牛島を通してでも表沙汰にできたよ。幸か不幸か、バレーを続けることに対しては、頭ごなしに否定されたりはしなかった。望んだ環境も与えられた。いくつかの制約はあったけれど、体調を第一に考えて釘を刺していると知っていたから、高望みはできなかった。
 俺の中を占めるバレーの割合は変わらなかったけれど、周囲の目がどう俺を見なしているか、俺に何を求めているかが一変したから……相対的に、俺は変わらざるを得なかった。バレー以上に重視され、俺に対して望まれたのは、アルファの番として生きていくこと。あいつのものになって、俺の持つ生殖機能をあいつのために使って、あいつの種を腹に宿して。十七歳までの俺が身を削り抗い続けた性成熟を、一転して全肯定しろと宣告されてもあっさり変われるわけがないから、自分の性の肯定に結び付くから……あいつが俺を見初めようと、あいつを認めるわけにはいかなかったんだろうな。
 だから過去の俺はあいつからの好意を遮断し、『及川徹』として対峙し続けるために、自身の内側に衝立を作った。薄っぺらで頼りない衝立を、何度も繰り返し補強して使ってきた。高さを、幅を、厚みを増した衝立はいつしか壁となり、許しがなければ踏み込めないよう、望まぬ来訪者を阻んできた。長きにわたり試みは成功していた。
 味気ない過去にされた理由は至ってシンプルだ。成功は、平穏は、永遠ではなかっただけのこと。荒れ狂う風雨にさらされ続ければ、どれほど強固な壁であっても無関係に、亀裂も入るし脆くもなる。軽く押しただけでぼろぼろと崩れ落ちていく壁は、もはや用をなさない。えせ建造物となり果てた土塊が、今の今まで何を守っていたのかを探ろうにも、覗き込んだ壁の陰には何も残っていなかった。記憶をいくら辿っても、思い出せなくなっていた。何かが俺の中にあったはずなのに、閉じ込めていたつもりの核心が消え失せていたなんてとんだ笑い話だった。
 必死に護っていたはずの何かが失われた理由は、俺が今後それを必要としないからなのか。牛島の番として生きていくなら、思い出せなくても何ら不都合はなく、むしろ忘れてしまった方が万事うまくいくとでもいうのだろうか。
 だとしたら、俺のなすべきことは。
 俺の中に生まれた『半分の俺』も、自分の一部だと受け入れることだったならば、躊躇っている時間なんかもうないかもしれないんだ。
 代償が高くつくかもしれない。賭けに負ける可能性も、恐らく低くはないだろう。
 それでも、後悔する破目になったって、何もしなかった自分を苛むよりは、と。何かを『した』果てに待つ後悔を、俺は選んだ。



 どれくらいの時間が実際に経過していたのかはわからない。
 人の気配を感じて瞑っていた眼を開くと、髪から滴り落ちる水滴をタオルで拭いながら近づいてくる牛島と目が合った。相変わらず特に何も言ってこないし、上背のせいで見下ろされると妙な迫力がある。間接照明の光は弱くて、お互いの表情は鮮明には見えない。そんなところまで、あの頃とよく似ているなんて、ね。
 とても懐かしかった。最初にコートで対面してから、今年でもう六年にもなる。やけに険しい顔をしてこっちを見ていた気がするけど、実際はどうだったんだろう。ころころと表情を変える人ではなかったから、顔と胸中が真逆を指し示してただけかもしれないな。
 タオルを椅子の背に掛けた牛島は、布団を捲り俺のすぐ隣に身を滑り込ませる。忌々しくて腹立たしくていつも食って掛かっていたのに、他意はないと知ってしまえば、かつて俺の神経を逆撫でしていた瞳はとても穏やかに見えた。俺を怒らせるつもりなんか本当になかったんだ。具体的な将来像を描く相手を怒らせる必要がどこにあるんだって言われて、ああ確かに俺でもやらないな、余程の暇人か天邪鬼ならやるかもしれないけど、って腑に落ちたから。
 布団の外側に出ていたせいでやや冷えた俺の指を、半回り大きい手が包み込む。幾度となく、様々な目的で、指を絡めてきたけれど……肩の触れ合う今の距離を、当然のこととして意識せずに過ごせるようになる日が来るなんて、一体誰が想像できただろう。キスひとつで大騒ぎしていたお子様そのものだった俺が、まさか十台のうちに、当時の相手に求婚されて一緒に暮らしてるんだ。にわかには信じがたい話だけど、俺の現実として不動の地位を築き上げた『事実』は強かった。人生、何がどう転ぶかなんて、わからない。
 ……本当に、どう転ぶかなんてわかりっこない。ちっちゃい頃から岩ちゃん岩ちゃんとあんなにべったりだった俺が、一度は恋仲にさえなった岩ちゃんを、自分から諦めようとしてる位なんだから。岩ちゃんの手を放してから宙ぶらりんだった俺の手は、行き場を無くしてふらふら彷徨って……違う人の手を、取ろうとしている。
 掌の中には、外すたびに嵌めなおされていた指輪が握られている。重ねられている牛島の手をそっと除けて、握って温まっている環を指先で摘み上げた。
透明な煌めきは暗い部屋を苦にもせず、重ねた嘘に染まろうとも尚、清浄な光を放ち続けている。俺の穢れに屈する弱さなど感じさせない、かつての絶望を切り裂いた光明。
 それは『彼』に、とてもよく似ていた。



 落としていた視線を上げると、俺の手の中に指輪があったと今頃気づいたのか、意味ありげな視線を真横から痛いほどに感じた。
 もう、心配しなくていい。俺は自分の意思で、自分の人生を生きていくから。
 (どんなに待っても、岩ちゃんはここに来ない)
 夢の時間はもう終わり。夜が明けて、朝が来る。朝になれば、夢から覚めなきゃならない。
 長い、長い――長すぎるくらいに長い、夢から。
 (来られるはずがない)
 亡霊さながらに、岩ちゃんを未練がましく追いかけたって、なんの実りもありやしない。オメガの俺がいくら追いかけたところで、岩ちゃんを困らせるだけ。
 (だって、岩ちゃんは)
 会いたい、叫び出しそうな喉を押さえて止めた呼吸を、努めて浅く小刻みに留める。今だけだから。今さえ乗り切ればきっと、楽になれるから。
 (ベータ、なんだから)
 丸く収める単純な解決策は、ずっと俺が避けていた禁忌にも等しいもの。
 彼を、過去もろともに、忘れてしまえばいい。俺が彼に固執している限り、彼は彼自身の幸せを放り出しかねないから。自分を二の次にして、自分自身を俺に合わせてしまう彼は、誰となら幸せになれる?
 少なくともそれは、俺ではないから。
 せめて彼にだけは、不幸になってほしくない。散々苦労をかけた分、幸せになってほしい。前も同じようなことを考えたけど、どうしようもない寂しがりの俺は結局彼に甘えて彼を手放せなかった。願いはずっと変わってない。彼以外に、俺の居場所が出来たこと位しか、変わっていない。
 墨を流した暗がりの中、二本の指で摘んだ光輪は、何度も見ても俺には不釣り合いだ。華奢で、豪華で、なのにしたたかなまでに、芯が強い。手荒な扱いを受け、無数の細かな傷を負おうとも、その輝きは決して損なわれない。今の俺に受け取る資格はないと、何度口にしても返させてはくれなかった。『俺はお前を見初めた、だからお前自身が過小評価されるのは我慢ならない』みたいなことも言われた。おそらく本人は無意識の、実に情熱的な口説き文句には気圧されたけどね。笑い話にするにはあまりに鮮烈すぎて、思い出のひとつにするにはあまりに新しすぎて、攻めあぐねる間にとても多くの記憶が、畳みかけるように俺の中に生まれた。まだ一年も経っていないから、きっとこれからもっと増えていく。増えて、俺の中を満たして、俺を形作る新たな礎となる。今どんなに大きな穴が開いていても、いずれ埋まる。埋めてくれる。誰のものになればいいのか最初から決まっていたから、俺は従うだけでいい。
 抗わずに従う。俺にとっての正解はずっと目の前にあった。委ねてしまえばいい、何もかもが、それで終わる。



 古びたフィルム映画を再生したような、ちりちりとした黒点の演出が視界の端に入る。指輪を持った俺の右手と同じ高さに、指をやや開いた左手がやってきた。左手の薬指と指輪の位置関係のねじれも解消され、指の腹を押しながら、押し込まれていく。
 隣には、目を見張り手元を凝視している気配がある。喜びを伴った驚きが、そうさせているのだとわかる。当然だ。俺は無益な抵抗を繰り返し、牛島には応えようとしなかったから。それを突然、自分の手で指輪を定位置に戻し、望む答えを返そうとしているのだから。
 この後どうすればいいのかを、俺は知っている。最初に体の力を抜いて横になり、胸元を寛げて、視線を横に流す。腕を伸ばして、服の袖を引く。勝手に潤んでくる瞳を向けて、じっと見つめて。注意がこちらへ向いたのを確かめてから、澄ませた耳がぎりぎり拾える囁き声で、こう口にするんだ。
 ひどく、して。
 たった五文字でいい。それだけで、昼間の口約束なんか彼方に消える。反故にされた口約束と引き換えに戻ってきたのは、普段と変わらない夜。……そうでもないか。裸に剥かれた先が、今日から変わる。今日からは、誰も知らない二人だけの特別な夜が始まる。先の開けた将来とたくさんの時間を贖うために差し出す対価が、手塩にかけ育んできた自我だっただけ。きっとそれも、オメガにとっては珍しいことじゃない。従属して生きていく方法しか残らなかった性を持ち生まれた以上、いつまでも我儘を言える立場にはいられないから。俺に関わる一切の義務も、責任も、権利も、自分で持っていても不十分にしか行使できないから、こうするしかないんだ。
 皮膚の重なっているところが、移された体温以上に熱くなっていく。こんなこともうしたくないのにと、抗議してくる方の俺は、意識の底で這いつくばったまま出てこない。代わりに『俺』として振舞っているのは、オメガの生存本能を露わにした欲求に従順な方。アルファを、牛島を好きでたまらない、薬が効かない方だ。
 重ねられた唇を喜々として受け止め、歯列をくすぐる舌先を追いかけるのに夢中になってる俺がいる。頭がぼうっとしてきて、五感の及ぶ範囲が狭くなってくる。浮き沈みを繰り返し、表側に出てくる俺と、奥へ引き込まれた俺とに分かれてしまえば、手間暇かけて元に戻す必要はもうなくなった。
 俺は彼を諦めなくてはならない。俺は俺なりの幸せを探して、捕まえて、誰からも憐れまれない生き方をしなきゃいけない。頭ではわかっていても、今まではなかなかうまくいかなかった。失敗を繰り返し、気を揉ませた。形から入ればいつかは、俺の中の『一番』が変わらないかなって、淡い期待も寄せた。裸で抱き合う相手の体躯が自分より大きくても、数か月のうちに馴染めると思ってた。
 結局、楽観視した未来はひとつとして訪れなかっただけ。
 物事がよい方向に変わるために必要だった時間は、俺に残っていた分よりもずっと多かっただけ。
 時間切れなんだ。俺はもう、『変わらなくちゃならない』。
 大好きだった人のところへ帰りたい、訴えかける本音が表から見えたりしないように、喪の色を何度も重ねて塗り潰し染めていく。彼の痕跡を残さぬよう、帰りたいなんて二度と思わずに済むよう、必要なもの以外を端から順に片づけてしまおう。
 過去へは帰れない。だから余計に、行き場を見失った鮮烈な感情が、内側で荒れ狂い臓腑を焼く。残された慟哭は最後に断末魔へと変わり、果ての地平で待つ手を取る頃には、かつて誰に思いを寄せていたのかを、俺は忘れてしまっているのだろう。
 何一つ言葉にならないまま、気楽に笑っていられた頃の無垢な思い出までもが、滲み、陰り、霞んで、次々と姿を消していく。オメガの性本能が破壊せず残していた記憶たちも泡のように弾けてしまい、俺が自分の不運を感じる要素が、視界から一掃されていく。許しを出した『浸食』が完了すれば、俺は二度と不幸せにはならずに済むのだろう。……当然か、不幸せを感じるための尺度が自分の中からなくなるんだから。番の相手と過ごすために必要な情報だけを残して、不必要なものを切り捨てた結果、俺の形をしながらも中身はこれといって引き継がれない、異なる何者かになるのかな。
 つらつらと物思いに耽っている間も、高められた体は欲望に忠実で、おねだりに余念がない。
 首の後ろに腕を回して引き寄せて、甘やかに響く睦言を耳元に吹き込む。割り開いた膝の間に胴を迎え入れて、猛った熱塊を根元から撫で上げれば、欲情しきった吐息が肌をくすぐる。俺に望まれている夜の姿がそのまま、牛島の目の前にあるようなものだ。形ばかりの抵抗を示した後は、唯々諾々と快楽に従う従順極まりない生き物に成り下がる。俺の体は少なくとも、そういった目的を達成するための機構を数多く持ち合わせているから。
 多くの時を費やして拓かれた体は、慣らしもせずに貫かれようとも、刺激をすぐさま悦びにすり替える。ともすれば社会から逸脱しがちな体質とうまく付き合う上で、風当たりの強い中で性を含めた自分を肯定し生きていく上で、アルファを欠かすことはできないのだと認識するのとはまた別に――与えられるわずかな痛みでさえ、その後に続く愉悦への呼び水となる事実も相まって――無意識レベルで、この人と離れて生きていくなど意味がないと、感じてしまう。持って生まれた能力を十二分に発揮するためには互いを欠いてはならないのだと、穏やかながら有無を言わせぬ警句が聞こえる。
 それこそが、オメガとアルファが互いを特別なものとする所以。己がすべてを肯定する、自分自身よりも己の本質に近しい存在と語られていたけれど。形容に誇張はなかった。大袈裟な話ではなかった。言葉通りの意味だった。思い知った後、もう戻れない道に足を踏み入れていたのだと気づかされた。戻る必要がないと誰もが口にし、知らず知らずにその道を辿った顛末を、悔いる自分はいずれ消える。牛島への献身と、これから育まれていくであろう愛情で、俺の中は満たされてしまい――他のものを残しておける余裕はないから。一人で全部を抱えていられるなんて、豪語できるほどの傲慢さは持ち合わせていないから。
 抱えられた両足が、体内を穿つ拍子に合わせてゆらゆらと揺れる。喉から絞り出され掠れた声が口にする名は、果たして誰のものであっただろうか。じっとり汗ばんだ背中がシーツに擦れて生み出される、わずかばかりの感触。放たれる肌の匂いが濃すぎて、くらくらと目眩さえ覚える。胎の中深くに埋められたまま揺すられて、たまらずに白旗を振った。いっぱいに押し広げ蹂躙されているのに、蕩けた筒は痛みの片鱗さえ拾わずに享楽の渦へと一瞬で叩き落す。なのに、体がふわふわと浮き上がってしまうような、切ないのにずっと続けばいいとつい思ってしまうような……夢の中で愛おしまれている、が近いのかな……自分が自分でなくなる、って怯えた時ともまた違う、未経験の充足感が全身を浸した。
 覆い被さってきた牛島に骨が軋むほどに抱き締められ、肌の触れているところからかなり速い脈拍が振動とともに伝わってくる。奥へ奥へと突き上げてくる動きが止まり、強張らせていた体から不要な力が抜けて胴震いをした後、しゃくり上げる所作を、あわせて八回。受胎するための器官に向けて、生温かい精が注がれる。普段は慎ましく閉じている孔が大部分を貪欲に吸い上げ、残りは筒の中に満ちていく。
二人の間にあったわずかな隙間さえも消失するひととき。額に浮かんだ珠の汗を拭う指先は、俺を労ってのもの。落とされた唇を、どちらからともなく吸いあって、腕の中に捕らわれたまま眠る、代わり映えのしない夜。不満を覚える前に日課となって久しく、許婚としての務めを果たしているだけと割り切ってもまだ、何かが後ろ髪を引く。それはお前が本当に望んでいた環境なのかと、正体も告げずにただ問うてくる。背に冷たいものが走り身を竦めると、体を冷やしたのかと牛島が余計な気を使うから、考え込んだりして事を荒立てたくはない。俺がいいって言うまで何十分でも温めようとするんだ。俺の恐れは何に根差しているのかを、俺と同じく知らないから。
 俺のことを俺以上に知っていても、それでもやはり限界がある。俺の懊悩をそのまま感じ取っても、打てる手は多くはないから、柄にもなく無力感に苛まれる。
 気落ちしている背を見ても俺が何とも思わない、なんて思ってるのか。そんなわけないだろ。時には視界を遮るほどに邪魔なあの図体が、萎れ俯き小さく見えた時にはとっくに……今までとは違う方向へ、舵が切られていたのだろう。
俺が誰のことを想っていても、そのせいで違う誰かが傷ついたりはしない。傍若無人、傲慢そのものでしかない考えをかつては振りかざし、俺は『かの人』をどれだけ痛めつけてきただろう。無邪気に、奔放に、何の自覚もなく、傷が癒える前に同じところを切りつけて。耳をふさぎ、秘めた本音があげた声を否定してまで、俺が成し遂げなければならないことは、何だったのか。
考えれば考えただけ、不正解と書かれた壁に行きつく。一人では正答など得る資格はないと言わんばかりに、行く方々で壁は立ちはだかり、やっとの思いで乗り越え砕いた壁の向こうにもまた新しい壁がそびえ立つ。絶え間のない問いかけは、答えを待たない。導かれるよりも早く、過程の時点で頭ごなしに否定され、正しいものへ全てを委ねてしまえと逃げ道を開く。都合の悪いことを忘れてしまえば、二度と悩まずに済む。誰も傷つけずに済む。安楽へと引く手を振り払い駆けてきた長い道は、いつの間にか引き下がる一歩さえも失い、前途を霧の中に隠して俺を待つばかりになった。
 引き換えに示された道は、自分ではない誰かの手を取り進んでいく、果てなく続く細い小路。目の前にあるひとつの手を取ってしまえば、楽になれる。引き換えに棄てられる俺の意志も、せいぜいあと数か月しか原形を留めずに変わり果ててしまうなら、もうそれでもいいじゃないかと甘言が背を押す。捨て置かれた末に残滓は忘れられていき、惜しまれも悼まれもせずに、俺の一部であったものは俺の埒外へとはじき出されて、おしまいだ。そんな風にあっけなく、投げ出してしまって構わないものなのかどうか、一体誰が教えてくれるっていうんだ?
自分だけでは答えが出ない。他の誰かが手にした答えは参考にならない。俺にとっての相応しいあり方が、何らかの形で示されていたりもしない。自分を傷つけ、人を傷つけ、血みどろになってもまだ、答えも許しも手に入らない。
他の誰でもない、自分の力で答えを見つけなくちゃ意味がない事なのに、やっとの思いで見つけた光明は指先が届く前に儚く失せる。ほのかな灯はたちどころにかき消えてしまい、果ての知れない暗中を歩き続けてもまた、命を終える間際の蛍火ばかりに巡りあう。
 心を折られるのが先か、消えない光を掴み取るのが先か。
 決着はつかず、人肌の熱で我に返るまで、同じようなところを繰り返し彷徨っていたことさえ、哀れにもわが身は気づきやしなかった。混迷から連れ出してくれた人に触れられる心地よさが瞼を引き下ろし、微睡む俺を包むぬくもりは、まだ情事の熱を十分すぎるほどに残している。俺をひとところに留め置くために造られた巣の中で、来る日も来る日もかの人の色へと染め直されて、身を穿つ雄の証を胎で抱き……溢れ出る多幸感に言葉が詰まったのか、沸き起こった衝動をありのまま伝えようとしたのか、それとも。
 ……いや、これ以上考え込むのは、もうやめておこう。
 一旦離れた後すぐに、俺の方から重ねた唇は、きっと震えていたんだろうな。
 自分でも、どうしてそんなことをしたのか、わからなかったけど。髪を梳く指には、二割の困惑と八割の歓喜があったから。
 俺自身に依って幸をもたらせる人が、少なくとも目の前にいるから。
その人を愛そうとする今までになかった自分を、萌芽に気づいてやれなかった新しい側面を、慈しんでも構わないんじゃないか。

 俺は、オメガとして、生まれてきたんだから。




 いたわりのきもち。
 ねぎらいのことば。
 使い方さえ間違えなければ、それらは目覚ましい効果を発揮する。
 それぞれ示されたが、残念なことに両方とも間違えていると、俺はとっくに気づいていた。
 けど、間違いを正すために必要だった余裕は、俺の手を離れて久しい。
 俺が寝付いたら、起こさないように加減しながらも、例の行為の続きを一人で何度か繰り返すから。俺の負担が増していると気づいているのに、気づきを形にした結果と俺の求めの間に、ずれが生じている。眠ったところでからだは満足に休めていないから、目を覚ましても疲れが残り、睡眠時間は足りているのに毎日眠くてどうにもならない。体力には自信があったつもりなのに、沸き起こる自分の性衝動をいなす以前に、発情の端境期でも毎夜求められてしまったせいで、蓄えを使い果たしてしまったんだ。
 牛島の性衝動を甘く見ていた、と一蹴されても仕方がない。もう休ませて、なんて懇願は俺の矜持が許さないから、今まで一度もしたことはない。覚えている限り、思ったことは多々あれど、明言してはいないはずだ。
 もっとも、途切れた記憶の隙間で、自分が何をしているのかはわからない。事実とはまったく無縁の絵空事を、世界に起きたすべての出来事として受け止めている可能性だってある。
 どう生きれば、俺個人の願いは叶う? 誰かの所有物として、死んだように生きてたまるかと、性を否定した対価がこの仕打ちなのか? 意思を持たず従順に、ひとつの個であった過去さえ忘れて、本能の住まう入れ物になれと強いるのが、俺たちの性……オメガ、なのか?
 運命が、番の主と従をあらかじめ定めているのだとしても。
 これでは、あまりに。



 ずっと眠っていられたらいいのにな。
 目を覚まさない限り、俺は自由でいられる。
 目を覚ますまでの間なら、夢の中であればきっと――『あの人』と会えるから。
 そうしたら、誰にも気兼ねせずに、一緒にいられる。
俺の都合で、離れ離れになんかならずに済む。
 幸せになってね、なんてお別れを言わずに済む。
 針の筵に包まれながら薬を飲み下す、望まない生活を続けるくらいなら――残されたわずかな思い出の中、永遠の眠りについても構わない。
 『あの人』の幸せを願った俺は、顛末を見届けた後、いつかは『あの人』のことを忘れてしまう。
 だから、そうなる前に、想いに殉じてしまいたいんだ。

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