七章

 人の気配がドア越しに現れたのは、運ばれてから三十分位経った頃。遠慮がちに開いた扉の向こう、岩ちゃんはやっぱりどこか変で、俺の面倒を見させるわけにはいかなかった。
「岩ちゃん、伝言お願いしていい?」
 今日くらいは、岩ちゃんには自分の心配をしてもらわないと。病気の前兆かもしれないし、そうでなくても何が起きていたのかをはっきりさせないと、バレーどころの話じゃなくなるから。
「俺はもうちょっと休んでから帰るから、忘れ物ないか最後に確認して皆で先に帰ってて。落ち着いたら、一人でゆっくり戻るよ」
 帰り道は覚えてるから迷ったりしないし、人通りも少なくないから岩ちゃんが心配するようなことも起きないだろうし。
「……俺はそれでも構わねえけど、お前のは休んで治んのか? まだ顔色悪いから、無理言って連れてく気はねえよ」
 岩ちゃんだって、いつもの覇気がないのにね。俺が危なっかしくて心配だから傍を離れないって言葉、今の岩ちゃんには却って枷になるから、思い出さずにいてくれてよかった。
「平気だよ、熱は下がってるから、じきに動けるようになると思うし。今日は岩ちゃんも、皆と同じように、ゆっくり休んでて」
 手を振って笑って見せたら、まだ疑ってたのか、額をくっつけて熱がないのを確かめてから、触れるだけの口づけをひとつ。
 岩ちゃんなりの、おまじない。
 今の岩ちゃんにはきっと、一人になる時間が必要なんだ。隣から俺がいなくなった時、自分の好きなように生きていく練習も兼ねて。
 扉が閉まって足音が遠くなる。気を抜くと、浮かばせていた手が、作った形のままで体の上に落ちた。
 疲れを自覚できない程に疲れてたんだろうな。
 感覚はあれど、重たい体は勝手が違って、扱い方がわからない。このまま治らなかったら、どうやって帰ろう。
 いつまでもここに横になって天井見てたって、ひとりでに見慣れた自分の部屋の天井には変わらないし。変わったらそっちの方が怖いし。これから暗くなるから、外に明るさが残ってる間に帰った方がいいよね。季節柄まだ夜は冷えやすいもの。
 目を閉じて少ししたら、岩ちゃんに会えたことで俺は安心したのか、どうやら眠ってしまったらしかった。次に目を開けたら、カーテンをかけていない部屋の中が薄暗くなりつつあった。
 怠さは抜けきっていないけれど、歩けない程じゃない。もう少ししたら、帰ろう。心配かけてごめんねって、岩ちゃんに、皆に謝ろう。
 日が陰り始めた窓の外を眺めながらそんなことを考えていると、今度は無遠慮に誰かが入ってきた。
「及川」
 声の主は誰なのか、知りたくもないのにすっかり覚えてしまった。ジャージの上を回収しに来たんだ。
「体調が優れないと聞いた。回復する前に無理に試合に出て、悪化させたとも」
 部屋の照明を点けて、牛島は部屋に入ってくる。
 いつの間にそんな話になってたんだろう。結果的には倒れただけで、体力が尽きただけで、体調自体は回復してたのに。
 ベッド脇に備え付けてある椅子に荷物を置いて、牛島は首筋に触れてきた。背中を向けてるから、何考えて指先をあててるのかはわからない。わかりたくない。確かめたら後戻り出来なくなる気がする。
「……ほっといてよ」
 勝手に触ってくるなら、触れないように布団に潜ってやる。もそもそ潜ろうとしたら、寸足らずの布団がようやく肩を覆ったあたりで、丸くなろうとした背中まわりを唐突に空気が流れた。
「ちょっと、何してんの、添い寝なんか結構です、及川さんは岩ちゃんの以外全部お断りしてんの」
 顔だけ振り向いたら、布団捲って膝ついて、隣に入り込もうとしてる牛島としっかり目が合った。寒いなんて一言も言ってないし、そもそも頼んだ覚えもないし。
「やはり二人は狭いか」
 人の話、全然聞いてない。誰がベッド狭くしてるのか、わかってて言ってるなら質が悪いったらない。広めには出来てるみたいだけど、人二人並んでゆったり眠れるベッドなんて、こんな場所にあってたまるか。
 端の方に避けたらにじり寄ってくるし。体が落ちないぎりぎりまで布団ごと逃げても、腕引かれて逆に身動き取れなくなった。
 俺、なんでこいつの腕の中で大人しく寝てるんだろう。一人の時よりずっと温かいからまだいいものの、何をするのも狭すぎる。俺から何かするつもりは欠片もなくても、牛島はどうかはわからない。岩ちゃんが俺より先に帰るのを、こいつは見ていたかもしれないから。
 それでも、狭いなりに横になっているとまた眠くもなってくる。温かいせいだろうな。背中を撫でられるのも、案外悪くない。いつの間にか腕枕までされている状況にどうしてか疑いを抱かなかった俺は、つい癖で熟睡しようとしたんだ。
 それが、一番良くなかった。
 どれだけ疲れていたのか、俺はもう一度寝ていたらしくて。記憶が途切れて目を開けたら、牛島の手が違う場所にあった。背中を撫でていたはずの手が、服の中で悪さをしてる。腰から下に忍び込んで、普段は岩ちゃんしか触らないところに、指先が触れてる。
「……寝てる病人に手出すとか何考えてんの、人でなしなの?」
 ベッドで二人きり、こういうことされるのは嫌いじゃない。嫌いだったら、オメガとして生きていける気がしない。
 けどそれは、相手が岩ちゃんに限っての話。牛島には、番にされてたまるかって、ずっと抵抗していたんだから。体は歓迎するはずなかったんだ。
 なのに。どうして、不埒者を野放しにしてるんだろう。寄り添って、今されていることの続きを促して、これじゃあまるで。
 岩ちゃんじゃなくても、構わないみたいに、思ってるようで。自分のことなのに、豹変ぶりが恐ろしくて、血の気が引いて現実感が乏しくなる。人生の理想なんてとっくの昔に無くしたのに、まだ俺はどこかで、自分の体に夢を抱いていたのかもしれなかった。
「病気ではないと自覚していても、しらを切りたいなら俺は別に構わんが」
 寝てる間に足を絡めてたのか、親しい仲でもお互いに触り合ったりしないような、そんな場所があたってる。どこがどう、なんて想像しなくても、具体的な正体もわかりすぎるほどわかってしまう。
 唯一わからないのは──理解しかねるのは、俺は完全に『準備』が終わってるってことだ。
 それはきっと、俺のが腿にあたってる牛島も、口にこそ出してなくても当然知ってる。だから何も言わないままに、俺の中から抵抗する気が消え失せるのをじっと待ってる。
 俺の熱を下げるのも容易くやってのけたこいつが、逆をやれないわけない。現に、後戻り出来ない方の熱が、体の中から指先まで広がり理性を侵していく。嫌いでたまらない、オメガの本能に根差す熱だ。
 どうすれば熱が下がるのか、何をしなければ熱が下がらないのか、経験則は残酷な結果を突きつける。体を許してしまえと。そうすれば手っ取り早く楽になれると。向こうも番がいないのだから、自分のものにしてしまえばいいと。
 事実はどこまでも理想からかけ離れて、現実は事実にいつもご執心だ。俺の体の中から蜜が滲んできたのを悟ったらしく、腿の際どい位置で遊んでいた牛島の指が、目的を見つけて俄に様子を変えた。体の上に掛かっていた布団を払いのけ床に落として、互いの着衣を次々に解き手足の首から抜いていく。
 最後までする時みたいだった。俺もあいつも、気付くと何も着ていない。仰向けに転がされたその上を、ユニフォーム越しにしか見たことのない体躯が覆う。体つきがどんなかを検分する余裕もなく、膝裏にかけられた手が足を開いた。
 コースの打ち分けにばかり使われてる手指は、バレー以外でもそこそこ器用に動くらしい。
 節の目立つ太い指が、まとめて二本いきなり入れられても、痛みも違和感もなかった。ぬかるむ中を往来する指がばらばらに粘膜を押し拡げたところで、俺はこの場の主導権を丸投げした。
 声を出して喜ばせてやらないようにするのが精一杯。快楽を追う体に鞭打って逃げ出せるとは思えない。岩ちゃんがほとんど毎日付き合ってくれてたから、抱かれる気でいる体には力がちっとも入れられなくなってる。
 穴の縁を擽られるのが弱くて、息を呑んだら笑われた気配がした。しつこくそこばかり弄られた方がまだましだったのに、緩急つけて油断し始めた時を狙って引っ掻くから、解れきった中からとぷりと蜜が溢れ出す。
 準備のいいのがまた腹立つ。厚手のタオルの二枚重ねを、俺から言い出す前に体の下に仕込んであるあたりが、全部見透かされているようで。俺がこれからどうなるのか、こいつは全部知ってるんだ。
 中の粘膜が違う動きを始めたと、弄るのを止めない指は当然把握してて、奥を抉る仕草が新たに加わる。気持ちいい、なんて一言じゃ済まされない。目の前にいるのが岩ちゃんだったらとっくに、意地悪しないでよって泣きついてる。開いた足の間から見えたのは、牛島も平気でいるんじゃなく、我慢してるんだなって実感する光景だった。
 遠近感も平均も縮尺も、ひとまとめに遠くに投げ出すようなものを股間につけて、荒い息吐いて俺のこと見てる。じっくり観察したら、違う心配しなきゃなんないような大きさってことまで判って、でも入れたら気持ちいいのかな、なんて思ったりもして、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
 呼吸が速くなっていくのも感じる。余裕ありげな顔は変わってなくても、こいつがアルファである以上、オメガの俺と惹き合わずにはいられないんだから。
 今はまだ裏筋を重ねて擦りあわせてるだけのものを、どうしたいのかは決まってる。ひくつき蠢いている中に全部収めて、アルファの性を全うしたいはずだ。俺は俺で、自分の中のオメガの部分が牛島を求めてやまないことと、一瞬でも気を抜いたら誘う声が出そうになること、一度に二つ相手にしなきゃならなくなって、欲求と戦うに必死だった。
 俺がまだ誰の体も知らないとは、こいつも思ってないだろう。頑張って耐えられるような、生半可な衝動じゃなかった。我慢してもその分強くなって襲ってくる欲求に、抵抗するだけ無駄だったから。素直に相手に任せて甘えた方が、ずっとずっと楽になれるし喜んでもらえる。意地を張っていないと、俺は牛島にも岩ちゃん相手の時と同じことをしてしまいそうだった。
「及川」
 俺の手を導き勝手に握らせたものを、軽く扱かせながら牛島が問いかける。
「相手は、岩泉か」
「――だとしたら、なんなの? 俺が初めてじゃないのが、気に食わない?」
 意趣返しに、笑んでやった。我ながら良く出来た微笑みだと思う。
 岩ちゃんが今まで、俺をどんなに救ってきたのか、こいつは知らない。知るはずがない。俺が自分の体にどんなに振り回されてきたのか、全部知ってるのは岩ちゃんただ一人だ。なれるなら、岩ちゃんと番になりたかった。可能性が、あったなら。
「……確認しただけだ」
 指先だけ残して引き抜かれた指が、もう一度入り込むときには三本に増えていた。擦れる感覚が強くなる。腰がひとりでに浮いて、溢れ出した蜜が幾筋も伝って、シーツにまで染みたのもどうでもよくなってく。
 口を押さえていた手も投げ出し、声を聞かれるとかここはどこかとか全部頭から消えて、指の届かない奥にも触れてほしくておかしくなりそうだった。
 今、ここで、このまま最後までしてしまいたい。体の中隅々にまで精を注がせて、浸透し馴染んでいく過程を共有して、他の誰にも見向きの出来ないよう作り替えてやりたくなってくる。アルファ相手になら、不可能じゃない。
 身も蓋もない濡れた音と声が部屋いっぱいに広がる。存分に煽られて、そのままこっちに堕ちてくればいい。こいつだけ、性の本能にも勝てるなんて癪に障る。同じ濁流に、引きずり込んでやる。
「……はやく、しろって」
 昂った体を鎮めるなら、体を繋いでしまえばいいと、とっくに知ってるだろ。指で満足できるような子どもじゃいられなくなったから、本格的に手を出してるんだろ。最後までしてくれない方が、却って苦しいんだ。
 三本の指がばらばらに中で動き、焦らされ過ぎて狭く搾られた筒を拡充し直していく。体の奥から熱いものがこみ上げてきて、突き動かされるままに全身を弛緩させると、前からも後ろからも温まった液が迸った。
 勝手に腰が跳ねるくらいの解放感。促すように、ゆっくり、絶妙な加減で中を擦っていた指が引き抜かれて、代わりに別のものがあてがわれた。余韻で閉じきらないままの孔の縁、収縮の度に擦り付けられて、今にも中に埋まっていきそうだった。内側の、より柔らかな粘膜でも熱さを直接感じて、あとは隘路を開かれるだけ、ってところで牛島の体が離れた。
 腹の上に、立て続けにかけられている半透明の精液。浴びる、って言葉の方が相応しいかもしれない。岩ちゃんのも何回か見せてもらってたけど、量が全然違ってる。今まで一度だって、体から伝うほど出されたこと、なかったから。
 ようやく出しきったのか、タオルであちこち拭いはじめた牛島は、写真でもコートでも見たことのない穏やかな目をしていた。
 岩ちゃんが俺を見るときと、ほとんど同じ目だった。



 服を着てたら大惨事間違いなしの、腹の上に溜まっている精液を指で掬って遊んでたら、新しいタオルを投げて寄越された。何人分だかわからない量は、アルファの性の成せるものだろうか。結局しっかり湿らせたシーツのこと、なんて説明しよう。洗って返さないといけないよね。水こぼしたのとは訳が違うから、軽く手洗いして元通りにはならないし……。
「体は楽になったんだな」
 適当に体拭いてのんびりしてたら、濡れタオルで内腿を拭いてた牛島が、また威圧感のある顔に戻ってこっちの様子を窺っていた。
 そういえば、元々は具合が悪くなって寝てたんだった。今日一日だけで、随分と体調の浮き沈み、激しいな。結局二回とも牛島に助けられて、それでも引け目を感じないほど、俺はおかしな育ち方してないもの。借りを作っても返せるあてがなかったから、あんまり丁重に扱われても困る。俺から差し出せるものは、ごく限られてたから。
「具合悪くなって寝てたの、忘れる程度には落ち着いたよ。もう普通に動けるからそろそろ服着てよ、いつまでもそんなの見せないでよ」
 思い出すから。あれだけ昂ってたのに、入れようとしなかった理由を、勘繰らずにはいられない。まともなアルファが相手だったらどうなるのか、岩ちゃんがいたって気になるんだ。
 気になる理由は、やっぱり怖くて考えないようにしてるけど。
 ベッドの下に落ちてた下着だけ、まず探して足を通したら、パンツだけ穿いた牛島はまた違うことをしていた。
「――何してんの?」
 そんな格好でどうしてもやらなきゃなんないことがあるとは考えにくい。メモとペンで何か書き付けた紙を四つ折りにするより、見られたら弁解しようのない格好をどうにかするのが、ずっと優先されると思った。
「一通り、連絡先を書いていた」
 勝手に俺の荷物漁って、生徒手帳の間に挟み込んでる。そんなの持ってたって、俺からはわざわざ呼び出したりしないのに。
「そんなの、必要になったりするかなあ」
 岩ちゃんじゃ駄目で、牛島に泣きつき助けを求める日が来るんだろうか。縁起でもない。そうなったら最後じゃないか。
「あと一週間もせずに、必要になる。どうにもならなかったら、身一つで来ても構わない」
 身一つって大袈裟な。思いつきの駆け落ちでも、もう少しましなもの持って出てくに違いない。
「なにそれ、早すぎるよ。あと一週間でそんなことになってたんじゃ、俺、転校しなきゃなんないってこと?」
 春高がまだ残ってる。機会が残る限り、青城で戦うつもりでいたのに、今更離れるなんて考えられない。そんなに時間は残されてなくても、お別れを言うのは前倒しにしたくなかった。
「発情期が来たら、隣にアルファがいないのを、朦朧とする意識の中で後悔する。今日触れて確信に変わった」
 ようやく服を着た牛島は、散らかした布団を元のように折ってから、ベッドの隅に腰掛ける。俺の目の前に、もう一枚のメモを突きつけて。
「違和感を少しでも感じたらすぐに、この中のどこかに連絡を寄越せ。秒読みに入った体は、個人的な都合を一切聞き入れはしない」
 ジャージのポケットにもメモを入れながら、いつも一緒にいるあの四番――もちろん岩ちゃんを指しての言葉だ──にも必ず伝えておけって。人に指図してばっかり。俺はこいつのものじゃないのに、やっぱり俺のことちっともわかってない。
「――体」
 選択肢は、まだあったけれど。
「何だ」
「楽にしてもらったから、ソレは一応捨てずに持っててはあげるけど。礼なんか言わないよ、ウシワカちゃんも俺で結構おいしい思いしてたんだからさ」
 肯定も否定も、どちらかをすぐに選べるほど、俺は牛島を単純に扱えずにいた。
 俺の症状を抑えるときは、俺のことを一番優先してた。昼過ぎの一件といい、オメガの体ってのは、一人だとこうも不安定だとしたら……俺が牛島を拒否し続けるのは馬鹿なあがきとして、目に映っていたんだろうな。
 けど牛島との出会いは最悪で、ずっと嫌いだった。いつも、いつでも、俺と岩ちゃんの前に立ち塞がる以外に……俺は何かと牛島に『はじめて』を持っていかれているから。
 けどそれは、アルファとして嫌い、って意味じゃない。
 だから、厄介だった。
 まだ完全には余韻の抜けない腕を操り、服を着終えた。俺の分の荷物まで肩から勝手に下げていた牛島が、まだか、って顔してじっと俺を見ていた。
「……それ、返してよ。ないと帰れないんだから」
 手を伸ばしても同じだけ距離を開けられて、靴を履いて奪い取ろうとしたらひょいとかわされる。どうしても俺には渡したくないらしい。からかわれてる気になって、意地でも取り返してやりたくなる。
「念のためだ。駅までは、送り届ける」
 ただ、やっぱり、取り返そうとしたこっちの気持ちなんか、お構い無しだった。



 結局駅まで荷物持ちをやった挙句、改札機の前まで牛島はついてきた。帰る方向が違うから、駅を利用するのは俺だけ。放っておけば自宅まで送り届けそうな雰囲気さえ醸し出している目の前の男は、俺が購入した切符を確認して自分も同じものを買おうとさえした。さすがにそれは制止したけどね。
「及川」
 呼び止める声は、どこか寂しげだ。離れがたく思っているのかは、わからない。傍にいるべきなのかどうかも。
 それにしても奴には余計な迫力があるから、俺まで悪目立ちする。その上に意味ありげな目で見つめてくるから、煩わしい位に視線がこっちに集中する。
 煩わしい、と形容してしまっても構わないだろうか。正式な仲でもないのに、どうしてこうもこの男は俺に干渉してくるんだ。
 ようやく肩から下ろしてくれたバッグを引ったくり、荷物を持たせた礼も言わずに俺は走って改札を抜けた。
 もう一度、牛島が俺を呼び止めようとする。だから一瞬振り向いた。それきりだった。
絡み合っていた視線を振りほどき、一目散にホームへと駆ける。発車間際だった列車に飛び乗り、あいつが追いかけてきていないことを確認出来てようやく、深く息を吐けた。



 俺一人では大して人目を集めることはなく、車両に飛び乗ったことを諭すアナウンスが車内に流れただけで、特に何事もなく列車は発車した。乗客もまばらで、扉の近くに立っていても通行の妨げにはならない位に、中は空いていた。
何の気なしに窓の外を見て、時間をすっかり忘れていたことに、気がついた。外はすっかり暗くなっていたんだ。
 二人で歩いていた時は全く違うことを考えていたし、周囲を気にかける余裕もなかった。ポケットの中を検めると、くしゃくしゃになったメモ書きがやっぱり入っている。生徒手帳の間にも、同じ内容の書かれた折り目付きのメモ用紙が挟まったまま。二つとも牛島から押し付けられたものだから捨てても構わないはずで、俺が律儀に連絡先として登録してやる義務もない。
 けれど。
 最後、あてがわれた時に沸き起こった、震えが来るほどの期待。
 もし、救護室なんて色気のない場所じゃなかったら、今ごろももっと違う時間を過ごしていたんだろうか。
 入り口にしか触れなかったものを、万事整い濡れた体内に収めたとき、俺はあいつの見方を変えてしまうんだろうか。
 答えを出したら、今の関係は完全に変わり、壊れる。根拠はなくても、そんな気がしてならない。
 受け入れるしかなかった自分自身の変化。いけ好かない対戦相手だった牛島を、番になるかもしれない相手として、ひとりのアルファとして、いつの間にか見ていた。
 掌にまだ、生々しい感触が残ってる。
 すっかり使わなくなった、二年前に受け取ったおもちゃよりも。形も熱さも動きの癖も、はっきり思い出せる岩ちゃんのよりも。太さもあったし、長かった。あんなの、奥まで入れて動かれたら、たまんないんだろうな。大きさばかりの見かけ倒しだったなら、逞しいな、とか思わないし、出来心も起こさないし。
 ……俺は、誰と対になって生まれてきたんだろう。誰と番になるように、決められてるんだろう。
 飛雄じゃないのはわかってる。あいつは俺よりも先に自分の対を見つけていたし、客観的にも落ち着くところに落ち着いたように見えたから。
 でも、こんなこと、岩ちゃんには言えないよ。いつかは岩ちゃんじゃない他の誰かのものになるなんて。嫌で、嫌で、ずっと具体的には考えずにいたのに、牛島とあんなことになっただけで、頭の中が対のアルファのことで一杯になってるなんて。
 節操のない自分が、恥ずかしくなってくる。大分、体が発する欲求と、強まる本能に流されてきてる。でなきゃ、牛島のこと考えて、本当は一緒にいて欲しかったなんて、思うはずないんだ。
 暗い景色を透き通らせる車窓に映った顔は物欲しげに頬を赤らめ、薄く開いた口は今この場にいない存在を何度も呼んでいた。声に出さずに、けれど昨日までとは絶望的な差違を伴って。
 釣り合うはずのなかった天秤の片方が、浮かび上がっていく。



 今年の夏も、開きかけていた扉を牛島の手で閉じられた。締め出されてすごすご引き下がる夏はもう懲りてるのに。同じ色のユニフォームがいつも、夏の終わりを運んでくる。
 今までと唯一違っていたのは、一度閉じた扉をもう一度開いた牛島が、俺にだけ手を差しのべていたことだった。
 俺一人だけに、大して使ってなさそうな表情筋を総動員して、あいつは笑ってみせたんだ。俺はあいつの笑顔を、知らないはずなのに。
 本選に進めなかった俺たちは、暑い盛りを迎える虚ろな夏を、勝者の誇らしげな背を思い出しつつ床目を睨み付け過ごす。
 去年までは、そうだった。
 今年は、違ってしまった。
 次の日、やっぱり悔しそうな顔をしている面々を見つめる自分の目が、変化してしまっていると気付いて軽く絶望した。
 『彼らはアルファではない』
 至極当然の事実だったはずなのに。今の俺には重い事実だった。彼らがアルファでなかったからこその、今がある。媚びへつらう相手ではなく、打ち倒すべき障壁として、俺たちの前にアルファは存在し続けた。
 その輪の中から、俺一人だけが、とうとう浮いてしまう日がやって来た。仕方のないことだけれども……俺は一人のオメガとして生きなければならなかったから。
 そういう瞬間が俺の場合、タイミング悪く降りかかっただけで。誰にでも、やってくるお別れの時が。



 インターハイ予選が終わったらすぐ、その日はやって来た。
 六月九日。
 明日は岩ちゃんの誕生日、って日。何日も前からどうやってお祝いしようかなって考えて、いよいよ準備できるのは今日が最後だから何か忘れてないか不安になったり、喜んでもらえるか期待で心を弾ませたりして、毎年過ごしていた……はずの一日。
 なのに……俺は。朝起きてからの記憶も、その日どうやって過ごしたのかも、何一つ覚えてない。
 牛島の言っていたことが現実になったって、全部終わってから聞かされた。だから、何があったのか、俺は知らない。知りたくてももう、岩ちゃんには会えない。会うわけには、いかない。
 それが、番を手にする代償だったから。


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