八章

 岩泉家と及川家。
 近いはずの道程が、途方もなく遠い。物理的な距離は変わるはずもないのに、岩泉は千里を駆けるような心地でいた。
 まず、岩泉の鼓膜を朝一番に震わすいつもの鬱陶しい一報がなかった。寝坊でもしているのかと思い、電話を掛けたのだが出なかった。これは、充電切れの携帯片手にまた夢の中かと、迎えに行くために玄関を出ようとした。ここまでは、そう珍しくはない岩泉の日常だった。
 非日常はここから始まる。玄関を出ようとしたところで、岩泉家の固定電話が時刻に不釣合いなけたたましい呼び出し音を鳴らした。
 朝の早い家人は朝の支度にかかりきり、遅い者はまだ起きてこない状況下では、一が電話に出るしかなく。間が悪いと思いつつも靴を脱ぎ受話器を手にすると、受話器越しにただならぬ雰囲気が伝わって来た。
 声の主は、及川の家族。
 及川の──徹の様子がおかしい、と言われた瞬間に、まさかと思った。すぐに家から出て避難するように言われたが放っておくわけにもいかない、と聞いた瞬間に、最悪にも等しい形で『結果』が出てしまったことを悟った。及川の家族は、何か事前に聞いていないか、と緊迫した様子だったが。その先の言葉は、岩泉の脳内ではうまく処理されずに流れてしまっていた。
 電話の主が本人でない、それ自体が、通話する余裕を失っている状態であるとほぼ同義の幼馴染。
 返事をするのも忘れた岩泉は、受話器を投げ捨てて家を飛び出した。



 忙しない朝の空気が漂うはずの住居を、異様な静けさが生むただならぬ気配が包んでいる。物音ひとつしない及川家は、対照的な日頃の喧しさを知っているだけに、余計に気味が悪かった。
 ドアの前に立つと、信じがたいほどに甘い、及川の放つ匂いが岩泉の脳髄を揺らす。
 今の今まで岩泉は、成長を終えた野放しのオメガがどんなに危うい生き物かを、体感してはいなかった。理屈ではなく、衝動が全身に指示を出し、意識を保っていようと手足は勝手に動き出す。
 感覚と意識の不一致をただ知覚するだけになってようやく、抑えの効かなくなった自身の欲求に危機感を覚えた。
「……岩ちゃん、そこにいるの?」
 ドア越しの声は吐息混じりで弱々しかった。
「いちゃ悪いのか」
 ぶっきらぼうに岩泉は一言ぶつけ、すぐには姿を見せようとしない及川への苛立ちを露にした。
「俺、何日か休むから、学校行って伝えて、こっち来ないで」
 篭った力のない声は、尚も岩泉を突き放そうとする。
「危ないから皆避難してもらったんだ、なのにこんなとこにいたら駄目だよ」
 言葉の合間、聞こえた呼吸は浅く速く、具合が良くないのは容易に察せられた。また発熱に苦しんでいるかもしれない、感じ取った瞬間に、岩泉の体はドアを何度も叩いていた。
「締め出してる場合じゃねえだろ、すぐここ開けろ」
 助けたいという気持ちは、単に及川の身を案じるだけでもなかったし、及川の芬々たる匂いに中てられた性欲に根差したもののみでもなかった。両方が混じり合っていたと言えるだろう。
 幼馴染みが恋人になってから、身を案じる頻度は一層増してはいたが、今ほどに性的欲求が高まっていた記憶は、岩泉にはなかった。恋仲という大義名分を振りかざし、求められるがまま体を繋げるようになってからは、一人手慰みに耽る夜もなくなった。岩泉だけがその気になったとしても、及川は自発的に服を脱いだ。
 本来は、自分よりも背の高い、華奢でも何でもない、中身こそ違っても見た目では同じ肉体。
だが、そんな逆さまの条件は軽く蹴り飛ばされ、いかに魅力的であるかを一晩語れるほどに、岩泉は及川に魅せられていた。
「風邪じゃないし、原因もわかってるから……ほんとに岩ちゃんは来たら危ないんだよ」
 ドアの向こう、座り込んだ及川から、岩泉の下半身に訴えかける匂いがより一層強く薫る。
「あいつの言った通りになっただけだから、病気じゃないしそのうち元に戻るから、だから岩ちゃんは――」
「だったら尚更一人にできっかよ、ぐだぐだ言ってんじゃねえいい加減開けろ!」
 ドアを挟んでのやり取りは、二人の違いを決定付けた性の差違が、本音の矛先をも違わせた。
「っ、発情期、来たんだよ! 俺に! だから今、岩ちゃんにだけは……見られたくないんだ……」
 岩泉が力ずくでこじ開けようとした扉に背を預け、目尻を仄かに赤く染めた及川は、思い知った現実をそのまま伝えた。
「発情期って、普段どれだけ嫌ってる相手とだって、簡単にできちゃうんだよ。今俺は、見境なく誰でも迎え入れそうになってるんだ……本っ当に誰でもよくて、岩ちゃんじゃなくても、なんの抵抗もなく今なら誘える。それだけおかしくなってる時に、誰が誰だかわかんなくなってるのに……岩ちゃんをモノみたいに扱うようなこと、できないよ……」
 悲痛な声だった。
 理性と本能が完全に分断された及川は、とっくに散った理性を必死にかき集めて、岩泉に警告を発している。
 はっきりとは教えてもらわなかった、発情期の終わらせ方。知らない方が幸せだからと、岩泉との関係を知った医者が、悲しげに笑った理由。
 薄れる意識の中、朧気に見えてきたばらばらな記憶は、ひとつの道筋を作り上げようとしていた。
「ちゃんと学校行って朝練やって、授業受けて放課後もバレーやって、夜になったら帰って寝るいつもの岩ちゃんに戻ってよ、こんなとこにいる必要ないんだよ」
 岩ちゃんはアルファじゃないんだから。
 二人を一番打ちのめす現実は、まだ声にはならなかった。途絶えた声の裏、迷いの正体を岩泉が知ったところで、真の意味では及川を助けてやれない点は揺らいでくれやしない。
 だから岩泉は知らないふりを決め込んだ。答えが出てしまうまでの時間は、おそらく僅かしか残ってはいない。わざわざ離ればなれになって迎えを待つ義理は、そもそも存在しないと信じていた。
「……どうしてこんな時に、わがまま言えねえんだよ」
 勝手気ままに振る舞って岩泉を困らせる、いつもの及川は今いない。建前の陰に隠れて、無理に笑おうとして、顔をひきつらせている要領の悪さも及川らしくない。
 頼るに値する甲斐性もないと思われるのが、岩泉にとって一番の心外であった。
「今のが俺のわがままだよ、一人にしてって言ってるのに、わかってないのは岩ちゃんの方だよ!」
 消える理性と自意識、身中を満たして暴れる本能。
 震える体は『異性』を求めて切なく疼くばかり。
 目尻に浮いた涙を拭いながら、牛島の忠告を無視した自分を後悔したところで、欲求に苛まれる時間はゆっくりとしか流れてはくれなかった。
 一方岩泉の側も、甘い薫りが肺の奥へも染み渡り、舌の上に味となって現れ体の髄まで酔わされていた。
 本当のことを言えないならば、無理矢理にでも言わせるまで。
 腹を括った岩泉は、及川の匂いが引き起こす性衝動の強さに必死に耐えながら、ドアを隔てた向こう側へと心境を露にした。
「……どっちがわかってねえんだ。わがままなんか言ってねえよ! 言えてねえんだよ、テメェは!」
 姿の見えない気配の、主張を貫き通そうとした頑なさの角が取れて、和らいでいく。
「隠しきれるって思ってんなら、俺のこと見くびりすぎだ、及川。何年一緒にいるか考えてみろ。普段あんだけ好き放題言ってる奴が、肝心な時に何も言わねえのも、困らせること言わねえのも、両方おかしいんだよ」
 力になりたいと思ったのは、何も最近始まったことではない。天才の壁に阻まれた時からでも、バレーを始めた頃でもない。
 おそらくもっと前、気づかぬうちに芽は育ち、目に見えるまで成長してやっと、種が蒔かれていたと知っただけ。発情期を迎えただけで変わってしまうほど、恋慕も愛情も浅くない。
「頼れよ。放っておいたら、ひどくなるだけだろ。何もしないよりましになんなら、すぐここ開けろ」
 岩泉一人では完全な形では力になれないと、及川は知っている。そのせいで、及川らしくない躊躇をしていると、岩泉が気付かないはずはなかった。
 それでも。
「少しでも楽になれんなら何だってしてやる、俺がそうしてやりてえんだ、諦めて言うこと聞けって」
 畳み掛けるように、及川に言葉が浴びせられる。脳裏にちらつくのは、見下ろす牛島の様々な目の表情と、岩泉と過ごした数々の夜。
 明滅する記憶の中、二人の姿が混じり、重なり、自身との境までもが消えていく。
「……言うこと……聞いてくれ……」
 その境は、及川を寸でのところで及川たらしめていた、最後の一線だった。本能に流されまいと抗い続けていた、崩れかけてはいても、強固な城塞であったものだ。
 岩泉の言葉は、本能を押し留める隔壁を跡形もなく消し飛ばし、及川をゆらりと立ち上がらせた。
「――どうなっても」
 指先が冷たい金属に触れる。
「知らないからね!」
 錠の開く音は、いずれ引き裂かれる関係を二人に自覚させ、同時に忘れさせた。後戻りの出来ない道へと二人は踏み入れ、進む先から背後の軌跡が霧消する。
 岩泉の目に映った今日初めて目にする及川は、白んでいく記憶の中にも、くっきりと刻まれ目蓋に焼き付き、かけがえのないひとときとなって。
 及川のすべてを独占していられた、最後の日の幕が開けた。



 岩泉はすぐに鍵をかけ直し、及川の他に気配のないのを感じ取って、まずは懸念をひとつリストから外した。
 今日なら人目を気にかける必要は全くなく、多少痴態を晒そうが後始末に時間を要する事態に陥ろうが大した問題にならないと実感し、些事を自意識の片隅からも取り去ると。
 常とは比較にならない匂いが、思考を限りなく透明に近づけていく。
 目に映る風景に現実感がない。眠らないまま夢を見るように、ひとりでに動いていく景色を無感情に見るだけの自己があった。全方位を覆ったスクリーンに投影された映像を享受するばかりだった。
 性急に求めてくる及川を抱き締め返せば、とっくに下準備の終わっている肉体は前戯の必要もなく。張りつめたものを部屋着越しに軽く撫でただけで、悩ましげな吐息が二人の間に漂った。
 いつも身につけている地の厚い及川の部屋着は、湿り気を帯びた程度では色が変わったりはしない。幾度となく脱がせては放った記憶と、全く同じものを今日も使っているはずだったが。脱がせる前からしっとり濡れて色を変えているのは、短くない付き合いの中でも初めてだった。
「……どんだけ意地張って我慢してんだ」
 岩泉の独り言は声に出ていた。
 だが当然、仮に聞こえていたとしても、今の及川に返事が出来るはずもない。早速脱がせてしまえば、期待に満ちた及川の声と共に、欲情しきった半身が露になる。
 内腿を伝う新たな蜜が照明に照らされ、乾けばべたつくはずの雫が濡らしたところは、どこもかしこも滑り気を帯びたままに触れられるのを待っていた。
 服を足首から抜くまで待てなかった及川が、くるりと体を反転させて壁に片手をつく。
「ここで、して」
 もう片方の手で丸みのある尻を割り開くと、慎ましいはずの孔が既に呼吸に合わせて収縮していた。鮮やかに色づいた柔らかな内部もちらちらと見え隠れし、合間からとろりと透明な露が伝って、廊下の床に音を立ててこぼれた。
 堪らなくなった岩泉は着衣を寛げて、膨らみきった自身の陰茎を露出させた。そのままあてがうと、ちゅぷ、と濡れきった音がしてから柔肉の環が広がり、さしたる抵抗もなく雁首が埋まっていく。いつもより熱い体内に密かに息を飲み、背を向けたまま肩で息をしている及川の腰を掴んで引き寄せると、ずぶずぶと奥まで入り込んでいった。
 最奥まで押し込み一息つくと、両手を壁について俯いていた及川の中が、小刻みに震えて。きつく絡まり、搾り取ろうとする動きの後に、たっぷりと新しい蜜が溢れて密着感を増した。
 入れただけで達した及川に、これでイくとか早すぎだろ、とも思った岩泉だったが。具合の良くなった内部を堪能しているうちに、些細なことはまるで気にならなくなった。
 ゆっくり、大きく腰を使ってやると、温かい雫が抜き差しに合わせて隙間から垂れて、岩泉の腿をも濡らしていく。
 空気に触れて冷える前に漏れ出た新たな露が、際限なく滴り落ちていく先の布や床面の色をじわりと変えていた。
 繋がったまま、ずらしただけの下を完全に脱いだ岩泉は、改めて及川の腰を掴んで引き寄せ、律動を再開させた。突き上げる度にねっとりと絡んでくる壁面は、あくまでも柔らかく狭い。弾力豊かでみっしりと締め上げてくる粘膜の空間は、何度抉じ開けてもすぐに広げる前の様相に戻った。
 知るものより数段強い摩擦に深い息を吐いて、恥骨ごと思いきり押し付けると、岩泉の先端から堰を切ったように勢い良く精液が放たれていく。
 吐き出される精を胴震いして受け止める及川の中も、射精を促し緩く岩泉のものを締めていた。粗方出してから身動ぎすれば、体内を満たした迸りが隙間を探して奥へと流れていく。
 落ち着きをやや取り戻した性器を慎重に引き抜いた岩泉は、脱ぎ捨てた服を拾うついでに軽く後始末をしようと思い、及川の腿の付け根を見やった。どろりと漏れ出てくるはずの精が、今日は普段と違い、ほとんど肌を汚していない。重力をものともせずに、腹の中に含んだまま、発情の証の芳しい薫りを強めている。
 立ったままぼんやりと、岩泉があちこち拭いているのを傍観していた及川は、促されるままに手を引かれて部屋へと戻った。



 敷きっぱなしの布団にさっさと寝転がった及川は、寝足りないのか目を閉じてまどろむ様子も見せたが、長くは続かずすぐに岩泉に視線が戻された。
 部屋の片隅に据えられた水差しの、中身を足しにいく僅かな間にさえも、安寧な休息は訪れない。安らかなひとときは依然として遠く、及川は再び持て余した熱に振り回されはじめている。
 ぐったりと横たわる体躯を抱き起こし、透明なアクリルの器に注いだばかりの水を口に含むと、薄く開かれていた唇の隙間から舌が覗き。風邪ではなくとも体力と共に体内の水分も失われていて、口移しで飲ませた水は喉を鳴らしてすぐに飲み込まれた。
 渇きを癒す、当たり前の感覚さえも鈍っているらしい。空になったコップに注ぎ足そうとした岩泉を制止して、続き、と端的な言葉を発したきり、繋がりを求める及川は両手を伸ばして岩泉の背をかき抱いた。



 自分が叶えてやれるなら、望みは全て叶えてやりたい。
 岩泉はそう願うと同時に、実現可能であると、信じていた。信じることで、自分自身であり続けようとしていた。及川の知る『岩泉一』は、最後は必ず及川が寄せた期待に応えていたからだ。
 叶えられない願いなど、今まで一つとしてなかった。これからも、及川に望まれる限りは、岩泉一であり続けるために何でもしてやる気でいた。
 それが甘い幻想だとも知らずに、ある種傲慢な夢の世界を、及川も岩泉も生きていたからだ。
 大人しくなる気配のない及川の発情に、どこまでも付き合ってやるつもりでいた。嬉しそうに足を絡めて、肌を寄せてくる恋人の面倒を、他の誰にも見させるつもりは毛頭なかった。
 立て続けに中に放った回数が、片手の指の数を越えるまでは。
 時計を見るのも忘れ、及川の肌を愛でながら、無尽蔵に求めてくる貪欲さに岩泉は壁を感じつつあった。発情には波があるのか、会話が成立する時間もあれば、目の前にいるのが誰かまるで理解していない時間もある。
 また、その波は徐々に振幅を大きくして、会話が可能な時間を削ってもいた。楽にしてやれればと、不可知の領域に足を踏み入れた岩泉だが。皮肉なことに、本来番とその候補しか立ち入りを許されない、秘められた空間を暴かせた反動で、及川の発情は深まっていく一方だった。
 当然二人は、そんな事情を何一つ知らない。
 こいつ、底無しか。
 小休止に一度抜いてべたついた腿を拭うと、喪失感に切なそうに眉を寄せた及川が岩泉の手を握った。
「……もっと、して?」
 渇きの癒えない喉から出た声は、まるで囁き声のようだ。
 理性がある時の及川曰く、とっておきの甘えた音色が、再開を要求する。岩泉は昔から、自分にしか出してみせないこの声にひどく弱い。甘やかしている自覚はあっても、喜ぶ顔が見たくて、つい言うことを聞いてしまうのだから仕方がなかった。
「言われなくても、続けてやるよ。……けど、休みなしで疲れねえのか?」
 及川の意思をはっきりと言葉にさせたのは、相応の理由がある。
 岩泉が加減しなかった時はほぼ毎回、三度目あたりで及川の方が音をあげていた。お腹一杯、とばかりに漏れ出る精液の量が一気に増して、普段はあまりやりたがらない後始末を自発的に始めたりもする。その頭があるだけに、回数を重ねたのが嘘のようにけろりとしている及川は、岩泉にとって衝撃的だった。
「……なんで?」
 だが今の及川にしてみれば、少しの間でも放っておかれるのが、体に大いに障る。求めたままに与えられる環境が、発情の期間は特に欠かせない。
 また、オメガの要求に応じきる上で、ベータの肉体には構造上の限界があった。凝る灼熱を鎮めるためには、アルファでなければ実現出来ない手段が最も効果的で、オメガが番を必要とする最たる理由にもなっている。
 いくら気持ちが通じあっていようと、ベータを伴侶に選んで生きていく苦労は語り尽くせないものがあり、より痛ましい結末にも繋がっていた。
 岩泉がベータであり続ける限り、及川は発情を持て余し振り回され、熱に浮かされ続ける。
 それが現実だった。
「全然足りなくて、乗っかるの今も我慢し――また、きた」
 腕を回して自分の体を自分で抱き締める及川の、震える唇から吐かれる息は数瞬前の艶かしさを取り戻している。短く切り揃えられた爪が、肌目を乱して食い込み跡を残した。
 はやく、ちょうだい。
 主語のない言葉と共ににじり寄り、掠れた吐息混じりの声が岩泉を誘う。
 半勃ちのままの陰茎を支えて、体内に埋めはしたが、及川の望みに反して岩泉の体はなかなか反応しなかった。ひとしきり性欲を満たされてしまい、快楽を感じても射精に辿り着けるほどの昂りには至らずにいた。
 大して動こうとしない岩泉に焦れた及川が、体内を蠢かしてどれだけ食もうとも、芯はなかなか通らない。
 溢れんばかりに潤んだ粘膜を擦り往き来するものは半端にしか反らず、岩泉の眉間に深い皺が刻まれる。恥も外聞もなくすすり泣く及川は、誰の腕の中にいるのかわからないままに、不満を率直にぶつけた。
「やだ、足んない、中にもっと出してよ、ちゃんといっぱいかけてよ……」
 高まった熱を散らせずに、苦しそうに肩で息をする及川を見かねて腰を揺らすと、痛いくらいに張りつめた陰茎の先からじわりと白い濁りが滲み出た。
 射精に付き物のはずの解放感は何もなく、申し訳程度の薄い精液を少量中に垂らした後、無念そうに岩泉は及川の両の手首をひとまとめに掴んだ。
「っ、何してんの、邪魔だからほどいてよ」
 項垂れた性器を躊躇いなく引き抜き立ち上がった岩泉は、不甲斐なさを隠し通せず唇を噛み締めていた。
 壁にかけられていた制服からネクタイだけを引き抜いて、何重にも手首に巻き付け後ろ手に縛ると、どうにか及川の動きが止まった。
 途端に動きにくくなり、何とか解こうと及川が試行錯誤している間、岩泉は部屋の中を大急ぎで見回し『手がかり』を探した。
 掌で感じた及川の熱は、落ち着くどころか逆に上がってきている。オメガの発情は、個人差もあるが最低でも数日間続き、終わるまでは他のことが一切出来なくなるのだとも聞いていた。
 今日がおそらく初日で、この後何日も同じ状態が続くのだとしたら。自分の手では、発情を終わらせることも、症状を緩和させることも出来ない。手段でさえ、何が有効かを知らなかった。
 手詰まり。
 絶望感で視界が一瞬暗転する。体を求められても、及川の変貌に順応しきれない自分は、隣にいる者として相応しくない。
 発情を迎えた時に必ず苦しませるならば、力になってやれないならば早急にこちらに差し出せと、この場には居合わせない牛島の幻聴がしていた。
 幻を振り払おうとして頭を振ると、窓側に据えられている及川愛用のパソコンの近く、それもかなり操作の邪魔になりそうな位置に、不似合いなものが置かれているのが目に留まった。
 どうして部屋の中、目立つ位置にわざわざ生徒手帳が置かれているのか。身分証として定期的に提示を求められるのに、敢えて鞄の中から出しておく必要が、こんな時にあったのだろうか。
 様々に考えながら手に取ると、頁の間から四つ折のメモが飛び出していることに気がついた。
 挟まっていたのが何かの拍子に表に出たのか。折り目を開いて元の形に戻すと、岩泉の知らない固定電話の番号が幾つも書かれていた。
 市外局番込みで書かれた連絡先は、何かあった時には勿論だが、何もなくても連絡して構わない、と気遣いの言葉も加えられている。及川のかかりつけ医ならば、どうすれば及川が苦しまずに済むのかを、知っているに違いない。病院の番号だと思い込んで、記載の数字を通話の発信画面に入力していった、最後の一桁で手が止まった。
 紙の隅に小さく、牛島の名が書かれている。
 手書きの文字も、見慣れた及川の字ではない。
 いつの間に、牛島の連絡先を受け取る必要が生まれるまで、及川の体は変化していたのか。
 気づいてやれなかった自分に腹が立つ以上に、アルファに生まれただけで無条件に及川の番になれる可能性を持つ牛島が、純粋に羨ましく妬ましかった。
 アルファではなく、同じオメガに生まれていたとしても、同じ苦しみを少しは分かち合ってやれた。
 だが、ベータにはそのどちらも叶わない。手放したが最後、生まれながらに惹き合う二人をただ眺めているだけになる。
 波風の立たない平凡な一生が約束される代わりに、大事な幼馴染みも恋人も、一度に牛島に連れていかれる。及川が敵と見なした最初の存在で、前途に常に立ちはだかり力で捩じ伏せられ続けたアルファ。自分自身にとっても倒すべき相手であり、越えようともがき続けた壁。
 牛島を連れてきたならば、及川の発情にも、アルファとして有効な手を打てるだろう。ただ及川は、牛島を番に選ぼうとはしていない。向こうはその反対で、この千載一遇の好機を逃すほど、お人好しでも馬鹿でもない。
 俺は、この期に及んで、牛島を頼るのか。頼らざるを得ないのか。牛島を呼んだが最後、及川は連れていかれる。二人をみすみす番にするのと同義だ。
 俺が牛島を呼んで連れていかせたと、理性を取り戻した頭で知らされたら、及川はどう感じる?
 発情を終えて正気に戻って、一番最初に知らされる現実は、及川にとっては最悪の裏切り以外の何なのか?
 今後、何回、何十回と定期的に同じ状態になって、毎回苦しがるのを楽にもしてやれず、肝心な時に人任せにしておいて、何が恋仲だ。隣にいようと誓ったのは、苦しませるためではなく、自分の全てで幸せにしてやりたかったからではないか。
 最後の一桁がなかなか入力されずに、画面が薄く暗転した。他の可能性を探すのも、諦めて手放すのも、指先ひとつ。迷っている間にも、及川はじりじりと追いつめられるだけで、猶予はもう残されていない。
 どうするか、一瞬の思考停止明けに、背後から漂ってくる匂いが一層強まった。
 助けて。
 力なく訴える声が、体の中で渦巻く本能に対して、とうとう白旗を揚げた。薬で押さえつけていた分強まった発情は、一人で耐えられる範疇をとうに越え、及川の理性を食い破り意識を性に従わせた。
 言葉にしきれない未練を断ち切るように、目を閉じた岩泉は、最後の一桁に指を合わせて。
 別れの数字を、打ち込んだ。



 受話口に耳を当てた時には、頭の中が真っ白になり、事態をどう伝えるかも一向にまとまらなかった。
 コール音が二度鳴った後に牛島は通話口に現れ、名乗ろうとした岩泉に割り込んでたった一言伝えたきり、一方的に通話は切られた。
『だから、すぐに呼べと言っておいたんだ』
 焦りを滲ませた電話口の声の他、走り出したであろう靴音も僅かに伝わり。手首を拘束された及川の悲痛な嬌声を聞くしかない岩泉は、絶望の淵に立つ心地で牛島を待った。そして待ち人は、正確な住所も伝えていないのに三十分もせずに現れた。及川家の玄関の呼び鈴が、けたたましく鳴らされる。
「……住所知ってんのかよ」
 全く迷いもせずに辿り着いた風情の牛島を見て、扉を開けた岩泉は口にせずにはいられなかった。
「近くまで来れば後は見当がつく」
 及川の気配が濃くなる方に移動すればいいだけだからな、とのおかしな主張を押し通す牛島を理解するのも諦めて、岩泉は及川の待つ部屋を指し示した。
「わかるとは、思うけどよ。あっちだ」
 及川の声以外には物音のしない、特異な雰囲気が満ちた家の中、人の気配だけがはっきりと伝わってくる一画。
「……慣れてはいても、ここまでになると、目が回ってくるな」
 詰めていた浅い呼吸を止めて、牛島と共に部屋に立ち入った瞬間の光景を、一生忘れられないなと、岩泉は後に振り返っている。
 扉を開いたと同時に理性の抑えをかなぐり捨てた牛島が、及川に何をしたのか。
 手首を縛ったままのネクタイを解き、膝の上に乗せて、服の中から取り出したものを及川の中に収めて。
 それからどうなったのか。岩泉は詳らかには知らない。居たたまれずに部屋を去っていたからだ。
 自分としていた時とは全く異質の、至極満足げな嬌声を、及川はどんな顔であげているのか。
 記憶と幻と願望が混合した時間を、たったの壁一枚を隔てて、岩泉は過ごした。相手を選ばなくなっている及川は素直に牛島に対して甘えた声をあげ、牛島の方もさも当然といった風に要求に応えてやっていた。悪夢にも等しい時間だった。幻であってほしい現実が、次々と過ぎ去り痕跡が残されて──及川は、堕ちていった。
 牛島を及川にあてがった罪悪感と、そうするしかなかったと自身に言い聞かせるばかりの虚無感。
両者と戦って二時間ほど経過した頃、艶のある吐息とも嬌声とも受け取れる音が、岩泉の耳に聞こえてきた。それきり部屋の中が静かになり、岩泉は無意識に聴覚に神経をとがらせた。
 そんな時だった。
 牛島に背負われた及川が、部屋の中から姿を現したのは。
「……及川」
 一度は裸に剥かれた及川が、裸に剥いた男の手で再び着衣を整えられ、穏やかに眠っている。及川に声をかけたものの、憔悴しきった表情の岩泉とは対照的だった。
 疲れ果てて寝ているだけのような寝顔に安心して、立ち上がった岩泉は無意識に手を伸ばしたのだが。
 その手は及川に届かなかった。
 近づいていた牛島は、岩泉の方へと最後の一歩を踏み出さなかった。
 一歩の距離は開いたまま。一瞬にして緊迫した雰囲気が広がる。
 膠着を破ったのは牛島の一言だった。
「今しかない」
 牛島の爪先は玄関に向いたままだ。
「荒っぽいやり方だったがどうにかうまくいった。及川は、抱き潰されてようやく寝付いたところだ」
 熟睡している及川はそう簡単には目を覚ましそうにはないが、あの匂いは未だに平時の何倍もの強さで放たれている。
 弱まってはいても、こうなのだから……家に置いておくわけにはいかないのは自明だった。
「及川が大人しい今なら、もっと設備の整った所へ連れて行ってやれる」
 一歩。岩泉の存在などお構いなしに、牛島は及川を背負ったまま玄関へと歩みを進める。
「起きたらまた同じことの繰り返しだ。どの道、軽く見積もろうとも一週間は、家ではまともに暮らせない」
 立ちすくむ岩泉をよそに、牛島は淡々と己の知る現実を述べていく。
「……お前は、発情期を過ごすための専用の施設があると、及川から聞いていなかったのか」
 怪訝そうに首を傾ける牛島。初耳も初耳、寝耳に水も同然の岩泉。どうして及川が黙っていたのか、意図も知れない。
 岩泉の口から出て来たのは、牛島の話の信憑性自体を問う言葉だった。
「──んなもん、あんのか」
 牛島の表情は相変わらず硬かった。だが、及川が岩泉を自分の性に関する諸事から切り離して考えようとしていたのなら無理もないかと思い直し、言葉を練った。
 事情を半端にしか知らない可能性の高い岩泉でも十分呑み込めるよう、語句を選んで。
「発情期の症状の重い、あるいはその可能性が見込まれるオメガは、公的な退避施設を利用する権利がある。身分証の持参が望ましいが、事態が急を要する場合は身一つでも利用可能だ。今回は十二分に『それ』に該当する」
 背負っていた及川を玄関先に座らせて、靴を履かせて横たわらせた後に牛島自身も腰を下ろして靴に足を通していく。
「性衝動に振り回されるオメガを一時的に日常生活から切り離して、症状が安定するまで過ごさせる場所だ。そこに今日から連れていく」
 後に岩泉も知ることとなったが、退避施設は公的機関としてはかなりの柔軟さを持ち合わせている。重篤な症状を抱えたオメガの収容だけではなく、必要に応じてオメガの番候補探しや番成立までの各種斡旋、また発情期の関連症状に限るが独自に配備した車両での緊急搬送など、市井の医院とは違う医療機能も果たしていた。独自の役割を担う、オメガの発情専門の救急病院とも言えただろう。
 いつからか耳を澄ませていた牛島が、やおら立ち上がり玄関の鍵を開けた。
 ポケットの中には、及川の分も含めた二冊の生徒手帳が入っている。
「部屋を出る前に呼んであったが──来たか」
 救急車のようなサイレンが、確かに岩泉の耳にも聞こえてくる。
「及川がここまで発情を拗らせた以上、もう家に置いておくわけにはいかない。後で本人が何と言おうが緊急時だ」
 眠っている間は、確かに及川は大人しい。このままだったなら、匂いにあてられ理性を捨てさせられる危険性は、大きく低下するにはする。
 だが……一度目を覚ましてしまえばどうなるか。岩泉が一番身に沁みていた。過ぎた快楽が苦痛に変わる。自身の欲求が満たされるまで見境なく異性を誘い惑わせ続ける、決して野放しにしてはならない存在になってしまう。
 あれほど及川が毛嫌いしていた、オメガの典型例に。よりにもよって、及川自身が。
「おい、それって」
 及川の意思はどうなるのか。門外漢ながら問わずにはいられなかった。
 だが牛島からは、岩泉が期待したような返答はなかった。程なくして呼び鈴が鳴った。
「意識を取り戻した及川が、お前と同じように考える保証はどこにもない」
 性成熟が終われば、及川もいずれ自分を選ぶ。牛島はそう言いたげに、玄関のドアを開けた。岩泉に向けられた背中には、オメガが内包する性衝動の強さを侮った岩泉の浅はかさを、じわじわと詰るような無関心が貼り付けられていた。
 瞬く間にストレッチャーの準備が整い、及川の体が乗せられていく。定められている手筈通りに及川は運ばれ、その姿は車の中に消えた。事情を説明する牛島と、話が進むにつれて表情を険しくする施設の担当者。誰も岩泉には一瞥もくれないまま、搬送用車両には岩泉以外の全員が乗り込んだ。
 慌ただしく車両は発車し、けたたましいサイレンが再び住宅街に鳴り響く。後に残ったのは、及川の甘い匂いだけ。
 自宅同然に見慣れた家屋の中、つい先程までいたはずの、いて当然のはずの幼馴染だけがどこにもいない。
 牛島が連れていったからだ。
 自分が、連れていかせたからだ。
 
 

 搬送中、受け入れ先の施設では、医療機関から集めた及川の診療記録の照合を進めながら、めいめいが表情を曇らせていた。及川自身はまだ施設の利用歴はなかったが、第三者──牛島から通報を受けるかなりの重症で、年齢から推測すると回数を重ねて拗らせたとも考えにくかったためだ。
 初めての可能性もあって、この有り様か。車両から下ろされた及川を見るなり、職員の顔が改めて翳っていく。
 利用予定の部屋へと及川は即座に運び込まれ、医療従事者らしからぬ出で立ちの職員たちの中から一人だけ、鍵を片手に牛島に近づいた。
 ――利用期間はこちらで勝手に見繕った。長めに試算はしているが、長引きそうなら何時でもいいから言ってくれ。
 声をかけた職員は言葉少なにしか語らず一斉に散っていき、鍵を渡された牛島は既に寝かせてある及川のいる部屋に入ってすぐ、しばらく存在さえ忘れる鍵を掛けて時計を確認した。
 午後五時。
 空調の効いた部屋は暑くも寒くもなく、一日の寒暖差も一切室温に影響しないよう、管理され尽くしている。時刻を示すのは時計の針のみで、昼と夜の境のない切り取られた時間が、暦の上を流れ始めた。
 着る必要のなくなった衣服をすべて脱ぎ去り、夢の中からなかなか出てこない及川の様子を見ながら、終わったら連れて帰る、と短いメッセージを送信した牛島は、手持ちの電子機器の電源を片っ端から切っていった。
 幾日も裸で過ごす前提の部屋にはモノ自体が少なく、世間から断絶されると、本当に性行為くらいしかすることがなくなる。
 それしか頭になくなる時間を過ごすのだから当然とも言えたが、朝からろくに摂っていないはずの食事を、及川にどうやって与えるか。牛島がつらつらと作戦を立てていると、寝返りを打った拍子に及川は微睡みから覚めたようで、ゆったりと瞬きを何度か繰り返した後に一気に薫りが強くなった。
 ベッドに吸い寄せられた牛島が寝転がっている及川を跨ぎ、着せていた服の中に手を忍ばせると、再開を催促して腰を浮かせる始末だ。
 無邪気に笑む瞳には、おそらく今は誰も映ってはいるまい。腕を伸ばして抱きついている真正面の相手が誰であろうとお構い無しで、自分のしていること以前に、場所や時刻さえ認識していない可能性も高かった。
 今の及川は、本能に完全に支配されている。
 番の性を求めて、アルファの気配と匂いにあてられて、離れようとしないのが何よりの証だった。しがみつこうとする及川の腕を、牛島に振りほどけるはずもない。
 それでも、心中は複雑に乱れていた。個人が識別出来ていないから望まれているだけに過ぎず、区別のついたところで岩泉と間違われているのだろうな、との見当もつく。同じ相手を想っていても、及川からどう思われているかは天と地よりも開きがあった。
 誤認されたまま、持ち合わせた中身の性の特権を使って、なし崩しに長年の望みを叶えてしまったことも不本意だった。
 牛島個人としては、こんな形で及川を手に入れたかったのではない。及川がオメガとしての成長を終える前に、岩泉と今よりも対等な立場でいられた間に、岩泉ではなく自分を及川に選ばせたかった。傲慢な望みだと嘲笑されようと、岩泉にとって勝負にならない勝負をさせるつもりもなかった。
 及川が発情期を迎えて、それは叶わなくなり。甘く薫る肌を独り占めしたまま隅々まで暴くと、触れあったところから焦燥感が浸透し、気を逸らせる。
 ほんの数時間前に初めて知った対の性は、確かに理性をずたずたに切り刻み、望む望まないを抜きにして、抱かせるように惑わせる性質を十二分に発揮していた。
 自発的に足を開いた及川の間に体を割り込ませ、両足を抱えて正面から挑むと、腰を浮かせた及川の蕾が薄く開き、牛島の先端に吸い付いた。誘い込もうとさざめく襞をかき分けて、一息に根元まで収めてしまうと、及川の喉が反り吐息が一層艶を増す。
 ねっとり絡む粘膜に包まれて訪れた衝動のまま、体の奥に狙いを定めて射精すると、瞬きを繰り返しながら体を戦慄かせる及川が、戸惑いつつも体の横についていた手に触れてくるのが、たまらなく愛しかった。
 長い吐精の後、腰を密着させたまま、大量の精液で滑らかになった内部をかき回して余韻に浸ろうとした時。断片的な嬌声しかあげていなかった及川が、もっとして、と牛島のものをやんわりと締めたのを皮切りに、二度目が始まった。
 中の具合も抱き締めた時の肌馴染みも、他の誰も代わりになれない、生まれながらの対だけあって、自身のために誂えられたかのようだった。
 大きすぎず、小さすぎず。手に余しもせず、頼りなさを感じるわけでもない体つき。
 不足どころか非の打ち所のない、腕の中では誰よりも従順な体であっても、胸に秘めているのは違う存在──幼馴染みの岩泉が、牛島の心に影を落としていた。
 自分の接近を阻み、及川の成長が終わってしまうまで、隣に誰も近づけなかった男。
 及川の意識が戻れば、その幼馴染みのいる場所へと、帰りたがるのは目に見えている。発情の周期すら不安定なまま、戻ったところで同じことが繰り返される。
 繰り返す度に、体への負担も大きくなる。
 意に染まない相手に足を開きたくない、気持ちはわからないでもないが、悪化させてまともに生活出来なくなってからでは遅いのだ。
 日頃から小出しに発散させて、遠くからアルファを呼ぶ必要はないと体が自覚するまで、発情の強度を抑えてやらなければ。今のままでは、あまりに痛々しい。
 牛島が無理やり連れ去るまで、一度もアルファに抱かれてこなかった遅れを取り戻すかのように、二度と離れまいと見つめてくる目には、もう岩泉の名残はなかった。
 先だけ残して抜いてしまってから、及川の体を反転させて膝を曲げさせ、後背位に変えて再び繋がりを深めていく。鼻にかかった柔らかい響きの濁音が漏れ、体の欲求に付き従い腰をうねらせた及川は、うっとりとして目を閉じた。



 牛島と及川のように、片方が既に人の肌を知っていたケースは、特に珍しくはない。番を作る前、オメガは特に、成長に伴い強まっていく欲求に最初は耐えていても、じきに負担の大きさに折れて捌け口欲しさに身近な者を惑わせる。
 誰の体も知らないままの及川が手に入るとは、最初から牛島も考えていなかった。
 及川以外のオメガに大した興味を持たずにいたせいで、他の誰かと肌を合わせたこともなかったが、何も知らないままならば出来ないはずの動きを及川がしていた点ならわかる。
 最初から解れきった体内が柔らかく濡れていたのも、嬉しそうに奥へと引き込もうとするのも、後に何が続くのか知らなければ出来ない。一番繋がりが深まる角度も、好みの場所にあてさせる術も、教える前から及川は知っていた。
 番を持たないまま成熟した体から滲み出る色香は、ひどく腰の奥に響く。
 何度広げてもすぐ狭くなる中を根気よくこじ開け、小刻みに前後に動いてやると、張り出した裏側にも粘膜が絡んで俄然腰遣いが速まっていった。
 露が滴り落ちて染みを作る蕾の縁を根元で擦り、弾力ある最奥のぬるつく襞を先端に密着させて、繰り返し押し上げていく。
 中からさらりとした新しい蜜が溢れて、温かさと快さを牛島が感じたと同時に、陰茎の先から大量の精が吹き出し及川の体内を満たしていった。ほとんど全部溢して当然の量でも、全て腹の中に収めていて、欲求不満に苛まれることのなくなった肌艶も増している。
 繋がりのより深まる体位を好むのか、中を締めて言外に訴えるおねだりに、乗ってやらない理由はなかった。



 そのまま三度目もあっという間に終わり、牛島が体内に精を注ぐ度に及川は僅かずつだが大人しくなっていった。
 自我の戻らない及川のすることと言えば、寝るか、気を失うか、上にも下にもなり牛島を誘うか、せいぜい三つ。
 基準の何倍もの抑制剤を長期間服用し続けた反動で、少なくとも今後数年間は発情の強度も高いまま推移する。そう見立てた医者の言葉を及川は綺麗に忘れていたが、アルファの理性を飛ばすまでは予測できても、自分の理性までどこかに置いてくるのは、あるべき前提が成立していない証なのではと牛島は推量していた。
 体力が尽きても性欲には勝てないらしく、今など一度横になってから改めて後ろから牛島のものを収めて、そのまま眠ってしまったりもしている。
 こうなる未来を予測していたから、及川がオメガで自分の番だと気づいてすぐに、初対面だろうと嫌がられていようと接近した。
 発情を迎えるのが何年も先でも、早くから番となっておけば、番となった日からすぐに抑制剤を減らせる。
 意思とはお構いなしに振り撒かれるオメガの誘惑の薫りは、抑制剤で押さえつけただけ強くなる。体に薬への耐性がついてくると、服用量を増やしても副作用に悩まされるだけで、余程相手の鼻が悪くない限りはアルファもベータも引き寄せてしまう。
 まだ番のいないオメガが身近にいて、日頃から慣らされている牛島でも、発情期が近いオメガの薫りにはかなり分が悪かった。
 況してや、正真正銘の発情期の只中で、何年も恋い焦がれた相手とあっては、理性を保てるわけがなかった。
 熟睡していても性交はしたい。そんな我が儘を叶えてやるために、まだあまり触れていなかった乳首を摘むと、背中を丸めた及川は悩ましげな吐息を漏らした。
 再び猛り始めた欲望のまま、力の抜けた柔らかい体内を存分に蹂躙しても、あげる声には痛みの色は微塵もない。
 意識のない体は、自分のやることを決して拒まない。片足を抱えて後ろから少々無理やり突いても、中を満たす蜜が増えるばかりで、しとどに濡らしたシーツの上でくたりと動かなくなっていた及川が、熱に浮かされた目を開き自らの足を抱え直した。
 いっそこのまま、発情期が終わらなければいい。
 そうしたら、誰にも邪魔されずに繋がっていられる口実を失わずに済む。拒絶されなければ、及川が岩泉以外にも目を向ける可能性も上がる。
 ようやく存分に気持ちを伝える機会を与えられたからには、及川を逃がしてやるつもりなど牛島には最初からなかった。発情期を軽んじているとしか思えない、甘い考えも捨てさせる気でいた。
 乾きかけの二人分の体液が混じりあってべたつき、身も蓋もない卑猥な音が孔から生まれていく。視覚的な刺激と合わせてわざと完全に抜ける寸前まで腰を引けば、振り返った及川が抜けかけた太いままの陰茎を支えて、ゆるゆると体内に埋め直した。
 意地悪く一気に押し込み突き上げると、鋭い快感に表情を歪めた及川は、中を余計に蠢かせて浅い呼吸を繰り返して。
シーツを掴んで震える指先が白み、結合部から透明な粘液が垂れて、締め付ける襞のひとつひとつが熱くなっていった。
 美味そうに精を呑み込む孔は、しなる背中に合わせて体内に隠している部分の角度を変えて、擦れの具合を加減しながら快楽を貪っている。
 言葉だけでは牛島の手には決して堕ちようとしなかった肉体は、皮肉にも牛島の思惑とは正反対に、成熟しきってからひとりでに手中に転がり落ちた。
 体が発する声を無視し続け、意識と本能が分断されて久しかった及川は、長きに渡って体が求めていたものを手に入れた今、自らの大きな変化をどう受けとるのだろう。
 素直に本能に従ってから、今までとは反対に、嬉々として牛島に足を開いているのだから。
 及川個人の願望と、牛島の知る現実との間には、落差がありすぎる。発情期を抜けた及川が意識を取り戻し、事態を把握してからが、牛島にとっても及川にとっても正念場だった。



 暦の上で十日ほど、二人が気づかない間に勝手に時間は流れていた。
 期間の後半は理性を完全には失わずに済んでいた牛島に、何もかもまかせきりだった及川の目が、やっと普段の豊かな表情を取り戻していく。
 時間どころか、自身のあり方さえ、過去と既に分断されているとは知りもせずに。


[ 8/89 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -