六章

 最上級生となる新たな春を控えていても、彼らは彼らのままで、相変わらずバレーに専念していた。
 岩泉と及川もその例に漏れず、バレー三昧の短い春休みを謳歌している。そんな、何の変哲もなかったはずの、四月初頭。
 思い返してみれば既にこの時から、及川には異変の兆候があった。
「冷やしたタオルないかな、岩ちゃん」
 すっかり微熱慣れしていたはずの及川が、そう口にしたきり突然の発熱に音をあげて、練習中にコートに座り込んだのがきっかけだ。赤らんだ顔色はどう見ても病人で、吐く息も熱く荒い。及川の基礎体温は高めで推移してはいたが、高熱への耐性は十人並みで、体を動かすなど言語道断。状態を察した全員が安静を勧めてくるような症状だった。
 床冷たくて癒される、とぐったり横になったままの及川は、起き上がろうともせず。横臥したまま起き上がろうとしない及川を放置するわけにもいかない岩泉は、体育館の端までずるずると及川を引きずった後、監督とコーチに指示を仰いだ。
結果、及川を連れて帰り、今日一日はしっかりと休ませるように、とのことで。松川や花巻に見送られて、岩泉は及川を連れて自宅へと戻った。日中のこの時間では、看病してくれるような及川の家族が誰も在宅していないせいだった。
 可愛い恋人とはいえ図体は人並み以上に大きい。やっとの思いで自宅の玄関までたどり着いた岩泉は、自力で立つ体力も残っていない及川を背負い、重たい一歩をどうにか踏み出した。
「なんで昼間の体育館で倒れんだよ、どうせなら家出る前の朝一で倒れとけっての」
 及川を座らせ靴を脱がせている間にも、かの人の意識は夢と現の間を彷徨い、瞼もほとんど塞がっている。岩泉の悪態など耳に入るはずもなかった。
「ごめ、んね」
 及川は力なくそう呟いたきり、廊下の壁に体を預けて寝息をたてる始末であった。



 眠りに落ちて余計に重く感じられるようになった及川を引きずって、奇跡的にも外傷無く自室のベッドへと寝かせることに成功した岩泉だったが。
 なかなか及川は目を覚まさず、看病のためにつきっきりになってしまっていた。それでも、眠っている間に体力が少し戻って来たのか、解熱する前に及川の瞼が開き。
「いわ、ちゃ」
 起き上がろうとする及川を制した岩泉の背に、及川の手が触れる。気力、体力共にある程度は取り戻したようで、気遣わしげな岩泉に向かってふわりと笑んでみせる余裕も生まれたらしい。
「もう大丈夫だから、こっち来て……」
 ベッドにいるのはむしろ好都合、とばかりに岩泉を誘って服を脱ぎ始めるあたりまでは、まだ岩泉にも想像できる範囲の話だった。
 問題はその先にあった。
 熱が普段よりも高い時。涙を浮かべている時。気付いたきっかけは二つのわかりやすい変調だった。今日もまた、その条件を満たす。喜怒哀楽が見た目にわかりやすい及川の、感情の振れ幅や精神状態に呼応するように、オメガの匂いが強まる。経験的に知っていた岩泉は、どのように堪えれば平常心を失わずにいられるのかを自分なりに研究していたし、及川の匂いが強まった時には欠かさずに、立てた仮説の通りに対処を実践していたつもりでいた。
 だが今日もまた、生まれ持った本能が、個人の努力を軽く凌駕していく。
「おい、かわ」
 頻度が増している。及川の体を前にして、まるで自己抑制が機能しない頻度が。二人の関係はほぼ親公認とは言え、声を聞かれるのは気にかけるべきなのに、そこまで気が回らない。体を繋げることにばかり夢中になって、他に何も考えられなくなる時間によって、意識下で動ける時間が寸断されている。
極度の睡眠不足を抱えた時に襲われる眠気にも似た、目眩を伴った意識の抜け落ち。眠気を催すはずのない時間や状況下であったのに、矢継ぎ早に情報が頭の中から失われていく。自分がこれから何をすべきだったのか。なぜ家に及川を連れてきたのか。直近の過去までもが、欠落してしまうのだ。脳の記憶領域に障害でも出たのかと疑うほどに、厄介だったのだが。
 及川と体を重ねてさえしまえば、症状は落ち着いてしまうのだから、余計に性質が悪かった。
 平時も何かと及川は、岩泉を頼ってくる。その過程で確かに想いは通じ合い体を重ねる関係へと至ったのも事実だ。 
 しかし、今回ばかりは度を越していると岩泉が感じたのも、事実だった。普段の五割増しで甘えてくる及川をあしらい誤魔化そうにも、及川のペースにすっかり呑まれて夢中で抱いてしまっていて。未経験だった最初の夜以外、岩泉は完全には自分を失わずに済んでいたはずだったのだ。
それが、どうしたことか。抜かずの二度目も求められて、三度目、四度目、ずるずると回数ばかりを重ねてしまい。愛の交感どころではなくなっていた。
 なのに、及川は焦点の合わない目をして、際限なく岩泉を求め続ける。熱に惚けた及川が岩泉の腰を自身の方へと引き寄せるも、既に軽く一週間分は体を交えた気になってしまっていた岩泉は、及川の誘惑にも容易には反応しなくなり……大いに遅れて、理性が仕事をし始めた。
 今、何度目だ。
 岩泉が最初に思い浮かべた問いに対応した回答はどこにもなかった。回数の区切りを失い、二人とも数える意志をとうに捨てていたためだ。
 それでも及川は貪欲に岩泉を求めて、肌を寄せてくる。甘い囁き声で岩泉の雄としての本能に揺さぶりをかけ、睦み合おうと秋波を送る。
 岩泉は、及川の望みに気付かないふりをした。明日もあるんだから今日はもう寝ろ、と及川を寝かしつけ、時間の感覚がすっかり麻痺した部屋の中から抜け出した。『すっきり』させすぎて逆に怠さを訴えていた体には、四月の夜風は快かった。
 場を離れても、耳には残っている。すっかり覚えてしまったようだ。掠れた吐息。ぬめりのある液がシーツに染み入る擬音。その液をかき分け陰部を押し込み生まれた、卑猥極まりない水音。たった一夜で記憶にこれでもかと刻まれて以来、忘れられそうにはない。性的欲求を持て余していた時期が嘘のように、岩泉の体は満たされている。及川の体はと言われると、どうにも自信はなかったが。
 少なくとも、避妊薬だけは何があろうと真面目に服用しているとの宣言通り、妊娠に伴う症状は兆しのひとつも現れていない。最たる変化として性欲の低下が挙げられるが、日を経ただけ却って増している現状から鑑みるに、可能性の時点で弾かれるだろう。
 旺盛に過ぎる生殖欲は、色事にそう暗い方ではなかった及川をも、旧来とは別人同然に変えてしまっていた。一体この変化は何なのか、薄ぼんやりと思い当たる節がないわけでもなかったが、それについて考えるのは岩泉の中では禁忌に等しかった。二人の別離を意味するためだ。
 中に何度放たれても飽かずに岩泉を求める及川は、もう出ないと岩泉が音を上げようがおかまいなしで。繋がりを解こうとはせず、体内で項垂れているものを咥え込んだまま、幸せそうに腰を揺らしては、熱い吐息を零すばかり。及川の所業に先に付き合いきれなくなったのは、岩泉の体の方。勃って当然だったものが鈍くしか反応しなくなり、度を越えた快楽から距離を置かざるを得なくなって、半ば逃げるように物理的な距離を作った。
 気持ちいいからもっと中にかけて、とねだる及川を突き放した岩泉は、完全に自分の都合で動き、部屋を出ている。夜くらい寝とけ、と自身を引き抜き、あまり体には良くないと理解はしつつも腹の虫には勝てずに夜食をかっ食らい。食事を始めとした日常には時たま戻るだけの、今までの感覚や常識とはかけ離れた生活には、まるで現実感が湧かずにいて。及川にもとうとう訪れる、発情期の兆候だろうか、とつい考えそうになる自分を叱咤激励した。もう少しすればいつもの及川に戻るから、と都合の悪い可能性に目を瞑った。
 言動に鬱陶しささえ感じる折もあった及川がやけにしおらしく言うことを聞き入れ、わがままを口にはしてもあっさりと引き下がるのだから、余計に岩泉の調子は狂った。だからだろうか。四月の夜に上半身裸のまま風にあたるなどという、風邪を引きそうな愚行に岩泉が走ったのは。
 最初に肌を重ねてからそれなりに時間も経過し、互いの体もしっくりと馴染むようになった。そんな変化の裏で、着実に嵐の前兆が近づいていたのだが、岩泉や及川に認知されるはずなどなかった。単に順応しつつあるだけだと、二人は思っていた。
 関係が始まった頃に比べて、幾分か大きく膨れるようになった岩泉の性器のことも。思いのままに襞を蠢かせるようになった及川の体内のことも。
 夜の闇は、少しずつ、少しずつ、薄くなっていく。

 長くない貴重な春休み、俺はいつもより高い熱を出して何日間か寝込んでいたらしい。
 らしい、って言葉には理由がある。その間ずっと看病してくれていた、岩ちゃんの弁を丸ごと借りたからだ。
 余程具合が悪かったのか、倒れていた数日間の記憶がない。覚えていたのは体育館で具合が悪くなったことだけ。その後何が起きていたのかを詳しく聞こうにも岩ちゃんは話してくれなかったし、なぜだか何日も岩ちゃんの家でお世話になっていたせいで、岩ちゃん以外には熱を出した俺に会ってないらしくて。
 色々なことがわからず終いのままで春休みが終わり、俺たちは三年になった。



 微熱持ちの体質になったとはいっても、春休みの一件は予想以上に長引いて、熱の下がりきる様子がないんだから困る。熱の分だけ体力を浪費するし、疲れやすくなったから練習量を努めて控えないと、コートの真ん中でしばらく動けなくなるから。下手すると倒れるから、いかに体力を温存しつつ動くか気を回す必要さえあった。積極的に手を抜く方法を身につけないとやっていけないなんてなあ。
 それでも体への負担に気づけずにふらついて、踏みとどまろうとしたら結局転んで、足首捻ったんだけどね。
 岩ちゃんには散々どやされるし、同じ口でこっちが恥ずかしくなる位心配もするし。らしくない岩ちゃんの方こそ熱があるんじゃないの、って言ったらゲンコツもらって危うく余計なケガをしそうになって……って、口より先に手が出るのはいつもの岩ちゃんだから、そんなには気にしてない。
 気になったのは、整形外科の先生が、いい機会だからバレーしないでゆっくり過ごしなさいって、縁起でもないことを俺に言った位かな。バレーやらない生活なんて考えられないのにね。
 ただ、捻挫は甘くみると取り返しのつかない大怪我の引き金になるから、体力を維持する程度にしか練習は許されなかった。ドクターストップが出ている以上、無理しても百害あって一利なし、だ。コートに立てない分外から皆を見る、全体的に場を把握する上でも有意義な過ごし方だって、わかってはいる。わかってはいるんだけど正直な話、極力コートに立っていたいのが心情。
 けど無理すると治りもよくないし、動かすと地味に痛いし、何より岩ちゃんに腫れ物扱いされるのが一番嫌だから、我慢してじっと大人しくしてた。
 その矢先に四月恒例の新入部員の顔合わせがあった。二つ下の、中学が同じだった見知った顔も、少なくない人数の中に並んでいる。抑制剤漬けだった時期の名残を後輩たちから感じて、三年経つと変わらずにいることの方が少ないのかなって、ちょっと感傷的にもなった。
 並んだ顔ぶれの中に、飛雄のふてくされた顔がどこにもなかったのも、感傷的になった原因のひとつかな。あの面子が揃うわけじゃないんだなあ、って再認識した。俺はもう、誰がどう見てもオメガになってるから、飛雄がこの空間を選ばなくて良かったのかもしれない。飛雄の番にされる確率だってゼロじゃなくなっていたから。発情期が来たら、相手を選んでなんかいられなくなるし、その場に飛雄が居合わせたなら……可能性は十分に有り得る。
 飛雄が青城を選ばなかったからまだ、安心して俺はバレーでセッターをやっていられる、そう解釈も出来た。
 今現在噛み合っている歯車のうち何か一つでもずれたら、バレーの神様が俺からバレーを取り上げるのは簡単なんだろうな。
 嫌いな後輩がどこへ進んだのかも、見知った顔の後輩に聞いてみた。そうしたら、白鳥沢は落ちたってことと、部の誰も選ばなかった烏野に願書を出していたってことの、二つがわかった。王様の異名は筒抜けなんだから、わざわざ違う高校選ぶ意味もないのに、飛雄は何を目当てに推薦も出ていたであろう青城を蹴ったんだろう。
 ……いや、こうも考えられるか。俺の背中を見ていたのに肝心なところを真似しなかった飛雄に、お灸を据えるなら今だ。引導を渡す次の機会なんか待てない。今しかない。公式戦で正面からやりあえる機会が、来るか来ないかは賭けだから。
 監督と溝口くんに無茶言って、烏野との練習試合を組んだには組んだ、そこまではまだよかったんだ。ただ話が急すぎて、既に組まれていた練習試合の合間を縫ったら、足が完治するかしないかの瀬戸際の日しかもう空いてなくて。折角の機会なのに出られない、なんて事態になりでもしないように、治療に専念せざるを得なくなった。
 それにしても、バレーの神様は辛辣が過ぎるんじゃないだろうか。俺の足が治るより前に、試合の日が訪れてしまった。体感ではまさに、あっという間だった。
「診察今日だろ、鬱陶しい面してねえでさっさと行ってこい」
 更に運の悪いことに、試合が組まれた日と診察日はぶつかっていた。試合の観戦すら叶わないなんて、ひどすぎる。厄介者扱いするかのように、岩ちゃんは俺を病院へと送り出そうとする。元のようにバレーをやるお許しがまだ出ていない俺を、岩ちゃんは絶対にコートに立たせたくないらしいってのは、わかるんだけどね。
 ひどい膨れっ面してもこっちを見てもくれない。俺の代理だから部員の指示出しもやってるし。副主将だから仕方ない……わかってるけど、ちょっと複雑だ。
 けどね、岩ちゃん。コート上の王様は、ネットを挟んでどう見えるのか、俺だってじっくり見てみたいんだよ。
「……戻ってきて負けてたら承知しないからね」
 諦めろ、って俺を送り出す岩ちゃんは、俺の代わりの一番を背負って、飛雄に対峙するんだろうな。最後に見てから、あいつは少しでもまともになったのか。なろうとしたのか。その見極めが俺には許されないのなら、せめて岩ちゃんに見定めてもらおう。
 俺が離れた後、飛雄がどうなったのかを。




 試合の顛末は勿論気になった。ただ、自分のこともあるから、意識は自然と病院での診察結果の方に向く。
 端的に言おう。俺は賭けに勝つことが出来た。今日に、間に合った。
 病院を出た俺は、逸る気を必死に抑えながら、練習試合がもう始まっている体育館に向かっていた。
 足首が軽い。包帯が不要になった足は、風の流れを直に感じて、思うように動く喜びが一歩ごとに大きくなる。
 普通に歩いていたはずが、歩調が早まり風景の流れも加速する。
 早く体育館に戻りたい。コートに戻って、またトスをあげたい。刻一刻と変わる状況を読んで、相手を出し抜き仲間の凄さを見せつけたい。
 やっと元の練習に戻れる。岩ちゃんに跳んでもらえる。今日来てる、飛雄とも戦える。
 熱が下がらなかったのも、もうどうでもいい。
バレーをやりたい。大人になりきるその前に、岩ちゃんが隣にいてくれる間に、頂点に六人で立つんだ。
 だから、飛雄にも、あいつにも、絶対に負けるわけにはいかない。
 第三体育館に戻ってみれば、面白いスコアが待ってた。矢巾が一杯食わされたのか、烏野が予想以上の出来なのか、フルセットにもつれこんでのファイナルセットが始まるところ。フルで出すようにごねた甲斐あって、飛雄もコートの中にいる。
 アップをとる時間の一秒も惜しかった。外野の声が上滑りする。やっと、コートの中で球に触れられる。岩ちゃんと同じ側に、戻れる。
 体を解し温め終わったら、烏野にあと一点でセットを獲られるところまで、俺たちは追い詰められていた。そんな中に踏み入れることになるとは、予想外だったけど。
見定めるには、格好の舞台。飛雄以外にも、俺の事には気付いているみたいだった。
──簡単には勝たせてなんか、やんないよ。
 飛雄、俺はお前が嫌いなんだから。



 俺のサーブを起点に三点続けて取りはしても、今までに目にしたことのない速攻が俺たちを襲った。烏野に最後の一点を持っていかれて、結果として青城は烏野に敗北した。俺の代わりにセッターとして起用された矢巾も善戦してくれたと思う。俺がコートに立っていられたサーブ数本分の試合では、飛雄の現状や課題はそこまで浮き彫りにはならなかった。
 ただ、異色を放っている速攻を考慮したところで、今の烏野は手にした武器以上にチームとしての穴が目立つ。守備がちぐはぐだ。どうもリベロが不在らしい。どうして『そう』なったのかまでは、俺は彼らじゃないからわからないけれど。根本的なてこ入れが必要な今の烏野は、大会までに打開策を用意できなければ歯牙にもかけられない。
 トーナメントの組み合わせに恵まれたところで、必要な要素を欠いたチームのまま、全国を目指せるほど現実は甘くないんだ。
 何かが欠けたままでも県の外に出ていけるなら、とっくに俺たちは遠征費の捻出に頭を悩ませている。
 けれど、切望したところで、一度として叶っていない。白鳥沢に勝てない、その点において相応の理由があるのかもしれなかった。
 全国の舞台に立ち強豪としのぎを削る、俺には難しいことを牛島がやってのけている現実は、今も変わっていなかった。



 夏のインターハイ予選、トーナメント表にあった学校名の位置に、運命のいたずらを感じずにはいられなかった。
 烏野の名前が、同じブロックの中にある。大して勝ち進まない間に、戦える。
 結果的から言えば、俺達は烏野をかわして、先へと駒を進めた。
 けれど、独裁の王様が歪な玉座を放棄して、同じ目線まで降りてからは、戦局は混迷を極めた。
 練習試合の後、俺の知らぬ間に番を手に入れていた飛雄は、ここにきてやっとセッターとしての俺の背を追いかけ始めたのかもしれない。
 オメガの虚影をアルファが追うなど、本当は立場が逆だろうに。
 皮肉ってやろうかと一瞬過ったけれど、正直なところぎりぎりまで追いつめられていて、口に出してやる余裕がなくなっていた。
 自分と対を成す、一生を分かち合う存在。飛雄は二ヶ月足らずの間にそれを見つけ、互いのために自身を捧げる理由と原動力を胸に秘め、俺たちの前に立ち塞がり、一歩も譲らなかった。
 番を定めたアルファは、こうも変わるのか。
 オメガの存在が、たった二ヶ月足らずで飛雄の悪癖を昇華させつつある。今までの自分の殻を破る、訪れるべくして訪れた転機は、俺が目にしていない表情を、飛雄に宿していた。



 明けて三日目。目を覚ました時には、フルセットの烏野戦の影響はほぼ消えていて、いつもと同じ体の感覚が戻っていた。岩ちゃんも朝早くに迎えに来たし、昨日と大体同じ時間に家を出て他のメンバーと合流すれば、あとは試合のことだけに専心できるはずだった。
 誰の様子もおかしくない。余計な緊張もなく、それぞれの力を発揮すれば、やられっぱなしの戦績に今度こそ白星を飾れるかもしれない。
 俺の熱も、朝にしては少し高めって程度で、取り立てて騒ぎ立てる数値じゃなかった。今日なら、いける。岩ちゃんと一緒に、あいつを越えるんだ。
 平日の朝、最終日だけあってチームの絶対数が減った会場は、心理的に広く感じる。余裕をもって準備に入り、岩ちゃんと組んでストレッチをやってた時に、たった一度。頭の奥がぐらりとぶれて視界が暗くなったのは、微妙に残った疲れのせいだと、その時の俺は思っていたんだ。



 準決勝まで勝ち上がってくる相手が面倒くさくないわけなくて、手を焼かされはしたけれど。結果として午後の決勝行きの切符は手に入れたから、その時間まで長めに体を休めていられた。皆はその時間で、十分に回復できるだろう。
 俺は一人だけ、時間が足りる足りない以前の、違う問題を抱えていた。
 朝の時点では問題なかった体調が、決勝を控えたこの大事な局面で急速に悪化している。
 準決勝の第一セットまでは問題なかった。セット間に岩ちゃんに言われて、顔に不自然な赤みが差していると気づいた。
 そのまま第二セットも出て、矢巾に替えるかどうかの綱渡りもどうにか乗り切った。そんな過程を経て、予断を許さない状況下で、午後の決勝を迎えることになった。
 試合を終えて整列し、一礼して皆の様子を確かめたら、揃って複雑な顔して俺の顔を見ていた。岩ちゃんに至っては、トスの些細なミスが何回かを数えていたらしく、俺を休ませるか出すかを、監督でもないのに眉間に皺寄せて一人で考え込んでる。
 高さが若干ずれていたり、妙な回転を殺しきれていないトスを、半ば強引にでも皆が打ってくれてたから勝てはした。ただ、白鳥沢相手でも同じやり方で通用するとは思えない。空白の時間に俺がやるべきことは一つだけだった。休養だ。一刻も早く休んで、コートでまともに戦える時間を増やさなくてはならない。自分たちの力で白鳥沢に、牛島に勝ちたいという願いが、思いもよらなかった形で潰えてしまう。俺に今はまだ残された可能性が、今度こそゼロになってしまう。



 早めに軽い昼食を摂ってから、一人で横になっていられる場所を探して、俺はふらふら体育館をあちこち歩き回っていた。弱り切っている姿を、誰にも見せたくなかったんだ。メインアリーナではモップでもかけているのか、靴が床を蹴る音がしても球の音は聞こえてこない。
 冷たい壁面に額を何度もあてて、休み休み歩いてみても、熱の下がる気配はどこにもなかった。すぐにもとの熱を取り戻し、勝手に息があがる。まっすぐ歩けてさえいない以上、岩ちゃんも監督も試合には絶対に出さないだろう。
「及川」
 注意力が地を這っていた俺のすぐ後ろを、いつから岩ちゃんは歩いていたのか。肩を掴まれて、振り返ろうとしたら、熱が足に来て俺はそのままその場にへたりこんだ。
「岩ちゃん、数えてる?」
 規則的に並ぶはずの床の模様が歪んで見える。視界に映るものの形が安定しない。
「何をだよ」
 声までどこかぼやけて聞こえる。
「この体育館に、何人アルファがいるんだろうね」
 逃げ場なく、肺の奥まで染み渡る、向こうが漂わせる気配と息遣い。
「さっきから、気配は濃すぎて目が回るし、近くには岩ちゃんしかいないのに、すぐ近くにあいつが立ってる気がしてる」
 大会最後の試合。危なげなく勝ち上がってきた白鳥沢を相手に、最悪に近いコンディションでやりあう羽目になるなんて、バレーの神様はやっぱり残酷だ。
 さっきよりさらに悪くなって、座り込んだ格好のまま、足が目に映らない糸で縫い付けられていく。岩ちゃんに引きずられて壁に凭れかかっても、またすぐに手足同時に縫い直されて、全身の感覚がぼやけた。
「――んだよこれ。試合に出る気だって言うんなら、縛ってベッドにくくりつけっからな」
 額に当たってる岩ちゃんの手が、冷えてて気持ちいい。熱があるのは知ってたけど、手が冷たく感じるって、相当なんだろうな。
「だめ、かなあ?」
 熱さえ引けば、きっと動けると思うし。前触れなしに熱が出た時は、すぐに下がることも多いし。
「見たまんまの病人じゃねえか。熱下がるまでは、絶対出さねえからな」
 監督と溝口くんに伝えてくる、って岩ちゃんは走って皆のところに戻っていった。スタメンが揃わない状態で白鳥沢と戦うのは、荷がかなり重い。
 誕生日前に出られる公式戦は、これが最後なのに。春高の予選が始まる頃は、完全に大人の体に変わった後って可能性も十分にある。
 そうなったら絶対に、今とは全く違う生活が始まる。
 体の事情に振り回されて、アルファを見境なく引き寄せるだけじゃない。俺もいずれは、アルファに靡いていく。
 岩ちゃんを捨てて、他の誰かを、体が望み始める。大事な、大事な、幼馴染みで……あんまり器用じゃなくてもその分俺のことずっと見ててくれた恋人を、どのみち裏切るんだ。
 気が重い。自分でどうにも出来ないから、俺はアルファを頼らざるを得ない。
 今の症状だって、その一環かもしれないんだ。人肌が恋しいなんて、こんな時に言えないし、考えてていいわけない。全員が、勝つために必死になって動いているのに。
 目を瞑れば、回る視界が閉ざされて、代わりに頭痛が気になりだす。本当に出られなくなったら、どうしよう。ここから動けないって岩ちゃんにばれたら、観戦も却下されかねないもの。
 遠くから、靴音が聞こえてくる。岩ちゃんかな。思ってたよりも早い。ごめんね、こんな時に主将にかかりきりにさせて。
 顔をあげようとしたら、頭の上にジャージの上が降ってきた。
 ……なにか変だな。俺限定で扱いが雑な岩ちゃんなら、投げつけてきても不思議じゃないから。
 慎重に目を開くと、光を遮られて暗い中、人が一人いるのが見えた。
「及川」
 俺の体調は最悪で、姿形から誰かを見分ける余裕はない。けど、今の声が誰なのかは、間違えるはずない。
 岩ちゃんじゃない。
 あいつだ。
 白鳥沢の、癪に障るアルファの、なぜか会うたびに手を出してくる牛島だ。
「……な、に……用もないのに、顔出さないでよ……」
 今日は特に、こいつの相手する余裕が残ってない。近づかれる前から動けないんだから。少しでも休んでおかなきゃ、試合前の貴重な時間が無駄になる。
 無視してそのまま横になろうとしたら、肩に手がかけられた。
 ジャージで切り取られた小さな枠の中いっぱいに、牛島が収まってこっちを見てる。何考えんのか読めない顔は、いつも勝手なこと言ったりしたり、本当に厄介で――ほら、今日も。
こいつも主将のはずなのに、自分のチームそっちのけで、俺に手出ししてさ。
 一度も俺からは応えてないのに、飽きもしないで。
 最初の頃と違って、無理に奪い取るような荒っぽさがなくなり、しっとり重ね合わせてから舌が入り込んでくる。キスがそんな風に変わったのは、こいつももう大人同然だからなのかな。
 ぼうっとしていた頭の中、似たような熱は残っても、体が不思議と楽になってく。絡め取られた舌を吸われて、いつの間にか好き勝手されるのがそこまで嫌じゃなくなってる自分に気付く位、ものを自然に考えていられる。
 岩ちゃんとは全然違うのに、体はもう快復したのに、それでも抵抗しない本当の理由。
 見当はつくけど、誰にも言いたくなかった。それを口にしたら俺は、岩ちゃんに顔を合わせる資格を無くす。
 俺の対の存在は、牛島かもしれない。
 一瞬でもそう考えた自分を、信じられなかった。
 許せなかった。
 こいつの身勝手な振る舞いの中に、俺の方が戸惑う優しさが見えてしまったのも、嘘であってほしかった。
 何分そうしていただろう。濡れた口の端を拭われて、キスされていたのを思い出し、正面から抱き締められているって気づいた。脇に落ちていたジャージを丸めた牛島は、気遣いのつもりなのか、俺を寝かせてそれを頭の下に敷いた。
 数ヶ月悩まされた微熱ごと、なぜかはわからないけど、熱が完全に引いている。久しぶりに体が軽い。感覚が研ぎ澄まされていく。
 寝て起きたら、まともに動けるようになるかもしれない。ゴワゴワするけど温かい枕に何を言おうか考えている間に、瞼が落ちてまわりの音が遠くなってく。やっぱり俺は、前ほど牛島のことを、嫌と思わなくなってるんだろうな。



 靴音が近づき、はっきりとした輪郭を形作る。拍子と一連の響きは、岩ちゃんのものだ。体の上にいつの間にか掛けてあるのは、岩ちゃんのジャージかな。一度こっちに戻ってきて、俺が寝ているのを確かめてから皆と決勝の戦術を話していたのだろうか、結構時間が経ったように感じた。
「――まだ寝んなら救護室連れてくぞ」
 掛け布団よろしくジャージの上を剥いだ岩ちゃんが、揺すって起こそうとしてきた。
「……起きてるよ、さっきまでは寝てたけどね」
 二人はやっぱり全然違う。手の大きさから何から、はっきりわかる。
 起き上がっても全く目が回らない、久しぶりのぶれのない視界。これならいける。今からなら、俺はちゃんと戦える。
「熱も、休んだら下がったよ。これなら、出ていいよね」
 岩ちゃんがいなくなってから何があったのか、言えるほど俺は強くはない。だから、牛島のことは全部黙ってた。
 けど、頭の下になってた白鳥沢のジャージには、とっくに気づいてると思う。誰のかはわからなくても、俺を何かと気にかけてくる奴は、白鳥沢に一人しかいないから。
「あと一つ勝てば、岩ちゃんと一緒に公式戦で県の外に出ていけるんだ。もう無理はしてないよ。続いてた微熱も、落ち着いたから」
 まだ疑っている岩ちゃんが、額と額を合わせてくる。どれどれ、なんて言いながら。
 けど、俺が嘘を言っていないと理解してくれたみたいで、これなら大丈夫だな、って笑ってくれた。ように、思われた。
 額は合わせられても、岩ちゃんの顔は見られずにいたから。俺の中の変化を見透かされるのが、怖くて堪らなくて。牛島を嫌い抜けなくなりそうな自分の一面を、俺自身が認めたくなかったから。大事なことを黙ったまま、俺はある種の現実から逃げたんだ。




 白鳥沢と戦うときは毎回、一度は牛島をからかって顔をしかめさせるのが定着している。わざと嫌がる呼び方をして、上から注がれる視線の意味を変えていた。俺個人への特別な執着が始まって、今年で五年目。どう思われているのかを気づかずに過ごせる長さじゃなかった。
 今年はほぼ表情を変えてくれなかったけど。何もしないままだと調子が狂う。因縁の対決を演出する、起爆剤だった。
 今回こそ、六人でどっちが上なのか、コートの上で証明してやる。一対一では敵わない相手と互角に渡り合うための手段を、探さずにいたわけないじゃないか。



 準決勝とは大違いだ。体が思った通りに反応する。牛島もまた調子を上げたみたいだけど、こっちだって負けてない。真っ向からやり合えるのは、おそらくこの大会が最後。過ぎてしまえば、俺はオメガの性に引きずり込まれる。その前に、一度きりかもしれない、全国行きの切符を手に入れて、皆で外へ行くんだ。
 監督も溝口くんも、目を細めて復調に太鼓判を押してくれた。
 何があったのか、大人たちはそれとなく気づいたかもしれない。
 けど、試合のあとどうするのかを決めるのは、最終的には俺だから。
 大人たちは、俺たちが手にした選択肢を見て、背を押すまでが仕事。
 その先に進み、いつか同じ立場に立たされた者の背を押せるように、大人になってくのが俺たちの仕事であり、役割。チームメイトよりも少しばかり早く、俺にはそんな時期が来ただけなのかもしれないな。



 第一セットの、向こうのセットポイント。点差は大きくは開いていないから、何としても一点取り返したい場面。助走に入る岩ちゃんが見えて、疲労も織り込んでの最高点めがけて、球を送った。打ち抜けるかどうかの賭けに出るしかない、ブロックを振り切れない中での一球だった。
 コースも速度も、タイミングも合ってたから、いつもの岩ちゃんなら自力でブロックを越えてくれる、そんな期待も含めて。
 ブロックアウト狙いでもいい、何とかして向こうに点を取られる前に、追いつきたい。固唾を飲んで見守った軌跡は、ネットを越えてはくれなかった。
 ブロックに、捕まった。仕方ないって諦められる捕まり方じゃない。叩き落とされてホイッスルが鳴った。セット間の僅かな時間を有意義に過ごそうとしても、ネット際のさっきの岩ちゃんが頭から離れない。離れてくれない。
 疲労とは違う要因でもあるのか、岩ちゃんは自分のプレイが出来てなかった。高さがほんの少しずれて、球を目で追いすぎて反応が一瞬遅れてた。スイングも、迷いや躊躇いが混じってた。
 俺の見間違いだよね。きっと。守備の綻びを突くためには、精度の高い攻撃が必須で、向こうに動きを読ませるわけにはいかない。そのためにはこの局面、岩ちゃん抜きで切り抜けられるとは思わない。万全を期して試合に臨んでる岩ちゃんに限って、体調が良くないわけもないのに。
 何があったんだろう。俺が寝てた間に、岩ちゃんはどんな隠し事を作ったんだろう。聞き出す前に、第二セットの開始を促す音が鳴った。まだ集中しきれていない様子の岩ちゃんの隣に立つと、信じられない類の匂いが、至近距離から微かに漂ってきた。
 牛島がこっちに近寄ってくる時に纏う、獲物を狩る気でいるときの匂いだった。



 俺の知る限り、岩ちゃんは、純粋な体調面では問題なかったはずなんだ。普段は当然のように出来ていた細かな加減やペース配分が、今だけはまるで出来てないだけで。体力を使いすぎてる……いや、使い込みすぎている、かな。
 だから、疲れが出てくる頃合いがかなり早かった。見かねた国見ちゃんが、もうペース抑えませんからって、すれ違い様に俺に囁くほどに。そのタイミングも、俺の見込みよりも、ずっと前倒しで。
 岩ちゃんは岩ちゃんで、国見ちゃんが動き回るようになってから一層、昼には見せていなかった顔を皆にも見せていた。ベッドの中、きっと俺しか知らないはずの表情や姿をも。
 岩ちゃんの調子が激変した理由はわからない。理由がわかったところで不調から立て直そうとしても、俺だって体力をかなり使い込んでるから厳しいものがある。
体調は回復しても体力までは十全じゃない。
 時間が経っても威力の落ちる様子のない白鳥沢の攻撃に、食らいついて離されないよう、俺たちは必死だった。
 どこかに攻略の糸口を。点差を保たれたままじゃ勝てない。差を詰めて、横に並び立てなければ、また同じことの繰り返しだ。力が全てをへし折り、青城は頂を目の前にして足元を崩される。
 またしても向こうのセットポイント。レシーブは崩したから、単調な攻撃に出ざるを得ない場面。牛島にトスが上がるのは、誰でも見当がついた。
 ブロック三枚、抜かれないぎりぎりの面積で広げて、封じ込めにかかる。ネットの向こうの牛島は、動じてすらいない。
 左腕がしなり、ブロックの真ん中を、力任せに切り開こうとしている。掌から球が離れて、着地の体勢に入ろうとするあいつと、視線が交錯した。
 打たれた球は、ブロックを突き抜けて、俺の方に飛んできた。事態を把握し、動けるようになる前に、長いホイッスルが鳴る。
 俺たちを阻んだのは、またしても白鳥沢だった。
 隔たりは大きかった。雪辱を果たせぬまま、コートに立ち続ける資格を失ってしまった俺たちは、公式戦をまだ続けていられる白鳥沢を横目に引き下がるしかなかった。
 今まで何度も、俺の不調で心配をかけていた。その度に岩ちゃんは、今の俺みたいな気持ちになってたのかな。



 決着がつくまでの間は、気を張ってたんだろう。
 体を操る糸が一斉に切れ、膝が崩れて立ち上がれなくなった。派手な音を立てて床に体を打ち付けたから、近くにいた岩ちゃんも敗戦の余韻に浸るどころじゃなくなって、こっちに駆け寄ってきた。
 試合開始のぎりぎりまで横になってはいたものの、自分本来の調子を忘れるほどの長期間、熱に蝕まれた体は悲鳴をあげ続けていて。鞭打って動かしてた反動が、一斉に現れたんだ。
 金田一なんか、自分のことでもないのに、泣きそうな顔してこっちを向いてる。重い響きが耳に残る最後の一点は特に、打ち抜かれた時に相当痛かったはずなのに。もう人の心配なんかしてさ。その一点だけじゃない。ミドルブロッカーの二人は交互に牛島のスパイクの矢面に立って、手も指もボロボロのはずなんだ。指も腕も無事で、単に体力使いきってるだけの俺がきっと、この場の誰よりましな状態なのに。
 熱をぶり返してないのが、せめてもの救いだった。熱さえ出なければ、休んで後から一人ででも帰れるから。
 口々に言い交わす声は、耳から奥には入ってこない。響きはあくまでも、遠く漂い消えていくだけ。
 舞台の幕引きは案外、あっけないんだな。



 両方の肩を支えてもらい、引きずられるようにして救護室に入ると、やっぱり中には誰もいなかった。
 こんなとこが繁盛しちゃいけないし、先客がいても色々と気を遣うから、ある意味では幸いではあった。回数としてはあまり役割を果たしていないベッドに体を投げ出すと、こなれていない硬いシーツが凹みの分だけ張った。
 持ってきた荷物も、昼間の一件以来持ち主が取りに来ないジャージも、まとめて運んでもらった。具合が良くなればここからまっすぐ帰れる。表彰式は岩ちゃんが色々代わってくれたから、心配なんかいらないはずだった。
 けれど俺は、疲労困憊した体を寝付かせるでもなく、閉じた瞼の裏に浮かんだ白鳥沢の影に囚われていた。
 紛れもなく、俺たちはあの瞬間の全力で戦ってた。出しきった、とは言えなくても、手は一切抜いていなかった。
 あんなに呼吸を荒くした国見ちゃんを初めて見た。
 皆足にきてて反応が一瞬遅れて、互いの間、目の前に球が落ちても、頭にあった選択肢は『取り返す』ひとつだけ。
 俺たちはまた負けた。負けた以上は、同じメンバーでコートに立てる機会は二度と手に入らない。
 ここで諦めるか、春高まで粘るか。悩む時間なんか一瞬にも等しかった。
 もう一度、が許されるのなら、春高に賭けてみたかった。



 この時少しでも眠れていたら、俺の人生は違う道を歩んでいたのかな。
 微睡みさえも訪れず、寝返りを打つばかりで、時間だけが無為に流れていった。


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