千寿郎が風邪を引いて、寝込んでいる。布団の上から動けず可哀想なので煉獄は、なにか流し見しやすい映画でも借りてきてやろうと思い立った。近所のレンタルショップ、ずらりと陳列されたDVDの表紙に目を通し、視線を移してゆく。

「煉獄先生―」

どきりと体の奥が固まった気がした。店内の小さめに絞られたBGMのせいで、その透き通った声が良く耳に響いた気がした。名字の声だった。不自然な間をおいて、今聞こえたばかりのように振舞って、店内を見回した。彼女の姿は見えない。間違いかもしれなかった。彼女の姿を探した自分を恥ずかしく思う。呼ばれた気がして姿を捉えようとした瞬間、心を支配した感情は煉獄が自然的に抱いてしまったものだったが、気が付かないふりをする。

「ここですよ、ここー」
「…む」

またしっかりと彼女の声が空間に広がって、実体があったのだと安堵した。その安心に、先程のややこしい、柔らかい輪郭の感情を包み込んで隠してもらった。彼女の声が正面から聞こえた事を次はきちんと感じ取れたので、棚の隙間から奥に、焦点を合わせた。

「なんだ名字か」

棚の隙間を覗く。向こうの通路に、彼女が見えた。姿を目で捉えて初めて、名字だとわかったのだという風に装った。「何しているんですか?」棚の間から彼女は目元だけを覗かせて言う。煉獄も同じようにして、ふたり、陳列棚を挟んで会話をする。「千寿郎が熱を出したから、なにか暇潰しになるようなものを借りに来た」自身と、弟と、同じ学園に、生徒として通う彼女に言う。

「へえ。私も、暇潰しって感じです」

名字の目元がふにゃりと歪んだ。笑っているのだと気が付いた後、その表情は煉獄をいつも悩ませているものだと、追いついて理解する。なにか企んでいる時の眼なのだ。煉獄は名字側へと移動できる、つきあたりの通路を一瞥する。遠目からでも目を刺激する、ビビッドなピンクの暖簾を捉えた。

「また君は、そんな所に入って…」
「ふふ、そんな所とは」
「18歳未満立ち入り禁止域だ」
「言い方、硬!」
「いいから出てこい」
「先生は入った事ありますか?もう大人でしょ?」
「無い!」
「うわ、言い切っちゃうところが怪しいですね」

また棚の奥を覗くと、次は意識になかった向こうの、如何わしい類のものがきちんと見えてしまう気がしたので、煉獄は自身の足元のスニーカーに目をやっていた。交互に美しく通された靴紐に意識が集中し、そういえば昔に学園で、煉獄の職員用下駄箱に予備として入っているスニーカーの靴紐が根の方まで穴から解かれ、複雑な三つ編みの様に結われるという悪戯があったことを思い出していた。彼女の仕業だった。目端でピンクの暖簾が動くのが見えた。名字だと思い、出てくる人物を待つように視線を飛ばしていると、全く知らない男が出てきて、視線が合ってしまったので気まずくなり逸らした。名字が暖簾の奥に居る事、棚の向かいの自身を、先生と呼んで会話している事を訝しんでいるような目付きでこちらを見ている。何も悪い事等していない筈なのに。罪悪感に苛まれた。

(君といると疑われそうだ)
(なにをですか)
(もう話しかけるな)

小声で言うと、名字は数秒間だけ黙った。再び彼女が「あ」と声を上げたが、無視をして棚の、ポップの付いたDVDのパッケージに手を伸ばす。千寿郎の友達の竈門少年が、この映画のキーホルダーを鞄に付けていた事を思い出した。有名なものだけれど、もうなにかさっさと借りて店を出ようと思った。心臓が少し焦っている。「分かりました煉獄先生」まだ何かを言っているようだった。名字の影がやっと、その域の出口に動いた。先程の男には、自分達はどう見えていたのだろう。

「せんせいー」

暖簾を手ではね潜り、険しい表情の煉獄とは正反対の、緩くだらしない笑顔の彼女が現れる。名字はシンプルな私服に身を包んでいて(制服でないのは、当たり前か)なるほどそうしてみると少し、大人びて見えた。面白そうに笑っている。煉獄は無意識に見ている人間が周りに居ない事を確認した。そこから出てくる女生徒とそれを待つ先生の構図は、知り合いに見られてしまえば誤解されることはまず間違いない。「ねえ先生」名字は耳を貸せと言わんばかりに口横に手を添えてこちらに近寄ってくる。勿論耳を貸す気になどなっていなくて、女性一人でああいった場所に気安く入るものではないという内心の怒りを言葉に乗せようとしたところだった。名字が前でぴたりと止まって、煉獄にすうっと静かに差し出した。

「こっ」
「疑われるって、こういう関係の事ですか?」
「っ……」

“教師と生徒 秘密の放課後指導”。表紙に載っている写真は何も隠れてはいない。絶句する。スーツ姿の男と、制服姿で交わる女。生徒。生徒役の女優が名字の様な髪形をしている。足が下がりそうになる。咄嗟に顔を上げて彼女を睨む。彼女は笑いをこらえている。煉獄はDVDを叩き落としそうになったが寸の所で止め、そのまま宙を彷徨った手で名字の腕を強引に掴んだ。「うわっ」揶揄われているので、必死に教師としての立場を崩してしまわないようにその行為を咎める。生徒と教師なのだ。生徒。教師。今見せられたばかりの淫らな写真が頭にちらついた。女優の姿と名字が重なった。耳がどうしても熱を持つ。おかしなことを考えてしまっている。名字がそれに気付かないうちに、煉獄は腕を引っ張って共に暖簾を潜った。彼女は楽しそうに声を上げている。

「煉獄先生と二人でこんな所に!」
「煩い早く戻せ!」
「いけない事してるー」
「俺は成人だぞ、いけないのは君一人だ」
「でも先生こういう所入るの初めてなんでしょ?」

暖簾を潜ると肌の色が強調されるパッケージが多く目立って、掴んでいる名字の細い腕の肌の感触さえにも気が行って、手を離す。何処に目を向けて良いのか分からなくなった。一人ならばなんとも思わないのに、彼女のせいで完全に調子が狂っている。ニヤニヤと中学生のような煽りしかしない彼女の頭を一度叩いた。「いて」軽い音が鳴る。「此処で先生と呼ぶな!」極力抑えた声で言う。「今頃ですか」頭をさすっているなまえの一言になぜか内心で納得する。なぜこうも自分に構い、揶揄うのか、という質問はしない。彼女本人の口から好意を抱いている事を伝えられているせいだった。煉獄はそのせいで、学園でも名字を、意識して見るようになってしまっている。名字が歴史の答案用紙の端に決まってなにか、煉獄に向けた言葉を書くせいで、テスト採点を密かに心待ちにしてしまっている時がある。廊下ですれ違い声を掛けられれば嫌がる風に装いつつも、何もなく通り過ぎる日は寂しく感じてしまう時がある。雨の日に男子生徒の友達と一本の傘に納まって帰る彼女の後姿を、見送りたくない時がある。確実に心が傾き始めてしまっている事に、彼女は気付いていない。頭から腕を下ろした彼女の、ゆるめのTシャツが少しズレて、肩の部分に下着のレースがちらりと見えた。無防備すぎている。煽り過ぎている。頭がぼんやりと熱い。千寿郎の熱が移ったのか、煉獄の熱が、名字によってみえただけなのか。この辺で痛い目を見せてやってもいいかと、半分怒りに似た感情のまま、名字の肩に手を乗せようとした。

「うお、犯罪目撃」

知っている声に体が揺れる。「あ。宇髄先生」聞こえた声の方に視線を向けながらゆっくりと肩に乗せようとしていた手を下ろした。なんでこんな所に居るんだ。そう発しかけて、やめた。「なんでこんな所に居るんだ?」それは、宇髄の台詞だったからだ。「それも、こいつと一緒に」名字に視線を一度送って、彼は口角を上げた。肩に乗せようとした手を不自然に下ろした事も見えていた筈だ。「煉獄先生が可哀そうなので一応言うと誤解です」名字は言葉に似合わず、端々に堪え切れていない笑いが混ざっている。煉獄は有名な映画のパッケージを片手に、それが自身の汗で滑りそうになっているのを感じ、やっと本来の目的を思い出した。そうだ、俺は、「せ、千寿郎にDVDを借りに来たのだ」

ビビッドピンク


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -