十一章 岩泉編

 お金を貯めても買えるものじゃない、建売の一戸建てとは趣の異なる家は、そこに住まう人間をも相応に変えていくのかな。
 俺自身も、味覚の好みが変わってきた。半年も経てば、毎日のように献立に取り入れられる魚の扱いにも習熟する。一尾そのまま、尾も頭もついたまま出たとしても、自分で何とでも出来るようになった。味気ないばかりだった薄味の汁物の、出汁の美味しさを楽しめるようになった。
 食膳に供された今日の主菜は、脂の乗った焼き魚。それとはまた別に、鰹節を使った献立がもう一品あるみたいだ。夕食は割とゆっくり食べられるから、手の込んだ料理が出やすいし、帰りが遅かった時でも帰った時間に合わせて温かいものを口にできるのも大きい。
 あさりの味噌汁に舌鼓を打っていると、隣に座っていたあいつがやおら立ち上がり、まだほとんど何も食べていないのに俺の手から汁椀を奪い取った。そのまま俺を立ち上がらせて、有無を言わさずに部屋へと連れていった後は、先に敷いておいた布団の上に転がして。
 性急に求めてくることが、最近とみに増えた。
 空腹を抱えているのはあいつも変わらないはずが、一体なにが引き金を引いたのか、食事そっちのけで部屋に連れて行かれた後は最低数時間、付き合ってやることになる。
 ひとまず下だけ先に脱いだ後は、足を広げたままあいつの好きにさせておくと、二次被害も少なくて済むから俺からは特に何もしない。最中に結局全部脱がされるし、下準備も不要で勝手にその気になってくるから、オメガも便利は便利なんだ。
 宛がわれて強引に押し込まれたところで、満たしてもらえた体の中からある種の幸福感が湧いてきて、強制的に俺を従順にさせる。あいつが入りこんだ奥からじわりと潤んで、軽い抜き差しにあわせてくちゅくちゅと湿った音が響いてる。唇の上に乗っていただけの手を除けられて、すっかり甘ったるく染まった俺の声が、あいつの支配欲を満たしてるのは本当は癪だ。けれど我慢なんか出来そうにもない。
 腰を抱えられ、容赦なく打ち付けられる局部が擦れて痛むとか、まだ寝るには早い時間だから絶対聞かれてるとか、色々思ったことが全部些事としてすぐに消えてく。
 自分が情けなくなるほどに、気持ちいいんだ。
 食事を中座した俺たちが、何をしに部屋に戻ったのか知られていようと。
 夜、俺を求める衝動を抑えきれないほどに、日中の俺がこいつを袖にしていると思われていようと。
 どうでもよくなってくる。
 肝心な部分では絶対に俺たちに干渉してこないと、思い知ったから。
 今のところは誰も、こいつのやることを制止してないじゃないか。そんなに我慢ができないものか、不審にも思っていないじゃないか。
 夕食を食べ損ねた時に消化のいい夜食を作ってくれても、せめて食事の後にしろって窘めたことは、一度としてないと俺が気づかないとでも思ってるのか。
 俺たちのしている『番の行為』を控えるように言わないのは、毎晩俺を抱いてる本人以上に、俺が離れていけなくなる楔の誕生を待ってるからなんだろう?
 俺の下腹部が、いずれふっくらと膨らんでいって、自分のからだが変化していく不安と少しばかりの期待でまだら模様になった日常を経て、落ち着くべき形に落ち着くと思ってるなら大間違いだ。
 そんな未来は、望んでない。
 体の奥にぱあっと散っていくぬるついた温もりは、ひとしきりあいつが満足したと俺に伝えていた。荒い息を吐きながら、中を跳ね上げる動きをしばらく続けて、抜かないまま俺の様子を注意深く観察して『二度目』の可否を探ってる。
 嫌だ。
 このままじゃ、俺は俺のままでいられなくなる。
 こいつの我慢の限界も、そう遠くはないだろう。
 意識が時々留守になる俺の代わりに薬の管理を引き受けてはいても、自分の種を拒絶するための薬なんか、どう考えたって飲ませたくないに決まってる。俺の意識がはっきりしてる時ならまだしも、発情期の間は飲ませなくたって俺は気付かない。俺を番にした時のように、理性を保てなかったって口実も使えるし。
 それに、オメガの発情を前にしたアルファが、理性を保ってる方が不思議なんだ。困難なんて一言で片付かない、相当の精神力があっても流されて当然のはずが、大体普段と同じようにあいつは過ごしてる。常識じゃ考えられないけれど、意に反する効果を持った薬をそうまでして俺に飲ませてるのは、体だけ手に入れても無意味だと気づいてるせいだと思う。
 透けて見える思惑からは目を背けながら、気持ちがじりじりと靡きつつある様子を装い、俺は自分の居場所を保たなくてはならない。なのに、未来の伴侶につながっている道の上にいる以上、立ち止まらずにゆっくりとでも、進んでいくよう求められてる。
 自分に嘘をついた先に待っているものが、気の塞がる結末だと判り切っていても、俺には前進しか許されていない。
 オメガの発情を今以上に拗らせて、二度とまともに生活できなくなったら。責任を感じた岩ちゃんが自分のことを二の次にでもした時、俺はどうしたらいい?
 岩ちゃんの人生をぶち壊しにするよりもましな選択肢を、俺なりに探したいんだよ。



 俺と牛島の関係がどうにか危うい均衡を保っていられる最大の理由は、効力を発揮し続けている避妊薬にある。世の中のほとんど全ての番には例外なく効く、生活必需品とも言える俺の生命線には、開発されるまでの経緯を知っていれば当然とも言える弱点もまた存在していた。
 大きく分けて条件は二つ。両方を満たすと薬の効力は消え、どうでもいいような副作用が申し訳程度に現れるだけになる。
 相手が、自分の生まれながらの対であるか否か。
 一つ目の条件でほぼ弾かれるから、厳密には完成には至っていない薬でも、安価で広く流通するに至っている。俺たちはここを最初から満たしてしまっているせいで、面倒で厄介なんだ。
 そして、二つ目の条件。俺たちはこっちをまだ満たしていない。俺は無事でいられるって胸をなでおろし、牛島は眉間に皺を寄せる、形では決して現れないもの。
 相手を、本心から愛しているのか。
 理屈を知らなくてもこっちの条件は、ある程度考えたら割と簡単に予測できてしまうから、なかなかにシンプルだ。一つ目の条件とも絡んでいるけれど、たった一人の自分の対だけは、鍵のような固有の情報を使って薬の効果で眠っている機能を呼び覚ます。そのまま薬の影響を無視して生理現象が優先されるか、薬がすぐに効いて再び機能が沈静化するかが、二番目の条件次第。
 平たく言ってしまえば、番の相手の子を産みたいかどうかだ。
 生来の番が惹かれ合い互いを求める衝動の強さには、人間よりも後に系統立てられた科学は現代でも白旗を振っている。彼らの本能を完全に止めた科学者はまだ一人もいない。いつなら止められるのかの目途も立っていない。
 だから俺は、新薬の開発にはほとんど期待してはいない。今存在する薬だけでも、俺には十分だからだ。このまま効力を発揮し続ける限り、俺の心は牛島にくれてやるつもりはないと、示すことができる。事実は万の言葉よりも雄弁に、俺の気持ちを語ってくれる。
 薬を飲み続けている限り、俺の腹に牛島の種が宿ることはない。子連れにさえならなければ、俺が岩ちゃんのところに帰れる可能性も、完全には消えずに残る。
 けど、俺に薬を飲ませなかったせいで、もしもが起きたならば。腹の中に、二人の血を半分ずつ受け継いだ命が宿ったが最後、俺の気持ちは二度と自分に傾くことはないと感じているんだろう。牛島もまた俺と似て、番に夢を見てるところがあるから。心の底から好きあった二人が、多くの障害を乗り越えて二度と離れぬよう誓いを立てる、童話めいたとても優しい物語。出会うべくして出会った二人が、境遇にも負けずに求めあって、望んだ未来を手に入れるまでに何が待ち受けていたのか。
 少なくとも今の俺とは違って、誰も幸せになれない、哀しく切ない旋律がよく似合う救いのなさは根底にないだろう。どうしたら丸く収まるのか、糸口が見えてこない。何かを変えようともがいても、お構いなしに発情期はやってくる。
 音もなく近づく発情期をやり過ごす度に、自身の変化に血の気が引くのも、あと何度経験できるんだろう。
 

 
 目を覚ましたら、季節が変わってた。
 というのは大げさな表現かな。
 冷たい冬の空気に体を震わせていたはずが、次に起きたらあったかい場所にいて、裸で横になってた。だから状況を掴むまでに少し時間がかかったんだ。
 日付を聞いたら覚えている日から軽く半月は過ぎていて、月をまたいで三月に突入していたらしい。知らない間に日付が飛ぶのはもう慣れてきた。重篤な発情期と付き合ってる俺にとっては、それ自体は特に珍しがることじゃない。
 発情の名残が完全に落ち着くまでの数日間は、三月かあ、くらいの認識で、日付についてはかなりゆるく考えてた。白鳥沢の行事予定表に書かれていた卒業式の日付が、隔離施設から出た日の一週間以上前だと聞かされて、悪いことしちゃったかもなあと思っても後の祭りだった。
 三年生のいなくなった校舎にたった二人で登校し、二人分よけてあった卒業証書はなぜか校長室にあるって話を職員室で聞かされて、顔を知らなかった校長先生っぽい役職の人から直接手渡されたまでは、一般的な学生のやることの範疇にあったんだ。卒業証書を抱えて、立派な応接セットの椅子に牛島と二人並んで腰を下ろして、記念撮影さえしなければ、最後だけはどうにか普通の学生生活として締めくくれたかもしれないのに。
 俺たちの関係があっての無条件編入だったから、形に残る写真でくらいは、仲のいいところを見せておかないと申し訳ないかなって。仏心を出してみたら、肩を抱かれてぴったりくっついたまま何枚も撮られてて、何してくれるんだって肘を入れても頓着していないんだから余計に腹が立った。
 けれど機嫌を損ねてぶすくれていても、撮られたものはデータとしても形としても残る。自分の意思とは無関係に、首を噛まれた時と同じだ。それに比べたら写真の一枚くらい。
 ……後で業者からちゃんとしたのを送らせるけれどひとまずは、と前置いて渡された写真を、改めて眺める。よく出来た作り笑いを浮かべた俺が持っているのは、岩ちゃんとは違う学校名の入った卒業証書。想像もしなかった。自分の名前が記された卒業証書に、白鳥沢の校名が並んでる。人生ってどう転ぶかわかんないね、この半年で違う自分に生まれ変わりでもしたかってほどに、何もかもが新しくなっているんだから。
 証書を折らず丸めず持ち運べるよう、しっかりした合皮のケースに入れたのを小脇に抱え、もう歩くことのなくなる廊下を玄関向けて歩く。在校生はまだ授業をやってる時間だからとても静かで、人の気配はするのに姿が見えない非日常感、俺の場合どちらかというと日常に区分される。不本意ながら授業を抜け出して保健室に担ぎ込まれること、数十回。具合が悪くなったわけじゃないし、個人的には体調不良の方がどれだけましだったか、と天を仰ぐやつだ。牛島に言わせれば、それも立派な体調不良だって話。
 で、保健室の前を通りかかったついでに――もう最後だったし、中をひょいと覗いてみた。普段いる先生は席を外しているみたいだ。処置に使ってる机の上には書置きみたいなメモがある。その近くには、俺が保健室の常連となる決定打にもなった、特製パーテーション。何十回とお世話になったそこには、使用中の札がぶら下がっていた。
「まだあのカモフラージュ、続いてるんだ」
 数歩後ろを歩いていた牛島が追い付き、隣に並ぶ。奴なりに感慨深いのか、俺と同じように中を覗いて目を細めた。
 誰かが本当に使っている時は、あの札は掛からない。『使う』時は部屋そのものに施錠し、終わってからは隣の部屋で待機している先生に報告するよう、不文律があるからだ。緊急性の高い生徒を最優先で看るために、ある意味では冷酷な区分けが存在している。そこまでするのか、と声が上がっていたに違いない、けれど、そうでもしないとオメガの性成熟期には対応しきれない、なんて身も蓋もない論がまかり通るのもまた現実だ。白鳥沢ほどじゃあないけれど、青城にも似たような小部屋があるって話を、聞いた気がしたから。
 卒業した以上はもう使うこともなくなるけれど、俺と同じような症状を抱えた生徒は途絶えないから、この部屋の役割はそのまま受け継がれていくんだろうな。実質半年通ったかどうか微妙な校舎の中で、教室と体育館を抜いたら一番お世話になったのが、パーテーションの中のベッド――なんか、複雑。
 消毒液の匂いがわずかに漂う室内に入ると、程よく熱を含んだ空気が頬を撫でる。廊下もそこまで寒いわけじゃない、ただ保健室が寒いと治るものも治らないから、ここの温度管理はある意味教室よりも徹底されているってだけ。服を着ていても、脱いでも、不快感なく過ごせるように……そうせざるを得ない目的がある生徒は、俺の他には何人いたんだろう。数える余裕、結局なかったからさ。
 パーテーションで視界を遮っている一角には、やっぱり人の気配はなく。今日も普段と同じように、洗いたての清潔なリネンで整えられた大きなベッドが鎮座している。見ると反射的に、そこに横たわりたくなる。本調子には程遠い体は実に正直で、考えるより先に足が動いていた。
 上履きを脱ぎ終わるのとほぼ同時に、ちょっと硬めのマットレス向かって背中から落ちた。程よく沈んで全身を支える感触は、布団では簡単に味わえない。布団に比べるとベッドは色々融通が利かないって難点はあっても、肩を不用意に冷やす可能性を減らせるから、症状が少し落ち着いたらベッドに切り替えてもいいかな。
 寝転がった俺を、やれやれ、といった態で牛島が見下ろしてくる。肩をすくめてはいない。でも、仕方のない奴だな、って感じで息を吐いたから、解釈は的外れってわけでもなさそう。
 今日は他に予定もないし、暗くなる前に帰れば特に問題もなかったはず。ベッドの心地よさを教えてくれたこの部屋ともお別れなんだなあ、今日くらいはのんびり、気ままに休んでもいいんじゃないかな。
 なんて考えた俺が、甘かった。
 視界は固定されたままなのに、端から渦を巻き認識が揺らぐ。
 発情期、昨日で終わって、症状も完全に引いたはずなのに。
 家に戻るとか、もう一度施設に移動するとか、悠長なこと言ってられない。
 今じゃないと、間に合わない。
 あてにならない視界を遮断し、制服のジャケットを脱いでベッドの下に叩き落とす。まだ症状が残ってたなんて思わなかった。臍の下に熱がどんどん篭ってく。ネクタイを解くのももどかしい。ボタンを外そうとした指が震えて、泣きたくなる。何を口走るかわからない。外と内との両側から熱が生まれて、あらゆる感覚を焼き尽くしていく。
 たすけて。
 うまく言えたのかはわからなかった。
 連続していたはずの時間を、内に潜んでいた灼熱が切り刻み、宙へと放り出す。俺の豹変とその理由を察知した牛島に触れられてようやく、散らされた断片が繋がれていき、自分の置かれた状況を思い返せるようになった。
 触れられている限りは、暴力的な渇望も焦燥も意識を喰わない。浅く速い呼吸を繰り返している間にボタンを外され、ベルトを引き抜かれ、はだけたシャツが肩から外される。
 ファスナーを下ろすが早いか、下着ごと制服のスラックスが引き抜かれ、床にひとまとめになって落ちていった。ついでに靴下まで脱がせる手腕は、もともと牛島が持ってたわけじゃない。こんな仲になるまでは、他人の着衣を一枚一枚剥いでいく手際の良さを習得する機会も必要も、なかったもんな。
 発情の名残だとしても、影響がこんなに色濃かったのは、今までで初めてかもしれない。うつ伏せになり両膝を立てて待っていると、不本意ながら柔らかさを増した臀部を割り開かれ、慣らす必要もとっくになくなった場所にそのままねじ込まれた。
 背中が反り、手がシーツを手繰り寄せる。自分の中の容積が変化するにつれ、ごまかしがきかなくなる。俺が悦んでるって、どれだけ牛島が鈍かろうと、絶対に気が付くくらいには。ある程度押し込まれたところで、詰めていた息を吐く。瞬間、中がしっくりと馴染み軽く締め付けると同時に、その先を期待して腰がひとりでに揺れる。俺ばかりが欲しがってたわけじゃないってわかる、繋がりが深まっていく過程が、たとえ相手が牛島だったとしても充足感に溢れていた。
 人が快楽で死ねるとしたら、分かたれていた二つの体が繋がり始める瞬間こそが相応しいと思う。拓かれる摩擦がもたらすのは、直接的な肉体の快楽だけじゃない。相手の肌の匂いに包まれて、自分の中にぽっかりと空いていた空洞に新たな存在が入り込み、余すところなく満たされる安堵。それは一瞬で指先まで到達し、意識できずにいた自分自身の脆さを暴かれようとも、吐いた弱音ごと受け入れてもらえる確証を刷り込んでいく。
 日頃の軋轢やしがらみをあっさり凌駕する、圧倒的な深み。さざ波のように押し寄せては、心の乾いたところを潤し染み渡り、ままならない呼吸さえ狂おしく慕わしく、名をつけるより早く波濤が絶えず新来する。高々と掲げた腰以外はベッドに這い蹲り、無造作な蹂躙を甘んじて受け止める器としてのみ、体は機能し反応を返した。濡れそぼる柔肉は、相手に全てを委ねてじっとしているだけでも、ふわふわの優しい快さを集めて全身を包みこんでいく。ゆらゆら揺れる、揺りかごの中に寝かされたそれは、一呼吸ごとにゆったりと、大きく成長していくんだ。
 どうしよう。居心地の悪さを探しても、どこにも見つからない。吐く息にも、吸い込む息にも、俺が感じてる快楽が混じってせき止められない。防音処理された壁で囲まれてはいない今の部屋は、大きな声を出しでもしたら廊下に筒抜けになる。在校生は授業を受けている時間と言えど、いつ誰が通りかかってもおかしくない場所柄だ。
 けど、何が起きても牛島は俺を最も優先し、守ろうとするのはこの九か月で身に沁みて解ってる。夢中になってしまっても、後から俺一人だけ後ろ指差されたりすることもない。目の前の熱にかまけて、世間体なんか忘れて、安心して行為に没頭して構わない。
 だからって。安心して没頭してしまってもいいのか。問いかける自分はまだ消え去らない。シーツを掴み白んだ指先に、俺よりも節の太い指が触れ重なる。握り締め固まった指を解きほぐし、緩慢な突き上げを繰り返しつつ、俺の手をシーツから引きはがす。次に何をされるかも大体見当はつく。ねっとり絡みつき牛島のものを舐っていた奥が、引き抜かれていくのを名残惜しそうに淫靡な水音を立てて収縮した。一瞬拡げられた後に洞になる、完全に引き抜かれてしまった時の喪失感にはまだ慣れない。続きがあるって頭で理解していても、離してほしくない、って反射で考える自分がいる。
 仰向けになり腰を浮かせて、もう一度を求めれば。両の腿をそれぞれ抱えられ、互いの猛りを鎮めるために鞘の中身が戻ってくる。僅かな隙間からは蜜があふれ出し、甘噛みされている喉で息を吸うと、歯の尖りが肌を掠めた。途中で止めて焦らしたりせず、じっくりと奥まで挿入してから、犬歯で凹んだ喉元を軽く吸い上げた唇が続けざまに耳朶を食む。
 音と、熱と、感触と。三つ揃えば、俺の自制心なんてのは牛島のそれとは比べ物にならないくらい、簡単に崩れていく。もっと激しくしてほしい。悩みを、迷いを根本から消し去ってほしい。俺が望む望まないを抜きにして、出すべき結論を力ずくで目の前に引きずり出してみせてほしい。誰が、誰の、ものなのかを。変わることのない、俺たちにとっての、正解を。
 思考が本能に引きずられていく。変えようがない現実に妥協したわけじゃない。
 けど。
 いつまでも意地を張り牛島を拒み通して、その先に自分の幸せが本当に存在しているのか、存在し得るのか。気持ちが繋がっていなくても構わずに牛島は俺を番として扱い、途中からは既成事実も加担した。周囲の誰もが俺たちの未来を信じて疑わないし、間違っているのは俺だけなんだろうかと思わなかったわけじゃない。心を開いて、この人を選べば、何が起きようと必ず幸せにしてくれるんだろうなぁ、なんて何度も考えた。
 それでも、本当にそれでいいのか、俺は臆病で決め切れずにいる。牛島もきっとそれを見抜いてる。心の伴わない、体だけの重なりを繰り返しても、辛抱強く俺の我儘を日々呑んで。力に訴えたりはせずに、俺が牛島を番として肯定する瞬間だけを待っている。俺が越えられずにいる恐れごと、今の俺を肯定して。
 戸惑いとは無関係に、俺のナカは牛島の先端に吸い付いて離れず、淫らにとろとろと露を垂らしては音を漏らす。乳首を片方捏ね指先で軽く転がすと、自分の指でも関係なく芯の通った鋭い快感が背骨を走り抜けていく。もう片方にも指を伸ばそうとしたところで、突き上げる動きが激しさを増し始めた。露骨なおねだり、効いたみたい。繋がってるところが更に熱くなって、両手で口を押さえてみても何の意味もなく、吸い込んだ牛島の濃密な肌の匂いが不要な五感をそぎ落としていく。
 目の前にいる人のこと以外、頭の中から消えていく。
 お腹の中が、奥から熱が広がって、ぐちゃぐちゃと無遠慮にかき回し蹂躙する音が耳を塞いでも伝わってきて。膨らみきった先端が、本能的に深いところを抉る。繰り返し、何度も、畳みかけるかのように。埋められたかたちのまま、微動だにできないよう引き絞っても、抉じ開けてはまた進む。とうに退けないのは同じ。吐く息が荒いのも同じ。違うのは、険しい顔をして快楽を耐えてるところ位。俺の全身で奉仕されていて、耐えられるわけがないと知っていても、いつもこうだ。
 意地っ張りめ。俺には我慢するなって言っておいて、自分のことは棚に上げる。俺はしっかり気持ちよくなって満足したいし、受け取ったものは同じだけ返してやりたいって思ってるのに。受け取ろうとしないから、俺から押し付けるしかなくなるんだ。
 目を閉じて体を軽く揺らすと、一番奥に嵌まっているものがいい感じに擦れて、前からも後ろからもどろどろと濁った蜜が止まらなくなる。本当に好き合ってこうしていたのなら、同じ時間でどこまで行きついていただろうか。発情期を越すごとに感じやすくなっていく体は、意識で制御できない瞬間を境に、俺に恐れを植え付けた。嫌だ嫌いだって拒み通すつもりでいた気勢もどこへやら、差し出された手を取り指を絡めたのは、俺だ。
 薄い靄がかかる。感覚のすべてが、繋がった一か所に集中して、他一切が消える。脈打ち放たれる、待ち侘びたもの。まだ、量が多い。終わるまで動けない。動く気もずっと前に投げ出した。
 互いの体の雄と雌を、嫌でも思い知るこの瞬間。否定的な言葉を何度も書面で目にしたけれど、俺個人としてはそう嫌悪するものでもないと思ってる。オメガの俺がいて初めて、牛島のアルファの性が浮き彫りになる。いなければ、十全には牛島の性は機能しない。殊更に反応したのは俺にだけだと語った、かつての言葉の裏付けでもあった。
 量が多くて、じっとしていても流れ出たぬるつく精液。半透明の彩りが溢れて行きつく先は、汗を吸って湿った皺だらけのシーツ。互いの性を端的に示す何よりの証拠を目にすると、気恥ずかしさに興奮が勝る。ひとしきり終わって満足すると、していたコトへの実感と一緒に余裕がやってくる。重ねられた唇の隙間から覗いた舌をこちらから吸い、その気になってきたら仕切り直しだ。
 引き抜いてもらった後に腹圧をかけると、中に残ってた分がとろりと肌を伝い落ちていく。開き、結ぶ、繰り返し咲く徒花は、足を開けば簡単に牛島の視界に入る。もの欲しそうに唇を半分開けば、すぐさま二回目が始まる。時を感じさせるものすべてを投げ出し、閉じた世界の中で見つめるのは相手のことだけ。代わりに積み重ねていくのは、体を委ね肌を合わせる回数。苦しみにつながる記憶は繰り返しの中に紛れ反比例していく一方で、牛島に靡きつつある身体感覚は綺麗な正比例を描いた。嫌悪感はもう感じない。違和感なんかもどこ吹く風、『からだ』に『気持ち』が引っ張っていかれてるのは明らかだった。
 お互いに裸で眠っていて、すこしでも催したらそのまま相手を起こしてそのまましちゃうこともあるし、たまにある何もしない日でも密着して休むのに抵抗がなくなってる。今みたいな昼間の明るい場所で、岩ちゃんじゃない人と何度もこんなことしてもほとんど平気でいるなんて、一年前の自分は信じるかな、どうかな。到底信じられないだろうな。自分でもなるべく客観的に振り返ってみたら、やっぱり途中で『そんなの思いつかない』って思考停止するもの。
 人生って聞いてた以上に、どう転ぶかはその時になってみないとわからない。
 今の俺は、相手が牛島だと認識した上で、致し方ない点はあるにせよ、自分の意志で体を許してる。
 ……でも、どうしてだろう。岩ちゃんのところに帰りたいって気持ちは、ぼんやり薄くなったとは言っても今も変わってない。
 なのに、岩ちゃんじゃない人に、以前は岩ちゃんとしか経験してなかったあれやそれやをされても、俺が平気でいられる具体的で根本的な理由は何?
 たった一度の服薬の中断が、岩ちゃんじゃない人の子どもを産む未来と俺をイコールで繋ぐ、綱渡りを続ける状況下で。
 わからないよ。俺自身は何を望んでるのか。ふとした瞬間に、わけもわからず泣きたくなる理由が。発情期が俺を根本から変えて行ってるのか、それともオメガの性まで含むと、俺は最初から今みたいな大して強くはない人間だったのか。
 迷うこと自体に意味があるのかさえわからなくなった俺は、牛島の存在そのものに溺れた。溺れようとした。溺れてしまえば、考えずに済むと思って、安直な逃げ道に逃げ込んだ。日常が非日常を鈍磨し、今の生活がごく緩やかな変化を遂げつつ妥当な落としどころへと落ち着くまで、特に何も起きない『日常』を繰り返せばいい。急いで答えを出せとは要求されていない。俺のペースで、少しずつ、向き合えばいいと。牛島は、そう言ってくれている。解けつつある心への戸惑いが消えたなら、俺はきっと自力で自分自身の答えを見つけられるから。
 だからそれまでの間は、宙に浮かせた決断はそのままに。頭上から、俺限定で降り注ぐ、慈雨を浴びて健やかに過ごしていればいずれ。俺が自分のことだけを考えていられるよう、雑音を遮断してくれている彼に甘えて暮らしている後ろめたさも手伝い、折に触れ感じるもの慣れない優しさが身に沁みる。惹かれていると告げてしまうのはまだ失礼なくらいの、ほんのちょっとの兆しが見えたのは、春が近いせいだろうか。



 在校生が廊下を行き来する快活な声が響いてきても、俺たちはお構いなしに互いを貪っていた。夢中だった。かろうじて日付のみが存在する時間の中で、汗とは違う肌の匂いをそれと認識する嗅覚を養い、望むものが片っ端から満たされていくひとときに陶酔していた。
 いずれ終わりを迎えると知りながら。
 三回目が終わってやっと、心地よい怠さが四肢を包み、俺たちを狂わせた熱が引いていく。これから自分の足で歩いて帰るのは正直億劫だった。
 けれど荷物のように担がれるのも、背負われるのも、ましてや抱き上げられて帰るなんてのは論外だ。意地と執念で腿を動かせば、おそらく数時間ぶりに、牛島が腰を引き繋がりが解けた。体が離れた途端に、栓を失いあふれ出たものがシーツに吸い込まれていく。ご無沙汰していたわけでもないのにどれだけの量が流れ出ていたかはこの際気にしないよう努めるとして、だ。
 汚さないようにベッドを利用するのはやっぱり無謀だったみたいで、腰回りを中心にシーツはどろどろ。腹筋を使って起き上がってみれば、二人分の汗なんかが染み込んで湿り気を帯び、ところどころ色が変わってる様子が見える。シーツを少しずつ外して、かろうじて無事だったところを使いあちこちを拭いてから、制服のポケットからミニタオルを出して牛島に向けて放り投げた。
 同じ部屋の中に備え付けの水回りは、部屋から出る必要性を低めてくれる地味だけどありがたい設備だ。乾いたタオルだと落ちにくい汚れなんかを落とすとき、どうしても水道水の力を借りなきゃいけない場合が出てくるもの。今回も例に漏れず、へその下の大惨事の後始末には必須と言える。真っ裸のままタオルを濡らす牛島の姿を尻目に、くしゃくしゃにしたシーツの上に跨った。
 ミニタオルの準備を終え戻ってきた牛島の利き手が、ぬかるみと化した花蕾を念入りに清拭していく。一回では拭き切れなかったみたいで、一度洗い流してからまた戻ってきて、拭いての繰り返し。思ったように足が動かなくて全部任せきりにしても、嫌な顔ひとつせずに世話を焼いてくれるから、楽ができる反面少々後ろめたさもある。あ、でも、ふらふらしたまま一人で歩いていたら、何度も目の前で転びそうになったせいかな。気を抜いたら膝から力が逃げて、腰が抜けたように座り込んだりもしたから。
 ……うん、多分、俺が危なっかしいせいだ。他の理由を想像するとろくでもない仮説が出来上がっちゃう。考えない方がきっと穏やかに過ごせる。
 替えの下着に足を通し、埃を払い落とした制服を身に着け終えた時には、牛島の側も全ての後始末を終えて帰る支度を整えきっていた。あのシーツは洗ってまた利用できるとは思えなかったけど、処分するかどうかは俺たちが決めるわけじゃないから、忘れてしまおう。再起不能にしたシーツの枚数なんて、思い出しても何もできないもの。



 体に燻る熱が完全に冷めるのを待たず、いかにも『何かしてました』って顔のまま、俺たちは校舎を後にした。どこか乱れた印象が残ったままの制服を、身に着けるのも今日が最後。コトを済ませた後に手を引かれて歩くのも、すっかり定着した。互いの利き手を繋ぎ、厳かな雰囲気を自ら纏うつもりであるかのように、一歩一歩を踏みしめ進んでいく。俺の姓が社会的に変わる、あの儀式さながらに。そんなつもりは俺にはないのもお構いなしだ、意思を尊重する時とそうでない時の差が大きいのもなかなか変わらないし、どんなきっかけを用意したら人の話を聞き入れる真っ当な奴になるんだろう。
 あれでもない、これでもないと思案しながらも、足は着実に敷地の外を目指していた。整った設備に比例して広く設けられた敷地を抜け、とっくに卒業式の立て看板を取り除いた校門を背に、一枚だけ記念撮影に付き合ってやって。肩を寄せ合い写した写真の出来栄えを当人はあまり気にしていないのか、それとも一緒に写した事実さえあれば気が済むのか。俺が一緒に写っていても表情は硬いし、写真の俺はまだぼんやりした顔をしている。撮りたがったのは誰だと思ってるんだろう。これから入学し、今までとは違う生活が始まる新入生じゃないんだから、笑って写っておけばいいのに。変な奴。
 写真に写りこまないよう脇に寄せていた鞄を拾い上げようとした手を、不意に掴まれた。歩いている間は何も言わなかった、引き結んでいた唇が俺を呼ぶ形に動く。上体が傾いたまま、俺はそれを見上げている。
 薫る風が髪を揺らし、葉擦れの涼やかな音色がどこかから聞こえてきても不自然にならない、一瞬を境に。
 また、俺たちの周囲だけ、世界から切り取られた違う時間が流れ始めた。
 もう通わなくなる学び舎の、顔に等しい正門の前。新年度の近づく、慌ただしくも楽しげで、心浮き立つ空気が街を包む変化の季節。滞りつつあった俺たちの関係もまた――滞るよう尽力したにも関わらず――季節に乗せられ、違う局面を迎えた。
 解放された手のやり場をどうしようか、逡巡している隙を、牛島は見逃さなかった。同じく自由になった牛島の手が、制服のポケットの中に一旦消える。数秒泳ぎ、今まで目にしたことのない煌めきを伴って、ポケットから出てきた。風情が聞いて呆れる剥き出しのそれは、控えめな日差しを受けただけで優美な光を宿し、見る者の背すじを正させる。シンプルだからこそ飽きの来ないデザインで、どんな顔をして慣れない買い物をしてきたんだろう、なんて想像を巡らせる余裕と……牛島への愛情を俺が持っていたのなら。俺にはまだまだ縁のなかった高価な指輪を目にして、心に波風を立たせることもなかったように思う。
 その牛島の指が、バレーボールの扱いとは雲泥の差のぎこちない所作で、指輪を摘む。空いているもう片方が、俺の左手を取る。柔らかな眼差しが注がれる先は、特別な意味を持つと誰もが知る薬指。指の股を軽く開いて、いっそもどかしい位に慎重に指の腹を押し上げながら、一緒に過ごした九か月の『答え』を与えようとしている。学生が、いや未成年者が、自分の一存で他人に買い与える額ではない指輪に込められた意味なんて、どうやったら勘違いできるだろう。目利きじゃなくてもわかるよ、宝飾品店のショーケースに並んでいたとしたら、値札が五桁では留まってくれないものだって。
 華奢でも何でもない指に嵌められた、将来を誓い合うための透明な輝き。純粋に喜べる相手から贈られたものではないけれど、目映いほどの清らかさは『是』と返事をしてしまいそうな威力がある。俺にそこまでの価値があるとは、どうしても自分では思えなくて、折に触れ伝えられる『本気』から逃げて逃げて逃げ回って、何とか今に至ってるのに……逃げ道がひとつ、またひとつと崩れ落ちていく。発情期でぼろぼろにされた体は、俺の一番の望みを俺から遠ざけただけではなく、今までの俺の在り方を――俺の核とも言える、セッターとしてコートに立つ栄誉を――オメガの性に捧げた。かつての生活を破壊しただけでは飽き足らず、コートに立つ資格を争う機会さえ、俺から奪おうとしている。
 性に苛まれる時間以外をやりくりしてバレーを続けてはいる、けれども第一線に……自分の力量のみで立ち続けられるほど、痛めつけられた体は癒えなかった。普段はバレーに飢え、発情期が来れば対の性に飢え、ないものねだりを繰り返しているのが今の俺。状況がいつ好転してくれるのか、先も見えないし本意とは程遠い生活を送っている。
 ならば。
 状況の代わりに、『本意』が変化したなら?
 薬指を彩る、気が塞がるほどに綺麗な枷が、互いへの約束に姿を変えたなら?
 俺に残された道は、もうそれしかないんじゃないか?
 ……わかってた。わかりきってた。手をかざした先に見える、俺の反応を気にしている男は、初めてまともに顔を合わせた時から俺しか眼中になかったんだから。五年近く袖にされ続けても同じだったのに、まだ俺は往生際悪く、気が変わらないかと期待していた。
 かざした手を下げ、注がれる視線と対峙する。いつもより頻繁な瞬きも、体も動かしていないのに速く浅い呼吸も、どう見ても不自然で。この男なりに緊張しているんだな、と思うと……俺の中にあった障壁に、亀裂が生じた。
 潮時だったのだろう。従来の『及川徹』でいられるのは、おそらく今日が最後。寡黙で言葉足らずの牛島の考えは――本人の口の端に上らずとも――推察は容易だった。
 俺の残りの人生全部を、欲しがっているんだ。疑う余地はない。だって、そうでなきゃ俺に……求婚なんか、しないだろ。


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