十章 牛島編

 及川は、いつまでも感傷的な気持ちのままでいられたわけではなかった。
 新しい生活が容赦なく始まる。それに慣れていかなくてはならない。頭の痛くなりそうな書類関係は牛島が一手に引き受けたため、そちらの心配をせずに済んだのは及川にとって幸いだった。新しい生活というものは、及川が想像した以上に、かつての日常からかけ離れていた。
 


 まだふらつく体を時折支えてもらいながら、及川は牛島の家に到着した。
 ……ただ。素直にたどり着いたと形容しては、少々語弊がある。玄関にたどり着く前に総門が構えてある時点で、及川は気の引ける思いだった。
 牛島は名家の跡取りだった。それなのに、俺でいいのか。俺がいいのか。及川は自問した。勿論牛島に問うても、自分を選んだ理由を延々と説かれるに違いなかったから、口には出さずにいた。
 一般の住宅には古びた木製の門扉などというものはまずない。十歩譲って門扉があったとしても、武家屋敷を彷彿とさせる四脚門には、そうそうお目にはかかれない。及川は牛島を浮世離れした雰囲気のある奴だと勝手に見なしていたが、本当に実家が浮世離れしていたとは皮肉なことだった。
 牛島本人は自分の家だということもあり、さっさと閂を外して及川に入るよう促す。もうどこから困惑していいのかがわからなくなってきていた及川は、戸惑いつつも門をくぐったが、くぐった先でまた度肝を抜かれた。
 嫌味の一つでも吐くのを忘れるほどの、これが現実とは受け止めがたい、広大な庭が広がっていたのである。庶民の懐事情にすっかり染まっている及川としては、この庭の中に何軒家が建つかをつい考えてしまうわけだが、旧家の本家という噂はあながち間違っているわけでもないのだろうかと妙な実感が湧いてくるのを止められなかった。
 母屋で待つ牛島の家族に挨拶をして、向かった先は離れ。それだけでも一般家庭とは縁のない場所だったが、歩かされる距離の長さからして豪邸である。
 ああ、自分は愛人同然に離れに囲われるのか、と軽く牛島に問うてみれば、それは逆だ、との答えが返って来た。婚前交渉を是としているからこそ、水入らずで過ごせるよう普段は離れで暮らすだけだ、とのこと。
 それが、家族なのか夫婦なのか、恐ろしさのあまり、及川の追及は叶わなかった。



 てっきり、床の間のある部屋に布団でも既に広がっているのだろう、と及川は勝手に予想していた。
 だが現実は想像の斜め上。古風な床の間などどこにも見当たらない。代わりに最初に目にしたのが、真新しいベッドだった。
「……おい、これ」
 どこからどう見ても、一般家庭にあるはずのない、サイズである。
「小さかったか? 小さいようなら、作り直すよう手配するが」
「いや、そうじゃない」
 二人とも、これでも大真面目に会話を成立させようと必死である。かみ合っていないだけで、かみ合わせようとする努力は怠っていない。徐々に及川は、牛島の持つ『一般常識』が、市井の『一般常識』とかなりずれていると認識しつつはあった。だが、これでもかと発揮される『若様』ぶりに、振り回される一方だったのは否めなかった。
「あのさ、フツー、私物でこんなでかいベッド持ってないよ? お前、家ではいつもこんなの使って寝てたわけ?」
 高級寝具一式でまとめられていた事実を、及川は知る由もなく。ただ単純に、目にしたことのないベッドの大きさにばかり気を取られていた。そのようなベッドを置いても尚余裕のある部屋の広さにも、まだ気づいていない。
「いや、新しく工面したものだ」
 牛島は及川の疑問を一刀両断する。その結果、新たな疑問が及川の中に生じる結果を生んだのだが、きりがないこと位及川は察せられた。わざわざ新しくこんなものまで買ったのか。一体いくらしたんだ。そもそも工面や手配という言葉からして特注品のようだが、いつからこうなることを予想していたんだ。
 尽きない質問を口にしても意味はない。だが意味のないことに時間を費やさなければ、ベッドにまつわる耳に痛い話が始まってしまいそうで、及川はあれこれ勘案して話を振った。
「新しく工面した、って……俺にそんなに金かけても、逃げるかもしれないのに?」
「お前は逃げない」
 暖簾に腕押しか、こいつは。
 及川は早々に匙を投げた。だから話の脈絡は考えずに、自分の知りたいことに関しての話を振ることに徹した。
「あっそ。俺、家では布団生活だったんだけどさ、ベッドってそんなに寝心地変わる?」
 及川がこれといった意図もなくベッドに腰を下ろすと、当然といった態で牛島もその隣に腰かけた。
「嫌でもこれから慣れていく。ベッドの使い勝手は寮で知っている」
 だから実家でも使うことにした、と補足する牛島の声は、及川の耳を素通りした。生返事だけした及川は、横たわってもまだ余裕のあるベッドの横幅を楽しみ、また程よいスプリングの反発に気をよくしていた。
「……ふぅん。意外と、寝心地いいじゃん」
 満更でもない様子の及川に牛島は満足し、わずかに口元を緩めた。だがその変化に気付くほど、まだ及川は牛島の機微には精通していない。牛島も牛島で、及川の一言で自分の投資が正しかったことを実感したのだが、そこでおもむろに及川の上に乗るほどには、まだ色事に明るくはない。
 二人の前途は多難であるかのように見えた。
「まだ寝るには早いぞ、及川」
 色気のある一言でも言えたのなら何かが起きたのかもしれないが。
「え〜、布団よりこっちのが断然居心地いいんだからもう少し横にならせてよ」
「駄目だ」
 色っぽい雰囲気は、二人にとってはまだ遠い。ベッドにしがみつく及川と、それを引きはがそうとする牛島。手に手が絡み合っても、所謂『そういう雰囲気』にはならず。結局力負けした及川がベッドからはがされ、名残惜しそうに見つめる破目になったのだが、仲睦まじい二人になる過程の第一歩に見えなくもなかった。



 そして、その日の夜。
「はぁ……生き返るぅ……」
 及川は、一日の精神的疲労を風呂で癒していた。
 母屋にある、贅を尽くした檜風呂。目にした瞬間、ここは温泉旅館の貸切風呂でも真似たのだろうかと呆気にとられた位だ。どんな入浴剤を使っているのか、湯もやわらかく肌馴染みが良い。たった一度の入浴で内風呂を気に入った及川は、白い濁り湯を肩にかけ遊びつつ湯船で寛いでいた。
 そこに、さも当然といった様子で牛島が現れるまでは。
「…………何してんだ、お前」
 濁り湯でほぼ見えないとは言っても、反射的に前を隠しながら及川は牛島の所業を詰った。
 しかし、牛島は詰られる謂れもないといった顔。洗い場で湯を浴び、体を洗い始めた。
「二人で入っても問題ない広さのはずだが」
 そういうことを言いたいんじゃない、と及川は言いたかった。だがあくまでも静かな牛島の声とは違い、己の声が浴室によく響くのではないかという危惧が、及川の発声を思いとどまらせた。
 何か問題でもあるのか、と言いたげな牛島の視線を受け、及川は口を噤む。声量を抑えて話をするのに、何度もの深呼吸を必要とした。心臓は相変わらず早鐘を打っていたが、動揺の影響であり、間違っても高揚ではないのだと考えたかった。
 少なくとも、同居を始めたこの初日の時点では。
「そうじゃなくてさ、普通、入ってもいいかどうか先にお伺い立てたりするもんだろ?」
 幾分か冷静さを取り戻した及川は、まず一番常識的な部分から牛島の所業を問い質した。
 しかし、牛島の答えは相変わらず、及川にとって的外れなものだった。
「いずれは毎日一緒に入るのだから、今からでも問題はないはずだ」
 及川は頭を抱える。どうしてこの男は話が通じないのか。見当外れもいいところの回答しか寄越していないではないか。不思議な思考回路の把握だけでも相当な期間を要するだろうし、理解ともなればまた相応の時間をかけなければ言葉の意図も読み切れない。
 及川はそう判断し、即時の相互理解を早々に諦めた。
 この判断は、両者にとって吉と出た。
「はいはい、考えるだけなら自由だからもう何も言わないよ。それよりも、さすがに男二人で湯船に入るのは無理があると俺は思うんだけど?」
 湯船に入りたそうに及川を見つめる牛島の目は据わっていた。広さとしては十分だったが、湯船から溢れ出る湯の量を考慮すると、二人で入ってはいけないような気がしてならなかった。だから及川は、牛島の暴挙を未然に防ごうとしたのだが。
「長湯は体に良くないぞ」
 及川の腋の下に勝手に腕を差し入れた牛島は、及川の了承なく立ち上がらせて洗い場に出るよう促すばかりで。仕方なしに洗い場に出た及川の裸体をしげしげと眺めた牛島は、感嘆のため息をひとつ吐いた。
「綺麗だ」
 及川を送り出したのと引き換えに、牛島の体は浴槽の中へと沈んでいる。縁に腕をかけ、不埒にも及川の体に手を伸ばしてきたのだが、それは及川自身の手によって叩き落された。
「う、うるさいっ、黙って浸かってろって!」
 自分の体の厚みと、牛島の体の厚みは違う。厚みの違いの分だけ溢れる湯を、牛島は気にかけてはいないようだったが、排水溝に勢いよく吸い込まれていく濁り湯は及川のコンプレックスを大いに刺激した。
 胸中で舌打ちするだけに留め、かけらも気にかけていない風を装って、髪を洗い始めた。
 ここまでは概ね及川の予想通りに事は運んでいた。脱線したのはその先だった。
 両手が塞がり無防備になったところで、湯船の縁に凭れかかっていた牛島の腕が再び伸ばされ、及川の胸をまさぐり始めたせいだった。
「……っ、ん、何、してんだっ」
 瞬く間に芯を持ち存在を主張し始めた桜色の突起は、牛島の爪の先で弾かれ指の腹で転がされ、及川に快を伝えている。人間の根源たる感覚のひとつを与えられては、牛島相手の及川と言えども陥落は遠くない。耐えられるかと思われた悦楽に翻弄され、許容の線を越えた分だけ、及川の口から艶めいた吐息が漏れ出る。
「声を、我慢する必要はない」
 全部承知の上だ、と付け加える牛島。何が何やらまだ呑み込めていない及川とは対照的だった。
 及川の髪に残っている泡を指先で掬い、尚も牛島は及川のあちこちをまさぐるばかりで、及川に余計な気を起こさせる事だけに専念している。
 その甲斐あって、震える手で何とかシャワーヘッドを掴んだ及川が泡を洗い流し終えた時には、抵抗する気も叱責する気も失わせることに成功していた。
「……ばか。何してくれてんだよ……」
 反応しきった体を抱きしめるように腕を交差させて、及川は牛島を睨みつける。だが、このまま捨て置かれては却って苦しいだけで、体は続きを望んでいること位及川は知っている。
 また牛島も、及川の意図には見当がついており、おもむろに立ち上がり湯船から出た。
 その体躯に一瞬目を奪われかけた及川だったが、癪に障るので口には出さずに、さも憎たらしそうに視線を向けるに留めていた。
「責任……ちゃんと、取れよ」
 背後に回った牛島の方へと振り向き、吐き捨てるように告げる及川。
 及川のつれない態度には慣れている牛島は、気にした様子もなく泰然自若としている。
「言われなくともそうするつもりだ」
 言うなり牛島は及川の手を取り、湯船の縁を掴ませた。膝立ちにさせ、足を開かせて、生じた隙間に強引に体を割り込ませる。足を大きく開く格好になった及川はやや苦しそうではあったが、その先に待っている行為を予測するとすぐに大人しくなった。発情期中に牛島が教え込んだ賜物のひとつだった。
 後ろからじっくりと牛島は及川に挑みかかり、深々と刺し貫いた。慣らしもなしの挿入だった。発情期の間に牛島の手によって調教された及川といえども、ちりちりとした痛みを覚えるかに思われた。
 が、それは杞憂に終わった。及川の体は快楽のみをうまく拾い上げ、浴室内には鼻にかかった甘ったるい吐息交じりの及川の声ばかりが広がっていく。
 知らぬ間に盛大な開拓を受けた及川自身が一番戸惑っていた。ろくに動きもしていないのにこんなに気持ちいいはずがない、と。後から後から溢れてくる悦楽が止まらずに、痛いからやめろ、とひとつの苦情もぶつけられないではないか、と。
 及川の体から力が抜け、牛島の腿の上に座り込むような格好になる。大きさに慣らすように深く押し入れたまま、円軌道を描くように牛島が腰を使う。
 体内が擦れて思わず及川は身を固くしたが、漏れ出た潤みがすぐに痛みの要因を取り去っていく。
 気持ちいい。
 もっとして。
 及川の矜持が口に出すのを良しとしなかったが、頭の中はそのふたつで占められていた。
 潤みが陰茎にまとわりついたのを確認した牛島は、発情期明けで過敏になっている及川の体を労わりつつ、ごく浅い抜き差しを始めたのだが。
 その刺激すら、及川の快の琴線を大いに刺激したらしい。悲鳴じみた嬌声をあげながら、すぐに及川は達してしまっていた。
「あ、やだ、やだ……っ……ぅ!」
 ぴゅぴゅっと吐き出された及川の精液が、床を白く汚す。快い締め付けを牛島も堪能はしたのだが、極めるためにはまだ足りずに、次第にストロークを大きくしていった。
 だが、吐精してもまだ物足りないのか、膝を震わせながらどうにか牛島の方へと振り返った及川の目は獣欲にまみれており。
 及川を一度座らせた牛島は、及川の汚した床の始末を手早く済ませて自身の髪も軽く洗い、とろんと蕩けた流し目の誘惑に何とか耐えていた。
 だが、牛島はアルファ。オメガの誘惑にはある程度慣れているとは本人の談であったが、想い人からの誘いとなれば、耐えきれるわけもなく。粘液を溢れさせている及川の体内も軽く洗い流し、立てない及川をバスタオルで包んで抱きかかえ、部屋へと向かった。



 横抱きにされて離れまで連れてこられた及川は、既に限界を迎えていた。性急に相手を求めたのは牛島も同じだったが、及川よりはまだ理性的な判断が出来ていた。
 ベッドの上に仰向けに横たえられた及川はうっすらと涙さえ浮かべており、我慢できる程度をとっくに凌駕していることなど一目瞭然だった。衝動のままに切なくうずく陰部に指を埋め込み、くちゅくちゅと音を立て牛島の目の前で自慰を始めるほどに。
 饒舌なはずの及川からの言葉はない。そんな余裕はとうに失われ、意味をなさない吐息が漏れるばかり。
 見かねた牛島が及川の上に乗り、音を立てて乳首を吸ってやると、性の悦びにすっかり溺れた声未満の息が牛島の耳をくすぐる。期待を寄せ、高まる鼓動を隠しようもなくなった及川は、平生とは大違いでどこまでも牛島に従順だった。
「もう、やだぁ……焦ら、さないでっ」
 前戯でさえももどかしく、及川を追い立てていく。いつの間にか開いていた及川の足の間に牛島は陣取り、及川の指を引き抜いた代わりに自身の指を二本まとめて捩じ込んだ。
 ぐちゃり、と音を立ててあっさりと指を呑み込む及川の秘所から、つぅ、と潤滑液がこぼれ出てタオルに吸い込まれていく。中を攪拌するようにかき回せば、さらさらしていた体液がやがてとろみを帯びていき、及川の側も受け入れる準備が完全に整ったと知れた。
 その攪拌の最中、繰り返し訪れる快感の高波をやり過ごそうとして及川は身を捩ったが、体が半端に横を向いたまま指を抜かれ、引き換えに深々と一息に挿入されるに至り……枕に顔をうずめようとして、失敗した。
「あ、あ……まって、まってってば……ぁ!」
 俗に松葉崩しと呼ばれる格好で、及川は牛島に体を繋げられた。互いの足が交差しあうこの体位は、深く繋がれることで定評がある。浴室での時よりも深い挿入感に及川は狼狽え、同時に体を戦慄かせた。
 自覚したことのない奥深くまで、侵入を許してしまっている。痛覚さえも別の感覚へとすり替えてしまう今の及川はまだ知らなかったが、よほど深いところまで挿入しなければ届かないような箇所への到達が叶っていた。下半身同士が密着し、入り口と成り果てた及川の蕾がこれ以上ないほどに拡がっている。
 淡い薔薇色をした中身を見え隠れさせながら、まずは浅い抽迭を牛島は始めた。一度おあずけを食らっている牛島の動きは次第に容赦がなくなり、それを受け止める及川の喉からも濁り気味の喘ぎ声が生まれていく。
 二人分の荒い吐息の他に漂うのは、発情の名残もまだ色濃い及川の体香と性臭。万に一つも痛みのないように、十分に及川の中が潤んでいることを確かめてから動きを速め大きくしていく牛島に、及川は次第に溺れていった。
 そり返り膨らみきった逞しい雄刀に腹の中を乱され、息遣いを聞かされるうちに熱にあてられた及川は、自身でも気付かぬうちに先端からとろとろと精液をこぼし、タオルをぐちゃぐちゃに濡らしていた。
 吐精のたびに、きゅっ、きゅっと繰り返しきつく締まる及川の体内を蹂躙していた牛島も、限界に達しようとしていた。速く大きな抽迭を何度か行い、及川の最奥まで亀頭を押し込み、肚に込めていた力を抜き射精を始めた。
 及川のものとは段違いに量も勢いもある精液は、すぐに及川の胎の中に馴染んでいく。求めていたものでようやく満たされ、恍惚とした表情を浮かべる及川は、無意識に牛島の名を呼んでいた。
 それは吐精真っただ中の牛島も同じだった。
「……徹」
 汗の滲んだ及川の片足を抱えたまま、牛島は満足げに及川の脹脛に口づける。少しずつ落ち着きを取り戻し正気に返り始めた及川は、繰り返し口づけ今にも脹脛に跡でも残しかねない牛島に軽い蹴りでも入れようかとしたのだが。最中の、ねだってしまった時の記憶もしっかり残っている上に、何よりまだ牛島のもので体内に栓をされている事実が、動作を取りやめる理由として十分だった。
 何を口走ってしまったのか、自分は。発情期明けとはいえ、あんなにも乱れてはしたない振舞いを、よりにもよって牛島相手に。思い返しただけ、恥ずかしい記憶が蘇り。身動ぎのたびに体内に吸い上げられた牛島の精液がこぷこぷと音を立てて動くような気さえして、じっとしたまま動けなかった。
 及川の足をようやく下ろした牛島は、快楽の余韻でまだぼんやりしている及川の唇を舐め、次いで口づける。無意識にそれに応じた及川もうっすらと口を開き、互いの舌が絡み合うまでにそう時間はかからなかった。
 一度は整いかけた呼吸が再び乱れ始めて、牛島のものに芯が通り始めたのを感じた及川は、出来る限り言葉を選んで牛島を制止した。
「もう……えっちする体力、残ってない」
 掛け値なしの本音だった。このまま続けられても翌朝起きられないか、さもなくば途中で眠ってしまうか。どちらにしても双方にとって不本意な結果になるのは目に見えていた。その言い方もまた及川の図体からは想像しがたいほどの可愛らしさで、すっかり牛島も骨抜きにされていた。
「解った」
 ずるり、と引き抜かれていく感覚に、ああようやく眠れる、と安堵した及川だったが。牛島の言動はやはり、及川の想像の斜め上を行っていた。
「なるべく手短に済ませる」
 大部分は及川の中から引き抜かれたが、まだ先端が残っている。その状態のまま、牛島は自身のものを扱き始めた。及川の穴の縁を使った自慰、と形容するのが一番相応しいだろうか。
「な、にして……それ、俺まで気持ちいいやつだし……ぁ、ん」
 弛緩した及川の体では、牛島のものを引き抜くまでには至らない。
 浅い抜き差しと共に竿を刺激していく牛島。浅くとも抜き差しされてしまっては快楽を生まざるを得ない及川の体。甘く優しい熱に体を支配され、体内にもう一度迸りを感じるまでの間及川は覚醒を余儀なくされ、終わる頃にはくたくたに疲れ果てていて。後始末を牛島に丸投げし、勝手に下りて来た瞼で視界を遮断し、意識を落としていたのだった。



 そして一夜が明けた。
 最後に多少の無理はかかったものの、及川の体にはそう大きな後遺症は残らず、登校も可能だと牛島は判断していた。
 些細な問題はあったが。
「……おい」
 及川の機嫌はあまり良くない。
「俺まで白鳥沢に通うのかよ」
 そんなことまで及川は牛島に委ねたつもりではなかった。まさか、自分のあずかり知らぬところで転校手続きが勝手に進められていたなど、思いもよらなかったのだ。
 無理はない。普通に入学するにはかなりの難関校としての知名度を得ている白鳥沢に、無条件で編入できるはずがないのだから。何か裏があるに違いないと及川が疑念を持ったのも無理はないし、また青城に今でも通っている面々へ別れも告げられないままに引き離されるのは、実に不本意であった。
「話は通してある。お前を色眼鏡で見る者は白鳥沢には誰もいない」
 ネクタイを締める牛島はあくまで冷静だった。及川の疑問は取り残されたまま、牛島の手によって身支度だけが進んでいく。
「そういう問題を、俺が言いたいんじゃなくて」
 他人のネクタイであっても手早く丁度良く締められる牛島が存外器用だと、及川はその時に知った。青城の制服もネクタイ着用だったが、そんなことは牛島にとっては些末事らしい。自分が世話して当然と言った風に、及川の世話を焼いている。
 こいつは誰にでも世話を焼くのか、それとも特定個人限定なんだろうか。負担を減らそうとして今のような所業に出ているのならまあ理解してやらなくもないけど、とややずれた意地を及川が張り始めた頃には、既に支度は終わっていた。
「学用品は明日届くから、今日は登校して校内施設の紹介と……」
 珍しく牛島が言葉を濁す。
「紹介と? 何か言いにくいようなことを、俺にさせるわけ?」
 意地悪く及川は追求する。
 だがあっさりと、牛島は返答した。
「制服の採寸だ」
「は?」
 今及川が身に着けているのは、牛島の予備の制服だった。どうせ正味半年通うかどうかなのだから、それで十分だと及川は考えていたのだが、牛島はどうやらそうでもないらしかった。
「背丈の違い以上に、制服のサイズを左右する寸法が色々あるからな。俺とお前とでは、何か所も違うところがある」
 暗に、今の制服は『着られている』状態なのだと牛島は言いたげだった。
 言われて及川は、自分の今の格好を検める。袖丈はまあ問題ない。腰回りに難があるが、制服姿で運動するわけでもないから、我慢できる範疇であるし。云々。総じて、敢えて今の時期から自分用の制服を誂える必要性は薄いと、及川は判断した。
「別に、制服着たまま運動するわけでもないんだし、多少サイズが違ったって俺は構わないけど」
「鏡をよく見ろ、及川」
 そう言って牛島は、及川を姿見の前に立たせた。
「着丈が合っていない」
「ちょっと長いだけじゃん」
 着ている分には問題ないように、及川は考えていた。しかし牛島は違う点も気にしていた。
「身頃が余っているせいだ。それから」
「それから?」
 牛島は何かを言いあぐねている様子だった。言うべきか、控えるべきか。しばらく考え、思い切って、といった風に口を開いた。
「尻だ」
「は?」
 自分の尻のどこが問題だというのか。立っている分には余裕もあるし、座っても少々布地が張る程度かと及川には思われた。
 だが牛島が気にしていたのはもっと違う点だった。
「腰と尻が、今の制服のラインには合っていない。腰はベルトでどうにかするとしても、尻の線がそぐわない。下手をすると、校内の風紀を乱すとして風紀委員に目をつけられる」
「へ?」
 どうして自分の尻が風紀を乱すのか、及川にはとんと見当がつかなかった。
「なんで俺の尻ひとつで風紀が乱れるわけ? そんなに校則って厳しいの? 白鳥沢って」
 鏡の中の自分を見る限り、そんなに煽情的な尻をしているようには見えない。だから余計に及川は疑念を募らせた。
「それとも、オメガの尻は極力隠さないと他の生徒が学業に集中できない程に、白鳥沢にはアルファが多いとでも言いたいわけ? 俺とお前は今のところ番でも何でもないんだし」
 牛島は静かに首を横に振る。
「アルファだけで済むならまだ可愛いものだ」
「……ベータも、って言いたいわけか」
「お前の発情期に岩泉も多大な影響を受けていた。お前がベータも釣り上げる可能性は高いと、俺は思った」
 そんな危なっかしい空間に通ってたまるか。一瞬及川の脳裏に、そんな考えが過った。だが今後バレーを続ける上で、進学する必要が出た時に悔やんだ時にはもう遅いこと位は分別が付く。白鳥沢に通わない選択肢は、最初からなかった。
「制服仕立てるだけで問題が解決するとは思わないけど」
 もう制服を誂えるのは、牛島の中では決定事項のようで。及川は節約を説得する匙を投げた。ただ制服ひとつでベータを釣ってしまう点が解決するとは考えにくかった。番になるとしても、合意があったとしても、一番早くて晩夏か初秋になる。それまでをどうしのぐのか、そこが問題だった。
「早めに手は打つがもう少し待て、物事には順番がある」 
 手段はいくつか用意しているとの牛島の談だったが、即効性に欠けるのではどこまで当てにしていいものか、やはり首を傾げざるを得ない点は変わらない。
 とどのつまり、まだ高校生の彼らに用意されている選択肢は大して多くはなかったと言えた。



 広い、とにかく広い白鳥沢の敷地内を一通り案内された及川は、疲労を感じていた。
 無理もない。近づいても問題のない場所、一人で近づいてはならない場所、細かな説明と注意が織り交ぜられた話を始終聞かされての行程だ。
「つ、疲れたってば……歩き通しだし、お前結構喋るし、色々精神的に参ってくる」
 及川は足を止め、芝生の上にしゃがみ込む。ゆっくりと瞬きをすれば、残っている前日の疲労までもが瞼を重くする。
「休ませてやりたいが、まだ今日中にやるべきことが残っている。あまり、時間はない」
 素っ気ない、いや、つれない態度だ。体調が万全ではない及川の事は牛島自身も重々承知している。だがまだ制服の採寸が残っているので、極力時間を浪費したくないのであろう。
「…………で、制服の採寸って、どこでやるの」
 しゃがみ込んだまま、ゆっくりと及川は顔を上げる。
「人目を気にする必要のない保健室に、業者がそろそろ来る時間だ」
 そんな及川に牛島は手を差し伸べ、立ち上がるように促した。
「それを早く言えよ……時間ないなら、もうちょっとだけ頑張るからさ」
 悠長にしてられないじゃん、と及川は立ち上がり、覚えたての保健室の方向へと歩きだした。
 まだ牛島の手を取る程、二人の距離感は詰まっていなかった。



 骨盤の発達。丸みを帯びた腰回り。いずれも、本来は男性の体には備わらないはずの機能だ。
 しかし、男性と言えどオメガは例外。女性と同じく、それらの特徴を得ていくことになる。
 恐れようと、拒もうと、逃れられない変化。受け入れて生きていくしかない、成長過程。直面するのを、及川は単に避けていたのだろうか。
 是とも否とも取れただろう。オメガと診断された瞬間から、いずれは『こう』なっていく事など知れていたから。
 今の時期の採寸は珍しいですね、しかも三年生で、との言葉を残したのは、採寸を担当した業者の人間だった。
 牛島の寸法よりも大分違っている、歴然とした事実を数値で見せつけられ、及川はぐうの音も出なかった。
 大至急仕立てますのでそれまでの間は代用品で凌いでくださいね、と渡されたものに及川はその場で着替えて、嵐のような一日は過ぎ。
 ……いや、過ぎるかのように思われただけだった。
「やはり、時間は残らなかったか」
 牛島はあくまでも淡々としている。
「……まだ何か、予定を突っ込もうって魂胆だったわけ?」
 及川は慣れないことの繰り返しで疲れ果てていた。
「出来れば、お前の掛かっていた医院に出向こうと思っていただけだ」
 三重の意味で及川は嫌な顔をして拒絶してみせた。
 ひとつ。白鳥沢の制服を着た自分の姿を、青城も近い医院の近辺で見られたくないこと。
 ふたつ。今日はもう何もしたくないほどに、精神的な疲労が蓄積していること。
 みっつ。抑制剤漬けの生活が裏目に出て、重篤な発情期を迎えたと情報が伝搬しているに違いないこと。
「……少なくとも、今日、この格好ではやめて」
 及川の言わんとしたことを、偶然うまく牛島は察したらしく。
「なら明日出直すが、構わないな」
 残り一つの個人的な事情については、及川にとっての逃げ場はない。牛島の問いかけめいた確認に、首肯せざるを得なかった。



 学用品が届くのは午後だと牛島に聞かされたため、及川は翌日、牛島を伴って件の診療所へと足を運んだ。
 そして、しっかり検査を受けさせられたのち、きつく、実にしつこく説教された。及川の名誉のために具体的な内容に触れるのは差し控えるが、二人揃って話を聞き終え診察室から出て来た後に、牛島の胸で大人しく慰められるほどに凹まされた様子だった。
 この一件から及川は徐々にだが、牛島に心を許し始めていたのかもしれなかった。
 そうせざるを得ない状況にまで追い込まれていたとも言えるのだが。
 原因は及川の体質にある。本来の用途とは異なる用法での抑制剤の服用が慢性化していた及川は、薬の効力を凌駕する形での発情期を迎えることとなった。それは本来意図していない薬の用法であり、患者の強い要望がない限りは医師の独断で処方できる何倍もの量だった。
 しかし、患者の要望があっての処方だとしても、発情の拗れ方から鑑みるに、明らかに薬の過剰摂取であった。及川自身の薬への耐性がそう高くはなかったことも災いし、不運が重なっての事故に近かった。
 そんな経緯もあり、今後数年間は少なくとも抑制剤を一切使えない、と厳しい口調で及川は叱責されている。避妊薬だけの処方内容自体は変わらなかったが、抑制剤を使えないイコール、性成熟を阻むものは何もなくその手段も失われていることが、及川を精神的に追い詰めた。
 慰めの言葉も見つからない牛島は、ただ及川の隣に居ることしか出来ずに、歯痒い思いをしていた。誰かが常に傍にいないと、抑制剤の目くらましが一切使えない以上は及川にとっての何らかのリスクがある。しかし自分はまだ、及川にとっての岩泉のような存在になれているとは言えない。マイナスからのスタートだった。
 人の気持ちを思いやる難しさを、及川を通してようやく学び始めた牛島は最初、岩泉ならどんな行動に出て及川を守るかを考えた。
 当初はそれで通用したが、すぐに及川の情緒は安定を欠いていった。別人のように振舞おうとする牛島の行動は、岩泉と牛島の境を曖昧にしたためだ。及川は困惑し、自分が一体誰と過ごしているのか混同するようになり。花を咲かせるような笑顔で、いわちゃん、とやわらかい声で『相手』を及川が呼び間違えて以来……牛島は、岩泉の模倣を止めた。
 真似をしても所詮、まがい物にしかならない。なれない。悟って以来、牛島は、岩泉一のやり方ではなく、牛島若利としてのやり方で及川と過ごすと決めた。決めて以来、多少及川も混乱したものの、すぐに元のような噛み合いそうで噛み合わない奇妙な関係に戻ったかのように見えた。
 及川の態度が多少は軟化したのと前後して、牛島が予てから依頼していた品が届いて……再び、二人の関係性は流動性を帯びつつあった。
 かつての及川であれば、絶望と名をつけたに違いない、白金の指輪。二人の関係が揺らがぬように、牛島の側から提示された、及川を繋ぎ留めておくための楔であり、錨。
 二人の金銭感覚の違いで、及川には当初は重荷として感じられていたのだが、及川はなかなか気づかなかった。牛島がどうして安くはない買い物をほぼ即決したのかを。
 一目で結婚の予定があると知れれば、正式に番になっていなくとも手は出されにくい。殊に白鳥沢内に於いては、あくまで予定であっても、牛島の対というだけで厄介事に巻き込まれる機会からは遠ざけられた。遠巻きにされる疎外感を感じるほどに、及川は必要最低限の接触しか、牛島以外の人間と会話する機会がなかった。
 中途入部したバレー部でも、既に組み上がっているチームに及川が紛れ込む余地はなかった上に、長時間の練習は牛島が許可しなかった。及川が普通の神経をしていたのなら、独りぼっちで捨て置かれているかのような境遇を嘆いたかもしれない。
 及川がそれほど心を乱さずに、置かれた環境に順調に適応していったのは、同じく及川のいる環境に適応しつつあった牛島の存在が大きかった。監視下と言えば聞こえは悪いが、牛島の目の届く範囲でならば、及川も練習への参加を許された。足りないようであれば、様子を見ながら居残りでの練習も認められたし、同じ体育館で過ごす以上互いが何をしているのかすぐに確認できる安心感もあった。
 場所は違う。一緒にいる相手も違う。練習に加わるためには条件が付いている。けれど、一日の流れはそこまで従来とは違わない。及川にも救いがあった。余裕も少しずつ生まれた。その余裕の中から、牛島を個人として見つめる時間が生まれた。
 及川の左手薬指に指輪がしっくりと馴染んだ頃、夏のインターハイに……青城ではなく白鳥沢の一員として会場に向かう及川の心境は、複雑だった。
 本来ならば青城の選手としての出場を渇望した舞台だった。それを、白鳥沢のメンバーの一人として……正確には、選手としてではなく、ただの同行者として……出向くだけになった。心を許したあのメンバーは当然誰一人いない。ただの荷物持ち以前の扱いだった。
 あの、悪夢のような発情期から、もうそろそろ二か月が経とうとしている。医者の見立てでは、いつ次の発情期が来てもおかしくないとの話で、片時も牛島の傍から離れるなとのお達しだった。
 試合に出もしないのに。
 及川は同行にあまり乗り気ではなかった。遠征費はバレー部の部費から出ている。自分で払ってもいない部費から、試合に出るわけでもない一人分の滞在費用を支払わせるだけの理由があるのかと、疑問を抱いた。
 牛島がその疑問に対して反駁する前に、氷解させたのは意外にも、正セッターの白布であった。
『遠方にいる貴方を気にかけながら試合に勝てるほど、本戦は甘くはありません』
 うちのエースのパフォーマンスを落とすような真似なんか俺は許せない、と言外に含ませた白布の言葉で、及川は重い腰を上げた。
『……わかったよ。行くなら、問題ないんでしょ』
 そんな経緯もあり、やや感傷的にもなりながら、及川は会場となった体育館へと出向いている。
 道中、及川の分の荷物を担ごうとした牛島からどうにか自分のものを奪い取り、救護室へと及川は向かった。試合に出る牛島の傍にいるにはベンチ入りするかマネージャーになるか位しか選択肢はなかったが、そのどちらも及川の私情で一人分をねじ込むには不条理に思われてならなかった。
 結果、同じ建物の中にいる分には大目に見るとの医師の言質を取り、ナースコールまで握らされた及川は救護室のベッドに横になって試合の歓声を聞くに留まっていた。
 何もなければいい。杞憂で終わればいい。そんな及川の願いが届いたのか初日は大過なく終わり、白鳥沢は二日目への生き残りに成功した。
 試合を終えて迎えに来た牛島の手を取り、ぶっきらぼうに『おめでと』と一言だけ投げつけただけの及川だったが、二人にとっては大きな前進だった。
 ツインで取っていたホテルの部屋に戻り、試合の熱も冷めやらぬ牛島が及川を求め、それに及川が応じて。普段の夜と、さほど変わらない日常。
 翌日も同じように、及川は救護室で牛島を待ち、勝利を持ち帰った面々を讃えてホテルに戻り。
 そのまま、何事もなければ、良かったのだが。



 波乱は最終日に待ち構えていた。
 二日とも休養していたはずの及川が、原因のわからない発熱で朝から動けなくなっていたのだ。
「目、まわってる、かも……」
 起き上がろうとして失敗し、もう一度ベッドに及川は突っ伏す。頬に赤みが差し、吐息も荒い。病人であるように見えたが、同じような症状は発情期の前兆としても知られている。素人目には判断がつかず、牛島はフロントに電話をかけて最寄りの医院に連絡を取った。
 数十分後に医師は到着し、様子を探っての見立てでは。
 危惧は的中してしまった。
 風邪などによる発熱ではなく、発情期の前兆症状としての発熱の可能性が高いとだけ告げて、アルファの医師は別室に退避してしまったのだ。及川だけがホテルの部屋に残され、牛島は医師と共に別室で症状に関しての説明を受けていた。
 曰く、今はまだ発熱だけで済んでいるが、数時間もすれば発情期特有のオメガの匂いが室内を満たし、理性を失った患者は何をしでかすか予想もつかないとのことで。
 及川が休んでいる部屋に戻った牛島は、枕を抱きしめぐったりと横たわる及川の背をさすりながら、静かに告げた。
「今日の試合には、俺は出ない」
 その言葉に、不調を一瞬忘れた及川は飛び起きた。
「何考えてんだお前! ……っ」
 くらり、と目眩がして再びベッドに横たわる及川。
 しかし牛島の目は真剣そのものだった。
「今のお前を置いて、試合に専念できるほど、俺はお前の身を軽々しく扱えない」
 牛島は及川のベッドに腰かけ、尚も続けた。
「前回のように拗らせてからでは遅い。……命の危険にお前を晒すわけにはいかない」
 口にしながら牛島は、及川の着衣を解いていく。
「っ、待てよ!」
 必死に及川は牛島の行いを制止しようとした。
「お前は、試合で戦うためにここに来てるんだろ! 俺の面倒を看るためにここに来たわけじゃないって、忘れたってんのか!」
 及川も必死だった。まだ残る理性が、試合への出場を牛島に望んでいる。昂っていく本能は、今のこの場での絶え間ない行為を望んでいる。両者のせめぎあいが続き、自身の主張が支離滅裂になりそうなところで、必死に踏みとどまっている。
 試合に出てくれ。
 このまま一緒にいてくれ。
 両方ともが、及川の本音だった。
 だが牛島は当然ながら、一人しかいない。及川の願望の両立など不可能だ。
 そんな時、偶然なのか、必然だったのか。
 及川の薬指に収まっている指輪が、光を反射しきらりと輝いた。
 自身の中で渦巻いている矛盾に耐え切れなくなった及川の頬に、涙が一筋伝っていき。
 何も言えなくなった及川の体を、牛島はひしと抱きしめた。



 互いのベッドの枕元にあるデジタル表記の時計は、試合開始時刻間際である事実を示していた。
 牛島は気付いていながら無視していた。
 及川は理性の殆どを既に飛ばしており、気に掛ける余裕さえ失っていた。
 一糸まとわぬ姿で睦み合う彼らに水を差す存在は誰もいない。
 白鳥沢は牛島を除く面子で試合に臨むこととなったが、それも想定の範囲内の話だった。万一の場合は、牛島不在のままで戦うしかないのだと。牛島が及川の身を引き取った日から、その日が来ると仮定しての練習も重ねてきた。彼らにとっては、『そう』なっただけのことだった。
 及川と牛島が籠る部屋の中には、発情期特有の及川の匂いが充満している。だが今回は対処が早かったためか、六月のような悪夢にはならなかった。
 重ねてになるが、今の及川に平時のような理性はなく、ただ本能によってのみ突き動かされている状態である。目の前にいるアルファが世界のすべて。それ以外には何も、今の及川の世界にはない。
 指を絡めて牛島を見つめる及川の瞳は、ただ純粋に牛島の姿を宿している。牛島もまた同じだった。
 焦点がずれた視界はそれでも互いを映したまま、求めあう二人分の肉体を示すのみで。
「ねぇ」
 及川の声も、砂糖菓子のように甘い。
「もっかい、キスして」
 発情期中の及川は、牛島への何の垣根もなく甘えることが出来ている。唯々諾々と及川の要望に応えるだけの牛島ではあったが、それは彼ら自身が望んだものであったからこそ、不満はひとつもなかった。
 番らしく。互いが互いの一番である、番らしく。二人の姿は『そう』あった。
 唇へではなく意図的に。わざと外して瞼に牛島は口づけた。
 それに対して及川は。
「そこじゃないもん、ちゃんと口にしてよぉ」
 いじわるぅ、と舌っ足らずに言い唇を尖らせる及川のそこに、今度こそ牛島の唇が重ねられる。
 ん、と満足そうに受け止めていた及川だったが、少しだけ唇を開く合図とともに牛島の舌が及川の歯列をなぞり始めて。及川も舌を絡めると、混じり合った互いの唾液が口の端から垂れていく。
 それすらも勿体ない、といった態で口を離した及川が親指で掬って舐め、飲み下す。
 絡ませていた方の手も離してうつ伏せになった及川は、腰を高く上げて牛島を誘った。
「きて、ぇ」
 先程繋がりを解いたばかりのそこは、またしても牛島を求めて健気な収縮を繰り返している。色々なものが混ざった体液を垂らしながら咲く徒花は、『今のところ』は実を結ぶ見込みはない。今の、ところは。
 あっという間に散らされたそこに、牛島のものが突き刺さる。他の誰も目に宿さないし、他の誰の事も考えない、世界には彼ら二人のみが存在していると言わんばかりの営みだった。及川は声を殺そうともしないし、及川の望むがままに牛島はすべてを与えている。
 幾度も果て、果てては昂りを繰り返し、意識が朦朧としていく中。
 不意に及川が、やけにはっきりとした声で、牛島を呼んだ。
「おねがい、していい?」
 横たわり見つめ合っていた時の事だった。
「何だ」
 いつもの調子で、牛島は及川の次の言葉を待った。
「約束。俺を、この先ずっと、一人にしないで」
 そばにいて。はなさないで。途中で囁き声になったが、牛島の耳には十分すぎるほどの声量として届いていた。
「解った」
 魔法のようでもあり、呪いのようでもあり。及川は指輪によって牛島に縛られることになったが、牛島は言霊によって及川に縛られることになった。
 契約の証拠という意味合いでもなかったのだろうが、牛島は及川の首筋を、ごく甘く噛んだ。
 くすぐったい、とクスクス笑う及川だったが、満更でもない様子でいて。まだ何の痕もついていない首筋を差し出して示し、何もしなくていいの、何もしたくないほどに魅力は感じないの、と牛島を煽った。
 及川の煽りに乗じて、牛島は及川の首筋に犬歯を立てた。凹み、跡が残った。
「……ちがうよ。まだ、足りてない」
 及川は、自分を『噛め』と仄めかした。発情期只中の及川の首筋を噛む行為は、互いにとって特別すぎると言っても過言ではないほどの意味を持つ。それを及川は、無意識下で許したのだ。
 まだ跡の残っている箇所に、もう一度牛島が歯を当てる。力を籠めると、及川は一瞬怯んだ。
 しかし牛島に躊躇はなかった。
 更に力を籠めれば、犬歯が及川のやわらかな皮膚を食い破り、血の味が口内に広がる。
「ぅ、あっ!」
 痛みが本能に勝ったのか、及川の口から悲鳴があがる。
 ただそれも一瞬のこと。すぐに、恍惚とした吐息が漏れ出る。
「は、ぁ……これで、いっしょにいてくれる、よね」
 生傷も痛々しい及川が、ふわりと笑む。
「一人にはしない。約束する」
 つられて牛島も、わずかに口角を上げた。



 牛島が及川を噛み、名実ともに番を形成していた頃。
 白鳥沢はエース不在のまま試合に臨み、苦戦していた。激戦の果てに辛酸を舐めさせられて体育館を後にし、帰り支度を始める結果となっても……彼らに一切の悔いはなかった。
 戻って来た白鳥沢の面々を労う主将の姿はなかった。及川の姿もなかった。
 それもその筈、理性的な行動を取れるまでに及川の香りに慣れた牛島が、最寄りの退避施設へと連絡を入れたためだ。傷の手当とともに二人は搬送され、ホテルの彼らの部屋には私物一つ残されず。選択に対しての悔いは残さずとも悔しい思いばかりは満ちている面々は、部屋の様子を確認して溜飲を下げた。及川を説き伏せてでも連れて来たあの時の選択は正しかったのだと、振り返ることが出来たのだから。
 今頃はどうしているのだろうか。各々の脳裏に、各々の知る牛島と及川のやり取りの延長線上にあるひとときが浮かぶ。彼らは発情期中の及川がどんな風に日頃の様子から変化するのか知らない。この時とばかりに牛島と全力で愛し合うことも知らない。
 閨房での及川が平時とはどの位違うのかさえ、匂わせたことはない。牛島も及川も、頑なに明かすのを避けていた。好ましいパートナーとして、及川は牛島の傍に在った。だからこそ、二か月に満たないような短期間で、白布を中心とした白鳥沢の面々は及川を肯んじた。自らの立場を濫用するでもなく、あくまでも真摯にことに臨む姿を目にすることで、彼らの及川に対する心証は形成されていった。
 彼らの中に、及川を責める者が誰もいなかったのはそのためだった。重篤な、場合によっては生命に関わる生理現象に振り回されて白鳥沢にやって来るしかなかった及川の悲哀を彼らは想像し、今回の一件でどれだけ自責の念を抱くかにも考えが及び心を痛めた。
 誰に責任があるわけでもないのに、及川が一人で抱え込んでしまうのではないかと憂い、自分たちの力不足で負けたのだと割り切った。胸中は複雑なものがあったであろうが、その葛藤を表に出すほど幼稚な人物はチーム内には一人としていなかった。
 苦い敗北の味を、晩秋にある春高予選での勝ちに繋げるために。気持ちの整理がある程度ついた頃に、及川を連れた牛島が戻って来た。
 予想通り、及川の首筋には牛島の歯形がくっきりと残されていた。
 一定の目途が立ち落ち着いた様子の牛島とは逆に、及川は所在なさげに体育館の隅に立ったまま、積極的には練習に参加しようとしていないと真っ先に気付いたのは五色だった。
 話しかけても生返事をするばかりの及川は心ここにあらずで、どのように会話を運んでいいのかわからなくなった五色がその場を離れても、深いため息を吐くばかり。
 牛島に噛まれた傷口はとうに治っていて、痛むわけでもない。発情期明けで体調がまだ不安定というわけでもない。及川が痛めていたのは、自分の心だった。
 杞憂で終わるはずだった事が、杞憂では終わらなかった。念には念を入れてと描いた、最悪に近いシナリオの通りに事が運んでしまい、今年こそはと意気込んだ優勝旗を持ち帰れなかった原因の一端を自分自身に見出してしまっていた。
 もし、熱さえ出なければ。
 せめてあと一日、自分の体がもてば。
 あとからあとから、後悔が湧き起こる。
 大会最終日の及川の記憶と言えば、牛島に噛ませたあの一瞬の出来事だけで、他には何も覚えていない。出来事から、その前後に何があったのかはある程度まで推測できたが、牛島も他のメンバーも何も及川に語ってはくれなかった。
 誰も彼もが吹っ切った目をしていて、及川一人だけがまだ過去に縛り付けられているようで。誰かが自分を責めてくれた方が余程気が楽だった。チームの大黒柱を抜いた原因は自分にあると、面と向かって詰ってくれたなら。何度願ったことだろうか。
 どんなに及川が願っても、終ぞ誰も及川を責めなかった。引け目を感じつつも、少しずつではあるが牛島を理解し始めている自分を、及川自身止めることができなかった。


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