十章 岩泉編

 いかにも金持ちです、って顔した学校に通ってる割には、牛島はそこそこ普通の家に住んでる。天井の高い庭付きの平屋一戸建ては、土地さえ持っていれば建てるまでの敷居も低く、特段珍重するものでもない。
 漆や黒檀の艶がよく似合う、昔ながらの日本家屋って点を除いては。
 太い梁は今ならなかなか手に入らない樹齢の木を使ってるし、欄間の飾り掘りといい一本ものの柱といい、和で統一された空間は本来とても奥ゆかしい高級感と居心地の良さを感じさせ、一日の疲れを癒す好条件をいくつも備えている。文句を言えるような点は見当たらないはずだった。
 連れてこられた理由にさえ、目を瞑れば。
 い草の薫りがほんのりと漂ってきそうな広めの一間には、綺麗な縁の畳が合計十二枚。最初から隣り合わせに、枕も気持ち近づけて敷いてある二組の布団。枕元にこれ見よがしにタオルや湯を張った盥なんかを置かれてないのは救いだった。
 俺のからだの事情は筒抜けだとしても、話は知っていると目に見える形で示されると、精神的な逃げ場がなくなるから。追い詰められても、今の俺には逃げる場所がどこにもないんだ。
 なのに俺ときたら、逃げる理由を消そうとする自分がいることを、否定しきれなくなってきている。布団を眺めてると余計に性欲が膨らんで、岩ちゃんよりも広い背中に反射的に抱きつきそうになるんだ。
 息が荒くなって、吸われるままに舌を差し出し、歯列の裏を擦らせて。
 凝縮した熱を散らしてもらわないと満足に眠れないから、部屋にあいつが来るのを待って、隣り合わせの枕の片方に頭を乗せたまま何十分も横になって。
 どうかしてる。気持ちの在処は変わってない中で、俺は体を鎮めるためだけに、これから毎日牛島に体を委ねてセックスし続けなきゃなんないなんて。
 きっと、嫌悪感が消えていくのも、時間の問題だ。オメガは気持ちで恋愛してもまず実らないから、体の事情が気持ちを引きずり込むことの方がずっと多い。どんなに今は牛島のことを嫌っていようと、時間さえかければ、俺はいずれ虜にされる。抗えない血が、俺の中には流れてる。
 それに、自分から足を開いてせがんだ結果、岩ちゃんのところに帰るなんて二度と言えない体になる可能性も高い。本来理性が完全に吹っ飛ぶのは俺ではなく牛島の方で、俺は自衛のためにも最低限意識的に行動できるはずだったんだけど、抑制剤の多量摂取が招いた激しい発情期ってやつは、それも許してくれなかったみたいなんだ。
 俺の自由になるものは、想像以上に少ない。身を寄せた牛島家の中で起居する、俺を除く全員が、俺がもとの生活に戻る気でいるとは思っていない風だった。事実、実現の見込みはほぼなかったから尚更、俺がどう考えているかを言い出せるわけない。探しても、どこにもそんな雰囲気、ない。



 発情期に散々俺を抱いてた影響か、下半身の欲求に殊に忠実な牛島は、まだ夜も更けてないのに服の上から胸の辺りをまさぐってくる。
 厚手の生地の上からだと、じれったくてもどかしくて、結局脱ぐんだから最初から脱がせてくれればいいのに、そうしないのは俺には毒だ。
 けれど、まどろっこしいやり方を非難する理由はないし、行為を助長するような真似をしてあいつを喜ばせてやるのも、なんだか癪に障る。俺ばかり我慢を強いられてる気がして、一回抵抗したことがあったけれど、眩暈がするまで焦らされて以来懲りたし。
 どうにかしてくれと泣きつくしかないから、俺はその時以来逆らうのをやめて、媚を売る恥もかなぐり捨てた。そうでもしないと自分の身を守りきれない。従順なふりさえしていれば、少なくとも丁寧には扱ってもらえる。他の男の影がちらつくのが一番気に入らない、顔に書いてあったから、二人きりになったら余計なことは言わずに、ただ隣にいるだけにした。
 発情さえしてなきゃ、俺の理性は俺から離れていかない。本能に支配さえされなければ、手玉に取るのはそんなに難しくもなさそうだった。
 拒絶の言葉の端には、行為の続きをねだる甘さを滲ませて。
 人前では控えめに、人目がなくなったらその分大胆に。
 あがった呼吸を隠す必要もない。むくれた頬をあいつの肩に押し付けてやったら、横方向に傾いてたはずの上体が後ろに倒されて、いつの間にやら押し倒されててそのまま最後まで……何回、したかな。
 好きじゃなくたって、抱かれてやるのは想像してたよりも遙かに簡単だ。目の前にわかりやすい餌をぶら下げておき、行きすぎない程度に警戒を解いておく。そうすると、快楽だけを追いかけていようと、胸中で密かによその男を想っていようと、痛い腹を探られずに体の面倒を見てもらえる。体の相性だけなら、元々誰よりも合うわけだし。
 それに、俺の深意を見透かすほど人の機微に明るかったら、ばれるような隠し事は最初からしない。悔しかったら俺の気持ちも岩ちゃんから奪ってみせろ、って喧嘩売ってると思うし、そもそも牛島がそんな奴だったら今頃は休学のタイミングを二人で真剣に話し合ってるはずだ。
 岩ちゃんと同じ意味で、あいつを見つめるようになったら、身の回りのいろいろなことも円満解決にこぎつけるんだろうけど。生憎、世の中あいつの思い通りには動いてないし、俺もそんなの望んじゃいない。
 俺の心がかけらも手に入っていなくても、大して焦りも急ぎもせず悠長に構えているのは、横槍を入れられる心配が不要になったからなのか。俺がふくれっ面をしてる日は言葉少なに抱きとめたきり、手を出さずに過ごしたこともある。黙ってれば気の利かない荒も隠れて平和だから、いっそのこともう喋るな、って言いたくなったけど、さすがにまずいから面と向かっては言ってない。
 色々考えてる間に体がすっかり出来上がってて、腹の奥には重たい熱が籠ってる。いつもこうだ。洗濯物を無駄に増やさないように下着ごと部屋着を脱いだ時点で、することなんか一つしかない。
 濡れてべたべたになってる腿を開いて目の前に差し出すと、目的のものが小路を割って入ってくる。慣らさなくても何の痛みもないし、慣らしたら布団を干さないといけない位にぐちゃぐちゃになるから、栓をしてくれている時間が長ければ長いほど、気も楽なんだけどな。
 ただ、牛島曰く、『余裕が出てきたのは入口だけで、その先を抉じ開けるのは毎日力ずく』らしい。今から緩かったら笑えないし、ちゃんと奥まで入るんだから気にする必要ないと俺は思ってるけど、痛くないからって何回言っても奴は半信半疑なんだ。大事に大事に扱われても、俺の曲がった性根は認めるまいと目を背けて、努力を無駄にしてる。嫌いなままでいようと、荒さがしをし続けてる。
 けど、牛島を蔑ろにしていると思われたら面倒だから、他人の目にどう映るかは常に注意を払ってる。自分の容姿を含めて、所作がどんな印象を与えるのかも、織り込み済み。自由奔放で、わがまま放題に見えるけれど、それは信頼と愛情の裏返し。満更でもないって思われるように誘導すると、俺の気持ちが自分へと傾きつつあるって錯覚するんだから、ホントにおめでたい。
 惚れさせたアルファの扱いがこんなにも楽だと知ってたら、存分に利用してやったのに。発情期が来るのをぎりぎりまで遅らせて、自力で制御できないかと莫大な労力を割いていた分、思いっきり損してた気さえしてくる。
 腰を浮かせて腹圧をかけると、中を埋め尽くしていたものが一層存在感を増す。上下に揺らして牛島に催促すれば、中からあふれてきた滴がはたりとシーツを打ち、しみ込んでいく。俺の体はまだ熱いままで、欲しかった快感は不完全に燻り、矜持を焦がす。もっと、ちゃんと、シてほしい。
 焦らされると一回じゃ満足できなくなるって、俺がねだるのをわかっててやってるんだから、なんて奴なんだ。



 一般的に言われているアルファ固有の価値観は、牛島も例に漏れずほぼ一貫したものを持っている。本格的に性分化が始まったころから毛嫌いしていたオメガ特有の生き方は、番にしたいと思う相手じゃなかったから嫌悪してたってだけ。俺がそっくりな振る舞いをしてみせたって、嫌いな部類に改めて区分されたはずの俺を見る目は全く変わらない。
 性の本能が俺の体を隅から隅まで作り変えたように、牛島の価値観も部分的に本能に上書きされたんだ。そうでないと、短期間に豹変した理由の説明がつかない。
 いや、価値観だけじゃないか。もう、今まで俺が見て知っていた牛島若利は何だったのか疑うほどに、違う面ばかりを見せられ続けて感覚が麻痺してるのかもしれない。俺自身の変化もあって、逐一覚えていられる余裕もないから、列挙しきれないものもきっと多いんだろう。
 一回のセックスに割く時間が長くなって、否応なく肌なじみがよくなってきたこと。あちこち弄られてるから過敏に反応する場所も増えて、感じてるふりをする機会も必要もなくなったこと。自分の望む相手を手に入れた、貫禄とも言える落着きが出てきていること。牛島自身が俺の好む要素を備えつつあり、脱がされたらそれきり自分を取り繕えなくなってしまうこと。
 加えて懐の深さまで身につける気でいるのか、困らせてやるつもりが逆に掌中で転がされているような違和感があった。布団の中だけじゃなく、腹立たしいことに外でまで。
 名前を付けるとしたら、大人の余裕ってよりも、旦那の余裕に近いかな。結婚以前に婚約もしてないし、するつもりもないのに気が早いったらないけどね。やってることの中身と頻度はまあ、新婚さんと同じなのは認めるけど、目的が違うし。子作りなんかしてないし、させてやるつもりもない。
 ……ただ、俺にも良心はある。
 後始末してる――ううん、させてる最中に、いつもは黙々と手を動かすだけのところ、口を開かせるだけの含みがあったに違いないから。
 繋がりを解いてすぐ、筒状に拡げられた形のまま白い滴を垂らしてる、七分咲きの椿の花弁を清めながらの独り言。忘れられる気がしない。忘れていいとは思わない。自分の都合しか考えられずにいた俺は、ひとつの罪を抱えている。
『お前が薬を飲み下すのを目にする度に、そんなに俺が嫌かと、吐き出させたくなる』
 そこまで言わせてしまうほど、俺と牛島の間には大きな隔たりがある。俺は牛島の言葉に噛みつく権利を持っていない。無理もないのはわかってる、他の人が好きだからお前と番になる気はない、なんて言える間柄じゃないから。今まで色々、ありすぎるくらいにあったけれど、顔を合わせてから何年も経つんだ。もうそろそろ打ち解けて素直に頼るべきなんだろうな。本当は。
 向こうは俺に、最初から本気なんだから。
 重すぎる好意は持て余しても投げ出せないし、逃げ出せない。仕方なしに抱えているうちに体は以前の安寧を取り戻した反面、身の振り方を、これからの生き方を嫌でも考えさせられて、心理的な余裕は雲散霧消した。
 広くなった例のない俺の選択肢から、誰と、の要素がいつ抜け落ちるんだろう。いつ誰と番になるのか、二つあったはずの条件が『いつ』の一つに減ったが最後、一生が決まる。薬を飲む理由を取り上げられて、俺は単なるアルファの番としか見なされなくなる。
 絶対に受け入れられない。何が悲しくて、好きでもない奴に一生を捧げてやらなきゃなんないの。外性器は、今のところは全く同じように出来てんのに。からだを明け渡してるのは、あいつを喜ばせたいからじゃない。俺に必要なものは、あいつを満足させないと与えられないから、四の五の言ってられないってだけなんだ。
 発情を緩和させるためには、アルファの体液を継続して摂取するのが最も有効だから。唾液で充分なお得体質も世の中にはいるって話は聞いてたけど、残念ながら俺はかすりもしなかった。真逆の、恋人と濃密な夜をお過ごしくださいの側だった。
 だから俺の平穏は、牛島と毎日セックスする前提あってのもので、毎回必ず中に出してもらわないといけないなんていう、ひどい制約がついてる。避妊薬は今のところ継続できてるけど、発情期の間は理性がお留守だから、いつどうなってもおかしくない。俺に必要なものは自力じゃ揃わない。与えられてやっと成立する生活なんて、どうにも不便でたまらないよ。
 なのに俺に一番に与えられてるのは、なくても体には障らない愛着。大事にされないよりは余程ましなんだ、向こうは一生を保証するつもりなのだから一人くらいは産んでやれ、ってすれ違い様に囁かれたのは一度だけじゃない。
 言いたいこと、少しはわかるんだけど、肝心なところがわかってない。当事者じゃないから当たり前なんだろうな。竹割ったみたいに簡単な話だったらとっくに俺だって動いてる。
 一人産んでそれきりで、関係が終わるはずなんかないんだ。あるか、ないかのどちらかなんだ。ある、の側に身を置けば、自分じゃ切れない鎖で雁字搦めに縛り上げられて、二人目、三人目と人数を増やすしかなくなる。
 一度目が起きるのは――絆されて一人産むのは――牛島と添い遂げるのと同義だ。
 御免だってあがいただけで事実を変えられるのなら、一度、を許すだろうか。
 有り得ない。
 産んだ後、子育てに追われていようとおかまいなしに、発情期がやって来る。首の据わらない乳飲み子を隣に寝かせたまま、子どもの父親に身を委ねて、そのまま次の子を――可能性は十分にある。産みたがりと産ませたがり、薬の効果が抜けきってる体が好機を逃すわけもない。
 なし崩しに、子どもの父親が、だんなさま、になるんだ。
 


 何度か体勢を変えながら、膨張しきったものに体の中を行き来させていると、あれこれ考えてばかりもいられなくなる。
 意識できる感覚が少しずつ削ぎ落とされていき、体勢を崩さないよう頑張ってたはずの肘が、いつの間にかシーツの上に落ちていた。四つん這いにされてたはずの俺は、腰しか高く上げてない格好になってて、小刻みに奥を穿つ動きのままに揺すられてる。
 背中に感じる荒い息遣いは、情念で湿ってるから本当に反応に困る。体の感覚としては間違いなく快楽を受け取っていても、それに溺れきることができない。情緒的にも俺を求めているのか否かの、疑念がいつも頭の中にある。気を許したら相手の思う壺、薬の効果ありきで組み立てていた生活が根底から覆ってしまうから、猜疑の霞の中で過ごさざるを得なかった。
 喉の奥から、自分でも聞きたくない甘ったるい声が、ひとりでに出ていく。こいつに聞かせて喜ばせるつもりは毛頭ない、そう思っていながらも、力が抜けきってる唇は半開きのままだ。強まる一方の摩擦は隠しきれない快感を運んできて、溢れ出てくる蜜が腿を伝い冷えるより早く次が出てくるんだから、こっちももうあんまりもたない。
 さっさと終わらせろ。
 俺が心にもないことを口走る前に。
 一生気づかない勘違いをしないためにも。
 散々催促してやっと、目的の生ぬるい精が奥に叩きつけられた。好きだの愛してるだの、俺には余計な言葉と一緒に。痛いくらいの勢いにも慣れて、間欠泉のように噴出すものがからだの奥を濡らし、隅々まで満ちるにつれて自分の体の境界が消えていく心地がする。
 強かな拍動は吐精の快楽を間接的に伝え、掴まれた腰は指の跡が残るかどうかの瀬戸際だ。
 もとはお前のために誂えられた体なんだ、気持ちよくないはずないだろうに。
 今のお前は俺以上に性に支配されていて、てんで我慢が利かないんだろ。それも、アルファの性的欲求を、俺への好意と取り違えてるだけ。思う存分に性行為に溺れていられる、今までとは真逆の環境に目が眩んでいるに過ぎないんだ。
 俺は、お前の言葉が信じられない。
 愛していると、必死にお前が訴えかけているのは、俺自身じゃない。
 憐みを感じるほど必死にお前が愛を囁いているのは、俺の一部でしかないオメガの性に対してだ。
 本心から生じたものか、アルファの性が目を眩ませただけか、どちらなのか区別なんか出来てないだろ?
 だから俺の目には、お前のすべてが白々しく映る。
 馬鹿馬鹿しい。体の欲求に耐え切れなくなっただけなのに、最初から固まっていた自分の気持ちに従ったまで、なんて思い違いもいいところだ。
 俺はお前の心を求めてない。
 お前の恋人らしく振舞ってやってるのは茶番だと、まだ気づいてないのか。用があるのはお前の体で、いかに手短にことが済むかを度々考えてる、そんな奴にお前は人生を狂わされかけてるんだ。
 ……けど、不思議なんだ。
 中に出された瞬間からしばらくの間、俺はこいつを嫌っていることをまったく意識しない。忘れている、とも言えるだろう。
 こいつが俺に与える時間のすべてが、このくらい穏やかであったのなら、俺があからさまな嫌悪を示す時間も大きく減るんだろうな。
 少なくとも俺の体は、牛島に媚びへつらっていないながらも、惜しみなく与えられる愛情と快楽に迎合しようとしてる。腕枕があるかないかで寝つきの良さも変わった。今まで夜中に目なんか覚めなかったのに、唐突に欲しくてたまらなくなって跨ったら、しっかり応えてはもらったけど実は全部俺の夢だった、なんて恥ずかしい思いもこの間した。
 襞の絨毯が深くなった、とか。どこのとは言わせなかったけど、自分でも知らなかったオメガの性を、牛島は次々に開拓していっている。なかなか快楽が抜けないから、指一本動かすのも億劫で、全部任せてそのまま眠ってしまいたいくらいの心地よさがまだ全身を包んでいた。
 ただ、のんびりしていると、とても貴重な一人で過ごせる時間がなくなってしまう。後始末に時間を割かれるあいつを置いて風呂場で過ごすなら、笑ったままの膝に言う事を聞いてもらわないと。横になったままだと立てないって勘違いして、ご丁寧にも背負ったり抱き上げたりして運ばれるから。
 起き上がったらやっぱり、まだ白い精液が一筋、中から垂れてくる。立ち上がると流れ出し、腿から膝裏の窪みへゆっくりと伝っていく。見せたら欲情されて立ったままもう一回されるパターンだ。皺だらけになったシーツの後始末が終わる前に逃げないと、寝る時間がなくなる。
 


 表面を滑らかに仕上げられた木を組んで作ってある浴槽は、個人的に一番の『牛島家おすすめスポット』だった。既製品の、とりあえず大きさがあって角がなくて白っぽい、並べると見分けのつけにくいものとはわけが違う。
 大人二人が入ってもしっかり余裕のある広さは、くつろぐには最適でうまい具合にお湯も張ってあった。体を軽く洗い流し喜び勇んで浸かると、ふわりと柚子の匂いが立ちのぼる。
 癒されるなあ。お湯もいつもよりやわらかい気がする。
 発情期に思いっきり体力削り取られた分、滋養にいいからって口実をつけて、温泉にでも行けたらいいのにな。念のため、お風呂丸ごとの貸切に対応してるとこで。
「春になら、連れて行ってやれるが行く気か」
 後ろから声がして、吃驚して飛び上がりかけた。振り向いた先には、俺が驚く理由に心当たりがなく、首を傾げる男の姿。
 もっとのんびり浸かっていられると思ってたのに、もう来たのか。
 何食わぬ顔して乱入してきた牛島は、さっと浴び湯をしてから、当然とばかりに空いた側に体を沈めた。
「盗み聞きとか、趣味悪いって習わなかった?」
「聞こえただけだ」
 話の途中なのに俺の腿を開かせてから、間に割り込んで跨らせる。このままだと対面座位だな、しがみつく場所他にないからそこそこ好都合なんだけど早速二回目かよ、なんて思ってたらすぐに下から準備の整ったものが埋め込まれた。
 お湯の中だから体が浮きやすいし、ぬるつきがすぐに溶けて散る分、擦れる感覚が強くてきつさを感じる。背すじを丸めてやり過ごそうとしたら余計に奥まで入って、腹の奥がかあっと熱くなった。
 悔しいくらいに、気持ちよくて。
 抜かずに腿を使って俺を軽く跳ね上げてる目の前の奴は、まだそこそこ余裕が有りそうなのが、悔しさに拍車をかける。
「後、始末……んっ、残って、あ、やだそこだめだって……ないのか……ぁ」
 動きを止めるつもりはないみたいだった。ってことは、全部終わらせてからこっちに来たんだろうか。一度しかしてないから時間としては不自然じゃない、でも布団もシーツも汚れてなかったのなら、別の心配をしなきゃいけない。
 外に出てくる量が減るのは、発情期が近付いてる兆候だから。始まったら終わるまでが長いのに、周期は特に長くないなんて不公平だ、ってぼやいても仕方ないけど言いたくなる。
 最中の記憶はかなり曖昧で、ちゃんと毎日服薬できてたのかも覚えてない。からだの奥が熱くてたまらなくて、何か考えてたのかどうかもわからない。オメガの発情期は全員共通の生理現象のはずなのに、度を越して病気認定されたようなものだから、文句は言えないよね。


 
 中で脈打つ感覚がやっと終わって、突き上げられる動きからも俺は解放された。
 体の奥まで埋め込んでいる牛島の性器は、嵩をあまり減らしていない。三回目、したほうがいいのかな。物足りないって顔をした牛島が、お伺いを立てるようにこっちを見てる。もう今日は出来ない、休ませて、って白旗を振るしかないのかな。性と体の違いを肯定するように思えて、気が進まないけれど仕方がない。
 名残惜しそうに牛島のものが引き抜かれた時も、あっさりとは抜けなかった。張り出した部分が栓のように引っかかっていたから、向こう二、三日の間に本当に発情期が来る可能性が高い。腹の中に溜め込んだものもあるのに、透明な湯の中を漂う濁りはなく、洗い場で背中を流してもらってるときに滲んできた程度だった。
 性欲が満たされたら、入れ替わりに睡眠欲が一気に高まってくる。ふらふらしながら部屋に戻ると、皺を伸ばしたシーツとふかふかの掛け布団が手をこまねいていた。
 どうせ添い寝で温かいんだし、下穿かないまま手抜きしてこのまま寝ても風邪はまず引かないだろう。
 本格的な冬が来たところで、俺たちは互いから離れて生活する予定もないから。


 
 目を開けたら、天井の木目がぼんやり歪んで見えた。
 明日は来なくても、明後日には発情期が本当に来るかもしれないな。二人で学校を休んで、部屋にこもりきりでひっきりなしに体を繋げて、何日も過ごす生活がまたやってくる。
 抑制剤の過度の服用は発情の強度を押し上げるから、体に蓄積された薬が完全に抜けるまでは、どんなに不自由をしようとも避妊薬しか処方されない。かかりつけの医院も変えた。俺の意思を最大限に尊重してくれた担当医とは違う、健康被害を最小限にとどめるための診療をする医師が半ば強制的に俺につけられた。発情が落ち着くまで外に出ちゃいけないし、真っ最中の姿を他人に晒すような事態にでもなれば、腫れ物に触れるオメガの特別扱いはいつまでも続いてしまう。人目に触れさせて問題ないものは限られているし、関係を周囲に認められていたとしても、性生活はまた別扱い。幸か不幸か、そこはベータと変わらない。
 自分の体温が少し鬱陶しくなり布団を捲ると、朝の冷気がこもる熱を払いのけてくれる。空調の良く効いている、隔離施設を思い出した。
 投薬と忍耐と理性で押し殺せるちゃちな本能なら、俺だって我慢するし、強制的に施設送りにならずに済んだと思う。医療面でも手厚いサポートが必須と判断されたせいで通達が回ってるのか、搬送車に直接連絡の取れる連絡先まで牛島には渡されているらしい。
 もっとも、あいつは俺の強烈な発情期をある意味で歓迎してるから、俺の体にとって毒になる仕打ちは絶対にしないだろう。俺の腹に自分の子が宿るのを、まだかまだかと待ち焦がれているんだから。
 俺を本当の意味で好きとは限らないのに、よくやるよ。
 俺への常識外れの執着は、俺に恋愛感情を抱いているってだけじゃない。
 あいつの中のアルファの性が、番のオメガが持つ先天的な魅力にすっかり参ってしまって、嗅がされた鼻薬の効き目通りに行動してる。恋愛感情で動いてるって思い込んでるだけなんだ。
 あいつは誰よりも、アルファの性を体現しているから。
 だから誰よりも、俺をオメガとして見てる。
 あいつが欲しがってるのは紛れもなく、俺の中の性だ。
 だから。
 俺がオメガだから、岩ちゃんから取り上げた。
 誰とも知れないそのへんのアルファに『種付け』される前に、他の誰のものにもなれないよう、俺の中に自分の匂いを定着させる気でいるんだろうな。四六時中隣にいて、他の誰かに体を許す暇も体力も俺に残ってないのに、どうして疑うんだ。発情期以外でも、あいつは俺を好き勝手に抱いてるんだから、種付けできるのは自分だけだってどうして気が付かないんだ。
 ちゃんと俺は約束通りに、あいつの気が済むまで昼夜構わず相手をしてるってのに。
 世間一般では、自分の気に入ったアルファをいかに虜にし続けるかを、オメガの手練手管と呼んでいる。確かにそう言える側面もあるとは認めよう。自分ばかりが夢中で相手が素っ気ないのなら、駆け引きも俄然楽しくなるし、相手が自分に陥落した時の感慨もまた格別のものなんだろうな。
 俺たちは違うから、今の生活をこれっぽっちも楽しめていない。あいつは俺をいかにその気にさせるか考えてはいるみたいだった。まるで効果がなかっただけで。逆に気を抜くと、場所柄も弁えずに俺に手を出してしまうだけで。
 抑制剤が完全に体から抜けるまで、俺は避妊薬にしか頼れなくなった。発情の強度を弱めて、生まれついた程度か十人並みかに戻すためには、濫用していた期間と同じかそれ以上は必要らしい。都合の悪いことはいくつも重なるって典型例を地で行く自分が嫌になってくる。
 避妊薬しか使えない俺は、普段から無意識に発しているらしき匂いの強弱さえ、制御ができなくなった。厄介なことに、何もしていなかろうとそれは時折やけに強まる。牛島家一同揃って膳を囲んでいるときに運悪くタイミングが重なり、隣で煮物をつついてたはずの左手が箸の代わりに俺の手首を掴んで、まだ食事の途中だってのに押し倒された時は死んだほうがましかと思った。
 冗談抜きで。
 畳の目の跡がくっきりと手の甲に残るほど、手首を押し付けられた。痛みに怯んでいると、あいつはそのままいつも部屋でしていることをなぞり、片手で服を捲り上げた。まだ湯気を立てている味噌汁のことも、俺が食べやすいようにって折角骨を外してくれた魚のことも忘れて、勿論家族の目なんか気にも留めずに。
 下を脱がされる前、苦し紛れに俺から部屋に誘わなかったら、どうなっていたかわからない。一部始終を見せてしまうのは未遂で済んだものの、せめて一人くらいはあいつのやろうとしたことに難色くらい示してもらわないと、だれがあいつを止められるっていうんだ。
 今の俺の扱いは親公認の、お墨付きまで与えられてる婚約者だ。夜になったら同じ布団に入った後、裸で何をしていようと不審がられない。籍がまだ分かれてる以外の既成事実が全部揃った、恐ろしいまでの『親密さ』。
 昨日の深夜、あるいは今日の明け方までか。長いこと体を繋いでいると、体力が回復するより前に布団を出る時間が来てしまう。今となっては貴重になった俺の体力を吸い取って、あいつは生きてるんじゃないかってつくづく思う。横になってても寝ていられる時間は短くて、欠伸をしながら無理やりに体を起してもいいことも少ないから、平日は平日なり、休日は休日なりにぎりぎりまで起き出さない日が多い。
 原因なんてわかりきってる。
 昨日だけでも合計四回、平均すると一日五回は、あいつが種付けしていくせいだ。毎日一緒にいるのに、自分の体からあいつの匂いが薫ると、その濃さに気が滅入りそうになる。鼻の奥に残る精液の臭いさえ消えないまま二の腕を見やると、昨日つけられたらしき鬱血痕がひとつずつ、律義に両腕に現れていた。
 どこからどう見ても、十分すぎるほどに、俺はあいつのお手つきになってる。事実、八月に――ほんの二か月前ではあったけれど――俺は番にさせられたから、お手付きらしく見えるのは、辻褄がようやく合ったとも言えるんだ。俺自身は番になりたいだなんて望んでいなかったし、番の行為だってしたくてしているわけでもないのに、周囲から見える像がそのまま俺たちの関係に名前をつける。
 遮音に難のある日本家屋だから、部屋に引っ込んだ俺たち二人が毎晩籠って何してるのかは勿論のこと、その日のプレイ内容だって知られてるんじゃないかな。
 声抑えなくていいって言われてから、枕に噛みついたこともないもの。
 性に奔放であってもお咎めなし、どころか満喫してしまっても構わない、そんな雰囲気。厳格そうに見えて、事実大抵の事項は制限があるにはあるんだけど、俺に関しては正気を疑うほどに緩い。失礼なことを言っている自覚はある、でも俺が予想し、同時に覚悟した不自由さは何だったのか、時折わからなくなるんだ。
 このまま後戻りできなくなっても、俺は絶対に困らない。世界で一番好きな人と一緒に居られないなら、二番目に好きな人を今からでも作るか、自分を大切にしてくれる人の傍で生きていけばいいんじゃないかって。わざわざ苦労する生き方をしなくても、今の生活の一体どこに不満があるんだって考えてる、普段意識している自分とは違う一面がひょっこりと顔を出す場面も増えた。
 俺の矜持と、体力と。絶妙な均衡を保って、あいつは俺の調子を管理し把握している。その上で自分の欲求も満たしていくんだから、要領がいいともてはやすべきなんだか、やり方が汚いと目くじらを立てるべきなんだか、どっちなんだろう。
 早朝のロードワークに出たあいつの温もりが、掛け布団と俺の内側にまだ残ってる。ほんのりと熱を持ってて、抉じ開けられるのにもすっかり慣れた股関節は、何となく重たい感じはあっても痛みはない。表からは雀のさえずりがいくつも聞こえてくる。
 今日は静かだ。あわただしい雰囲気とはこの部屋だけ切り離されているかのように、足音も遠い。
 もう一度布団を体の上に乗せたら、昨日使った石鹸の匂いが、ふんわりと漂った。



 誰も来ないのをいいことに、布団の中から出ずに二度寝を堪能していたら、この時ばかりは裏目に出たらしい。二人分並べて掛けてあった制服の片方がなくなってる。
 寝過ごしたんだ。
 ひとまず正確な時刻を確認するとしても、その前に俺にはやるべきことがあった。
 姿見の前に立ち、体のどこにあいつの残した跡があるのかを、くまなく確認することだ。隠せる位置にあるのか、隠れない位置にあるのか、個数によって遅刻してでも登校するかが変わってくる。俺を登校させる気がない日は、目立つ位置に鬱血痕と同じく噛み跡が追加される。
 今日は、『来るな』の日だった。
 開き直って部屋着に袖を通すと、部屋の隅に一人分の膳が置いてあることに気がついた。
 俺が布団から出られないんだと思い込んだのかな。胚芽米の盛られた茶碗に、蓋のしてある汁椀、主菜と副菜も揃っている。箸置きのすぐ横に、メモらしき小さな紙も添えられていた。
 汁椀の蓋を取ると、三つ葉の浮いた毬麩のお吸い物がまだ湯気をたてている。忍ばせてあった柚子もささやかな華を添え、昨日の柚子湯の一件をうっかり思い出しさえしなければ、改めて湯浴みに行く気にもなったのかな。
 ……いや、そうでもないか。
 『貴方が可愛くて堪らないんでしょうけど、加減するように言っておきますから安心してね』
 こんなことをわざわざ書いて寄越されたら、色々な意味で頭を抱えるしかないだろ。
 二人きりじゃないと素直になれないって訳でもないし、優しく扱ってほしい訳でもない。言って聞かせたってあいつが変わったとしても、気味が悪いから変わらなくていい。知れば知るほど幻滅していく、俺の予測を悪い方へ悪い方へと裏切っていくあいつのままでいい。俺はあいつを許したくないから。
 冷めないうちにと箸を進め、薄い味付けが俺には上品すぎる献立を、ちょっとした不満と一緒に飲みこみ平らげていく。疲れの抜けない体を労わって考えられた献立は毎日少しずつ変化し、今日は出汁の効いた煮物と塩を振った蒸し魚。味気なくて最初は仕方なしに食べてた。けど、俺の調子や前日の様子なんかも考えて、専用の献立を用意してると知ってから、無碍にはできなくなった。魚を綺麗に食べるのが不得手で、食べやすいところにしか箸をつけなかった日の翌朝には、そのまま食べられるように小骨の処理まで済んでるほぐし身を出してくれもした。
 見返りを求めるつもりのない真心が、俺を一番苦しめる。
 あんまり俺を大事にし過ぎないでよ。期待には応えないって、決めたんだから。
 そうでもしないと、おかしくなる。
 俺が俺でいられなくなる。
 岩ちゃんしか受けつけなかった牙城に、発情期の訪れを境にあいつが入りこんでから、からだが意識を浸食していっているんだ。
 寝ても覚めても、夢の中でさえ、俺は岩ちゃんに会えないし、一人で過ごす時間そのものがとても少ない。始終あいつが傍にいて、当たり前だと言わんばかりに、周囲に目配りをして変なのが近寄ってこないよう見張ってる。
 俺には既に決まった相手がいるのだと知らしめるための、マーキングも欠かさない。
 俺以外のオメガを迎える気がないからって、絶対に誰にも奪われないようにするにしても、やりすぎだと思った一件がある。
 夜、食膳を囲む席で、俺に一度留まった視線があからさまに逸らされた日。変だなと思って後から尋ねてみると、それはもう鮮やかな色をした花弁がひとひら、肩口を彩っていると教えられた。服では隠れない、鏡を見ないと自分ではわからない場所に。
 迎えられた家庭の温かさの中で、俺一人だけが性を匂わせる振る舞いばかりを繰り返す居たたまれなさを、どこへやればいいのかわからない。跡を隠して生活するよりも、見せつけてやった方がずっと楽な自分が不甲斐ない。
 これから先、俺が平穏に暮らしていく上で、あいつの全面的な協力が欠かせないし、そもそも隔離施設から出る許可が下りない公算が高い。発情期を迎えたら、第二の人生が始まるって言ってもおかしくないと思う。生活は様変わりする。自分を選んだアルファに合った生き方をせざるを得なくなる。望むか望まないかは、絶対に自分の自由にはならない。
 オメガにとってのかつての日常生活は、振り返ってみると、波打ち際に建つ砂の城だった。どこか一か所で調和が乱されると、全体が一気に脆く崩れ去り波に飲み込まれていく。なにかがそこにはあった、けれども詳しくはうかがい知ること叶わぬ、のっぺりとした骸が残るだけ。壊れてしまえば、かつての姿の全容を知るのは、日常を失った本人ただ一人。
 お膳を廊下に出して布団をあげてしまうと、部屋が異様に広く感じられる。隅に立っている太い柱に背を預けて座り込み、目を閉じると一瞬で平衡感覚が失われて、体が畳に向かって横倒しになっていた。
 来るな、の指示はこれを見越してのことだったのか。
 あいつは俺の体調のことを俺より良く知っているから、ポケットを漁れば解熱剤のひとつやふたつ……入ってるんだもんなあ。熱っぽいと思ったらすぐに飲めって、書置きと一緒に。自覚した頃には遅いかもしれないが、飲まないよりは楽なはずだ、って声まで聞こえてきそうだ。
 あいつは俺と、つながっている。良くも悪くも未来を約束された、離れられない二人。屈折しようと、矛盾があろうと、番となるよう生まれた俺たちは、どれだけ意地を張ったところで強制的に愛し合うようつくられている。
 その後ろ盾であり、離れ離れにならずに済むよう万事を取り計らっているのが、時には法さえ捻じ曲げる番制度だ。科学はまだ理想には届かない。人間が本能を克服しようとしても、動物の生まれ持った習性に逆らい切れていない。馬鹿な幻想にすがりつき、夢ばかり追いかけ続けている人間は、根本的な解決策に至るどころか折衷案に辿り着くのが精一杯だ。
 俺もまた、本能に屈するしかなかった、間に合わなかった側のひとりだ。
 いつになるんだろう。
 生きるために好きな人を諦めなくても済むのは。本能が消し去る選択肢を奪い返し、アルファも、ベータも、オメガも、全員が自由になれるのは。
 あいつはどうか、知らないけど。
 俺は、岩ちゃんがよかったんだよ。
 オメガに生まれるしかなかったなら、岩ちゃんの番に生まれたかった。
 岩ちゃんに貰ってほしかった。
 他の人じゃあ、だめなんだよ。
 俺の恐れも、憂いも、あいつは知ってるのかもしれないけどさ。
 知ってても何もできないことって、絶対にあると思う。
 だったら俺は岩ちゃんに、自分の言葉で伝えたい。
 何も言わなくてもわかってくれなんて言わない。わかってほしいことは、自分で伝えなきゃうまくいかないから。
 今の生活のままじゃ俺は、一人にならざるを得なくなった瞬間に、生きていけなくされてしまう。あいつは生涯俺の隣にいるとは限らないし、口約束は人の生死を何も保証しない。
 お互いの身に、起きてほしくない何かが起きてしまったら、どうなるのか。
 その位のこと、考えろよ。
 曲がりなりにも俺に愛情を注いでいるのなら、一人残されたとしても生きていけるように、望む望まないを抜きにしてでも備えておくものじゃないのか。
 俺がもしもアルファだったら、きっとそうする。
 大切な人が困らないように。
 自分がいなくなったとしても、新しい幸せを手に入れられるように。
 自分のせいで悲しい思いをさせないように。二度と性に苦しまないように。
 他の誰かのものになったとしても、その人と一緒に、いなくなった自分のことを忘れるくらい幸せになってほしいから。
 今のあいつが俺に向けているのは、俺にとっての愛情とは違うもの。
 ただの束縛だ。俺が岩ちゃんのところに帰るつもりでいるから、力ずくで阻止しようとしてるだけ。
 俺から離れようとしないのはきっと、そんな理由を含んでいるせい。
 俺の自由は、身の安寧と引き換えに、奪われ失われてしまったんだ。


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