九章

 頭がぼうっとする。
 俯せになって寝ていて、誰かが下敷きになってて、多分裸だけど不思議なことに寒くない。
 部屋の空調が効いてるのかな。ぐしゃぐしゃになった髪に手櫛を入れたら、自分のじゃない指が絡んだ。
 誰だろう。
 途中でやめてもう一回寝直す格好になったら、体の上に軽い掛け布団が乗せられた。
 気が利いてる……このまま寝ちゃおうかな、寝足りない気がするし。
 ――違う。そうじゃない。二度寝してる場合じゃない。
 俺が下敷きにしてるのは誰?
 声が出ないのは何があったから?
 寝て起きたばかりでこれだけ体が疲れてるっておかしいよ?
 岩ちゃんじゃない匂いがしてる。
 嫌じゃないけど、どこか不安になる。布団の中は温かいのに、この中にいたら俺が俺じゃなくなってくみたいだ。腰から下が他人のものになったように重い。それどころか、ほとんど感覚がない。相当に、まずい状況だった。
 布団の中で、ごそごそと手が動いてる。背格好はそんなに変わらないような、でも一体誰――そこまで考えて、俺は一気に現実を思い知らされた。
 自然すぎて、中に入れられたまま寝てたことに、気づいてなかったんだ。空洞を埋めていたものがゆっくり引き抜かれて実感した、喪失感は半端じゃなかった。
 堪えられない、このままがいい、って。誰とも知れない奴に夢中でしがみついた。
 勝手に震える俺の背中を撫でながら、繋がってる奴が体を起こしたから、座り込む格好になって体重がかかって、挿入が余計に深くなった。奥の方に当たってじわじわ気持ちよくなってくる。ぴったり隙間もなくて、脈打ってるのが直に伝わってくる。
 話しかけようとしても、渇ききった喉からは声になっていない息が吐かれるだけで、無理して声を出そうとしても痛いばかりだった。
 指一本動かすのも、一度閉じた目をもう一度開くのさえも億劫で、体の中にはまだあんなものが入ってるし、何もする気になれずにいたら、口に湿った感触が当たった。
 反射的に開いた唇の間から、水が流し込まれる。程よい冷たさが嬉しかった。
 嬉しかったけれど、当然のように、口移しに飲まされてるのが、どうしても気にかかって仕方がない。
 岩ちゃんは色々雑だから、言わなきゃこんなことしそうにないもの。
 まだ俺はろくに動けないのに向こうは勝手に舌入れてくるし、割と俺の好みは把握してるっぽいし、何がなんだか全然わからない。
 岩ちゃんしか知らないはずのことをどうして知ってるのか、過程を逆算しかけた時に唇が離れた。
 やだ。
 顔、見たくない。誰なのかをまだ、知りたくない。
 ここにいるのが誰なのか、誰とこんなことになったのか、知らないままでいたい。
 簡単に見当がついても。
 候補が一人しか思い浮かばなくても。
 知らずにいる間は、まだ甘い夢に逃げ込めたから。
「及川」
 ……どうしても、知りたくなかったのにな。
 知れば、認めることになるから。俺はずっと、牛島を必要としていたって。自覚して、現実を受け入れて、向き合う段階なんだって。触れられた時の違和感が完全に消えてる。中断してることの、続き、してほしいって感じ始めてる。
 岩ちゃんじゃないってもう判ってるのに、抑えがきかない。奥を抉る切っ先が熱くなってきて、腰を軽く揺らしただけで、擦れる角度が変わる。
 泣きたいくらいに気持ち良かった。牛島に跨がる格好だったのを、両足を絡めるように少しだけ変えさせられて、掴まれた腰が上下する。今まで、してる時、十分すぎる位に中は潤っていたはずが、ちりちりと痛みが走った。
「……ま、って……それ、いたい……」
 何か所か、擦られると痛むところがあるみたいだった。時間が開いたから潤みが流れ出て、奥を弄られるのが今はつらい。下の方は反対に、じっとしてると疼いてもどかしくて勝手にひくついてる。
 半分くらい引き抜かれた後は、乾いたところに潤みをまぶすように抜き差しされてから、もう一度奥まで入れられて。濡れてたらほとんど痛くない。
 妙に奥まったところに押し当てゆっくり動くだけで、すっかり大きさに慣らされた筒の中が、とろとろした蜜で満たされてく。
 我慢してた声が息に混じり、やけに甘ったるくなった自分の声を嫌でも耳にしながら、激しい水音が止むと同時に視界で小さな火花が爆ぜた。
 繋がってるところが脈打って、体の中がすっかり熱くなって、開いた足を閉じる気になれなくなる。気持ちまで無防備に晒して愛されたがってる、貞淑さと縁のなくなった変化が、まだ信じられない。
 こんな体じゃなかったはずなのに。
 中身が入れ替わったみたいだ。
 後を引く快感にふらついて、支えられたのをいいことに目の前の牛島にすがりついて、過敏になった性感が大人しくなるのを待った。膨らんだまま、圧倒的な存在感を放ってる楔の深さを、気にも留めないらしい。首筋を吸い跡をつけた牛島は、腕の中に俺を閉じ込めたまま、行動ではなく言葉で、俺に話しかけてきた。
 俺はもう、どこへも逃げられなくなったのに。
「どうして俺が及川に拘り続けたのか、理由を聞いてくれ」
見たことのない表情で語られたのは、あんまり気持ちのいい話じゃなかった。



 牛島は、検査を受ける前から、自分がどう生まれてきたのか感覚で知っていたらしい。当然、俺よりもずっと早くに。
 だから将来的に、オメガを見つけて番になると知っていて、自分の対として生まれたのは誰なのか、探す癖がついていたんだとか。
 人の本質を見誤らぬよう、外面よく振る舞う輩に猜疑の目を向け――まではしなかったけれど、三つの性の何に生まれついたのかを知るなり手のひらを返す、美学に反するやり口を見せつけられて動じずにいられるほど、練れているわけもなかった。
 その癖がある意味裏目に出て、身近にいたオメガのやり方に嫌悪感を持ってしまい、こんな奴等を番にするのは願い下げだ、って荒れた時期もあったらしい。
 時期にするなら、俺が初めてコートの中で、牛島にしてやられる少しばかり前。
 見切りをつけ、自分の限界を勝手に自分で決めて線引きする、こうありたいと望んだ姿に近づく努力を放棄した上に……アルファに養わせる前提でパートナーの品定めさえ始められたら、俺だって絶対癪に障るし黙ってられない。
 牛島は既に、オメガの汚らわしい打算に苦虫を噛み潰して、それでもバレーを続けてた。バレーに関係のない要因が環境を曇らせても、コートの中までは悪影響が及ぼされはしない。俺とは意味が違っても、牛島もバレーに救われていたのかもしれなかった。
「あんなのを番にする位なら何十年かけてもまともな相手を探すと決めて、居場所を変えず同じ白鳥沢のコートに立ち続けた。意外だったのは、『まともな相手』がすぐに見つかったことだ」
 烏野は勿論、青城よりもかなり規模の大きい白鳥沢の校内に、少数しかオメガがいないとは考えにくい。検査結果を知った頃はまだ差が顕著に出なくても、時間が流れると違いが障る場面も増えてくる。
 勝手にハンデを背負わされて、それでも今までと同じように過ごそうとしても、実際はそううまくいかない。気持ちは空回りして、多少なりとも人の助けがないと、生活が成り立たなくなる。一人で完結しない体は、個人差はあれど、外から見える以上に厄介だった。牛島が見たオメガは運悪く、かなりひどい事例だとは思ったけれど。
「まともな相手、ねえ……」
 普通こんな話はベッドに持ち込まないのに、残念ながら牛島相手だとそんな常識は通じてくれなかった。
 一体白鳥沢はどうなってるんだろう。自分で言うのも何だけど、牛島は俺のことを都合よく解釈し過ぎじゃないだろうか。
 牛島が『まとも』かどうかは棚上げしておくとしても、どんな意味で俺は『まとも』認定されたのか、理解に苦しむってよりも思い当たる節がない。本当に。
 俺のワガママで岩ちゃん怒らせた回数は数え切れないし、それ以前にまだちゃんとイってないからそろそろ話切り上げてほしいとか思ってるし、我慢強くないから腰動いちゃいそうで、けどそんなの知られたら腹立つし、頭の中までごちゃごちゃになってきた。
 俺がどうしたいのか、とっくに知ってるくせに焦らすなんて、なんて奴だ。
「あの時お前に会って、何もかもが変わった」
 いきなり強く突かれて、喉が反った。油断させておいて思いっきり中擦るんだから、反則もいいとこだ。
 ひくつく隘路を往き来しながら俺を仰向けに倒して、先だけ残してまた大半が抜かれた。ただでさえかなり足開いてるのに、膝裏を片方持ち上げられたせいで、何も隠れなくなる。ぽってり充血した八分咲きを観賞しつつ、指の腹で触れたり軽く弾いたり、おあずけばかりでおかしくなりそうだった。
「正面切って俺に張り合ってきたオメガは初めてで、こいつは検査結果を知らないのかと最初は呆れた」
 折角艶っぽい雰囲気になりかけたのに。ひどい言われようはあんまりで、入り口から先に入ってきてくれないのと引っくるめて、文句の一つでも今度こそ言ってやろうとしたら。半分くらい中に収められて、甘える時に使う方の声が思わず出て、頬がかあっと熱くなった。こいつにだけは絶対に、聞かせるつもりなかったから。
「おかしな奴、それだけで片付くと思っていた。僅かな隙も逃さずに噛みつく気でいたとしても、身の程を知れば大人しくなる。野心むき出しでかかってきても叩きのめして、終わるはずだった。遠慮もなかった」
 中のものが太さを増し、押し上げられる圧迫感に体を捩ると、ぬるりと滑ってより奥に潜り込んでくる。
「一度捩じ伏せてやれば、今まで見てきたオメガと同じで、俯き躓いた後は人に媚びを売る。大勢の中、一人一人が違っていたところで、敵わないと諦める早さは似通っていた。及川も、大勢の中の一人として、すぐに忘れてやる予定でいた」
 他人に尻尾を振り媚びを売る、そういう生き方もあると知ってはいたけれど。安直に楽な方に流れ強い者に靡くのが嫌いで、一泡吹かせてやる、って反対に意気込んでたのは、牛島が目にしてきたオメガとは全く異質の存在だったんだ。
「真逆の結果が待っているとは、思いもせずに」
 膝裏を解放され余計に開かされた足の間から、身を乗り出した牛島が口付けてくる。舌先が絡み合い口の端から唾液が垂れるのもそのままに、じっくり最後まで繋げられて腰遣われて、焦れったいから爪たててやったら完全に抜かれた。
「何年経とうと、共有した時間は克明に思い出せる。変わらないものはない、いつかは過去になると思いながら、一目で心を射抜かれた瞳が、変わりも揺らぎもしないことが、たまらなく嬉しかった」
 注がれる視線を正面から受け止めるのが気恥ずかしい。ベッドの上でどんな顔してれば、バレーのことと一括りに口説かれるのをやり過ごせる?
 五年って時間と、初めて迎えた発情期は、自分達さえ気づかない間に決まりきってたはずの関係を壊した。壊して、新しく一から作られていく過程に、違った視点さえ生み出した。
「公式に残される記録の上では、単なる一勝に過ぎない。数字は記録以上の意味を持たない。だが、後に続く試合に専念すべき時に俺は、及川から勝ちを手にした瞬間に囚われていた。敵愾心を隠さず立ち向かってきた姿が、それきり頭から離れなくなっていた」
 負けは課題を見つける重要な判断材料で、何が良くて何がいけなかったのかをいつも端的に示す。
 力の差を埋めるために何が足りないのかを探して、同じ轍を踏まないよう戦術を練り直していく。
 けれど牛島に最初に凹まされた時は、純粋に力で押し切られての敗北で、限界を見せられ一蹴されて悔しくてたまらなくて、うまくいかなかった苛立ちをどこにもぶつけられずに、見上げた体育館の天井をただ睨んでた。そんなのまで見てたってのか。
「俺は、なぜ自分が及川に惹かれたのか、言葉で正確に伝えられるとは思っていない。伝えようにも、今までは十分な時間や、聞く耳が揃わなかった」
 そりゃあ俺には、最初から岩ちゃんがいたから、敢えて牛島と個人的に仲良くする必要も、特に感じなかった。
 こんなことになるまでは一度も、牛島の話を聞いてみようとさえ思わなかった位だから。
 厚みの違う体が上から重なって、熱い位の体温と一緒に速い鼓動も伝わってくる。足は絡められてて伸し掛かられてはいても、一応気遣われてるみたいで、そんなには重さを感じない。それでも重なるところは重なるし、当たるものも当たる。
「……ちょっと待って」
 当たってるのに、何もせずに話の続きを聞くなんて、大人の対応はまだ俺には出来ない。
 密着してた胸の間に掌を割り込ませて、曲げていた肘をそっと伸ばした。
「続きも聞くけど、限界」
 先に少しでも、楽になっておきたかった。乾いてからだとまた痛い目に遭うから、その前に牛島のを手早く扱いてやると、割とすぐに先端が濡れてきた。指先にまぶすと細い糸を引く、射精の準備が整った時に出てくる方のだと確認出来れば、十分だった。
 なりふり構ってなんかいられない。後で何と言われようと、中に出してもらわないと、他のことを考えられなくなる。
「中に出した後なら、話、全部聞くから」
 据え膳になってでも食わせないと、最後に残した矜持まで投げ捨てて、自分のすべてを差し出してしまいそうだった。
 両膝を立ててから腹筋使って軽く起き上がると、腹に張りつきそうな角度に反り返ってるものが、今まさにあてがわれて入り込もうとする瞬間で。俺が全部見てるのを承知の上で、長さを見せつけながら、太い幹はじっくり体の中へと姿を消していった。
 結構入ったようでいて、実はまだ半分は体の外にあった。
 けど、半分でも入ればそれでよかった。陰嚢を掌で支え、中身を指で擽り転がして、きゅっとせり上がる手応えの後にやっと、一番奥を精液が濡らした。勢いがかなり強くて、まともに浴びたところが正直痛い。目を覚ました時に痛かった場所と同じってことは、擦り切れたわけじゃなくて――俺が慣れてないってだけ、なのかな。
 奥に出そうとして腰を押し付ける動きは、本能に根差した無意識の産物なのか、すっかり中を満たされた頃には根元まで埋め込まれていて、流れ出ないよう栓までされた気分だった。
 目を閉じて多量の精液を堪能していたら、瞼に口づけた牛島が再び話し始めた。
「どうしても、直接話してみたかった。少しでも、及川を知りたくなった。僅かな時間であっても、邪魔の入らない場所で」
 ……そっか。だから、脈絡もなく俺を呼び出したんだ。
「指定した場所に律儀に立っている及川を目にするまでは、あれでも俺なりに何を言おうか考えていたんだ」
「……あれ、で?」
 確か、出会い頭にキスしてきたはずなんだけど。挨拶の一言もなく。その後にも、とんでもないこと言ったり、してきたり。牛島と二人きりになったら、必ず手を出される印象が強いのは、第一印象がそんなだからだ、きっと。
 唇を啄む動きに合わせて、微妙に中を突く陰茎が結構気持ちいい。硬さも戻ってきてるから、抜かないままもう一回出来るかな。
「及川が目の前に立っていて、何か言っているのは分かった。だが、言葉が出る前に体が動いていた。無防備な及川を驚かせた自覚もある。嫌われても文句は言えない」
 口を薄く開くと隙間を割って、肉厚の舌が差し入れられる。絡めあった舌を吸われ、送り込まれた唾液を反射的に飲み込むと、自分のとは違うのに不思議と嫌な気はしなかった。
「だが、その時にやっと理解できた。一人のオメガを見初めて、夢中になってしまうアルファの心境が」
 牛島は、今の俺をどこまで正確に把握してるのか、ふと怖くなった。
 牛島を本心から嫌っていた、昔の俺ではなくなったと、気づいてるかもしれない。それとも、タイミングはかなりおかしいけど、口説いてるつもりだろうか。言ってる中身は的外れではない、と好意的に解釈したところで、普通じゃ考えられない回数のセックスをした後で言い出すんだから、残念ながら色々抜けてる可能性が高いんだろうな。
 硬くなってきていた性器が反り始めて、芯を持ち内壁を圧迫していく。これから長く太くなってくそれが、どんなに気持ちいいのか、全容をまだ俺は知らない。
「生まれの理不尽に膝を折らぬ気高さに、最初は強く心を惹かれた。だが、ネットを隔てずにお前を見た瞬間、俺の番は及川だと実感した。他の奴にくれてやる義理もない。及川の体に眠る本能が無差別にアルファを呼び寄せる前に、絶対に手に入れたかった」
 ……体の中で、勃ち上がってく過程をつぶさに感じ取れるのは、想像以上に恥ずかしかった。一切腰を使われないまま、徐々に奥へと牛島の感触が伸びていき、勝手に蜜が潤んでく。完全に膨らんだら、筒の形にぴったり密着するのかな。対になって生まれた、本物の番なら。
「バレーを続けたいなら、背負う重荷は全て取り除く。二度と体に負担はかけさせない。何の心配もなく続けられるよう、学校側にも話をつけてある」
 体調が不安定だったのも、近くにアルファが誰もいなくて、何とか抱かせようとした体が招いた結果だった……?
 だとしたら、俺は。
「……それって、愛の告白のつもり? 俺を抱き潰して痛がらせてた暴君は、どこの誰?」
 ぼんやりとなら覚えてる、最初に入れられた時の痛み。岩ちゃんとしてた頃は、一度だってあんなに奥まで入れられたりしなかった。
「激しくするなって言ってんのに、全然加減しなかったし。擦れて熱もってヒリヒリして、歩く以前に立てる気しないし」
 素直になんかなってやらない。俺は半分くらいの嘘を混ぜて、何日も好き勝手され続けた仕返しをしてやると決めた。
「痛かったの、初めてだよ」
 具体的な場所は、途中から変わったけどね。今でも痛むのは、一番奥の、思いっきり精液かけられたところ。中には出して欲しいのに、痛いし薬塗るわけにもいかないから悩む。
 牛島に体を拓かれたばかりの頃は確かに、岩ちゃんに何もされてない場所を酷使したから痛かった。
 けど、今はもう痛くない。そっと擦られただけで泣き出すほどに気持ちいい位に敏感だから、他と同じ調子で突かれたら痛かった、ってだけなんだ。
 鈍い痛みが消えない理由も教えてやらない。ここのベッドは寝心地いいし、もう少しゆっくり休んでいたい。わがまま言って、目一杯困らせてやる。
「立てなくても問題はない。落とさないように抱えて連れていく」
 牛島なら本当にやりかねない。言い出し、その気になれば、周囲にどう思われようと全然気に留めないんだ。横抱きにされて運ばれてくのは視覚の暴力だって気づいてもよさそうなのに。
 あと、言葉の選び方が、何となくひっかかった。
「……連れていく? 帰る、じゃなくて?」
 外れてほしい予想ほどよく当たる。盛大に発情を拗らせてた俺は、このまま帰してもらえるわけなかったんだ。
「俺にとっては『連れて帰る』の意味だが、及川にとっては『連れて行かれる』が近いだろうな」
 どこに、の目的格は言われなくてもわかる。
 牛島のところだ。
 白鳥沢だ。
 家を出て青城も離れて、まるで違う生活を始めさせられるって意味だ。
「……やだよ。俺は『帰る』。一人で、歩いて帰れるし、岩ちゃんに心配かけたから謝らないと」
 今日は何月何日か、それさえ知らずに牛島に抱かれてた。知らない間に何日も経ってたなら、岩ちゃんの誕生日におめでとうを言えなかったって話で済まされない。
 俺がどこで誰とどう過ごしてるのか、岩ちゃんは知らないかもしれないんだから。
「岩泉のところに帰って、次はいつかの周期さえ読めない発情期を迎えて、同じように負担をかけたいのか」
 膨らんだものが一気に引き抜かれて、喉の奥からひとりでに、未練がましい声が出る。
 今の衝撃で、腹の上に自分の精液が軽く散り、牛島の手は促すように緩く扱いてはくれていたけど、肝心なところは空っぽで。漏れ出ただけの濁った液は、伴うはずの快感を置き忘れて垂れていった。
「抑制剤漬けの体には、薬の強度を凌駕する、相応の発情しか訪れない。対処が遅れれば、遅れた分だけ余計にひどくなる。記憶の日付と今日の間で、何日開きがあるか、数えてみろ。その開きが症状の篤さだ。おかしなことは、言えなくなる」
 牛島が指差したデジタルの掛け時計は、時刻と日付を同時に示していて、六の数字がまず見えた。月はまたいでいないらしい。
 続けて日付を見ようとしたら、腰を両手で固定されて、あられもない音を立てて一息に根元まで入れ直された。
 ちらりと見えた二桁の数字の正体は、見当もつかない。腹の中で跳ねた幹はかなり器用に動き、奥にじっくり押し込んでからは浅いところを往き来して、本格的に動くための道をつけているらしかった。
「か、帰るったら、帰るんだから……もう、抜けって」
 我ながら説得力が欠片もない。いやらしく中が絡みついて放そうとしていないって、動いてる牛島が一番よく判ってるのに。体のどこにも、まるで力が入らない。嘘みたいに気持ちよかった。
「今抜いても、すぐに我慢がきかなくなる。俺から求めるまでもなく、開いた足は閉じられずに俺に跨がるだけだ」
 そんなことない、って否定しようとした言葉は、すぐにかき消えた。一番奥にある、触れられただけでもどうにかなりそうな、一番敏感なところ。
 そこまで届いた時に、一切の隙間なくしっかりと体内を埋められて、そんなに余裕なさそうな牛島の顔が見えて、俺はやっと自分の置かれた現実を知った。あの堅物にしか見えなかった牛島も、俺と同じくらいに気持ちよくなってる。動きたいのを耐えて、選択肢を俺に差し出してる。片方の選択肢に意味なんかなくても、俺のことは俺に選ばせる気なんだ。
 そう感じた時。臍の下あたりが、小さくとくりと脈打った。
 ここ数年の間で、新しく俺の中にできたらしい、命を育む器官。宝物を守るために体の中のかなり深くにあるのに、その入り口すぐまで届いてる、長くて膨らんだ陰茎。しこたま精液注がれて、少し前の俺なら嫌でたまらなかったはずが、今だと全然違うんだから不思議だよね。
 一度芯に篭った熱は簡単には散らばらず、腰を浮かせて根元に押し付けて、硬い先端を中の粘膜で夢中で舐めてた。静かな部屋の中は、俺の荒い息遣いと、体の内側を伝わって卑猥この上ない粘膜の擦れる音しか聞こえてこない。
 限界が近づき、足が震えて中で熱い蜜が滲み出す。動けなくなった俺は牛島にすがりついて、自分でも耳を疑う台詞を口にしていた。
 もっと、って。痛くしないなら、大事に扱って、惑わせてみろ、って。
 どうしてそんな言葉が浮かんだのかはわからない。盛大に拗らせていた発情が収束したものの、肌を重ねた時間が長すぎて、意識した経験のない可能性を見いだしたのだろうか。岩ちゃんしかいなかった、特別な場所に、もう一人分の領域と選択肢が生まれようとしていた。
 目を丸くして俺を見下ろす顔は、意表突かれて事態を呑み込めてません、ってくっきり書かれてて。年同じだったなそういえば、って思い出した。
 今は顔を持たない代名詞。
 誰と知れない、生まれながらの俺の対。
 たった一人だけ存在する、俺のためだけに用意された、俺の一番の味方。
 それはベータの岩ちゃんじゃないって、何年もかかったけど、俺は認めつつあった。
 自分の番と幸せになるために、皆ばらばらでも色々なものを持って生まれてくる。無駄なものばかりのようで、実は全部二人には必要で、何か一つ欠いてもうまくはいかない。
 アルファとオメガを惹き合わせる都合のいい物語と思われがちで、実際には物語以上にうまく出来てるしその通りになるって裏付けられてて、理屈を現実が完全に越えている。
 俺も例に漏れず、番が形成される過程にあるならば。どうしてもバレーを続けたくて薬に頼りすぎたことさえも全部、対のアルファを呼ぼうとして、繋がりを絶やさぬようにと感じての、無意識の選択だったのかもしれないな。
 偶然にも、初対面で向こうがすぐに俺を見つけて隣に置こうとした、それだけの違いで。
 番になってもいいかもって、俺が思える位にさ。避妊薬さえ止める覚悟を決めさせる、唯一の存在になるつもりでいるんだよね。
 遠く離れていても、俺のことならよくわかるんでしょ?
 なら。
 今は、世界の誰より、俺の近くにいる。
 近いってだけじゃなくて、繋がってる。俺が何を望んでるのか、俺自身がまだ気づいてないとしても、簡単に想像出来るはずだよ。
 俺はもうすぐ、大人になり終えるから。いつまでも前と同じが許されはしないって知ってるから。
 俺と番を作る能力は、アルファの牛島なら持ってても、ベータの岩ちゃんは持ってない。添い遂げると決めた人のために、最後の薬の服用は止めるべきだから。
 目に見えない分かれ道は、今すぐには現れないとしても。
 転機は示され、形となって少しずつ近づき、いつか熟す。
 誰と一緒に、幸せになりたいのかを、決めるために。
 どんな結末を迎えるのか、岐路がうっすら浮かび始めたばかりの俺にはまだ、わからないから。
「可能性って、目に見えない分残酷だと思ってた。けど意外と優しくて、誰にも何も気づかせないまま、閉じかけた道の先を、もう一回抉じ開けて、待っててくれたみたいだ」
 バレーも、岩ちゃんも、両方一度に失うところだったけど。掌に残るのは砕けた破片じゃなくて、違う色をした新しい宝物だった。
「どこかの誰かが、俺の気持ちさえ迷わせるようなアルファになったら。俺だって一生一緒にいてくれるわけじゃないベータの、岩ちゃんじゃない他の誰かを、選ぶかもしれないし」
 人は変わる。
 俺も岩ちゃんも、勿論牛島も、知らない間に。
 自分が変化したと気づかない位自然に、今までとは違う自分自身を見つけて、意識の中に溶け込ませる。
 俺は必要に迫られて、岩ちゃんと二人で完結していた世界の外に目を向けるしかなくなった。助けを求めて伸ばした手の先に、ずっと俺ばかり見ていた牛島がいたのも、別に不自然じゃないってどうして今まで考えなかったのかな。
 しばらく黙ってたら肩のあたりが冷えてきて、シーツを手繰り寄せて巻き付けようとしたら、また牛島は勝手に引っこ抜いてベッドから降りた。
 戻ってきたかと思えば薄手のブランケットを持ってて、てっきり掛けてくれるのかと思ったら丸めてるし。そうじゃない、って文句言おうとしたら、体の下に枕と併せてブランケットも押し込んで、わざわざ傾斜を作ってからゆっくり奥に入ってきてた。
 船を漕ぐような、速くも遅くもない、穏やかで着実な往復が繰り返される。今二人でしている行為を確認するかのように、引き抜いて一呼吸おいてから、また改めてしっかりと奥まで収めて。
 単調な動きのはずが、先端が抜けようとする瞬間に襞を引っ掻くのも、閉じかけた孔に押し当てて太くなった部分が環を潜り抜けるのも、全部入りきる時に恥骨を皮膚越しに感じるのも、繰り返されると新鮮だった。
 快楽を追求する目的を持たないはずなのに、今の俺にはほとんど理想に近い形の愛撫だった。疼きが広がって、ねだらずにはいられない物足りなさが膨らむのは、牛島相手には何十回目だろう。
 上手いか下手かで分けたら、上手いんだと思う。痛いって伝えたところは外してくれてるし、苦しくならないように加減してる。揺すられる時間の長さを感じさせないから、おそらくはそれなり以上に。
 耳を塞がれたまま口の中舐められると、反響して余計に音が大きく聞こえる。知っててやってるにしても知らないにしても、何枚も上手っぽくてなんか悔しい。はずだった、のにな。
 奥まで入れたまま小刻みに腰を遣われて、与えられてばかりの快楽は感覚を通り越し、意地も虚勢も氷解させて、静かに全身に浸透していった。
 繋がれた手はシーツに縫い止められて、腰から下がゆらゆらと揺れている。
 ここが家じゃなくて本当に良かった。誰にも見られない場所だから、俺は自分を取り繕わずに済んでる。自分自身を嘘で塗り固める必要は、この場所から出ない限りどこにもない。
 岩ちゃんじゃないのに、俺はもう牛島のことが全然嫌じゃなくなってる。甘やかしてほしくて握り返した手は、絡められた指を一度解かれてから、再び指の股ごと重ね合わせられていく。
 背骨の中を鮮烈な快感がひっきりなしに上下して、今自分がどうなっているのかわからなくなるほどに、自覚できる感覚が絞られていった。
 前を軽く擦られたら、鈴口からじわりと濃いのが浮かんで、漏れ出たものはそのまま牛島の指の腹をべったりと汚した。撫でていた指の先を、味見とばかりに舐めてるのも見える。切れ込みに残ってた分も掻き出されて、仕上げにって根元から丹念に扱かれたら、ぽたぽたと尿道に結構残ってたのが絞り出された。
 おもちゃにされるって、こんなことを言うんだろうか。それでも、支配されてるのに、嫌な気はしない。
 体の機能が全く違っていようと、どれだけ嫌っていた経緯があろうとお構いなしで、牛島との相性はおそらく最高だった。知らない間に増やされていた性感帯は、あの牛島に世話を焼かせて、隙間なく満たされる安堵と充足を生み俺を包んだ。
 体の中、一番奥が勝手にさざめき、ぴたりと密着している牛島の先のところと擦り合わせる湿った音は、小さくても多分牛島にも聞こえてる。俺があからさまに欲しがってるのも伝わってるはずが、牛島は揶揄もしないで、一度痛がったせいで避けていた弱い箇所への営みをそっと再開した。
 濡れるを通り越して、何か漏らしてるんじゃないかって位に、足の間からぐちゃぐちゃかき回す音がしてる。繋がったところの境界なんか、最初からなかったみたいに全然離れない。
 一瞬、意識が途切れて、内側から一気に全身が熱くなった。
 いつの間にか自由になってた両腕で抱きついて、丸めた背中が変えた視界の中央で、繋ぎ目の付け根がちらちら見え隠れする。溢れないように腿ごと支えて、少しだけ腰を引いた牛島が、くいっと中を跳ね上げた。
 途端に、脈打ちながら注がれる、ねっとりと張りつく牛島の猛り。俺の熱の分だけ冷たく感じて、新しい迸りを受けただけ止まらなかったうねりが鎮められていく。何も言わなくても、ちゃんと俺の好きな場所に重ね合わせて。
 中に溜まって奥に流れて、最後の一滴まで注ぎ込もうとして恥骨を押し付けられるのも、目を閉じて気持ち良さそうに腰を揺らすのも、意識的に深呼吸をして荒い息を整えてるのも、俺の知らなかった牛島の一面だった。表情が大して変わらないだけに新鮮で、ひとりの生身の人間、ひとりのアルファとしての姿が、垣間見えたようにも思えた。
 出されてる時間は結構長かった。下半身を密着させたままで、さらさらしてきた精液が温まって、意識できない位奥深くに流れてく。ここまで満たされてしまうと、逆に言葉が出てこない。
 ちゃんとしたアルファとするのって、いつもと全然違うんだ。意地張ることないって、結局はお医者の言う通りになるから言うこと聞いておけって話が本当だと、牛島と実際にしないときっとわからなかった。
 全身が喜んでる。やっと見つけてもらえた、って。
 もうこの人から離れたくないって、声高に叫んでる。
 一緒に連れて行ってもらって、正式な番にしてもらおう、って。
 俺が拒まなくなった腕の中の居心地も、意外なことにすごく良くなってるし。ずっと、こうして過ごしていられたら。俺の中の一番も、いつか変わっていくのかな。こんな風にされていたい、そう感じる相手が。



 俺は初めて、牛島を下の名前で呼んだ。されるばかりだったキスも初めてねだって、岩ちゃんにするみたいに甘えてやった。いたずらのつもりで。
 知らなかったんだ。俺が自分からそうするのを、何年も牛島は心待ちにしていたなんて。どうにも器用じゃないだけで、優しくないわけじゃないってことも。
 牛島がどう笑うのか、初めて知った。あんな顔も出来るんだなって思ったら、直視していられなくなって視線を逸らした。誤魔化そうとしてわざとキスして舌まで入れてやったら、一旦は大人しくなってた体の中のアレが、また突き上げるような素振りを見せて、もう無理って音をあげたのも初めてだった。
 俺の初めては、何かと牛島に持っていかれてるけど。俺の本来の生活の何もかもが、きっとこれから始まるんだ。
 後始末もしないまま横になって、布団を被ってくっついて休んでいたら、まだ浅く繋がったままだったところから、透明になった精液が垂れてシーツに染み込んだ。長かったような短かったような、最初の発情期が終わった証だった。



 二人で思い出せる限り逆算した結果、俺が目を覚ましてイロイロと始めたのは、時間的には明け方だったらしい。
 その直後から完全に発情期が終わってたわけじゃないから、余韻もあって何度もしたくなったし、気が乗らなかろうと勝手に濡れてくしで、節操のなさにうんざりした。
 一度火がついたら頭の中にそれしかなくなる上に、俺とは関係なく牛島がその気になってものし掛かってくる。発情の最中は気にする余裕が全くなかったけど、素に戻ってしまったら、岩ちゃん以外とするのは異様に恥ずかしかった。
 しっくり来すぎるのも考えものだなあって、気持ちが体の反応に全然追いつかないまま、やけにねちっこく責めてくる手に順応していくのは止められずに。牛島も牛島で、俺があからさまに拒絶しなくなったのがよほど嬉しかったのか、ちょっとやそっと袖にしてやった位なら、余裕たっぷりにこっち見てるだけになった。
 俺一人が天の邪鬼で、なかなか素直になれずにすれ違っても一悶着の後に仲直りする、そんな関係のことを世間では何て言ったんだっけ。俺たちは今後、そう見られるのかな。
 濡れてくるのが落ち着いたら、当然って顔した牛島に風呂に連れ込まれて、いいって言ってんのに全身くまなく洗われた。余計に疲れた気がしてふて寝してる間に、しばらく着てなかった服を着せられてて、散らかし放題だった部屋の中もそれなりにすっきりとまとめられてた。
「……そっか、俺が落ち着いたらここにいる理由はなくなるってことか」
 止まっていた時間が、もとの流れに戻りつつある。日付は怖くてまだ自分の目で確認していない。掛け時計が午前か午後かのどちらかの時刻を示してる位で、それ以上の情報を知りたければ外に出るしかないらしかった。
「長引いた分の手続きも済ませてくるから、そのまま待っていろ」
 俺の目が開いたのを確認して、触れるだけのキスを落とした牛島は、部屋の外に出ていった。
「任せるから、終わったら声かけてよね」
 背中越しにかけた声にはわかりやすい返事はなかったけれど、放っておかれるようなら勝手に帰るつもりだから、そんなには気にしてない。
 多少ふらつくけれど自力で歩けるまでは回復したから、軽い気持ちで部屋の外に出てみると、小耳に挟んだ話よりも数段規模の大きい施設が整えられていた。
 症状の重いオメガを生活させるために並ぶ画一的なドアは、間隔をかなり広く取られている。
 中がそれ以上に広いのは実際に過ごしたから知ってるし、快適に暮らせるように空調も照明も自在に調節出来るから、正直住み着ける自信もある。
 ドア側に必ずある、壁に作り付けの廊下と部屋を結ぶ小さめの引き戸には、半透明の板ガラスが嵌め込まれていて、色々なものの受け渡しを部屋に居ながらにして可能にしていた。
 隣近所の引き戸の中に目を凝らすと、食事の痕跡がある食器類や、具体的な用途をちょっと口にはしにくい夜の小道具なんかも置かれてる。発情期を抜けるまで部屋に籠りきりだから、何かと入り用なんだろうな。



 部屋の中に戻ったらすぐに、役所の堅苦しい茶封筒を持った牛島が戻ってきた。
 手続きが終わったからって、俺がどこへ行くつもりなのかの確認もしないまま、掴んだ手首を引いて早足で建物の外に出て。
 帰りたいって思っても、制止を振り切って帰っても、数ヶ月後には同じ結果になるって知ってるから、言い出せるわけない。それは牛島も知ってるはずだ。
 岩ちゃんじゃどうにも出来なくなったから、俺は牛島の隣を歩いてる。帰れる体じゃなくなった俺を、牛島がわざわざ帰すとも思えない。
 見上げた時計のオブジェが、最後の日付の記憶から、二週間以上開いた数字を示していた。
 俺は今まで、自由すぎるほどに自由でいられた。生まれが多少違ったって、人と同じように生きられた。先延ばしにしすぎていた分かれ道に立った今、岩ちゃんの手を放してそれぞれ違う道を進む時期が来ているだけ。
 岩ちゃんに宛てて書いた手紙は、見つけてもらわなくても良くなった。好きなように生きてくれれば、俺はそれ以上もう望まないから。今更岩ちゃんに、どんな顔して会ったらいいのかも、わからないし。
 あんなに愛してもらったのに、もう俺の体は岩ちゃんを忘れようとしている。
 牛島に塗り替えられた体の記憶には、ほとんど一人分の温もりしか残ってない。
 岩ちゃん。
 大事な、大事な、幼馴染み。おかしくなりそうだった俺を何度も救ってくれた、かけがえのない恋人。
 『だった』人。
 今まで何度も駄目になりかけた俺を、いつも悩みから解き放ってくれた。岩ちゃんに救われてたから、俺は今まで自分を保っていられたんだ。
 好きなのに、ううん、好きだから、もう一緒にはいられない。あるべき形へ、還らなきゃいけないんだ。
 だから、最後くらいは、自分の手で幕を引くよ。こんなことでまで、岩ちゃんに負担をかけさせたくないから。



 さよなら。俺が俺でいられた、すべての時間。十八年に少し足りない、人から見たら短い間なのかもしれないけれど。
 俺は間違いなく、幸せだった。


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